第26話

 それから一〇分程度で注文した料理が来て、俺達は談笑しながら夕食を取った。

 祈織いのりと祈織ママが正面に二人並んでいるのは何だか慣れないけれど、細かい仕草なんかが似ていて、やっぱり親子なんだなぁと思わされた。


 ──祈織も将来、こんな感じになるのかな。


 何となく祈織ママを見ていると、将来の彼女が見える気がして、ちょっと面白い。

 また、お母さんといる時の祈織は、学校の時とも、二人きりでいる時とも異なっていた。いつもは慎ましくお淑やかな彼女が、少し幼くなるのだ。そんな彼女を垣間見た時、また新しい祈織を発見したなぁと思わされるのだった。

 もともと俺のバイト終わりが夜の十時を過ぎていたという事もあって、食事を終えてからすぐに店を出た。

 二人ともっと話したかったけれども、時間も遅いし、明日もお互い普通に学校がある。話し込んで遅刻をしてしまったら本末転倒だとお母さんが言って、この日はお開きとなった。

 実際に疲れからかうっすら眠気も襲ってきていたので、ちょうど良いタイミングだった。学校からのバイトは、やっぱり体力消費が著しい。

 店の外に出ると、防波堤に打ち付ける夜の波がいつもより煩くて、風も強かった。でも、疲労感で重くなったこの体には、なんだかその海風が心地良くて、潮の香りに思わず身を任せたくなる。


「祈織、今度麻貴あさきくんをうちにお招きしなさいよ」


 帰り際、駐車場でお母さんが唐突にとんでもない事を言った。

 眠気でふわふわしつつあった俺の意識が、一気に現実へと引き戻される。

 

「え、うちに⁉」


 祈織は喫驚さっきょうした顔をして、自らの母を見た。

 今まで誘われた事がなかったので、彼女も自分の家に俺を呼ぶ事など考えていなかったのだろう。


「そう。だって、今日麻貴くん遠慮しっぱなしだったでしょ?」


 祈織ママは娘から俺へと視線を移して、困った様に笑った。

 なんだかその笑い方が祈織そっくりで、それだけで心がポカポカと暖かくなる。


「きっとお料理もお店の事考えて選んでたんだろうし」

「まあ……えっと、はい」


 お母さんの言葉に観念して頷くと、「あなたの性格ならそうよね」と彼女は微苦笑を浮かべていた。

 さすがは祈織ママだった。洞察力が凄まじいのか、俺の考えなどお見通しだったようだ。


「だから、うちで今度お持て成しさせてもらおうかなって。親として、娘が彼に捨てられない様に精一杯の援護射撃はしておかないと!」

「もうっ! だから余計な事ばっかり言わないでよ、お母さん!」


 普段滅多に怒らない祈織が、お母さんの前だとぷりぷり怒りっぱなしだ。

 お母さんも普段見れない娘の姿を垣間見て、ついついそれが面白くて彼女をからかってしまうのだろうか。或いは、これまで見れなかったからこそ、同時に寂しさも感じているのかもしれない。

 何となくだが、可笑しそうに笑うお母さんの表情から、そんな哀愁さも微かに漏れている様な気がした。


「えっと……その」


 車が停めてある場所に着くと、祈織がこちらに体を向けて、恥ずかしそうに口ごもった。


「ん? どうした?」


 助手席のドアの前で彼女と向き合って、彼女の顔を覗き込もうとすると、すっと視線を逸らされた。


「今度……うち、来る?」


 そして、恥ずかしそうにちらっとだけ上目でこちらを見て、訊いてくるのだった。

 その瞬間に、思わず胸の柔らかい部分がきゅんと締め付けられたかの様な痛みに襲われた。


 ──待って! それ可愛いから! ちょっと待って!


 自分の心を落ち着けようと、潮風と波の音に紛らわせて、深呼吸を試みる。

 その表情といい、仕草と言い、恥ずかしそうに言葉を絞り出している様といい、色々可愛すぎて頭がおかしくなってしまいそうだった。お母さんが横にいるのだから今は控えろ、と頭を振って雑念を振り払う。


「そりゃ、まあ……祈織の部屋とかも見たいし。でも……」


 本音では見たい。祈織がどんな空間で生活していて、毎日どんな風に過ごしているのか、彼女の日常を垣間見てみたい。

 ただ、家は……その、色々まずいのではないだろうか。お父さんとか、お父さんとか、お父さんとか、お父さんとか。


「あら、どうしたの? 家は緊張する?」


 車のオートロックを外しながら、お母さんが車越しに微笑みかけて訊いてくる。

 彼女はそのままドアだけ開いて、エンジンを掛けた。電気自動車特有の起動音が海風に紛れて流れて消える。


「大丈夫よ、お父さんがいない日にするから」


 何ならその日だけでも追い出してやるわ、とお母さんは祈織に向けてウィンクした。

 追い出すって、一体天枷あまかせ家ではお父さんの扱いはどうなっているのだろうか。ものすごく可哀想な扱いを受けている様な気がしてならない。


「えっと、麻貴くんは、それなら良い……?」


 そして、祈織が遠慮がちに訊いてくる。

 夜の波の音で掻き消されてしまいそうなほど、小さな声だった。


「えっと……まあ、それなら。さすがにいきなりお父さんは、緊張する」


 そう言うと、祈織は少しだけ頬を緩めて、「わかった」と頷いた。

 何だかこれでは俺までお父さんに酷い事をしている気になってしまう。

 ただ、もうちょっと祈織ママとも慣れてからでないと、色々厳しいなとも思うのだった。今のほぼ初対面の状態でご両親二人と話すのは、俺のメンタルが持たない。


「じゃあ、日程はまた後日にしましょう。今日はいきなりバイト先にお邪魔してごめんなさいね」

「い、いえ! お母さんとお話できてよかったです!」

「ええ、私もよ。それじゃあ、今日は疲れてるでしょうから、ゆっくり休んでね」


 おやすみなさい、と付け足してから、お母さんは先に車に乗り込んだ。

 だが、一方の祈織は車に乗り込まず、ドアに手を掛けたまま、下を向いていた。


「祈織? どうし──」


 怪訝に思って祈織の顔を覗き込もうとした瞬間だった。

 彼女が突然振り向いたかと思えば、俺の顔に彼女の両手が添えられて──そのまま唇が重ねられた。

 事態が飲み込めず、呆気に取られてぽかんとしていると、祈織がゆっくりと唇を離した。

 自分でやって、恥ずかしくなったのだろう。暗がりでもわかるほど、彼女は顔を真っ赤にしていた。


「……お母さん車の中にいるのに、何て事してんだよ」


 本当に心臓に悪い事をする。

 サイドミラーの角度的にお母さんからは見えていないだろうけど、彼女の事だ。体の位置だったり体勢だったりで色々勘づいているに違いない。


「その、ずっと我慢してて……ごめん」

「絶対車の中でからかわれるぞ」

「うん、覚悟してる」


 海風で乱れた自らの髪を押さえて、彼女は照れくさそうに微笑んだ。


「今日改めて、麻貴くんってかっこいいなぁって思ったんだけど……でも、それでなんだか不安になっちゃって」

「不安?」

「うん。誰かに取られるんじゃないかって。それで……」


 我慢できずにキスしてしまった、と言う事らしい。

 そう思ってもらえるのは嬉しいのだけれど、何とも的外れな不安だな、と思うのだった。俺はこんなにも彼女しか見ていないのに、一体何を不安に思うというのだろうか。

 ただ、さっきのファミレスの中でお母さんが言っていた『祈織が感じている焦り』というのは、もしかするとそういった要素も含んでいるのかもしれない。


「何言ってんだか。今日は祈織が来てくれて、俺はずっと元気貰ってたよ」

「ほんと?」

「ああ。だから、また来てくれよ」


 もう全力謝罪を見られるのは勘弁だけどな、と付け足すと、彼女はくすくす笑った。


「うん、わかった……じゃあ、また来るね」


 祈織は恥ずかしそうに微笑んでから「おやすみ」と言うと、そのまま車に乗り込んだ。

 二人の乗った車が見えなくなるまで見送ると、俺は自宅へと歩を進めた。

 とても長く、疲れた一日だった。もう体が重くて堪らない。家に帰って、シャワーを浴びて……そこで力尽きる自分が容易に想像できる。

 でも、疲労困憊な割に、その疲労は同時に気持ちの良いものでもあった。

 それはきっと──祈織の御蔭なのだろうな、と改めて思うのだった。


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