翠川樹雨『影待つひと』
茜画く絵に影待つ人は
凪の水面に揺蕩えど
融けて絡まり空へと落つる
行く手逢えずは星夜に惑い
宵闇歩みて漁火揺らぐ
小望月夜は満ち干絶ち
水底淡いに残照沈む
「……あなたに顔向けできるでしょうか。──いいんじゃない? これ演劇台本初書き?」
「初です」
「まじ? 初でしかも一人朗読用でこれはなかなかすごいよ! 地文を少しセリフ改変して、動き書き込んだらもう立派に脚本じゃん!」
「よかったです」
「最後まで名前出さないのは? そういう狙い? 衝撃狙ってる!?」
「まあ、そうです。」
「えーもう、やりながら私が泣きそう、遙真でも美結でも泣ける。」
「……嬉しいけど、買いかぶりすぎですよ。」
たった今、一つ任されていた仕事が終わった。
仕事といっても大層なものじゃない。趣味で小説を書いていた延長で演劇台本を書いてほしいとの話があったので引き受けた。
かく言う私も相手も高校生。双方小説も演劇も部活でやる程度で、週一回の活動日には顧問も滅多に来ない。さらには活動日には部員が自分以外一人でも来たらいい方というやる気のなさだ。こういう文化部はだいたい単独の部室は持てない。部室棟に部活専用のロッカーがあるのみで、いくつかの部活が活動日毎にローテーションで一つの教室を使っていた。
繋がりは別の曜日に同じ教室を使う同学年というだけ。特別に仲がよかったわけでもない。
それでもわざわざ文芸部の活動日にこの教室を尋ねてきたのが彼女だった。
「汐見さんは、いつもは台本どうしてるんですか? 自分で書いてるんですか?」
今回は私が書いた。けれど毎回発表や他にも何かあった時に演じられるものが一つでは困るはずだ。何よりも一つだけ練習していれば上達するとは思えない。
「いつもは、こういう台本集から引っ張ってくるの。でも飽きちゃって」
足元の引き戸の先にある箱を指さして汐見さんが言った。
見ていいですか、と聞くといいよとの事だったので箱を引きずり出して中を覗き込む。中にはA4サイズの薄い冊子が何冊も乱雑に詰め込まれていた。
中を開いてみると一冊につき2つから3つずつ台本が書かれているらしい。
「『ある晴れた夏の日』、『卒業』、『平行線』、『霊媒』……?」
どうせ部屋の中には私と汐見さん以外の人はいない。遠慮なく声に出して読み上げると、ついつい語尾にクエッションマークがついた。題名はともかく、パッと目に入った内容はシリアスだったりコメディだったりファンタジーじみているものがあったりした。
「その『霊媒』ってやつね、新歓でやったんだけどね、」
汐見さんは私が読んでいる台本を眺めながらそこで一旦言葉を切った。
「超ウケたよ。」
「これですか? そうなんですかあ……。」
ウケたかどうかには興味がなかったので聞き流したが、まあ読んだ感じ確かに笑いを誘うテンポの良いコメディ系だ。
「他にどれかやったことあるんですか?」
私があっさり聞き流したことに嫌な顔もせず汐見さんは台本の目次を指さして答えてくれた。
「あとは『ある晴れた夏の日』はやった。戦争孤児の話でシリアス系だけど、文化祭では結構好評だったよ。」
「意外と演劇ってジャンルに縛られないものなんですね。」
「そうかもね。だから今回は一人朗読劇で一人二役やりたいなーって思って。演劇はジャンルには縛られないし、演じ手のやりたいように勝手に台本の読み込み変えておっけーだし、こんな楽しいことないからね。今までやったことないことやりたかったの。」
そうなんですねと頷きながら台本を箱に戻して戸の内に戻す。
演劇をどう演じるかには興味がないが、演劇と小説、ふたつの泡がぶつかって弾けて混ざったように縁ができた、この現象自体には興味があった。
「どうしてそれで文芸に依頼出そうと?」
「今回はどうしてもシリアスの悲恋がやりたかったんだけど、そんなの学校用台本じゃ置いてないからね。私書けないから、誰かに頼もうと思ったの。」
そこまで言って汐見さんは言葉を切った。そして少し逡巡したあと、言うか迷ったんだけど、と続けた。
「できあがった台本の上で好き勝手やるのも楽しいけど、作者がこの場にいて、感覚をそこと擦り合わせながら好き勝手するのも楽しそうじゃない?」
汐見さんは綺麗に笑った。
この人は美人だなと、ふと思う。クラスも被ったことがないから、ほとんど会ったことはなかったが、快活そうなイメージではあった。さらにこうして笑うと本当に美人だと思った。
「だから瀬野ちゃん、これからしばらく台本作家兼監督、それから好き勝手の共犯ってことでよろしく。同級なんだから、タメでいいんだからね!」
「……まあ、よろしくお願いします。」
次の木曜日から、私は文芸部の活動日でもないのに1504教室に通うことになった。文芸部の活動日は毎週金曜だから木金の午後は帰らず部室棟の1504教室に行った。
別に義務ではなかったけれど、帰らなければならない用事もなかったのでほぼ毎回行っていた。
対して汐見さんは、結構な頻度で本来活動日ではない金曜日に文芸部に顔を出すようになった。
元はほとんど接点もなく、私が内気、彼女が社交的と見事に正反対な性格をしていたにも関わらず、汐見さんとはいつの間にか打ち解け、木・金曜日にはほぼ必ず帰りに一緒に寄り道するほどの仲になっていた。
学校の近くには海があった。
私たちの定番の寄り道はそこだった。
左に海を正面に山を見て、入り江状になった海岸線にそって砂浜を歩くと足場がまばらな磯に変わる。それからまた少し行くと、人の背丈ほどの少し大きな岩がある。 それを登って海を見霽かすと、海の中に一つだけある小さな茶色い鳥居が太陽を背負って立っているところを斜めから見ることができた。
私たちは乾いた岩場の上に座って各々、本を読んだりお菓子を食べたり好きなことをして、鳥居が疲れて太陽を地面に降ろすのを待つのだ。
二人でするのはもっぱらそれだけだった。
ある時汐見さんが言ったことがある。
「ねえ、瀬野ちゃん。あそこ、あの鳥居、なんであんなとこに立ってるんだろうね。行ける時があるのかな。潮が引くとか」
汐見さんがそういったことに興味があるとは思わなかった。
「汐見さんは行きたいの?」
「んーん、別に。というかむしろ近づきたくない。なんか怖いんだよね、ああいうの。近づいたらもう、戻ってこられなくなりそうで。」
「ふーん……」
言わんとすることはわからないでもなかった。
一つだけ海の中に立つ鳥居。
行ける道はない、人が一人立てばいっぱいになってしまうほど小さな孤島にある門。
それが茜色から宵の口の藍に沈んでいく様子は、一度近づくことができてしまえば何かに呑み込まれて戻ってこられないんじゃないか、そんな不気味さを連想させた。
そんなことを思い、赤々と燃えながら沈む太陽を眺めていると、ぽんっと思いついたことがあった。
「次の台本、ファンタジーみたいにする?」
「ファンタジー? 作れるの!?」
「まあ、私の小説はそっちの方が多かったから。」
「ほんとに! じゃあやりたい、どんなの!?」
目をキラキラさせて聞いてくる汐見さんに私は思いついただけのことを淡々と説明する。
空があって海がある。中央に道が伸びて、そこには誰も行けない。そこへの入り口と旅する方法。迷い込んだら出てこられない伝承。迷い込んだ少女をいつまでも親友が待っている。
文字にもしていない、筋も通っていない荒削りのものだったが汐見さんは熱心に聞いて一言だけ言った。
「すごい……」
続きを目で促すと、汐見さんは続けた。
「すごいね、なんて言うか、ファンタジーだけどホラーで、ちょっと切なくてすごくいいと思う! それ、絶対書いてね! 待ってるから!」
いいよと頷き、そこでまたはたと思いついたので言った。
「書くから先に題名考えてよ。題名ありきで詳しいところを書くから。」
「え、私が? 今?」
「そう、あなたが。今。」
汐見さんはうーんと首を捻る。
ほとんど沈んだ太陽が空の下の方にだけ色濃い赤を残して、周辺を闇に引きずり込もうとしていた。
ほぼ暗くなっている上空を見上げると、既に出ている半分の月が煌々と光を放っている。月の斜め上には気まぐれに移動する金星が月と競い合うように鋭い金に光っていた。
「……じゃあ、」
隣で長いだんまりを破った汐見さんの掠れた声がして、ぼんやりと空をなぞって視線を汐見さんに移す。
「『影待つひと』がいいと思う。」
「影待つひと」
「そう。いなくなった女の子をいつまでも待っている親友。女の子はいない、戻ってこない。だからいつまでもこない女の子の影を待っている人。」
「やっぱりそっちにフォーカス当てるんだね」
「そ、私はそういうのが好き!書いてくれるんでしょ?」
こういうところで汐見さんとは感性が合う気がする。溌剌(はつらつ)とした彼女とは性格が正反対に近くとも、だから楽しいところがあった。
「いいよ。それで書く。暗いし帰ろうか」
「よっし、帰ろー! もう今から楽しみ〜」
「まあ、頑張るよ」
翌日は土曜日だった。普段なら家から出ずに本を読むところを、私はノートとペンを持って午前中には家を出た。
空は快晴。風もなく、気持ちのいい朝だった。
学校は休みだというのに学校方面へ向かう電車に乗った。
電車に乗って40分。いつもの駅で降りて学校とは反対方向へ歩いて15分。いつも学校帰りに斜めから見下ろす、夕日を背負う鳥居が正面から見えるはずの場所にきた。
岩が壁のように高く盛り上がり、道からでは鳥居はおろか海すら見えない。
だけど私は知っていた。もう少し岩に沿って進むと外からは行き止まりのように見える岩の裂け目がある。中に入ると手前から見えない位置に奥へ進める隙間があった。
その裂け目は行き止まりのたびに手前へ折れるように進む道が現れる。ちょうど坂ではないがつづら折りのような構造になっていた。
もとより人ひとり通るのがやっとの隙間に光はほとんど入らない。岩と岩の隙間を、顔をぶつけないよう慎重に両端の壁に手をついて進む。二回目に方向を変えたところで光が前から差し込んだ。出口だ。
薄闇に慣れ始めた目を細めながら岩の狭間から外へ出ると海の香りと波の音が私を包んだ。
* * *
友人が消えた。
最近仲良くなった友人が。
友人との縁は私が文芸部に一人朗読用の演劇台本を頼んだことだった。
最初は部活全体に顧問を通して依頼を出したのだが、やってもいいと言ってくれたのは彼女だけだった。後日文芸部の活動日に改めてお願いするべく会いに行った。
名前を聞くと瀬野と名乗った。下の名前を聞いたつもりだったのだけれど、そうとは思わなくて名字だけ名乗ったらしい。聞けば満希だと答えてくれた。
私も汐見凪沙だと名乗ったけれど、私のことをひたすら汐見さんと呼ぶので、距離感を考えて私も瀬野ちゃんと呼んだ。
実際に会って、いいという返事をもらってから約一週間後、彼女はプリントアウトしたものを持ってわざわざ演劇部の活動日にやってきてくれた。
あまり笑わないし、話す言葉も素っ気ない、クールという言葉がピッタリだと思った。
けれど、不思議と仲良くなれるんじゃないか、そんな予感がして、私が頼んだ。
「これから演劇部の部活にも来てほしい」と。
言った直後は困惑顔だったから来ないかと思ったけれど次の活動日、瀬野ちゃんはきちんと来てくれた。理由に「別に用もないから」と言う割には毎回来てくれて、こうしたらと色々と小説を書く側だからできるアドバイスをくれた。
だから私も文芸部の活動日にはほぼ毎回顔を出して、小説を読んでみてほしいと言われれば読んで感想を言ったし、瀬野ちゃんが製本作業をしていれば手伝った。
最初の予感通り、私と瀬野ちゃんはウマが合った。
私は結構クラスでも、学校の中でも目立つ方だと思っている。瀬野ちゃんは逆に目立たない方だろう。表向きの性格は、私たちはあまりに真逆だった。
だけど瀬野ちゃんと私はそっくりで、そして私なんかよりも遥かに強いものを持っている。クールに見えて、実はその滅多に変わらない表情は誰よりも赤々と燃える意志を隠した仮面だ。
だから彼女が大好きだし、尊敬していた。
瀬野満希が消えた。
たった三日前に会ったというのに。
先週の金曜日、元は瀬野ちゃんのお気に入りの場所で、最近はいつも行く私たちの寄り道の定番になっていた場所で、確かに話をした。
ファンタジーの演劇台本を書いてくれると、確かに約束してくれた。
先生によれば日曜の朝、家を出ていったきり何も音沙汰がないのだという。最近仲良かった汐見は何か聞いていないか、と言うのだから家族ですらも見当もつかず、本当に何も手がかりがないのだろう。
この辺りは電車で一駅区間が15分もあるような片田舎だ。全く行方が分からない今、家出という線はないに等しかった。
いつか聞いたことがある。瀬野ちゃんは休みの日はもっぱら家にいて、本を読むのだと。出かけるのは何か用がある時か、小説を書くときくらいだと。
日曜日、外出したのは約束してくれた演劇の台本を書くためだろうか。
わからない。彼女が大好きだったはずなのに、彼女と最近一番親しくしていたのはこの私のはずなのに、何も知らない、わからない自分が歯がゆかった。
* * *
最初に感じたのは潮の匂い、それから波の音と風の音、最後に真っ白だった視界に青が差す。
岩の裂け目をくぐった先は岩場を降りると小さな砂浜に波が寄せる、入り江のようになっていた。振り返れば通ってきた裂け目のある岩が断崖のようにそそり立ち、さらにその上の青空を海面の小さな魚を狙ったウミネコが飛ぶ。
正面は真っ青な空と海が遠くで真っ二つに分かれていた。浅瀬はうっすらと砂の色がゆらぎ、波が寄せるたび白く泡立つ。少し沖合には焦げ茶の岩が点在し、その中の一つにこちらを向いて赤茶の鳥居が刺さっていて、一面青の景色の中で一つだけ存在を主張していた。
この場所には何度も来ている。
危険なことはわかっていた。通っている最中に地震でもあって、あの裂け目が閉じるようなことがあればひとたまりもなく潰されるだろう。
でもそれはもしもの話だ。そんなことが起きるような大地震があれば近辺にいるだけで津波に流されるからどこにいたって同じでしょ、と思う。どうせ死ぬなら好きなことをしている最中がいい。
小説を書くのを誰にも邪魔されないとっておきの場所。ここなら人目を気にする必要はなく、当然話しかけられることもない。
スマホさえ見なければ私が紡ぐ言葉以外に、この場所には波とウミネコの言葉しかない。
文章を作り出すには最高の環境だった。
そんなに考えることもなく、つい昨日汐見さんに話した大筋のメモからセリフを作り書き出していく。
私にとって書くことは考えるよりも感覚でやるものだった。
半分ほど書けたかというところで、やめた。
日の入りにはまだ少し早かったが、その頃には潮が満ち始め、秋の海風は冷たくなり始めていた。
翌日、日曜日にも同じようにした。
母がうるさいのでお昼だけは家で食べたが、昨日の進み具合なら、多少遅くなっても大丈夫だと思った。
念の為薄いストールを持って昨日と同じルートで海へ行く。
やっぱり誰もいない。
嬉々として乾いた岩場に腰を下ろしてペンを走らせた。
おかしいと気づいたのは、物語が完成してからだった。
あとは汐見さんと相談して脚本になるよう詰めればいい、そう思ってノートを閉じた時、あまりに静かなことに気がついた。
ウミネコがいなかった。
いつも聞こえる音が一切聞こえないというのは居心地の悪いものだ。たったそれだけで波の音がいつもの数倍大きく聞こえた。
急に寒く感じて身震いをする。膝にかけていたストール肩から羽織って立ち上がった。
集中していて気が付かなかったのか、日はほとんど沈みかけ、周りは真っ赤に染まっている。
岩場に残った潮溜りは気持ちの悪い血の跡みたいだ。
こんな時間までここにいた事がなかったため、見た事のないような景色に一瞬怯む。昼間はあんなに青々と純粋に美しいというのに、今は美しいことには間違いないが、それは不気味さを孕んだ景色だった。
「危ないか……」
これ以上ここにいれば何も見えない闇の中に取り残される。それくらいはわかる。これ以上日が沈む前に向こう側に行かなければ危険だ。
美しくも恐ろしい、そんな感情を起こさせる景色に背を向けて私は来た時同様、岩の裂け目へと入っていった。
* * *
「これ、瀬野ちゃんのですね……」
「だよなあ。名前はなかったけどこの字と『演劇部用』っていうこの表紙でそうじゃないかと思ったんだ。」
瀬野ちゃんが消えてから四日がたった。
私が部活でいつもの教室で練習していると、隣のクラスの担任が一冊のノートを持ってやってきた。
表に『演劇部用』とだけ書かれているごく普通のオレンジ色の大学ノートだ。
だけど字はもちろん、ノート自体に見覚えがあった。最初の台本をお願いしたあと、ネタ帳を見せてほしいとねだったときに見せてもらったノートと同じ色だった。「汐見さんのイメージカラー。」そう言って、その場で『演劇部用』と表紙に書いていたのを、私は見ている。名前こそ書かれていないが瀬野ちゃんのもので間違いはなかった。
「結局まだ帰ってこないんですか、瀬野ちゃん」
「そうなんだよなあ。」
覇気なく言ったこの先生は瀬野ちゃんの担任だった。
休日の間に起きたこととはいえ、自分のクラスの生徒が 一人失踪したのだ。色々大変なのであろうことが、若いというのに黒々と目の周りを縁取る隈から見て取れた。
「なんでかわかんないがこのノートも家や学校で見つかったんじゃなくて、海の近くで拾われたんだそうだ。」
「海?」
「ああ、拾った人が親切にこの辺りで演劇部のある学校がここしかないってことを調べて持ってきてくれたんだそうだ。」
「そうなんですか。」
休みの日に瀬野ちゃんが海に行ったということだろうか。演劇部がある学校でここが一番近かったというのなら本当に近くの海だろうことは予想できる。なんなら歩いて行けるかもしれない。
「先生、それ、どこに落ちてたのか詳しくわかりませんか」
* * *
抜けた先も赤かった。
あ、よかった。日が沈みきる前に抜けられたみたい。
そう思ったのも束の間、異様なことに気がついた。
私は太陽を背にして岩の裂け目に入ったはずだった。つまり、抜けた先は藍色でなければならなかった。
街灯の明かりかとも思ったがそんなことはない。赤すぎるし明るすぎる。
何よりおかしいのは、目の前に道ではなく海が広がっている所だった。
吸った息でひゅっと音が鳴った。
文字通り心臓が跳ねるような感覚がする。
普通ならありえない現象がひたすら気持ち悪い。道の端へ繋がる出口へ向かったはずなのに、ここは入り江へ出る場所だった。
空を見上げる。月はまだ出ていなかった。
岩に入れば道らしい道ではないけれど、進める場所は一本だけ。
何度も通った道で間違いがあるはずはない。
ちょっと寝不足かな、と思いながらもう一度沈む太陽を背にして暗がりへと進む。
羽織っていたストールはその場に置いていく。
まさかという思いがあった。
そんなことはないと、わかっていた。それでも信じる根拠が欲しかった。
* * *
先生はわざわざ拾ってくれた人の名前まで教えてくれた。
本来だったらプライバシーどうので絶対にありえないことだ。だけど一週間も自分のクラスの生徒が見つからないのも事実。実際かなり焦っているのだろう。
「すみません、海高の生徒の汐見っていいます。」
インターホンを押して名乗ると『あ、はーいはい』と返事があり、程なくしておばあさんが出てきてくれた。
「──この前のノートの生徒さん?」
にこやかに対応してくれたおばあさんは私にそう聞いた。拾ってから気にしていてくれたのかもしれない。お礼と友人のものだと伝えてから、本題に入った。
「その、ノートの持ち主の友人がこの辺りに来てたかもしれないんですが、高校生らしい女の子を見かけませんでしたか。前回の日曜なんですけれど。」
おばあさんは少し考えて言った。
「……ごめんなさいねえ、夕方だったら分かるかもしれなかったんだけれど、お昼頃は港へ出ているからわからないわあ。日曜日は見かけなかったと思うよ。土曜なら夕方より少し前に女の子がいたのを見たのだけれどね」
「そうですか……」
土曜日の女の子というのが瀬野ちゃんの可能性はある。だけど現時点では、その時彼女が元気に家に帰ったこと以外は何も分からなかった。
手がかりらしきものは途絶えた。どうしようかと思案していると、おばあさんはなにか思い出したようで「ちょっと待っててね」と言って奥へ戻って行った。
「これ、お友達のものではないかしら」
そう言って持ってきたのは薄青いストールとシャーペン、定期入れ、スマホだった。
定期の名前には『セノミツキ』とある。ストールとシャーペン、スマホのカバーにも見覚えがあった。
「……これ、どこに?」
「そこの前の道に落ちてたのよ。日曜日から連続で。大体おんなじ時間に通ると落ちてるもんだから同じ子かと思ってね。良かったわ、持ち主が見つかって。それらしい子が来なければ定期なんかは困ってるだろうから、警察に届けようかと思ってたの。」
日曜日から。瀬野ちゃんが帰らなくなった日から? なぜ。
物を置くことができて、帰れない何かがある? それだけならなぜ家族にすら連絡を寄越さない……。
「──友人が、これの持ち主が、行方不明なんです!これを拾った場所を詳しく教えてください!」
勢い込んで聞くとおばあさんは目を見開いた。詳しく事情を話すとなるほど、と快く納得してくれた。
「大変ねぇ、それは。うちから出て右に向かって行くと港があるのだけどね。少し行ったところに道の反対にある岩場がちょっとばかしえぐれてるところがあって、見ればわかるのだけどその前に落ちてたのよ。」
振り返って見れば確かに道沿って岩場が壁のように伸びている。防波堤のようにも見えるが、色とその形の歪さが人工のものではなく自然にできた岩だということを物語っていた。
「さすがにあの岩場は登れるものでもないから反対側に行ったとは思えないのだけれど。」
おばあさんの言い方は何か引っかかる所を感じさせた。まるで過去行ったことがある人がいるような言い方だった。
「あの反対側は崖と海ですか?」
「崖というか、あの岩壁があって反対側に磯と入り江がある感じよ。綺麗な場所でね、昔は行けたんだけど、今は行く道がないのよ。」
「そうなんですか?」
ここで足取りが途絶えたのだから、反対側に行って帰って来られなくなった可能性はあると思ったのだが、そんなことはないのだろうか。壁を登ればあるいはとも思ったが、プロでもない限り登れなさそうな急勾配だ。少なくとも文化部の私や瀬野ちゃんには無理だと思う。
「このストールなんかが落ちてた場所がちょうど反対側に行く道だったからね、びっくりして確かめちゃったわ。もうあそこが塞がったのは何十年も前のことだから。」
「そうですか……、ありがとうございました、そろそろ失礼しますね」
「あらもういいの? 気をつけて帰ってね〜」
おばあさんの家を出て壁沿いに元来た道とは反対へ進む。その先に教えてもらった通り抉り取られたように壁がへこんだ場所があった。
子どもや女性くらいしか入れそうにない狭い隙間。試しに中に入って手探りするが、入口以外全方向に壁がある。足元を蹴ってみても結果は同じだった。
一度壁の隙間を出て壁沿いにまた道を歩く。他にも誰も知らない道があるかもしれないと思った。
結論から言えば、結果は徒労に終わった。
ぐるっと海岸からまた海に行き着くまで壁沿いに進んだが、高く長い壁がずっと続いている。足をかけて登れるような場所がないかも注意深く見ながら歩いたが、こちらに張り出している場所はあれど、登れそうな傾斜の場所も足場がある場所も一切なかった。おまけに、観光地になっている高台から見下ろせる灯台兼展望台から何か見えないかと登ってみると、壁は思っていた以上に厚みがあることがわかった。少なくとも2メートルはある。
昔あった道というのもきっと穴のようなものじゃない、切通しのような言わば「隙間」だ。
完全に行き止まりだ。道も、思考も。
徐々に失われていく陽光を見下ろしながら、ただ呆然とする以外に私にできることはなかった。
* * *
「──本気?」
これは参った。完全に手詰まりだった。
あれから何度か岩の狭間の道を抜けた。
どこかで行き止まりになることはなく、毎回きちんと通り抜けて反対側へ出られた。
しかし、景色が変わらなかった。
毎回真っ赤な海に出る。日が沈むこともない。不思議なことに潮が満ちることもなかった。
変わったのは置いたものが通り抜けた先ではなくなっていたことだ。
最初はストールを置いて外へ出るつもりで通り抜けた。抜けた先にはストールがない、しかしさっきと全く変わらない景色が広がっていた。
その後持っていたシャーペンを岩棚に置いて隙間に入った。同じように通り抜けるとストールもシャーペンもない。その後は少し迷ったが定期入れを、次にずっと圏外表示を続け役に立たないスマホを、最後に渋々ノートを置いて同じようにした。全て、通り抜けた先に現れることはなかった。
同じ場所に出ているのではないことはわかった。しかしどういう仕掛けかわからない。どうしたらいいかもわからない。
もうひとつ、変わったことがあった。七回ほど岩の中を通り抜けた後だったか、月が昇った。
昇るところを見たのではない。見上げたら真上にあった。半月が少し太ったような、これから満月になろうといういわゆる小望月。
秋も深まるこの時期に、太陽が沈む前に満月に近づいた月が昇るなどまずありえない。
沈まない太陽と昇るはずのない月。生き物の気配のなさと真っ赤な海。そして何度出ても繰り返す世界。
底のない得体の知れなさに吐き気がした。
──いっぺん、死んでみようか。
別にいじめられてもいないし、先生が嫌だとか家族と不仲だとかもない私の日常は、きっと誰にも平穏で悪くないように見えると思う。私自身別に不満を持ったことはない。
だけど私の根底には諦めがあった。
知り合いとか、先生とか、友達とか、親とか、いらない期待を私に押し付けて、できなきゃ私が悪いみたいに悪し様に言う。別に本人たちにその気はないのだろうけど、私にはそう受け取れる。
私は知らない。
私はやりたくない。
私にはできない。
全て許されなかった。
唯一、誰にも干渉されないものだったはずの好きなことですら、周りの期待の対象にされた。
いつからか、私が期待も感動も無くしたら周りも急に静かになった。
期待に答えようとするのはやめた。
頑張ることもやめた。
笑う気がないのに笑うのもやめた。
時々で、着けては外しを繰り返していた様々な表情の仮面はすべて捨てた。
全部やめたら世界は変わった。
いらない期待で埋められていた視界も、激励の言葉で聞こえなくなっていた音も、過剰な重みでわからなくなっていた味も、善意から生まれる甘ったるさで塞がれていた匂いも、固められて動かなくなっていた全身も、柵は嘘のように消えた。すべてがクリアになった。
ならば自分も諦めれば、この気味の悪い世界の柵も抜け出せるかもしれない。
「いいよ、いっぺん死んでみよう。」
出した声は自分で予想していた以上に冷ややかだった。
思ったよりも自分自身への執着はなかったのかもしれない、と思った。
ザバザバと音を立てて波を踏んで海の中へと進んでいく。秋の日暮れの海の水はとても冷たかった。
ああ、そういえば心残りがあった。
肩まで海水に浸かった時に思い出した。こういうのは今際の際になって思い出すようにできているらしい。
少しだけの心残りは汐見さんと汐見さんのために書いた物語だった。もうノートはなくしてしまったけれど、取り戻す手段もわからないけれど、書いたものが巡り巡って彼女に届けばいいのに。久々に抱いた何かへの期待だった。
でももう、どうでもいい。
とぷん、という音を最後に世界から音が消えた。
* * *
先生から受け取った瀬野ちゃんのノートをパラパラとめくっていると、片隅に絵が書かれているページに気がついた。
シャーペンの細かい線で幾重にもなぞって描かれたその絵は、いつも瀬野ちゃんと行く磯から見える鳥居を真正面から描いたものだった。よく見ればいつもは鳥居の真後ろに沈む太陽も少し右側にずれている。
鳥居だけなら想像かと思うところだが、鳥居の周囲には景色の続きがあった。
魚眼レンズで見たような視野を広くとらえた構図で奥から半分が黒く塗られた太陽とそこにかかる薄雲、手前の海には鳥居、その周囲には小さな岩が点在し、小さな浜の波打ち際にウミネコが歩く。それからさらに手前に、磯と瀬野ちゃんの足らしきものが描かれていた。
そして、鳥居の左右には迫り来る岩壁があった。歪ませて描かれているからかもしれないが、表現としては迫っているとしか言いようがない。岩壁の左右は途切れているが、きっとそのまま横に広がり瀬野ちゃんの座っている後ろで繋がるのだろう。
これはあの入り江だ。
根拠はない。だけど直感した。
おばあさんの家で、確かにウミネコが飛んでいた。学校からの寄り道の時、確かに鳥居のあるもっと手前、陸地のすぐ近くには山のような岩があった。あれはきっとあの岩壁だ。壁の向こうに彼女はいる。
* * *
真っ直ぐな道を歩いていた。
まるで汐見さんにファンタジーを提案した時に思い描いていた景色だった。
空があって、海がある。青い景色のその間、平らな道が波もなく凪いだ海をただひたすらに真っ直ぐ伸びていた。その上を私は一人歩いている。
水の中にいるように体が重く、動きは緩慢で、水を踏むように足元はおぼつかない、けれど呼吸は苦しくなかった。
私は知っている。誰に教えられた訳でもないけれど知っていた。
ここは誰も知らない、ここには誰も来られない。何一つ確定要素のない淡いの世界。
ここで生きるには一つでいい、たった一つ希望を持っていればよかった。希望を失った瞬間、この凪の海のような空間からは放り出されて光も浮き上がれないような非情な暗闇に沈む。
あの時、私は希望の影を待っていた。茜時に混じる直前、やっと描いた。
だからここには朝があって、夜がある。私が描いた希望を失わない限り続く、半永久の朝と夜の世界。
朝には明るい空に少し太った半月が浮かび、夜には月のない星空だけが広がる。導は足元の水の中で時折揺らぐ焔のみ。強く燃えていると思えば揺らぎ、止まっているかと思えば揺蕩い動く時もある。
私がいるのは夢か現か。吸っているのは空気か水か。歩いているのは水面なのか空なのか。
淡いの世の理はわかるのに自分のことはとんとわからなかった。それで良かった。
私は私を諦めた。ただ一つ諦めきれなかったのは彼女のことだけ。
彼女って誰だっけ。ここで意識が始まった時には名前があったはずだけど。
私はなんだっけ。彼女とどういう関係だった?
覚えているのは諦めきれなかった、希望を捨てきれなかった一つだけ。
彼女に彼女のために書いた物語を渡したかった。
もうどんなものを書いたのかも覚えていない。けれど私が書いたと断言出来る。どうしてかこれだけは、この希望だけは失わない自信があった。
ここでも私はこの自身の希望という柵に絡みつかれて生きていく。
名前のわからない彼女のせいで生き続ける。
私自身はこの空と海へと溶けだしながら、それでも纏わりついたものからは逃れられない。
出口はある。あることは知っている。けれど私ではたどり着けないことも知っていた。
溶けて、溶けて、この空と、海と、混ざり合いながら何処かへ落ちていきながら、それでも進む、それでも歩く。
私に残った道はその一本しかなかった。
* * *
物わかりがいい人にはなりたくなかった。けれどこれは私ではどうしようもない。
彼女の家族にはストールや定期やノートが落ちていた場所を伝えて壁の向こうにいる可能性も伝えた。警察が船を出して探してくれたそうだが、何も、手がかりすら見つからなかったという。
警察も家族も見つけられない今、高校生で瀬野ちゃんの一友人である私にできることは何もない。
絵が描かれたページの次を開くと、一言だけ几帳面な字で真ん中に書かれていた言葉が目に入った。
『出口はある』
次のページから本書きの台本が始まっていた。きっとプロットの一部だ。
書かれた台本を最後まで読む。
いなくなった少女の行方を語る一編の詩から始まる物語のラストは、取り残された少女のひとつのセリフで締めくくられていた。
声に出して読んでぼろぼろと大粒の涙が溢れる。
彼女はもう帰って来ないのかもしれない。
私は台本にあるこの少女と同じ運命を辿っているのかもしれなかった。
「彼女があの黄昏の出口を信じているのなら、私はあの子を信じて待つしかない。」
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