第55話
「ねえ、ジャージ貸して?」
六限の体育の授業の着替えが終わり、体育館に移動している最中だった。祈織が唐突に俺の新しいジャージを見て言った。
「え? いいけど……忘れたのか?」
ふと祈織を見てみると、彼女は下はハーフパンツで上はシャツのみだ。
「上着のジャージ、お母さんが昨日間違えて洗っちゃって……」
乾かなかったの、と祈織が付け足した。
「あー、なるほど。じゃあ仕方ないな。どうぞ」
俺はジャージを脱いで祈織に渡すと、彼女は「やった!」と小さくガッツポーズをしてからそれを受け取った。
俺が貸した理由は、まあ正直別のところにある。
今日の体育は体育館で男子はバスケ、女子がバレーと男女が同じ空間で行われる。女子と一緒の空間で体育が行われる際、当然男子は女子のプレイを見る。スポーツ観戦的な意味ではなく、下心的な意味で。
そんな時に、あの
無論、祈織はおっぱいが大きいとかそういうタイプではないので、たゆんたゆん揺れるところを見られるわけではない。しかし、シャツだけだとブラの肩紐や背中のホックが浮いてしまうし、当然前方の方の控えめな膨らみも男ならば見るだろう。
俺はそれが許せないのである。他の男子からは不評だろうが、彼氏としては当然の対応だ。彼女のそれらを見ていいのも、触れていいのも彼氏だけの特権である。
まあ、結局夏になったら半袖姿は見られてしまうのだけど、それまでの抵抗である。
「あ、やっぱりぶかぶかー」
祈織はそんな俺の気もしらず、俺のジャージを羽織ると、何故か嬉しそうにそう言った。
「まあ、そりゃそうだろ。お前細いし」
彼女は女子の中でも華奢な方だ。身長は一六〇くらいだが、肩幅や骨格などはモデルかと思うくらいに細い。
「そんな事ないって。普通だよ? ダイエットとかもしてないし」
祈織は首を傾げてこう言っているが、スモモあたりが聞いていれば、おそらくブチ切れているのは間違いないだろう。そして、後半部分を聞けばきっと、スモモ以外の女子でもブチ切れるのは簡単に予測できた。
彼女はもともと骨格が細いのに加えて、小食なのでダイエットの必要性がないだけなのである。
「あ、新品の匂いがするー」
祈織は俺のジャージの袖や襟をくんくんと嗅いで、ちょっとだけ嬉しそうに言った。
「まあ、実際新品だしな。てか俺もさっき初めて羽織ったし」
「やった、ほぼお初だ! ちゃんと私の匂いたくさんこすりつけておくね」
祈織は言いながら自分の体にこすりつける様に、ジャージをすりすりと手で擦った。
「電柱にマーキングする犬かお前は」
こんな事を言っているが、もっと擦りつけてくれと思っていたのは言うまでもない。
「えへへ。ごろごろ~」
「それは猫な」
猫みたいにごろごろ言い始めたので、喉を軽く指で擽ってやると、身を捩って逃げていた。
移動教室中にこんな事をやっていると色んな人から睨まれているのだが、祈織ちゃん風神雷神事件の御蔭か、何かを言われたりやられたりする事はなくなった。なんだかんだ祈織の御蔭で、いちゃつきに歯止めが利かなくなっている気がしなくもないが、気にしない。
ジャージが新しくなった理由は言うまでもなく、先日の大事故で俺のジャージは破れてしまった事だ。
祈織に応急処置で縫ってもらったものの、いつまた破れるかわかったものではなかったので、親に言って新しいものを買ってもらったのだ。
それが昨日ようやく届いて、早速今日の体育から着ようとなったのだ。
「じゃあ、また後でね」
「おう」
体育館に入ると、女子は舞台側へ、男子はその反対側のコートへと集まる。
「あれー? いのちゃん、なんか今日ジャージおっきくない?」
女子のコートでは、早速スモモから祈織が絡まれていた。
確かに、こうして遠目に見て他の女子と見比べてみると、ジャージのだぼだぼっぷりが目立っていた。
「あ、うん。忘れちゃったから、麻貴くんの借りたんだー」
「また惚気かよ!」
「えへへ、いいでしょ?」
「隠す気もなしかよ!」
祈織の周りには女子が集まってきゃっきゃしている。
そんなやり取りが反対側のコートで繰り広げられていている反面、男子側のコートでは俺の方に突き刺さる冷たい視線の数々。
「
「おのれ、男の敵だ! 許せん!」
「ほう? まあ、そうやって俺の事を敵視するのもいいけど、またあんな事やったら祈織がキレて恐ろしい事になるぜ?」
彼女の権力(?)を盾に、男子達にずいっと前に出る俺。そして、ぐぬぬと歯を喰いしばる男子達。
なんともしょうもない争いを今日もしているのだった。
「麻貴くん!」
ふとそんなやり取りをしていると、祈織が体育館を二分する緑色の大きなネット──ボールが反対側のコートに飛んで行かない様に天井から全体に吊るされている──越しに俺を呼んだ。
俺のジャージを萌え袖にして、手で俺を招く様にくいくいとしている。
「ん?」
駆け寄ってネットに手を掛けると、祈織がネット越しに俺の手の上に自分の手を重ねて、ぎゅっと指を絡ませる。
俺が首を傾げていると、祈織がにこっと笑って「なんでもないっ」と言って振り返ってバレーボールコートの方へと戻って行った。
「……何でもないなら呼ぶなよ」
ネット越しに重なった手を見て、思わず苦笑が漏れた。
そして、突き刺さる様な冷たい視線を背中に浴びるのだった。
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