ユイ『黒ジャンパーの男』
1
やりたいことは、ハテナハテナ。
小学五年生の健は特にしたいことがなく、休日は何をしていたかを後日になってから思い出せないくらい、「何か」をやったという達成感を見いだせない。
だが、実際は、テレビを見たり、ゲームをしたり、あるいは散歩したりと「何か」をして時間を使っているが、それはやりたくて意識的にやっているというような感覚ではなく、本当のやりたいことをやらねばと思うのだった。
そんなことを思っていた日常のとある日曜日。この日も、やりたいことは決まっていなかったが、とりあえず散歩してみることにした。
もしかしたら、この「とりあえず」ということが、やりたいことに通じるのだろうかとも思いつつ、それとは違う何か心の内なる衝動のようなものではないかとも考えていた。
そのようなことを考えながら、健は自宅付近の川沿いを散歩しようと向かった。
川沿いには、散歩している老夫婦や、ランニングしている若者等が、ちらほらいたが、それほど多くはなかった。
健は緑色に濁った川の水面を眺めつつ、先へと進んでいた。
そうしていると、橋が見えてきた。車はそれほど通ってなく、人もまばらに通っていた。
なんとなく、橋下の水面を見ながら、通り過ぎようと思ったとき、橋を渡っている人の影が水面に写し出されたが、それが大きく、歪んでいて、まるで羽の生えた悪魔のように健には見えた。
しかも、水面はそれほど波立ってなく、健の向かい側にそびえ立つ住宅をきれいに写しとっていた。
そんなことを考えつつ、「影の悪魔」を写し出した人がまだ橋を渡ってすぐの住宅街の付近を歩いているのを見つけると、健は追ってみることにした。
なにしろ「やりたいこと」はないのだからと。
橋に現れた「影の悪魔」を追って、健は住宅街をずっと進んでいった。
健は、散歩に出かける機会が少なからずあるが、この住宅街に訪れたことは今までなかった。
「影の悪魔」は、中年の男性で、背丈はそれほど高くない。服装は黒いジャンパー姿で、大きな持ち物は見当たらない。時々、ポケットからスマートフォンを取り出して操作しているだけで、何か妖しい動きはない。もちろん、羽は見当たらない。
彼の後ろから探っているだけだと、普通の男のようにしか見えず、自分がやっていることがよく分からなかったが、それでも追っていくことに何かを見つけられる気がしていた。それを自分だけが知っているのだと思うと、それだけで満足した気分になっていた。
すると、「影の悪魔」がポクポクと鳴らしていた靴音が止んだ。
どうやら、中華料理店に入ろうと立ち止まっているようだった。
健は少しガッカリしていた。
自分が正体は「影の悪魔」だと想像していた人物が、その想像と関連のない中華料理店に入ろうとしたこと、いわば普通の人のような行動であったことに少し期待が外れたのだった。
そんなことを考えていたが、健はふとお腹が減っているのを感じた。それでいて、周囲に見覚えのある建物を発見した。
「影の悪魔」のことに気をとられて、周囲を見落としていたことと、いつもは通らない道程であったことのために、気づかなかったのだが、自宅の付近まで戻ってきていたのだった。
結局、遠回りをして家に戻ってきただけだったということを思うと、健は少しだけ徒労に感じたが、それでも「影の悪魔」を追っていたときの高揚感を思い出すと、悪くないと思うのだった。
やりたいことがないということは、全てのことをやりたくないこととは別であると体感した。
それでいて、何となくでもやってみれば楽しいことは多いかもしれないと思った。
そう思うことは、何かやりたいことをやらねばならないといった感覚よりもいっそう楽な感じだと、健は思い、この前読んだ本に時間について書いてあったことをふと思い出した。
中華料理店の中を見ると、「影の悪魔」はいつの間にかいなくなっていた。
2
がみがみ、がみがみ、大嫌い。
「起きなさい。休日でもしっかりとしなきゃダメだよ」
母に起こされて、小学生五年生の雄貴は苛立ちながら歯を磨いていた。
苛立つ原因といえば、母親が何もかも命令するからだ。勉強しなさい、ゲームばっかりやめなさいというように。
「何もかもそういうふうに言うなよ」
そう言いながら、日課である、牛乳を飲むのだった。今日の牛乳はいやにざらざらと口に残るように感じた。
「雄貴がやらないから言うのよ、きちんとやれば言わないよ」
「休みの日までガミガミ言うのがいやなんだよ」
二人にとって喧嘩から始まる一日は多い。
すると、
「何でいつも二人は喧嘩から始まるんだよ」と父は食事を済ませ、二人を見くらべて言った。
母は休日に、時間がもったいないからという理由で、雄貴の将来にとってよいと母自身が考えていることを言葉にするのだが、彼にとってはいやなことばかりだった。
休日くらい、この束縛から解放されたい、と思いたった雄貴は特に予定もなく、行く場所もなかったが、家から離れたい衝動に駆られた。
どこに行くかは決めていなかったが、とりあえず家を出た。
見上げると、雲がない青天井が雄貴を出迎えた。
そんな空を見ていると、今までの荒れていた気分が一過性のものであり、もうすでに落ち着いてきているのを感じた。
しかし、せっかく外に出たのだからと、家へは戻らず、駅の方向に歩み出した。
駅に着いてみると、特に決めていないが、本屋で何かマンガでも探そうという気持ちになった。
雄貴はポケットから財布を出して、その中に千円札が二枚あることを確認して、本屋に入った。
マンガを見ようと思ったが、小学校のテストで良い成績だったらマンガを買ってくれる約束を母と交わし、実際に良い成績だったため、先日、マンガを買ってもらったことを思い出した。だからなのか、母とマンガが関連しているように思われ、マンガコーナーへは行かずに、雑誌や小説、新書などの普段は見て回らない箇所へと足が動くのだった。
それらは、雄貴にはよくわからないのだが、表紙を見ているだけでも、何か買いたくなってくる魅力があった。
色々見て回ったが、マンガ以外の本を買うならやっぱり児童書にしようと、児童書コーナーを見ていると、ちょっといいかな、と声をかけられた。
急に黒いジャンパーを着た大人から訪ねられてびっくりしたが、はい、と受け答えを自然にしていた。
「ちょうど、君くらいの子に本をプレゼントしたいのだけど、何かおすすめの本とかはないかな」
雄貴は、店員に訊けばいいのにと思ったが、とりあえず、自分の前にあるポップで大きく宣伝されている本をなげやりに勧めてみることにした。
雄貴は、おすすめの本を聞かれて、自分の母が度々、本を読みなさい、というときに、マンガ以外の、と付け加えることを瞬時に思い出し、この大人が言っている本もマンガ以外なのだろうと考えながら発言していた。
黒ジャンパーの男は微笑み、どこか遠くを見るような目線で雄貴が進めた本を見た。
「おじちゃんもこの本好きなんだよ。でも、娘がこういう本読んでくれるかちょっと心配なんだよね」
「たぶん大丈夫ですよ」と雄貴は根拠なく言った。そもそも、児童書をあまり読まないため、よくわからないのだった。
「そうだね。それじゃこれを買うことにしよう。わざわざありがとうね」
特に何も貢献した気がしないが、ありがとう、と言われて何か不思議な気持ちだった。
雄貴は黒ジャンパーの男がレジで本を買う場面をずっと見ていた。買い終えた後、男は店を出るときに、本を頭と同じ高さに上げて、ありがとう、と再度言って、店を出ていった。
それから、雄貴は自分が勧めた本を買った。
店を出ると、駅の時計の針が十二時近くを指していて、急にお腹が減っているのに気がついた。
3
つめつめ、安心。
小学六年生の暁美は、やることが決まっていて、予定が詰まっている方が好きだった。
何もやることがないのは退屈で嫌いだった。
そんな暁美は、「やることリスト」をつくって、休日も、友達と遊んだり、本を読んだり、絵を描いたりと「何か」の行動をしていないと気がすまない性分だった。
親子で外出するときも、前もってどこに行くかを計画してから行動するのが好きだった。
日曜日である今日も、友達と遊びに出かけることに決めていた。
だからこそ、暁美は、何もしないように見える父親のことが苦手だった。
暁美は毎夜にリビングで本を読んだりするのだが、そのときに父親がただ窓から見える景色を眺めているのが視界に入ってくるのだった。
「なんで、景色をただずっと見ていられるの。それも毎日長い時間。よく飽きないね」
「まあな」
暁美はこの続きの返答があるものだと思ったが、父は一向に返答してこなかった。
暁美は、父が朝もこのように景色を眺めて、仕事に行く前の時間を潰しているのではないかと思った。
というのも、暁美の父が平日の仕事に行くのは、母や暁美よりも遅いというのが日課であったからだ。
こうしたことから、暁美は父がよく理解できなかったが、特に聞くことはせず、視線を本に戻した。
このようなことが前日にあったからか、日曜日の今日、母が、父は出かけたと言ったので少し驚いた。
いつもの休日は、家にいるだけで何をするわけでもないからだ。
父の行動は少し気になったが、友達との遊ぶ約束があったことが幸いし、すぐに興味をなくした。
暁美が、行ってきますと母に言って外出しようとした矢先、電話が鳴った。
「本当にごめん。今日いけなくなっちゃった。また今度でいいかな」
「いいよ、ぜんぜん」と言いながら、暁美の気分は落ち込んでいた。
「うん。わかった。また今度ね」
何度も、ごめんねと言われながら電話を切った。
「友達と遊べなくなっちゃったの」と母は聞いた。
「そうだよ。予定が会わなくなっちゃった。今日、どうしようかな」と今日やることを考えながら言った。
「そうね。お母さんも、仕事があるからねぇ」
母は正社員として仕事をこなしながら、家の家事もしていた。仕事場でも頼られる存在なのだろうと、暁美は休日に出勤する母を慕っていた。
「ねぇ。一つ聞いてもいい」
暁美は昨日の父のことを話した。
「何もしないで退屈じゃないのかな」
「そんなことはないよ。お父さんはあれでも、色々なことを考えてるんだよ」
「色々なことってなに」
「お父さんはああ見えても、夜中一人でいるときは、ずっと本を読んでるのよ」
暁美は意外に思った。自分がいるときに本を読んでいるところをほとんど見かけないからだ。
「お父さんはね。一人で物思いに耽るところがあるのよ。それで、自分自身で色々と考えて、整理したり、想像したりして、一つの本をゆっくり丁寧に噛み締めて、心に刻むっていう感じかな」
「それに、お父さんは暁美が学校に行った後、家事をたくさんこなしてるのよ」
「キッチンとか、お風呂とか、トイレがきれいに使えるのはお父さんのおかげなのよ」
暁美は自分が今まで想像していた父とは違う父を母に教えられた。
「それじゃ、そろそろ時間だから、お母さんは行ってくるね」と母は仕事に向かって行った。
残された暁美は、何かをやろうと思っていたが、ゆっくり立ち止まって、自分が見落としていたことを考えたいような気持ちになっていた。
窓から見える太陽は、今日も明るく部屋を照らしていた。
その夜、父は黒いジャンパー姿で帰って来て、昔読んだことのある、時間についての物語だと言って、橙色の本を買ってきた。
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