翠川樹雨『陽の当たる場所』
さあこれからどうしよう?身軽になった私はきっとどこへでも行ける。
遠い街に行ってしまったあなたに会いに行ってみようか。その後はどうしよう。
だけど私の声はきっと君には届かない。
Shadow
「久しぶりだね」
穏やかな声に顔をあげると待ち焦がれた彼の姿が目に入った。
久しぶり。本当に。待ちわびたんだよ?
言いたいことは沢山あったけれど、どれも言葉にならず私より背の高い彼の顔を黙って見上げるしかなかった。
そんな私の言いたいことを察してか彼から話し出した。
「悪かったよ、お盆になるまでこっちに帰って来られるような長い休みがなかなか休み取れなくて……。」
──もう、社会人になったからって忙しくしちゃって! いつぶりよ?
冗談めかして言うと彼は申し訳なさそうに笑った。
彼の腕は遊び回っていたのではないと主張するように日焼けもせず真っ白だった。きっと外に出るのは仕事のときの通勤だけで少ない休みの日も家から出ずに過ごしているのだろう。全く不健康ったらありはしない。
そんな彼の背に容赦なく夏の太陽は照りつける。周囲のコンクリートから立ち上る熱気がむっとした暑さを運んでくる。
拠り所は木陰だが、やっと傾き始めた太陽は私のいる場所にかろうじて陰を落とすのみである。彼のところまで伸びるのは少し時間がかかりそうだった。私たちの頭上の木立からは蝉時雨が響いていた。
「二年ぶりくらい? これでも君のご両親へは近かったから時々会ってたんだよ?」
──そうなの? 元気そうだった? もしかしてわざわざ会いに家までいってくれたの?
「変わらず、君がいないから寂しそうではあったけどね。元気そうだった。」
──そりゃだって、ずっと一緒にはいられないもの。親不孝な娘だっていうのはわかってる。
ついついムスッと言ってしまった。私だって両親に会いたいしあなたと暮らしてみたかった。
喉まででかかった本心は言葉にならないうちに夏の風にさらわれていく。
──私を置いてったのも、悪いのよ。
心にないことを呟いてしまった。
どうしよう、嫌われる? 嫌われて二度と会いに来てくれなくなったら嫌。
呟いてから慌ててそんなことを考える。
「確かにね、君を僕は置いていったから。でも、僕もご両親もここを離れることになって気がかりは君だったし。」
──そっか。ありがとう。でも私もいい大人よ?一人でも割とどうにかなるものよ。
「それでも、会いたいと思っていたのはみんな同じだよ。」
そこで言葉を切った彼に嬉しくなって彼に笑いかけると彼もそれを察したようにふわっと笑った。その笑顔は私が大好きでこの二年間見たくてたまらなかったものだ。
──もう、しっかりしてよね。こっちからは会いに行こうったってなかなかできないんだから。
もちろん責めるつもりはない。私も彼も納得ずくの事情があるのだから。
つんと唇を尖らせて見上げた彼の肩に、ふと太陽の光が当たっていないことに気がつく。空を見ると暗い雲に太陽は覆い隠されていた。
それを確認すると同時にサァーっと音がして雨が降り始める。周囲はすぐに濡れた土と葉の匂いに包まれた。
傘を持っていない私はただ濡れるしかない。
ぼんやり空を見上げているとバッと音がして視界の空が色鉛筆で描いたような青一色になる。
彼が傘をさしかけてくれたのだ。高さが合わない私のためにわざわざ傾けてくれているから、長身の彼の肩は濡れてしまっている。
「来年こっちの支社に転勤になったんだ。」
私が何か言う前に彼が話しだした。
ここからほど近い実家の近くに部屋を借りて住むのだという。ただの転勤だけど、今まで会いに来てあげられなかったからとても嬉しいと、落ち着いてはいるけれど、どこか彼らしからぬ早口で言うのだ。
けれど、「一緒に住んでもいいよ、夢の同棲生活だ」なんて嘯く姿は二年前とどこも変わらない。大好きな彼そのままだった。
──そうなんだね。とても嬉しい。では次会えるのはその時?
「一度引越し直前に部屋の確定をしに戻ってくるからその時また会いに来るよ。」
──そっか! 楽しみにしてる!
「それじゃあそろそろ……」
──……そうね。雨も降ってきたし、そろそろ帰らないと。
必要ないのに私に傘をさしかけて、自分は走って彼の帰っていく背中を見送る。
寂しい気持ちが時間差でやってきた。
行かないで、もっと会いたい、お願い、もう少しだけ。
それらを口に出すのはやめた。彼のためにもならないし、何より私のためにはならないと知っていた。
強がっているくせに。
知ってる、ごめんね、すべて私のせい。
最初は早足で、雨のせいかそれとも別の何かがあるのか次第に小走りになり去っていく彼の背中を眺めながら考えた。
さあこれからどうしよう?
しなければならないことはない。お盆が終われば、身軽になった私はきっとどこへでも行ける。
遠い街に行ってしまった遥真に会いに行くことだって、本当はできるのだから。だけどその後はどうしよう。
私の声は、きっと君には届かない。
時雨の落ちるパタパタという音が無数に響くだけだった。
* * *
Light
たくさんのお墓が立ち並ぶ中を夏の暑い日差しを背負って歩く。
お盆と言うだけあって家族でお墓参りに訪れている人が多いようであった。
水も湯にかわりそうな夏の陽気の中、どの墓にもみずみずしい綺麗な切り花が供えられていた。墓地の奥へつくと比較的新しい墓が並んだ区画がある。僕が用があるのはその中のひとつだった。
「久しぶりだね」
答えはもちろんない。しかし、ここに来ると声をかけずにはいられなかった。
この石の下には彼女の骨がある。それだけで墓石はただの石の塊以上の意味を持っていた。もとから僕より低かった彼女の身長は、墓石になってさらに低くなってしまった。
「悪かったよ、お盆になるまでこっちに帰って来られるような長い休みがなかなか休み取れなくて……。」
肩を竦め言い訳のように言うと、なんだか本当に会話している気分になってくるから不思議だ。
社会人になったからって忙しくなっちゃって! いつぶりだと思ってるの? なんて彼女がここにいたら言うんだろう。そう思うと、申し訳なさ半分、寂しさ半分の笑みがこぼれる。
彼女の墓石の後ろにある少し崩れたブロック塀の向こうから、大きな木の枝が突き出している。午後の強い日差しの中でうるさい蝉時雨を降らせる枝が彼女の墓石に涼し気な陰を落としていた。手を当てると石の表面はまだ暖かい。
「二年ぶりくらい? これでも君のご両親へは近かったから時々会ってたんだよ?」
花立の水は換えて、花を供えて、墓の周りを整えながら、会話をしている気分になって勝手に報告したいことを報告していく。
「変わらず、君がいないから寂しそうではあったけどね。元気そうだった。」
彼女自身は僕の故郷であり、彼女の墓石があるこの街で亡くなった。まだ十八歳だった。
大学受験を控えていた僕らは、結局僕だけが大学へ進んでこの地を離れた。学生の間は何度か墓参りに訪れていたが、二年前社会人になってからはめっきり来られなくなった。社会人の少ない休みではとても来られる距離ではなかったからだ。
ちょうど僕が社会人として会社に勤め始めた頃、彼女の両親も彼女の妹の進学と父親の転勤を機に僕が引っ越した近くに越して来ていた。
幼い頃から彼女とも彼女の妹とも、二人の両親とも家族ぐるみで仲が良かったため、今でも時々会いに行くようにしていた。
今は彼女の墓石の管理はうちの両親が先祖の墓石のついでに時々やってくれている。
彼女はきっとみんなが自分を置いていってしまって拗ねているだろうな。
置いていったのも、悪いのよ。
脳内にむくれてそっぽを向きながら言う様子が、高校生で時が止まった彼女の姿で再生された。
話すとしたらこんな感じだろう。
「確かにね、君を僕は置いていったから。でも、僕もご両親もここを離れることになって気がかりは君だったし……。それでも、会いたいと思っていたのはみんな同じだよ。」
置いていきたくて置いていったのでは、ない。連れて行けるなら行きたかった。しかし、あちらにいるのは僕も彼女の家族も一時的だ。それなら勝手知ったる地元に残していく方が良いに決まっていた。
ようやく綺麗になり、さて、と言いながら立ち上がると周囲が少し薄暗いことに気がついた。気づけばさっきまであった焼けつくような陽光も和らいでいる。
すると瞼に冷たいものがポツッと当たった。
雨? と思う間もなくサァーっと音がしてとても小雨とは言い難い雨が降ってきた。
念のためと持ってきていた傘を慌てて開いてさして、ちょっと考えて彼女の墓石にもさしかけた。
石とは言えど、一緒にいる間はなんとなく濡らしたくはなかった。
「来年こっちの支社に転勤になったんだ。ただの転勤なんだけど、希望出したら通って、今度実家の近くで部屋借りて住むことにした。ここからもすぐだから時々こられるし。その時は見に来てもいいんだからね? 僕の部屋に住んでくれたって構わない。夢の同棲生活だね。」
本数の少ない電車の時間が迫っていた。そろそろ帰らなければならない。それがわかっているから、立て板に水とばかりに一気に言った。帰りたくない。これを言ったら帰らなくてはならない。
しかし言うしかなかった。
「……一度引越し直前に部屋の確定をしに戻ってくるからその時また会いに来るよ。」
彼女がどんな反応をしたのか分からない。ただ僕が一方的に会いに来るだけの話だ。どう思ってるかは二度と聞けないことだった。
「それじゃあそろそろ……」
一度背を向けて、考え直して墓石に開いたままの傘を立てかけた。ちょうど墓石が濡れないように卒塔婆を立てているアルミの枠に上手くひっかけた。
強くなり続ける雨の中、今度は来た道を走って戻った。
濡れないようにというのもあるが、彼女への申し訳なさと寂しさと、自分の中に確かに存在する罪滅ぼしという名の偽善に対する後ろめたさに、ここにいれば押しつぶされそうだった。
助けられたかもしれないのに、死なない未来があったかもしれないのに、それを通り過ぎて今僕はここにいた。戻るには遅すぎた。
ここへ来るのも僕の中のエゴかもしれない。それとも本物の悔い? どちらでもいい。
後悔するくらいなら彼女が自ら幕引きをする前に王子様でも道化でも、なんでもなれば良かった。
ここに来るたび、帰ろうとするたび、彼女の墓石を見るたびに思い出す痛みだった。
「またね、美結」
埃っぽい空気の中、雨は弱まるどころかどんどん強くなっていく。僕の心を表してやろうとでも言うのか、雨が涙のように頬を伝う。
次会う時には、胸を張って会えるだろうか。
それとも次も逃げるしかないのだろうか。
いつになったら、私はあなたに顔向けできるでしょうか。
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