第54話

 昨日の雨は、俺達が電車に乗った時点で止んでいた。以降は晴れで、今日は昨日の天気が嘘かと思う程良い天気だった。あと数十分ほど校内で時間を潰していれば濡れずに済んだのに、何とも運がない事だ。


 ──いや、まあ、あれはあれでよかったのかな。


 相合傘をしている過程で、祈織いのりの思わぬ本音が聞けた。それを聞いた事で、今の自分がどれだけ恵まれているのかを改めて自覚できたのは大きい。

 祈織と出会って、同じクラスになって、こうして付き合って。当たり前の日常だけど、その当たり前を忘れてはいけないんだなぁと思うのだった。


「気持ちいいくらい晴れてるね。昨日はあんなに雨凄かったのに」


 昼休みに祈織と校庭のベンチに腰掛けていると、彼女が空を見上げて言った。


「ほんとにな。濡れ損だ」


 俺は自分のブレザーの左肩をちらりと見て嘆息する。昨日濡れた左肩の部分は一日で乾ききらず、未だうっすら湿っているのだ。


「それは麻貴あさきくんが悪いよ。そんなに濡れてるって思わなかったんだもん」

「まぁ、昨日持ってきてたビニール傘ちょっと小さかったしな」


 六十五センチサイズのジャンプ傘にしなかったのを後悔した程だった。

 しかし、六十五センチのジャンプ傘はそこそこ高い上に、学校の傘立てに立てておくとパクられる率が高い。百均の傘ならパクられてもノーダメージなのだが、六十五センチ傘はパクられた時の精神的ダメージが半端ないのである。


「じゃあ、今度は私の傘でしようよ、相合傘。あの傘、大きいんだよ?」

「ええ、あの花柄の可愛い傘を俺が持つのか?」

「うん。だって、麻貴くんの方が背が高いから」


 私が持つと腕が疲れちゃう、と祈織が付け足した。


「それと……腕も組めないし」

「そっちが目的だろ」

「バレた?」

「バレバレだ」


 えへへ、と祈織が嬉しそうに笑った。

 また周囲から聞かれたら糖分がどうの糖尿病がどうのだという様な会話をしながら、祈織の作ってくれた弁当を開ける。

 今日も色とりどりのメニューで、どれから食べようか迷ってしまう程だ。


「今日のお弁当、結構気合入れたんだ~」

「確かに」


 いつもよりおかずが多い気がする。


「何で?」

「え? えっと……もうちょっと頑張ろうかなって思って」


 祈織は少し口ごもってそう言うと、その先の追及を逃れる様にして、「いただきます」と手を合わせた。


 ──別に、これ以上頑張らなくても良いんだけどなぁ。


 俺はそう思いながらも祈織と同じく手を合わせて、早速お弁当に箸を伸ばす。

 おかずひとつひとつが丁寧に作り込まれていて、愛を感じるお弁当だった。尤も、冷凍食品が混ざっていても俺は有り難がって食するのだろうけど、それはもう作って頂いている事への感謝だ。


「ねえ、麻貴くん」

「うん?」

「おかず、交換しようよ」


 祈織が自分のお弁当から卵焼きを箸で取って、俺の方へと向ける。


「交換って……」


 どっちも中身は同じなんだけど。っていうかむしろどっちもあなたが作ったものだから味付けも全て知り尽くしていると思うのだけれど。


「はい、あーん」


 卵焼きを落とさない様に掬うように手で下を覆って、俺の顔に卵焼きを寄せてくる。どうやら、この『あーん』をやりたかったらしい。

 俺は心の中で小さく溜め息を吐いて、口を開けた。

 すると、祈織はそこに遠慮がちにそっと卵焼きを置いて、箸だけすっと抜く。口の中に置かれた卵焼きをそのまま咀嚼して、ごくりと飲み込んだ。


「どう?」

「美味しいよ」


 というか、さっき食べた卵焼きと同じ味だ。いや、どっちの弁当箱も作り手が同じだから、当たり前の事ではあるのだが。


「はい、じゃあ次は私の番だよっ」


 言いながら、祈織は口をこちらに向けて、あーんと開けた。


「へ?」

「へ、じゃないよ。私もあげたんだから、麻貴くんのお弁当どれか欲しいなぁ」

「えっと……じゃあ──」

「あ、ブロッコリーはダメだよ?」


 その言葉に、思わず箸がびくっと停まる。どうやら俺の作戦──大きめの茹でブロッコリーをいきなり口に突っ込んでびっくりさせようというもの──はお見通しだった様だ。

 仕方なしに彼女が作ったお弁当から彼女の作った卵焼きを取って、そっと彼女の口元まで運んでやる。

 祈織ははふっとそれを口で可愛く食べると、幸せそうにもぐもぐと食べていた。


「……おいしっ」


 そして、幸せそうな笑みを浮かべて、そう言うのだった。


「いや、これ作ったの祈織じゃないか」

「うん、だから美味しいなって」

「おい」

「あははっ、冗談冗談」


 祈織は可笑しそうに笑ってから、ハンカチでそっと自分の口元を拭った。


「でも、不思議だなぁ」

「……何が?」

「味付けも食感も全部知ってるはずなのに、好きな人から食べさせてもらうだけで、何だか別の隠し味がついたみたいに、もっと美味しくなっちゃう。こんな味付け、私はしてないのにね?」


 ちらりとこちらを見て、どこか嬉しそうに目を細める祈織。

 そんな彼女を見ていると、思わず胸が締め付けられた。


「まあ、それは……わかる気がする」


 自分で食べるのと、誰かに食べさせてもらうのは、恥ずかしさも相まってか、味が変わる気がするのだ。


「じゃあ、全部食べさせ合いっこしよ?」

「それはやだよ! 恥ずかしいだろ」

「えー? そんな事ないのに」

「そんな事ある!」


 俺達の昼休みは相変わらず穏やかであってちょっと穏やかでなくて、それでいて少し刺激的で、ちょっと甘酸っぱい。ゴールデンウイーク前の昼休も楽しかった。

 ちなみに、このやり取りを偶然目にした生徒達が糖分過多による吐き気を訴えたそうであるが、それは俺の知った事ではない。

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