第52話

「ぶはーっ……死ぬ」


 廊下の壁にもたれかかりながら、ぐったりとする体をずるずると引きずる。

 今回の体育は地獄だった。

 先週の体育で大きな事故──例の祈織ちゃん風神雷神事件を引き起こしたそれである──を起こした戒めとして、何故か男子だけ永遠と長距離走をさせられる事になったのだ。監督不行き届きの教師にも責任があるとして、体育教師もひーひー言いながら一緒に走っていた。

 それは良いとして、完全な被害者だった俺が走らされているのは可笑しくないか? しかも、事故を起こした奴等は怪我をしているので見学だ。何だか俺だけ一方的に損をしている様な気がしなくもない。

 首に垂れる汗を襟で拭いて、もう一度大きく息を吐く。

 すると、ふわりと鼻先を良い匂いが擽った。


「お疲れ、麻貴あさきくん。走ってたねー」


 くすくすと笑っているのは、我が恋人こと天枷祈織あまかせ いのりだ。

 彼女も同じく体育だったので、体操着のジャージ姿だ。普段はあまりしないポニーテールなので、印象が随分と異なる。そして可愛い。

 何故彼女は体育後でも良い匂いなのだろうか。不思議でならなかった。体臭?


「ほんとだよ……明らかに俺が走らされるのはおかしいだろ」

「だから、暫く怪我を理由に体育休めばよかったのにー」


 祈織が呆れた様に笑って、いつもの様に俺の方に歩み寄ってきたので、俺は思わず一歩後ずさった。


「……? どうしたの?」


 俺が距離を置くとは思っていなかったのだろう。祈織が怪訝そうに首を傾げた。


「いや、俺今汗だくだからさ。臭いかもしれないし」

「えー? そんな事ないと思うけどなぁ」


 祈織は気にせず、俺が後ずさった分だけ歩み寄ってきて、首元をくんくんと嗅いだ。


「汗臭くなんてないよ?」

「いや、嘘だろ。そんな近付いたら絶対臭いって」

「臭くないよー。それに私、麻貴くんの汗の臭いも好きだよ?」

「す、好きって……って、ちょっと待った。そんな汗臭かった事ってあったっけ⁉」


 汗の臭いが好きというパワーワードで聞き逃しそうになったが、汗臭かった事があったという事実にショックを受けた。

 祈織と付き合い始めたのは二月だ。それ以降今月まで汗だくになる事もなかったはずだし、体育のある日などは気を付けていたつもりだった。


「えっと……」


 俺の質問に、祈織が顔を赤くする。

 え、何故その質問でお前が恥ずかしがるんだ?


「その……お泊りした時、とか」


 小さくぽそりと言った彼女の言葉でそれがいつだったのかを把握し、同時に俺も顔が熱くなった。

 そういえば、あの時は汗だくだった。いや、汗だくにもなるだろう、あんな事をすれば。


 ──って、学校の廊下でなんちゅー事を言うんだよ、お前は!


 慌てて周囲を見て、誰かに聞かれていないかを探る。

 幸い、周囲に人はいなかったので、ほっと胸を撫でおろした。


「あ、あの! ちょっと待ってて」


 祈織も恥ずかしくなったのか、それだけ言って、教室へとぱたぱたと走って行った。かと思えば、すぐに戻ってきた。

 そして、手にはVIOREと書かれたパウダーシートがある。


「そんなに気になるなら、これ使う……?」

「あ、いいの? めちゃくちゃ助かる!」


 彼女からパウダーシートを一枚貰って、そのまま首筋や顔などを拭いていく。

 その時、柔らかい香りがして、ふと気付く。


 ──あ、祈織と同じ匂いだ。


 祈織も体育の授業が終わった後に、すぐに拭いたのだろう。俺の顔や首、腕などからも彼女と同じ香りが漂っていた。

 そう思った時、ふと祈織を見ると、彼女は何故か嬉しそうにはにかんでいる。


「どうした?」

「んーん。今、私達一緒の匂いしてるんだなって思うと、何だか嬉しくて」


 きっと祈織は悪気なく言ったのだろう。

 ただ、彼女が何気なく発したその言葉と、同じ事を考えていたのが妙に嬉しくて、気恥ずかしい気分になってくる。


「あ、じゃあ私もそろそろ着替えてくるね?」

「お、おう」


 祈織はもう一枚パウダーシートを取り出してそれを俺に手渡すと、くすっと笑って小さく手を振り、教室へと入っていく。


 ──何だか、こういうのって良いよなぁ。


 手元にあるパウダーシートは、決して特別なものではない。それこそコンビニで売っているような、誰でも手に入るものだ。

 それなのに、そんなパウダーシートが特別なものとなって、新しい青春を刻んでくれる。

 祈織といちゃつくのも好きだけれど、こんな何気ないひと時も大切なのだな、と改めて実感させられるのだった。

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