第32話

 祈織いのりは俺の怪我が軽傷だった事に安堵した……かと思えば、今度はキッと目つきを強めた。

 そして男子達の方を見て、こう言ったのである。


『もう、いい加減にしてよ……いつまでもこんな子供みたいな事して、バッカみたい。もし麻貴あさきくんが大怪我してたら、どう責任取るつもりなの?』


 声こそは静かだったが、その声色には明確な怒気が含まれていた。

 これには怪我で呻く男子達も、良太りょうた含めこの〝祭り〟に参加していた他の男子達も、女子も驚いた。それはもちろん俺も同じだった。

 そしてこの時、この場にいた全員の気持ちが『あ、やばい』で一致していた様に思う。

 それはおそらく、八ヶ浜はちがはま高生が初めて見る〝怒った天枷祈織あまかせいのり〟だったのである。

 彼女は慎ましくお淑やかで、大人しい性格故に、怒った事など殆ど無い。無論、家の中とかではあるのだろうけども、学校でそうした彼女を見た者など、誰もいなかったのだ。もちろん俺も初めて見た。

 静かながら怒りが籠もった彼女の声に、あたりは凍った様にしんとしたのを覚えている。

 そして男子達の方を向いて、更にこう続けたのだった。


『あなた達が私をどう想うのか自由だけど、私の大切な人傷つけないでよ!』


 それから祈織は俺の手を取って「保健室行こ」と言い、教師すら無視して俺をここまで引っ張ってきたのである。

 俺がさっきからびくびくしているのは、彼女の怒りを初めて見た後だからなのだ。


 ──怒ると怖いんだなぁ、祈織って。


 仏の顔も何とやらというが、彼女からしてみれば、今回のこれが三度目に当たったのかもしれない。

 交際後、祈織が男子に見せつけるかのごとく人前でいちゃつく様になったのも、彼らに対するメッセージだったのだ。『私はこういうスタンスだからもうやめてね、怒らせないでね』という旨を仄めかしていたのである。

 それをしていたにも関わらず、収まるどころか今回こうした事故に繋がって、彼女は怒ったのだろう。


「昼休み、もう半分終わっちゃったね」


 背中の手当てを終えてから祈織は手を洗うと、息を吐いて時計を見た。

 四限目は終わってもう昼休みになっているが、俺と祈織はまだ体操着のジャージ姿のままだ。


「どうしよっか? 保健の先生戻ってくるまでここ貸し切りだし、ベッドで寝転がってみる?」


 祈織がくすっと笑って、そんな提案をしてきた。

 どうやら風神雷神モードの祈織ちゃんは無事立ち去ってくれた様で、いつもの彼女に戻っていた。よかった、とこっそりと安堵の息を吐く。

 ちなみに今は保険室の扉に『保健医不在』の札が掛けられているので、人が入ってくる事もおそらくない。


「そうだな。二人で寝転がってみるか。いつもみたいにバックハグで」

「ばか」


 祈織は笑って近寄ってきたかと思うと、座る俺の首根っこに、そっと腕を巻き付けてきた。


「……ほんとに、心配した」


 おでこをくっつけて、そう呟く。


「うん、ごめん。でも、祈織が怒ってくれたからもう大丈夫だと思う」

「そうかな? そうだと良いんだけど……」

「ああ、間違いない。さっきの祈織、鬼の様に怖かったから」

「なあに、それ? 女の子に向かって鬼だなんて、失礼だよ」


 祈織は言いながら、ぎゅっと俺を抱き締めた。そんな彼女を、そっと抱き締め返してやる。

 薬品臭い保健室の中でも、こうして抱き寄せるとしっかりと彼女の香りがして、それだけで心が落ち着いた。

 普段温厚な人が怒る時は怖い。普段とのギャップで、鬼の様に感じてもおかしくはない。きっとさっきの祈織は、男子達にとっては鬼の様に怖く思えただろう。

 そしてそれは俺も同じだ。彼女だけは怒らせてはならないと決心した程だった。


 ──でも、祈織が怒ったのって、俺の為なんだよなぁ。


 そう思うと嬉しくて、顔が勝手に緩んでしまうのだった。

 暫くそうしたまま抱き合っていると、祈織のお腹がくぅ~っと鳴った。お互い顔を見合わせて、同時に噴き出す。


「やだ、怒ったらお腹空いちゃった」

「じゃあ、着替えてすぐ食堂行くか」

「うんっ」


 祈織は笑顔で頷いて、少し名残惜しそうに俺から離れた。

 それからもう一度笑みを交わして、手を繋いで保健室を後にする。

 何だかこの怪我も、終わってみれば俺達の仲が少し深まる出来事の一つに過ぎなかったな、と思うのだった。

 昼休みを終えて教室に帰れば、どんな空気になるだろう?

 それすら楽しみに思えてくるから面白い。


 ──やっぱり……恋人っていいな。


 ご機嫌斜めだった祈織はどこへやら。今は少し機嫌が良さそうな彼女の横顔を見て、改めてそう思うのだった。


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