紫蘭『僕とボクの10年間』

 僕がボクを作ったのはいつのことだっただろう。

 最初はただ母の笑顔が見たかっただけだった。

 僕の母は素敵な人だ。

 いつも笑顔で、楽しそうで、何かに全力で、一児の母だとは思えないぐらい綺麗で、キラキラしていた。

 ただ、母親には向いていなかった。

 愛してくれているとは思う。でも、母の優先順位は一も自分が一番上で、僕は二番目だった。

 悪気なんてない。ただ自分の人生を謳歌することに全力を注いでいる。そういう人なのだ。

 僕は、そんな母が好きだった。

 たとえ遊園地に行く約束がいつまでたっても果たされなくとも、たとえ自分が昔憧れていたという瑠佳という女の子みたいな名前を付けられても、キラキラしている母が大好きだった。

 僕は手のかからない子供だったと思う。

 友達と遊びに行く母を見送るときも、泣いたりぐずったりしなかった。

 幼い時から一人遊びができる子供だったから、留守番も大して苦ではなかった。

 父は、自由な母をしょうがないなと笑って許す人だった。

 怒ることの苦手な穏やかな人。


 そんな父が唯一怒っている姿を見た日。

 僕が小学校に入学した後だったと思う。たしか、初めての夏休み。あの日の事は家族の中で触れてはいけないことになっているから正確にいつなのかはわからないけれど。

 茹だるような暑さのあの日。僕は母と買い物に出かける途中だった。電車に乗って隣町のショッピングモールへと向かうため、駅へと歩く道筋、母の携帯が鳴った。

 それは母の昔の仕事仲間からで、その話を聞いた母は僕に近くの公園で少しだけ待つように言った。

「30分ぐらいで戻るから」

 確かにそう言った。

 でも、母は中々戻ってこなかった。

 母が約束を守らないのはいつもの事だったから、僕はそこで大人しく待った。

「遅くなってごめんね~」と言いながら母が笑顔で駆けてくるのを。

 太陽がじりじりと照り付け、次第に目の前の景色がゆがみ、ベンチに座っていることすら厳しくなって倒れこんでも、もただひたすらに待ち続けた。 

 次の記憶は、真っ白な天井と消毒液の匂い。そして聞いたことのない父の声だった。

「君が笑っているのが好きだった。だから結婚しても君の思う通りにしてきた。瑠佳ができて君が変わるかと思ったけど、君は変わらなかった。瑠佳も僕と同じで君の笑顔が好きだから、文句を言わずにいい子でいてくれていた。それに甘えていた僕も悪い。でも、それはあくまで最低限の育児をした上での話だ。瑠佳の安全と健康が保証されている時の話だ」

 父は淡々と、しかし怒りのこもった声で言い続けた。

「たまたま散歩していた老夫婦が瑠佳を見つけてくれなかったら瑠佳は死んでいたかもしれないんだ。小さな子どもは大人より熱中症になりやすい。それは君だってわかることだろう? 今日は猛暑日で大人ですら危険だ。そんな日に子供を一人公園で待たせて、自分は涼しいカフェで昔の同僚とお茶していたなんて。30分で戻る予定が、君に連絡がついたのはいつだ? 瑠佳が病院に運び込まれたと連絡を貰って僕が駆け付けた時、君はまだ病院に着いてすらいなかった。瑠佳と別れてから2時間以上経っているというのに。

 君は好きだ。でも、瑠佳を任せることはできない。離婚してくれないか」

 母はただ泣いていた。

 見たことのない母の顔にとっさとに口から嘘が漏れた。

「僕が待ってる言ったの。公園で遊んでるって。水飲み場もあるから大丈夫って。でも遊んでたら水飲むの忘れちゃったの。だから、だからお母さんを怒らないで」

 僕は母が泣いているのを見ていることができなかった。幼い僕にもわかった。父が言っていることが正しいと。きっと母は友達の母親たちとは違う。根本的に母親に向いていない。

でも、いつも笑顔でおしゃべりが大好きな母が黙って泣いている姿はどうしても見ていられなかった。

「僕はもう大丈夫だから。ね、仲直りしよう」

 まだクラクラする身体とか、ガンガンと痛む頭とかそんなものは放っておいて、無理やり身体を起こして笑った。

 それが、僕がボクを作った瞬間だった。


  *


 あの日学んだこと。それは僕に何かあれば母が責められるということ。母が自由にキラキラと輝いているためには、母が母親に向いていないことを周りに悟らせてはいけない。

 だから僕は自分の中にちょっとずつボクを作り上げていった。 

 ボクはとても優秀ないい子でなければいけない。

 教育がちゃんと行き届いている。いい母親ねって言われるように。

 間違っても、親の顔が見たい、なんて言われないように。

 成績はいつもクラストップ。だからと言ってガリ勉ではなく、適度にスポーツもこなす。でも、クラブチームに入ると送り迎えや親同士の交流で母の自由な時間が減ってしまうからあくまで平均よりちょっと上ぐらいを維持する。大好きなサッカーも好きで仕方がないと思われないように誘われたらやる、ぐらいの感覚で。

 幅広い交友関係を心掛け、男女ともに仲良くする。間違っても問題を起こして母が学校に呼び出されないように。

 あの日以来離婚話をしているところは聞いていない。

 二人だけで話していたのかもしれないけれど、少なくとも表面化することはなく、仲良くやっている。

 あの日、母が元同僚に呼び出された理由は昔やっていたモデルの仕事に復帰しないかという話だったらしく、しばらくしてから母は仕事を始めた。

 それに伴って、ボクは習い事を始めた。スイミングとそろばんとピアノ。スイミングはスクールバスのお迎え付きで親の手がかからないところ。そろばんとピアノは小学生でも歩いていける距離。

 スイミングは、めちゃくちゃ苦手だった。

 まず、根本的に水が怖い。だから全然上達しないし、息継ぎの時に水を飲んでしまうのが苦しくて仕方がなかった。

 でも行きたくないという気持ちを抑えて、ボクは笑顔で通い続けた。

 そろばんはスイミングほど嫌いではなかったけど。高学年になって友達も一人でお留守番をするようになってきて、ボクも一人で家にいても近所で何も言われなさそうになってから辞めた。

 ピアノだけはどうも性に合っていたようで続けた。

 最初は家で練習をしてこないと母が何か言われるだろうと思って練習をしていただけだった。

 ピアノ教室から帰ってから、父が買ってくれたオルガンでその日を教わったところを何度も何度も練習した。

 父も母も仕事で遅くなる時は、オルガンをヘッドホンに繋げて、近所迷惑にならないように気を付けながら夜遅くまで。

 そうしているうちにだんだんと難しい曲を弾けるようになり、ピアノの先生のレッスンも熱が入ってきた。

 母は僕のピアノにそこまで興味はなかったけれど、綺麗なスーツや衣装を着せて発表会の舞台に立たせることは楽しかったようで、ボクのピアノを褒められるととても嬉しそうに笑った。

 だからボクもピアノだけは実力をセーブしたりせずに続けることができた。

 それから料理も始めた。

 母は料理が得意ではなかったし、モデルの仕事を始めてからというもの今まで以上にスタイルを気にかけていたので、料理好きな父に習って自分でも母の好きなものを作れるように。

 別に料理自体が好きなわけではなかったけれど、父と母が美味しいと言って食べてくれるのが好きだった。

 六年生になるころには一人で夕飯を作り上げるぐらいの実力になっていた。

 得意料理は母が好きなパスタ。その日の気分でトマト系、和風、クリーム系と作り分ける。

 こんな生活に父は心配していたようだった。定期的に「瑠佳がやりたいことはないか」とか「どこがいきたいところはあるのか」とか「何か困っていることはないか」「嫌なことはないか」と聞いてくれていたけど、ピアノも料理も大好きで今の生活が幸せだと言い続けた。

 でも、何も不満を言わないと余計心配するということを知ってからは「ピアノ、もっと上手くなりたいからあの楽譜が欲しい」とか「たまにはゲームをやりたいから新作のソフトが欲しい」などとちょっとしたわがままを言うようにした。


 本当は一人でやるピアノや料理じゃなく、クラスメイトがやっているサッカーや野球といった団体競技がしたい。

 友達が自慢するような母親の手料理を自分も食べてみたい。

 家族旅行に行きたい。

 そんな「僕」の気持ちには蓋をし続けた。

 中学校に上がり、友達は部活を始めたけれど、ボクはそのままピアノを続けることにした。

 音楽は好きだ。美しいし、周りも凄いと言ってくれるし、何より母が喜んでくれるから。

 部活に入らずにピアノを続けるという選択をしたボクに父はグランドピアノを買ってくれた。書斎だった父の部屋を防音室に作り替え、いつでもピアノができる環境にしてくれた。

 この頃、父は仕事が忙しく、ボクや家の事に割く時間がなかったから、罪滅ぼしの意味もあったのかもしれない。

 母は「次のコンサートで着てね」とオーダーメイドのスーツを作ってくれた。老舗の着心地のいい艶のある濃紺のスーツ。それに合わせてハイブランドの革靴。

自分の好みより少し派手すぎるスーツを着てボクは幸せそうに笑った。

 一人で行動できる範囲が広がったこともあって、コンクールにも参加し始めた。初めてのコンクールで準優勝。母は大喜びして周りに自慢してくれた。自慢の息子であることがボクの誇りだった。

 地域のコンクールから、ピアノの先生に言われるがまま次第に大きなコンクールにも参加するようになり、電車に乗ってピアノレッスンに通うようにもなった。

 初めこそ上位入賞だったが、そんなに甘い世界なわけがない。

たまに入賞ギリギリがあるぐらいでそこまでいい成績を残すことはなく、見限られたのかだんだんとピアノのレッスンの回数も減った。

 それでも、学校一の腕であることには変わりはなく、合唱コンクールの、入学式、卒業式の学年合唱や全校合唱などではピアノ伴奏を引き受け、クラスメイトともそれなりに仲良く中学は通い切った。


  *


 高校に入るころには僕はすっかりボクになっていた。自分自身でも僕の存在を忘れてしまうぐらい。

 優しくていつも笑顔を絶やさない。頼みごとをされれば嫌な顔一つせずに引き受ける。他の人の悪口を言っているのを聞いたことがない。誰とでも仲がいい。

 ボクの評判はそんなもののように思う。

 その評判は高校生になっても大して変わらなかった。

 高校に入って変わったことは二つ。

 一つはピアノを辞めたこと。

 コンクールや発表会が減ってから、母はボクのピアノにあまり興味を示さなくなった。もともと音楽が好きだったというよりはボクを着飾るのが好きだった人だから当然と言えば当然。

 母の自慢にならない、興味のないものを続けていてもボクには何の意味もなかった。

 もう一つは親友ができたこと。

 彼は天音と言った。

 初めてのHRが終わった後の教室で彼は他の子に目もくれず、一直線にボクの下へとやってきた。

「俺天音っていうんだ。瑠佳君だよね。さっき自己紹介で名前聞いて、仲良くなりたいって思ったんだ。ほら、俺男だからさ。天音って名前揶揄われることも多くて。俺自身は気に入ってるんだけどね。瑠佳君になんとなくシンパシー感じちゃって。嫌だった?」

 進学校であるこの高校では珍しい茶髪にピアスをした生徒。まだ初日だというのにブレザーの中にパーカーを着て着崩した制服。今まであまり積極的に関わってこなかったタイプの人。

「別に嫌じゃない、けど、ちょっとびっくりしたかな。いきなりそんなこと言ってくる人いなかったから。瑠佳君ってかわいい名前だねとはよく言われるけど」

「良かった~。勢いで話しかけちゃって嫌われたらどうしようと思った。瑠佳君っていい人だね。名前も似合ってるし」

「似合ってる?」

「うん。瑠佳の瑠って瑠璃色の瑠でしょ? なんか凛としてて気品があって綺麗な感じ。入学式で遠目から見た時にすらっと背が高くて、細いけれどがっちりした体格で綺麗だなって思ったんだよね。」

「そんなこと、初めて言われた」

 いつも名前の事を言われるときは、可愛いとか女の子っぽいとか、あとは周りからの評判と相まって優等生っぽいとかそんな感じ。あとはたまに女の子っぽい名前とか嫌じゃない? とか可哀そうとか。

「凛としてる」なんて言われたことなかった。

「天音君も似合ってるね。天の音。明るくて開放的で一直線な感じ」

「でしょ! 大好きなんだ、この名前」

 名前を褒めた瞬間本当に嬉しそうに彼は笑った。

「ボクも結構好きだよ。自分の名前」

 大好きな母がつけてくれた名前。嫌いになれるわけがない。由来が母の憧れの名前ってだけでも。そこは変わらない。

「ってか、同級生なんだから天音でいいよ。俺も瑠佳って呼んでいい?」

「うん。よろしく」

 天音は本当にまっすぐな人だった。好きなことは好き、嫌いなことは嫌い。自分の感情をありのまま表現する。

 ボクとは正反対で、そのまっすぐさが気持ちよかった。

 人懐っこく距離を詰めてくる天音のおかげでボクたちはあっという間に仲良くなった。

 中学からの同級生にはボクと天音が一緒にいるのはあまりイメージと合わないみたいで、「何かされてない?」などと聞いてきたけれどあまり気にしなかった。

 高校生にもなれば親に連絡がいったり、迷惑がかかるのは成績がよっぽど悪いか、大きなトラブルでも起こしたときぐらい。

 中学の時ほど気を使わなくても生活ができた。

 天音はボクとは違ってちゃんと部活に入っていて、吹奏楽部でトランペットをやっていた。

 だから、学校にいるときはいつも一緒っていうわけではなかったけれど、部活が始まる時間まではほとんど一緒に過ごしていた。

 昼休みが始まると同時に購買にダッシュしたり、学食でお互いのメニューを頼みあったり、天音が忘れてきた宿題をこっそり写させたり、部活がない日は学校帰りにファストフード店で買い食いをしたり、カラオケに行ったり。

 今まで優等生を演じてきたボクが縁遠かった「ザ・学生生活」みたいなことをたくさんした。

 自分で作るお弁当よりもたまに食べる購買の焼きそばパンが美味しいこと。

 体育以外で運動をしてこなかった自分は体育の成績はいいが、思っていたよりも体力がないこと。

 高校生男子としては食が細い方であること。

 普通は頭が痛かったり熱があるときは解熱剤を飲んで平常を装うのではなく、学校を休むこと。

 なんなら面倒くさいからという理由でたまに学校をさぼることがあること。

 頼まれごとを断ってもそんなに気にされないこと。

 宿題を一回忘れたぐらいならどうにかなること。

 何より、あたりさわりのない友人関係じゃなく、本気で仲良くなった友達と一緒に過ごすことがこんなにも楽しいこと。

 自分の知らなかった自分の事、周りの事もいっぱい知った。

 

  *

 

「瑠佳―!」

 高校二年生に進級して一か月。放課後図書室で読書をしていたボクのもとにいつもとはちょっと違った雰囲気で天音が走ってきた。

「なに? 天音。ここ図書室だよ? 大声禁止」

「あ、ごめん。ちょっといい?」

 眉を顰めている司書さんに頭を下げて天音を図書室から連れ出す。

「瑠佳さ、ピアノやってたって言ってたよね。コンクールとかも出てたって」

「あ、うん」

 いつだったか、天音が吹奏楽部で演奏する楽譜と格闘していた時に昔ピアノをしていたことを話しつつ苦労していたリズムを教えた気がする。一瞬で譜読みをしたボクを見て「すげー」と連呼する天音にコンクールにも出たことがあると言った気も。

 いろいろ質問もされたが、あんまりその話を広げようとしないボクを見てかそれ以来その話を天音から振られたことはない。まっすぐだけどちゃんと相手を見て気遣いができる。ボクが天音と一緒にいて気が楽な理由の一つ。

「実は、お願いがあるんだけど。ピアノについての話なんだ。話だけでも聞いてくれないかな?」

 子犬みたいな表情でボクを見上げてくる天音の頼みを断るという選択肢は存在しない。

「とりあえず話だけね」

 そう言って教室へと向かう。この時間なら多分みんな下校も済んでいるし、誰もいないはずだ。

 教室についた天音はいつになく真剣な面持ちで話し出した。

「実はさっきまで部活で今年のコンクールで演奏する自由曲の話をしてたんだけど、どうしてもやりたい曲があって。でも、ほら今吹奏楽部の部員って年々減ってるじゃん?」

 進学校というだけあって部活より学業に重きを置く生徒は多い。部活も強制じゃないから、ボクみたいな帰宅部が大半を占めている。

「別に強豪校ってわけじゃないし、部員の減少はしょうがないとは思うんだけど、どうしても挑戦したい曲があって。でも今の人数だとパート足りなくて――でもどうしてもやりたくて」

 話はぐるぐるとループする。

「――一つだけ、方法があるんだ。小編成用の編曲があって、ピアノが必要な。でもうちのバンドにピアノに割く人員もそこまでの技術がある子もいなくて。で、誰かいないかって話をしてる時にうっかりと瑠佳がピアノやってたこと言っちゃって」

 叱られた子犬のようにしょぼんとした表情を見せる。ボクはこの表情に弱い。

「一緒に部活やらない? 瑠佳がピアノの事あんまり話したくないんだろうなっていうのは知ってる。でも俺、瑠佳と一緒にコンクール出たい! 何より瑠佳と一緒に演奏してみたい」

 まっすぐとボクを見つめる澄んだ目。

 ピアノは母のためにやっていたものであり、他の習い事よりも得意だったから続けていただけ。特別思い入れがあるわけでも、全く何もないわけでもない。練習はそれなりに辛かったし、挫折も経験した。楽しかった記憶もほとんどない。

 でも、天音と一緒ならまた違ったものが見えるかもしれない。

「どんな曲、やるの? できるかわかんないけど、とりあえず聴いてみる」

 ぱあーっと天音の顔が明るくなる。目がキラキラと輝きだす。

「いいの! じゃあ音楽室行こ! まだ先生いるはずだし」

 天音に背中を押されるようにして教室を出る。楽しくて仕方がない!というような様子の天音につられて思わず笑みが零れる。

「せんせー、瑠佳、連れてきたよー」

 音楽室にいたのは吹奏楽部の顧問一ノ瀬先生。教師にしては伸びすぎた黒髪がトレードマークのいまいち何を考えているかつかめない教師。

 ほかの教師のように校則にも厳しくないし、勉強勉強と口うるさくもない、音楽だけに興味があるような人。

「ほんと? よく口説き落としたな。高校二年から部活なんて」

「まだ完全に口説き落としたわけじゃないよ。とりあえず曲聴いてみたいって」

「あー、ならさっき聴いてたCDがたしかこの辺に、あった。はい」

 CDを渡された天音がスキップをしながらCDプレーヤーへと向かう。

「あの、楽譜とかってあったりしますか」

「楽譜? ピアノのパート譜ならそこの楽譜の山の中にあるはず。適当に漁って」

「あ、はい」

 指をさされたのは一ノ瀬先生の机。楽譜の山の一番上はおそらくコンクールでやりたいと先ほど天音が言っていた曲のスコア。その下に重ねられているたくさんの楽譜の中からピアノ楽譜を探し出す。

「瑠佳、だっけ。苗字は?っていうか何組?」

 ボクが答える前に天音がすかさず突っ込む。

「有村瑠佳。俺とおんなじ四組! っていうか一ノ瀬先生の授業も受けてるじゃん」

「俺、生徒の顔と名前全員分なんて覚えてないし」

「そんなこと教師が堂々と言っていいの?」

「いいんだよ。上にバレなきゃ。天音こそ、教師には敬語使えよ」

 ぽんぽんと二人は軽口をたたきあう。

 ちょうど楽譜が見つかった時、音楽が流れ始めた。

 ピアノのしっとりした音から始まる繊細で美しい曲。トランペットの華やかで豊かなソロ。そこを彩る木管楽器の連符。

 天音がどうしてもやりたいといった理由がわかる曲だった。

 曲が流れ終わっても、じっと楽譜を眺めているボクを心配そうな表情で見つめている天音はとりあえず放っておいて、一ノ瀬先生の方を向く。

「そこのピアノ、使ってもいいですか?」

「おう」

 やや驚いた表情で一ノ瀬先生は音楽室の端にあるグランドピアノの蓋を開けて弾けるようにしてくれた。

 ピアノを最後に弾いたのは一年以上前。中学の卒業式の全校合唱。高校に入ってからは何かと理由をつけて避けていた。

 楽譜を置いて、鍵盤をそっと撫でる。

 あまりいい記憶はないけれどなんだか落ち着く。

 先ほど聞いた繊細なメロディーを思い出しながら曲の冒頭を弾く。昔のように指が動かない。やっぱり思いっきりレベルが落ちている。

 何度かミスタッチをしながら切りのいいところまで演奏すると思いがけず拍手が降ってきた。

「すげーー!!! やっぱ瑠佳凄いわ! 俺、瑠佳と一緒に演奏したい!」

「お前凄いな! 今の一瞬でここまで弾けるなんて! 吹奏楽部入らん?」

 何より驚いたのはいつも静かな一ノ瀬先生が天音と同じテンションで話しかけてきたこと。その勢いにちょっぴり引きつつボクは答えた。

「でも、結構ミスタッチもしたし、指も動いてませんよ?」

「しばらく弾いてなかったんだろ? 十分だよ。それにこれから練習すればいいんだから。天音たちなんて譜読みすらこれからだぞ?」

 まっすぐにこちらを見つめてくる二人。

「練習って週何回ですか?」

「水曜と日曜以外基本毎日。うちは土曜も午前中授業ある上に部活動の時間制限されてるからあんまできないんだよな。あ、時間は授業後から六時までな」

「部費とか、他に必要なものは?」

「部費は月五千円。演奏会やコンクールは別途徴収。管楽器は揃えるものいろいろあるけど、ピアノは特になし」

「わかりました」

 月五千円ぐらいなら多分父に言ったら用意してくれる。吹奏楽部に入った、なんて言ったら驚かれそうだけど。

「え? ってことは! 瑠佳入ってくれるの!!」

「うん。天音と一緒だったら楽しそうだし」

「よっしゃあ! じゃあ、楽器庫とか案内する!」

 嬉々としてボクを連れまわそうとする天音の頭を一ノ瀬先生は軽くはたき、ボク紙を差し出す。

「先に入部届だろ、焦りすぎ」

 一ノ瀬先生は入部届の提出の仕方と、親のサインが必要なこと。練習は来週からでいいこと。などと必要なことを説明してくれた。


  *


 家に帰ると珍しく父と母が揃っていた。

「あれ、お母さん。今日から撮影で海外って言ってなかったっけ」

「瑠佳おかえり~。すっかり日程間違えちゃってて、明日からだったの。せっかく一日空いたから今は体のメンテナンス中。あ、せっかくだし今日は瑠佳のパスタ食べたいな。クリームのやつ」

 動画サイトでストレッチをしている人の動画を流しながら母はリクエストしてきた。

「いいよ。鶏肉とブロッコリーでいい?」

 冷蔵庫の中身を確認しながら答えると「最高~」という声が返ってきた。

「お父さん仕事は?」

 続いてリビングで本を読んでいる父に話しかける。

「今日は早めに上がれたから、僕がご飯作ろうと思ってたんだけど、どうやら瑠佳の料理がお望みのようでね」

「そっか。そうだ、これ、サイン欲しいんだけど」

 先ほど一ノ瀬先生から渡された入部届を差し出す。

 部活動名の欄には吹奏楽部。氏名の欄には有村瑠佳の文字が並ぶ。

「瑠佳、吹奏楽部に入るのか?」

「うん。友達が吹奏楽部で」

「そうか。そういえば瑠佳から友達の話最近聞いてないな」

 父はサラサラと保護者氏名の欄にサインをして印鑑を押してくれた。

「最近お父さん、仕事忙しかったから。――部活始まったら今までみたいに早く帰ってこれないから夕飯作るの遅くなるけどいい?」

「ん? 最近瑠佳に頼りっきりだったからね。僕もできるだけ早く帰って作るように――」

「ええ~瑠佳のご飯の日減っちゃうの?」

 父の言葉を遮るようにして母の声が飛んでくる。

 母の顔にはわかりやすく「不満です!」と書いてある。

「じゃあ、お母さんがいる日は僕が作るようにするよ。お母さんが撮影で遅い日とか、泊りの時はお父さんにお願いしてもいい?」

 長年この家で過ごしてきたボクはこういう言い方をすれば母も喜ぶし、父も気に病まないことを知っている。

「やった! 瑠佳のご飯、美味しいんだもん」

 その日作った鶏肉とブロッコリーのクリームパスタは上出来で、母はにこにこと美味しそうに食べてくれた。


  *


「有村瑠佳。二年四組です。小学一年生から中学三年までピアノやってました。一年ちょっとブランクがありますが頑張ります」

 吹奏楽部の部員約30名が集まった音楽室で自己紹介をする。

 メンバーについては昨日、天音から事前にざっと説明を受けた。

「三年は受験があるからって辞めちゃう先輩が多くて、今5人。二年は俺入れて13人。一年は9人。だから全体で27人。で、瑠佳が28人目。みんなはある程度瑠佳のこと知ってると思うよ。俺の親友が~ってよく話してるから」

 高校二年の途中で入部という中途半端なボクのことをみんな温かく迎えてくれた。

 後に、天音が「めっちゃいいやつだからよろしく!」と事前に言いまくっていたことを聞いた。

 初めてちゃんとやる団体競技は、慣れないことだらけで、音楽だけじゃなく、呼吸練習や腹筋、走り込みなど天音に教わりながらこなした。 

 もともと、周りの空気を読んで周りに合わせるのは得意だったし、すぐに馴染めた、と思う。

 今までも部活以外の時間は天音とほぼ一緒にいたのが、同じ部活に入ることによってより天音といる時間は増え、部活が休みの日も天音の家に行ってくだらない話をしたりゲームをしたりするよになった。

 あっという間に二カ月が経った夏休み目前、コンクールのための練習も本格的になってきたころ、つい数か月前に見たような顔で天音が駆けてきた。

「瑠佳ー!」

「今度はどうしたの?なんかあった?」

 聞いたとたんに天音の顔は泣きそうな表情へと変わる。

「冒頭のソロ、上手くできない」

 コンクール曲の冒頭はピアノから始まり、トランペットのソロへと続く。トランペットの先輩は受験のためにボクが入部する前に引退してしまったようで天音に白羽の矢が立ったらしい。

「来週頭に一ノ瀬先生に見せる約束してるんだけど、部活の時間だけじゃ足りなくて、自主練したいんだけど付き合ってくれない?」

 普段は温厚というか、眠そうというか、あんまり人に興味がない一ノ瀬先生は音楽の事となるとめちゃくちゃ厳しい。

「いいけど、どこでやるの?音楽室って部活の時以外使えないよね。学校厳しいから部活の居残りとかできないし」

「あー、そうだった。どうしよ。公園とかでもいいけど出来たらピアノと合わせたいんだよね」

 頭の中に一つの選択肢が浮かぶ。

 ボクの家の防音室ならピアノもあるし、トランペットも吹ける。でも、天音の前で家の話や家族の話はしたことがない。

「……うち、来る?ピアノも防音室もあるけど」

「え、いいの!」

 天音のこの笑顔が見れるなら、家に招待するぐらいしてあげたいと思う。

 それに、きっと天音はボクが聞かれたくないことには突っ込んでこない。

 天音がボクの家にやってきたのはその週の日曜日だった。

「お邪魔しまーす」

 天音を出迎えたのはボクと仕事に行こうとしていた母。

 ミニ丈のスカートにシャツという露出多めな格好で出迎えた母に驚いた様子だったけれど、天音は何も言わないでいてくれた。

「瑠佳のお友達? 可愛い子じゃない! これからお仕事じゃなかったらいろいろお話したかったのに。あ、瑠佳今日の夜ご飯はさっぱりしたものがいいな」

「うん、わかった。スマホと財布持った?今日仕事で使うって昨日言ってたリップは?」

「あ、忘れた!私の部屋のドレッサーの上」

「ちょっと待ってて」

 階段を駆け上がって母の部屋へと急ぐ。ドレッサーの上に置いてある綺麗な彫刻が入ったリップを持って玄関へと戻る。

「はい、これだよね。ほらマネージャーさん来るよ」

「はあい。瑠佳、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

「――嵐のような人だね」

「うん。さ、練習しよう。上がって」

 防音室で二人きりでした練習はとても充実していた。


  *


「だいぶ上手くなったじゃん。土曜日に練習してるのを聞いたときはやばいと思ったけど」

 一ノ瀬先生に褒められて天音はちょっと恥ずかしそうに笑った。

「あとは、瑠佳だな」

「え? 先生、瑠佳のピアノにミスはなかったと思うけど」

「確かにミスはない。楽譜通りっていうか、楽譜まんまなんだよ。瑠佳らしさとかないんだよな。特に冒頭はソロなんだからもっと自由に」

「自由……?」

 今まで自由に弾けなんて言われたことはなかった。楽譜に忠実に、楽譜の奴隷になって。いかにミスタッチをしないか、そういうことばかり言われてきた。

「そう。音楽は自由なもんなんだから。あと瑠佳はもっと音楽を楽しめ。今のままじゃ音源流してるのと変わんないよ」

「はい――」


  *


「はい。オレンジでいい?」

 ぼーっと楽譜を眺めていたらいつの間にか天音が飲み物片手に目の前に立っていた。

「ありがとう」

 プシュッとペットボトルの蓋を開け炭酸入りのレンジジュースを喉に流し込む。思っていたよりも喉は乾いていたようでぐびぐびと進む。

「ボクさ、今まで自由に演奏ってしたことがないんだ」

 ぽつり、とずっと閊えていたものを溢す。

「一ノ瀬先生は自分らしくとか、自分を表現しろって言ってたけど、音楽どころかそれ以外でもボクらしさっていまいちわからない」

 だって僕自身はとっくの昔にどこかへ仕舞ってしまった。

 今のボクは周りの目とか評判とか母のためとか、そういったもので塗り固めて作り上げたニセモノだ。

「ずっと優等生でいたから。自分で何か決めたのも吹奏楽部に入るってときぐらいで、あとは周りの顔色伺って、周りに流されて生きてきた。だからボクは僕がわからない」

 ぽつぽつと今まで誰にも言えなかったことを口に出す。

 すると突然天音が話し出した。

「飲み物はコーラやサイダーより、オレンジやリンゴジュースが好き。なのに甘いお菓子はあんまり好きじゃなくてブラックコーヒーとか苦めのものが好き。自分でも知らなかったみたいだけど実は辛いものが得意。歌うのが好きで、ハイトーンボイスが出せる。喉が強くて迫力のある女性ボーカルの曲が上手い。綺麗に歌い終わるとちょっとどや顔する。誰とでも仲良くしている風だけど、本当は人見知りで、特に女子としゃべるのが苦手。男子と軽口をたたいたりするのは結構好き。課題とかちゃんとしようとしてるし、俺みたいにさぼったりしないけど時々抜けてる。やらかして落ち込むと、ほんと、地の底かっていうぐらい深く沈む。基本ネガティブ思考。いつも笑顔だけど一人の時とか、気が抜けてるときはぼーっと宙を見つめてることが多い。

 お母さんの前では学校とちょっと違う雰囲気になる。家の中では防音室を除いて、あんまり居心地よさそうじゃなかった。でも防音室とピアノ、褒めた時はお父さんが買ってくれたって嬉しそうに笑ってた。瑠佳の作ってくれたチャーハン、めっちゃ美味しかったし、しかも俺好みにその場で味付けしてくれて、その気遣いが何より嬉しかった。

 あと、自惚れかもしれないけど、俺といるときはちゃんと笑ってくれてる気がする。

どう? これでもまだ何もわかんない?」

 開いている窓からふわっと風が吹いてくる。カーテンが風で膨らんでパタパタと揺れる。

「俺が知っているのは、この一年ちょっとの瑠佳だけだ。その前の事とか知らないし、周りばっかり気にして塗り固めたニセモノっていうのも半分ぐらいはそうなのかもしれない。でも、周りを気にして、優等生になるための技術も瑠佳のものだし、全部が全部ニセモノなんかじゃないと思う。自分で気づいてないだけ」

 何も言えずに固まっているボクに優しく微笑んで天音は続ける。

「それにさ、別にわかんなくてもいいんじゃない。自分がわかんないって思いながら、それでも表現しようとすればそれが瑠佳らしさになる。それに瑠佳がわかんなくても俺は瑠佳の事いっぱい知ってるから、だからうまく言えないけどさ。大丈夫」

 僕はお母さんを泣かせた僕が嫌いで、なのに作り上げたボクも好きになれなくて。

ボクでありながら、本当はこれは自分じゃないってずっとどこかで思ってた。

 僕のことなんてどこかに仕舞い込んだ、忘れたなんて言いながら全然忘れられなかった。

 僕とボクの差に苦しんで、誰にも言えなくて、なら僕がいなければ完璧なボクになれると信じて僕を消したふりをしていた。

 でも、ボクを作りあげて約10年。

 ボクは、もう僕の一部だ。

 両方ひっくるめて自分自身。

 有村瑠佳。

 すとんと何か胸のつかえがとれた気がした。

「ピアノ、弾きたいな。今度は僕の練習、付き合ってくれる?」

 天音をまっすぐ見つめて笑って見せる。いつもの作られた笑顔ではなく、ぎこちなくて下手くそだけど心からの笑顔で。

「うん。いくらでも付き合うよ」


  *


 合奏終わり、めったに自分からは話しかけてこない一ノ瀬先生が珍しく声をかけに来た。

「音、変わったな」

 さっと血の気が引く。今日の合奏はミスタッチを連発した。今までそんなこと全くなかったのに。

「あ、すみません。ミスばっかりで、明日は――」

 僕の話を遮って一ノ瀬先生は続けた。

「めっちゃよかったよ。確かにミスは多かったけど、それでも、なんていうか、生き生きしてた。前みたいにミスなく完璧な音より、ミスがあっても今日みたいな方が俺は好き」

 言いたいことだけ言って、一ノ瀬先生は僕の返答も聞かずに音楽室を出ていった。

 それを聞いていた天音が「よかったじゃん」というように小突いてきたから軽くはたき返しておいた。

 コンクールまであと三日のことだった。


  *

 

 西日が眩しい夕暮れ。

 とぼとぼと、通常の倍ぐらいの時間をかけてホールからの帰り道を歩く。

 コンクールは地区大会敗退で幕を閉じた。

 先輩たちは泣いていたし、天音の目も潤んでいた。

 一ノ瀬先生は「俺はお前らの音楽好きだけどな」とだけ言っていた。

「悔しいな。俺、まだまだ演奏したかった」

 天音が少し震えた声で言った。

「僕も、もう一度ホールで演奏したかった」

 心に渦巻いていた気持ちを吐露すると自然に涙が溢れる。

 僕は天音の前で、ボクを作って以降初めて泣いた。

 泣くのが久しぶりすぎて、泣き方すら忘れて下手くそに泣く僕に何も言わずに、天音は一緒に泣いてくれた。


  *


 翌朝。授業の前に音楽室によると、そこには目の腫れた天音といつも通りの一ノ瀬先生がいた。

「おまえら、何辛気臭い顔してんの。文化祭に定期演奏会にまだまだやること山積みなんだけど。ほら、ピアノ入りのビックバンドの曲いくつか見繕っといたから。あとみんながやりたいって言ってた曲、ピアノ入れて編曲中」

「え――」

 当たり前のように僕を入れて今後の話を進める一ノ瀬先生に呆然とする。

「何、続けないの?吹奏楽」

「続け、たいです」

「ん。ならちょっと相談乗って。ここのピアノのパートなんだけど」

 ガサゴソと楽譜の束から目当てのものを引っ張り出して一ノ瀬先生は編曲についての話を進める。

 これからの吹奏楽部の中に僕がちゃんと入っていることに口角が上がるのを抑えきれない。

 それを見てにやにやと笑う天音が視界に入る。

 あとでひっぱたく、と心に決めて僕は一ノ瀬先生の話に集中した。

 

  *


 それからというもの、僕は演奏だけでなく、編曲にも携わるようになって、一ノ瀬先生からいろいろと教わりながら楽譜を書くようになった。

 基本のルールさえ守れば自由にやっても美しく、多彩に変化する音楽にどんどん魅了され、気が付くと一人で編曲もこなせるようになった。

 文化祭と定期演奏会が過ぎ、残っていた三年生も正式に引退をして、新入生が入部したころ、目の前に立ち塞がったのは進路の壁。

 高校は担任に進められるがまま選んだ僕だ。進路なんて決まっているわけがない

 天音はなんとなく、東京の私大とだけ言っていた。ある程度頑張って、行けそうなところに行くと。

 やりたいこと。学びたいこと。なりたいもの。

 ぐるぐると頭の中で思考する。

 一つだけ浮かんできたのは、音楽だった。

 吹奏楽部に入って知った音楽の魅力。編曲や創作、そういったことについてもっと学んでみたい。

 それを聞くのに適任なのは一ノ瀬先生しかいない。

 意を決して僕は音楽室へと向かった。

 音楽室の重たい扉を開け、いつものように眠たそうな表情で机に向かっている一ノ瀬先生に声をかける。

「進路?それ、相談相手俺でいいやつ? ふーんなるほどね。音楽について学びたい、か。なら音大の作曲科とかかな。レベルの高いもの学びたいなら東京行くべきだよ。瑠佳のピアノの技術があれば実技はどうにかなるし、耳もいいから聴音も大丈夫。座学は俺が教えられる。あとネックなのは上京を許してくれるかってことと学費がバカ高いぐらい?」

 一ノ瀬先生の反応はざっとこんな感じだった。

 学費はどうにかなると思う。

 母は未だに人気のモデルだし、最近ではドラマにも出ている。父もそれなりに稼いでいるし、なにより、多分普段頼みごとをしないボクが頼めば出してくれる。

 問題は家を出ること。

 母がどんな顔をするか、それだけが心配だった。

 自分のことが第一優先だけれど、ボクのことを本気で愛してくれている母が、あの家からボクがいなくなることにどんな反応をするのか。

 快く送り出してくれても、引き止められても複雑な感情になることだけは想像できた。

 でも、僕は家を出るべきだと思う。

 あの家にいると、僕はボクを演じてしまう。

 天音とか、一ノ瀬先生の前ならだいぶ何も考えずに素でいられるようになったけど、あの家ではまだボクの仮面を被ることを辞められない。

 辞めたくても辞められないのなら、離れるしかない。

「東京の音大に行きたい」

 それは僕の意志だから、自分自身でちゃんと伝えるしかないのだ。

 きっと僕はボクを捨てられない。

 あの日、ボクを作り上げた日から、染みついたものとはそう簡単には決別できない。

 ならば、ここにボクを置いていくために。

 僕の未来を生きていくために。

 僕自身で一歩踏み出さなければ行けないのだ。


  *


 風に乗った薄紅色の小さな花びらがくるくると舞う。

 三年前、この高校に入学した時には思ってもみなかった日々をここで過ごした。

 親友と出会い、音楽と出会い、僕自身と出会った。

 そんな三年間のすべてを音に込めて、ピアノを奏でる。

 曲は、僕が吹奏楽部に入るきっかけとなったコンクールの自由曲。

 冒頭はしっとりした柔らかいピアノソロ。そこに華やかな天音のトランペットが加わる。

 この吹奏楽部でする最後の演奏。

 大きなホールでも、たくさんの観客がいるわけでもないいつもの音楽室。

 窓から通り抜ける風が気持ちのいい穏やかな午後。

 目を閉じて天高く響いた最後の一音を全身で感じる。

 張り詰めた静寂。

 そっと目を開くと天音と目が合った。 

 自然と、笑みが零れた。

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