湧水『雲海を泳ぐ』
CAによるあいさつの後、振動もないのに動いたと感じる。隣の席の母子越しに窓を見ると、ゆっくりと緑とコンクリートが後退していく。
吉岡はもう少し外を眺めていたかったが、母親に促された少年が窓を塞ぐように覗いてしまい、断念した。代わりに目を閉じて席に身体を沈ませ、エンジンの轟音に耳を澄ませた。しばらくは一定に響いて、段々と威力が増してくる。想像よりも長い時間に焦れながら、タイミングを図っていた。なんとなく滑走路の全体図を思い浮かべ、もう少し、と呟いた途端に歓声が聞こえた。
「とんだー!! ママ、とんでる!」
外を覗いていた少年の声だ。急いで目を開けて窓を見ると、振り返る少年の丸い頭の向こうに家々の屋根と空が見えた。吉岡はつまらない感じがしながら、チャレンジ失敗だと思った。浮いた飛行機の中で、ベルトは腰骨を圧迫するのに肩は妙に浮く感覚がした。
飛行機に乗ったのは7年ぶりだ。
ある昼下がりの電話だった。市役所からだと電話に出た祖母に、お金が必要だとか言われたら詐欺だぞと声をかけ、冷蔵庫のアイスを探る。はい、はいと続く祖母の相槌が、途中で困惑した声色に変わっていき、お手数おかけしましたと言って切れた。そして薄くなった眉をしかめながら、告げる。
「なんかねぇ。外務省に電話しろって。おじいちゃん呼ぶかね。」
「はぁ? なんで。」
「分かんないんだけどねぇ。ウチに連絡することがあったんだと。アンタ知り合いでもいるけ?」
「いるわけないじゃん。そんなとこ」
「だよねぇ。あ、おじいちゃん今日囲碁教室だったわ。亮二、アンタが電話して。これ教えてもらった番号。」
「え、ちょっと」
なんで俺が、という文句は、さぁお夕飯の支度しないと。と言って黙殺された。心の底から嫌だったが、外務省とかいう縁のなさすぎる場所を無視するのも怖かった。
最初に名乗るんだっけと思いながら、番号の書かれたメモ帳を見る。そして息を詰め、固いプラスチックの下でジェルのような感触のするボタンを押していく。プルル……と繋がった音に、数字間違えていないよなと不安になりながら、出た相手に名乗る。
父親の訃報が伝えられた。
吉岡亮二が幼い頃家を出ていった父は、パラオにいたらしい。そしてそこで死んだ。恐らく事故だろうが、遺体の損傷がひどく、どうするか聞かれた。どうするったって……と答えに詰まる彼に、外務省の人は慣れているのか、他の大人はいるか聞いていた。母は父が出て行ったあと身体を壊して入院中で、今は祖父母と暮らしていることを伝えると、ならその人たちと大使館に行ってくださいと伝えられる。今後の段取りの説明や相談に乗ってくれるから任せなさいと。
祖父と二人で行った大使館で、見慣れたような、見慣れないような顔立ちの人たちに暖かく迎えられた。綺麗な日本語で丁寧に説明され、何度も気にかけられた。父親が死んだと聞いても特段悲しみなどは浮かばなかったが、心配げな表情を浮かべる彼らに申し訳ない気がして、なんとか沈痛な表情を取り繕った。
死因に事件性はないが、発見が遅く遺体の損傷と腐敗が激しかったらしい。とりあえず向こうで燃やしといて貰うことにした。遺体を運ぶのにお金がたくさんかかるみたいだし、灰なら持ち運びも簡単だ。現地で本人をしなければいけないらしく、灰になってんのにどうすんだと思ったが、写真や遺品を見るだけでいいらしい。俺に判別つくかなと、吉岡はぼんやり感じた。
いつか留学に行くかもしれないから、と用意しておいたパスポートが役に立った。初の海外旅行がこんな理由になるとは思わなかったけれど。母は当然無理だし、祖父母も足が悪く長時間の搭乗はキツイだろう。反対しようとする祖母に、俺もう大学生だし、向こうの大使館の人も迎えに来てくれるらしいから大丈夫だよと言い含めた。祖父はずっと難しい顔をしていたが、荷物から絶対に目を離すなよと一言言った。
飛行機に乗ったのは7年ぶりだ。父と母と乗ったのが最後だった。オーストラリアへ、家族三人旅行の予定だった。帰りは二人席だったが。
「雲だ! ふわふわだ!」
隣の少年の声がする。母親がそうだね、ずっと雲だねと応える。いつの間にか雲を抜けていたらしい。こんな風に一面雲だらけなのを、雲海と言うんだよと教えていた。
雲海?
少年が聞き返す。
雲が海なの? じゃあ、僕も泳げる?
ひろ君はまず平泳ぎが出来るようにならないとね~という母子の会話を聞いていて、ふと思い出した。昔海水浴に出かけたときのことだ。海水に足を付けただけで嫌がる俺を、父親が無理やり沖まで連れて行こうとしていた時のことだ。
「亮二、男だろ? 何がそんなに怖いんだよ」
「だって、音がするんだもん。こわいのがやってくるんだ」
「おとぉ? 大丈夫大丈夫。あれはただの波の音だ。癒しの音だよ。プールだって水の音がするだろ?何が違うんだ」
「プールと全然違う! うみはやだ!」
めんどくさいという表情を隠しもしなかった父は、やれやれと言いたげに空を見上げ、おい、亮二、上見てみろと言った。父に引っ付きながら、足の下に何もいないのを確認していた俺は、上なんて見上げる余裕なくて、何と問う。
「雲海だよ。あれなら音もしないし、柔らかそうだろ?ガキの頃は、雲を泳ぐのが夢だったなぁ」
そう呟いた父を、こどもみたいだ、と感じた。自分も子どもだったくせに。
だが、実際そうだったのかもしれない。空想が好きで、面白いことが好きな人だった。遊んでもらった、というよりも父の遊びに巻き込まれた記憶はわりとある。だからこそ、母や日本での生活に限界を感じたのかもしれない。
いつか、雲を捕まえてベットを作るんだ。ママにもあげるよ。一緒に寝ようね!
嬉しそうに母親が自分の息子を撫でる。抱きしめながら、お前は優しい子に育ってねと囁いた。
機体が安定して、乗客が思い思いにすごす。もうエンジン音など誰も気にしなくなるだろう。海の音は嫌いで、飛行機の音は好きだという俺に、変な子だなと笑いながら、エンジン音を聞いて離陸のタイミングをぴったり当てる遊びを教えてくれたのは父だった。
遺灰を受け取って、機内に持ち込めたら。窓を開けて、すべてバラまいてしまおうか。身体はなくなってしまっても、雲と一緒に漂えたら泳いだことにはならないだろうか。
母は海が好きだから、海で散らしてあげよう。広い大海原のどこかで、二層の海となって重なるかもしれない。もしくは、水蒸気となって空に上り合流して、一緒に世界中を回るのだ。
海は音が怖いから嫌だ。その点、飛行機の窓から見える雲は穏やかに見える。雲から騒音がするなど聞いたことがない。誰も雲に近寄ったことなどないから当たり前だ。
でも、もしかしたら、曇ってとても煩い可能性だってあるじゃないか。どこぞの夫婦喧嘩のように。
吉岡はゆっくりと目をつむって、飛行機のエンジン音に耳を澄ませた。
了
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