第31話

 薬品の臭いが鼻孔を遠慮なく貫いてくるので、無意識に顔を顰めてしまう。

 いくつになっても保健室の薬品臭さには慣れない。色んな薬品の臭いが混ざっていて、鼻がおかしくなってしまいそうだ。


「……痛い?」


 そんな保健室の中で、祈織いのりが心配そうな顔をしながら、軟膏薬を俺の腕に塗っていた。


「全然大丈夫だよ。滲みるけど、擦り傷とか切り傷ばっかだから」


 前腕から肘にかけて皮膚が掠れて、出血している。見掛けは結構痛々しいのだけれど、痛み自体はそれほどなかった。消毒液を塗られた時は痛かったが、今はぴりぴり滲みる程度で、強い痛みがあるわけではない。

 それに、中学の時にやっていた部活──柔道──が怪我の多いスポーツだった事もあって、これくらいだと大した怪我だと思わなくなった。脱臼・骨折・肉離れ等が誰にでも起こり得るスポーツなのだ。

 それに比べれば、この程度の切り傷擦り傷など大した怪我ではない。せいぜい風呂の時に痛いぐらいだ。

 ちなみに、数人の男達に突っ込まれたのにも関わらず、俺の怪我が軽いのも、その柔道で鍛えられた体捌きによるところが大きい。突っ込んでくる男達に体捌きを用いたり、手で避けたりして男達の重心をずらし、衝撃を逃したのだ。結局押し倒されてはしまったけれど、それも体を流しつつ受け身を取っているので、大した痛みはなかった。

 この切り傷と擦り傷は、その後上に崩れかかってきた奴の靴が当たって皮膚を抉られた時にできたものだ。実際には背中も強く踏まれてもいるので、切り傷擦り傷以外に内出血もしている。

 ただ、捻挫等の怪我は一切ない。怪我をしない為の訓練を中学時代に積んだ御陰だった。


「これだけ広範囲で怪我してたら、とても大丈夫には見えないよ。背中もだよね?」


 軟膏を塗り終えてから腕の傷に丁寧にガーゼを被せると、祈織は重ねて訊いた。


「あ、うん」

「背中、出して」

「は、はい……」


 少し機嫌の悪い祈織の前に、タジタジの俺である。

 体操着のシャツを脱いで背中を向けると、「こっちも十分ひどいよ……」と祈織が呟き、大きく溜め息を吐いていた。

 そのまま彼女は腕の傷と同じく、消毒液を塗って乾かしてから、保健の先生から渡された軟膏薬を傷口に広く塗っていく。

 遠慮がちに薬を塗る祈織の指が、くすぐったいんだか痛いんだか何とも判断しにくい感覚だった。ちなみに、体を捩ると「じっとして」と怒られた。いつも優しい祈織だが、今日は怖いので、素直に従う事にしている。

 ちなみに、今この保健室に先生はいない。祈織は保健の先生の代わりに傷の手当てをしてくれているのだ。

 四限目の体育は、バカ共による大事故のせいで、早めに切り上げられた。

 衝突事故の爆心地にいた俺は、意外にも軽傷だ。

 しかし、他の連中は何人か重めの怪我をしていた。俺に投げ飛ばされた奴──投げ技による怪我ではなく、投げ飛ばされて体勢が悪いところにバカ共が突っ込んできたのが怪我の原因だ──や、先頭に突っ込んできた奴、その後ろにいた奴の計三人が、捻挫や骨折の可能性があるほどの怪我を負ったのだ。

 保健の先生と体育教師がそれぞれ車を出して、その連中を病院に連れて行っている。今、この部屋に保健教師がいないのはその為だ。今回の一件は体育教師に監督不行き届きの責任が問われそうであるが、俺の知った事ではない。一番の被害者は確実に俺なのである。せいぜい反省して欲しい。

 他にも二人程怪我をした奴はいたけれど、そいつらも俺と同じく軽傷だったので、保健室には来なかった。いや、正確に言うと、保健室に来れなかったのだろう。

 そう……バカ共による大事故の他に、実はそれに次ぐ事件が起こったのだ。

 あのサッカー衝突事故が起こって、グラウンドは騒然となった。

 そんな中、祈織は女子のいたグラウンドから真っ先に駆けつけてくれた。彼女は俺のところまでくると、怪我を見て顔を真っ青にしていた。この通り、実際は大した事ないのであるが、擦り傷と切り傷で結構出血していた事もあって、大怪我と勘違いしたのだろう。

 ただ、実際には軽傷だというのはすぐに伝えてある。立ち上がって、大した怪我ではないから心配しなくていいともすぐに言った。その様子を見て、実際に重傷ではない事をすぐに彼女も理解して、安心してくれた。安堵の涙をうっすら浮かべていたほどだった。

 ただ、事はこれだけでは終わらなかったのである。

 この後、俺達は〝 八ヶ浜高校一の美少女〟の新たな一面を見る事になった。

 そう……慎ましくお淑やかで大人しいと評判の天枷祈織あまかせいのりが、怒ったのである。

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