第2話 影
それから師走に入る頃、能代への短期の出向が命じられ、年の瀬は日本海を見て過ごした。新年を迎えてからはその報告や引き継ぎで思わぬ手間をとられ、結局富福に足を運べるようになったのは二月に入ってすぐの頃だった。
ひさしぶりに訪れたものの、間の悪いことにカウンター席はまだがらがらで、俺は何となく拍子抜けをした思いだった。
「お宅さん、たしか山根さんとは仲がよかったよね」
すると俺の腰を下ろしたのを見計らい、一升瓶の蓋を開けつつ、普段は会計で愛想のひとつもいわない店主が珍しくも声をかけてきた。それがまず意外だったが、そこに山根の名前が含まれていたので驚かされた。
「連絡先を知っているくらいだよ」
「それで十分さ。実は届けてほしいものがあるうんだがね」
「届けて?」
「これだよ」
いいつつ店の奥から引き出してきたのは、なんの変哲もない一着の上着だった。
「十日ほど前かな、山根さん珍しくずいぶんと飲んでべろべろになっちゃったんだ。叫ぶわ、他のお客さんにからむわで大変でさ。どうにか帰ってもらったんだが、そのどさくさでこの上着がカウンターの下に潜り込んでたみたいでさ」
俺は目を丸くしないわけにはいかなかった。深酒の末に他の客に迷惑をかけるなど、およそ山根のキャラクターではない。
「それで、次の時に返したらいいかと思ってとっておいたんだけど、それっきりふっつり来なくなっちゃってね。もしかすると顔を出しにくく思っているのかもしれないだろ。悪いんだけど、これを届けちゃくれないかな」
俺は黙って引き受けることにした。
おでん屋の人がいいのか、それとも常連を逃したくない一心からなのかは知るべくもなかったが、酒に強くない山根がそこまで荒れたことに興味をそそられたのだった。
だからその日は一杯引っかけるだけにしたので、店を後にしてもまだ宵の口だった。
交換こそしていたものの実際に連絡するのは初めての山根の携帯の番号を呼び出した。
『はい』
しばらくのコール音の後、聞こえてきた声は非常にくぐもっているように思えた。
私はおでん屋から上着をあずかっている旨を伝えて、どこかで会うことができないかとたずねた。
『お手数をおかけいたしまして相すみません。実は先日来体調を崩しておりまして』
私は驚いてしまって、足早に教えられた住所に向かった。
駅をはさんで俺の家とは反対側をしばらく歩き、目的のマンションにたどり着いた。エントランスからいわれた五〇三号室に連絡を掛けるが返答はないものの、玄関の自動ドアは開いたのでともかくエレベーターに乗って五階へと向かった。
廊下なかほどの五〇三号室にはネームプレートもなく、チャイムを押しても反応はない。だが、なにげなく触れたノブは音もなくまわった。
玄関扉の隙間ができて電灯の明かりが廊下に洩れ出てくる。
逡巡はあったが、もう一度部屋番号を確認して、思い切って中に入ることにした。
「山根君?」
玄関から奥へと呼びかける。橙色の電灯がともされていて、この明かりが扉を開けた際に溢れたのらしい。短い廊下の奥にはダイニングキッチンらしい部屋が見えた。そこに向かって声をかけていたのだが、まだ山根の部屋との確信が持てず、私の声はわれながらかなりおっかなびっくりのものになってしまっていた。
「山根君?」
「はい」
思い切って先ほどよりは声を張ってみると、ようやく答えが返ってきた。
「すいません、ご足労をおかけいたしまして」
しかし、それは聞き逃すまいと耳をすましていたからこそ捉えられた、ほとんど蚊の鳴くようなものだった。
「上がらせてもらうよ」
今度は返事を聞くよりも早く玄関からダイニングキッチンへと向かっていた。
先ほどの電話口での会話よりもさらに生気の薄れた声に不安を覚えたからだ。
そこはコンロと流し、一人用の小さめの冷蔵庫に食器棚とテーブルがあるくらいで、小ぢんまりとしていた。
男の一人暮らしにしては意外なほどすっきりとかたづいている、というよりも生活感がない。
「山根君?」
もちろんここにも山根の姿はなく、まったく馬鹿の一つ覚えのように、同じ呼びかけをくり返すしかなかった。
「こちらです」
声は先ほどよりははっきり聞こえた。部屋には閉められた引き戸があったが、その向こうから返事をしているようだった。
「すまない、勝手に入らせてもらったよ」
「とんでもないことです。こちらこそお出迎えできず」
それでも言葉尻はかすれてよく聞き取れなかった。
「富福から預かってきた上着だけど」
「恐れ入ります。椅子にかけるか、そのまま置いておいていただけますと」
私はいわれるままにした。それで用件は済んだのだが、私はこのまますぐにでも立ち去りたいような気持ちとなんとはなしの心残りが相半ばして、足が動いてくれなかった。
「山根君?」
とうとう四度目の呼び掛けが口をついた。
「少しうかがいたいことがあるんだけれども、戸を開けてもいいかな?」
返事はなかった。
了承とも拒絶とも受け取りにくい沈黙にさらされて、自分から声をかけたからには立ち去るわけにもいかず、居心地の悪い思いをしながら引き戸の前で立ち尽くしているほかなかった。
「かまいませんよ」
たっぷり間をおいてそんな返答があって、心からほっとした。
暗い部屋だった。
気持ちがゆるんだため、引き戸を開けた先がまったく明かりのない空間だったことに、完全に不意を打たれた。
まるで先の見通せない暗闇が、その部屋を満たしていた。俺の体が邪魔をしているのかもしれないが、隣り合わせのダイニングキッチンから差し込む蛍光灯の光はまったく頼りなく、わずかに白い輪を敷居から畳に広げるのが関の山で、敷かれているふとんの端がやっと見えるほかはただ暗さだけが迫ってきた。
暗いばかりでなく、ひんやりとした肌寒さがにじみ出てきた。
鼻先に触れそうな闇を前にして、私は鴨居をくぐることもできなかった。
「すいません、このような所から」
相変わらず山根の声は小さかったが、やっと方向がはっきりと、見えないふとんの枕もとあたりからしていると判別できた。
「それはいいんだが、いったいどうしたんだ。おでん屋でもえらく飲んだらしいじゃないか。親父さんも心配してたぞ」
「まったく面目ありません」
「やけ酒かい?」
部屋の暗さ、寄せてくる冷気、山根の蚊の鳴くような声にたまりかねて、軽口のつもりでそういったのだった。だが、これが部屋の雰囲気に呑まれ軽快さを欠いて、かえって重苦しさを加えてしまうことになった。
「そうかもしれませんね、あんまりびっくりしたものですから」
山根がさらにそこに同調してきた。
「びっくり?」
「以前にお伝えいたしました、遊佐の端整なお顔のお嬢さん、あの方にお写真をいただけないかとお願いしたんでございます」
「ほほう」
唐突な進展にむしろ俺の方が驚かされた。
「じっくりと考えてみて、あの方のお顔が思い浮かばないのは、私の自信のなさの表れで、どのように面に打つべきか見当がつかないから頭が逃避を起こしているのだろうとこう思い至りました」
俺から見えるのは掛布団の端だったが、それでもほんのわずかに山根のしゃべるのに合わせて揺さぶられているようだった。
「これを打開するには、改めてあのお顔に向き合いまして、及ばぬまでも面にするしかない。そのように決意いたしました。とはいえもちろん、私などから連絡をするわけにはまいりません。そこでまずは師匠に事情を説明いたしました」
「怒られたんじゃないかい」
「いえ、はじめのうちは笑うばかりで、取り合ってもらえませんでした。それでも食い下がって説明いたしますと、師匠もわかってくれまして、不純な思いでないことを重々念を押して先方に話をつけてくれました」
「それは嬉しかったろう」
「むしろほっといたしまして、また同時に背筋が正される思いでした」
そういう一本気は私も知る山根であった。
「それが去年の年末のことで、あちら様も年の瀬と新年はお忙しいことですから、写真が到着いたしましたのは一月も後半に差し掛かった頃でした。師匠より手渡された封書から、逸る思いを抑えつつ、引き出した写真を拝見いたしまして愕然といたしました。写真にもお顔がないのです」
「それは顔が映っていなかったとか?」
「いえ、わざわざ写真館にて撮ってくださったとわかります、正面からこちらを向かれたバストショットの一枚でした。にもかかわらず、そのお顔の部分だけが、肌の色に塗りつぶされたようにのっぺらぼうになっているのでございます」
ごくりという音で、私は自分が生唾を飲み下したのを知った。
「私の願いは同僚も皆知っていることで、周りで囃し立てつつ同じように写真を見ており、特別な反応を示すものがなかったので、これがいたずらの類でなかったことは明らかでした。みんなにはあの美しいお顔が映っている。私にだけ見えないのでございます」
淡々とした口調のまま、ここだけやや声が大きくなったようだった。
「私は目の前が真っ暗になりまして、仕事場を飛び出してそのままどこをどうさまよったものでしょう、気がつきますと富福さんにおりまして、飲みなれないお酒をいただいてとにかく見たものを忘れようといたしました」
山根は大きく一息ついた。
「そこで前後不覚に酔っぱらってしまいまして、次に気がついてみますとこの自室に戻っておりました。実は上着のことは、先ほどお電話いただくまでまったく気がついておりませんでした。それどころではなかったものでして」
「それどころでは?」
「はい」
お恥ずかしい話です。と山根は小さく加えた。
「既に夜も更けて、部屋は真っ暗でした。するといるのです、あのお顔のないお嬢様が」
「いる?」
「然様です。暗闇の中で、あのお嬢様がお顔をこちらに向けているのです」
「だって、顔は、でも、見えないんだろう?」
「はい、もちろんございます。けれども、目も、鼻も、口もないお顔だからこそ、闇の向こうにいるという感覚がわかるのでございます」
ひやりと、私を取り巻く大気が冷たくなったように感じられた。
「びっくりして明かりをつけましたら、室内は私ひとりです。ところがお嬢様はおられました。私の瞼の裏に。瞬きでも、目を閉じれば、あの容貌のないお顔が、そこに映るのでございます。それも、はじめは、あの写真で見たほどの小ささだったものが、次第次第に大きくなってくるではありませんか」
「気のせいだろう」
いつの間にか、私の声もかすれたように小さくなっていた。
「いえ、気のせいでも見間違いでもございません。着実に大きく、私のもとに近づいてきているのでございます」
その言葉ははっきりと断言された。
「やがてわかりました。瞼を閉じるごとに、明るい場所から暗い場所へと移るごとに、顔は近づいてくるのだと。そこで、私は雨戸を閉ざして、明かりの洩れ入らないようにして、この部屋に籠もっていたのでございます」
「それで止まったのかい?」
「おかげさまで、その頃は、このように横たわっておりますと、傍らでこちらを見下ろすくらいで留まっておりました」
「その頃は?」
留保のある言い方に、ついそうたずねてしまった。
「先ほどお電話をいただきましたので」
着信があれば当然携帯電話はほのかにでも明かりがともる。
「けれども、勘違いしないでください。私は恨みに思ったりはしておりません。今、このように、枕もとで座り込み、こちらに屈んでほとんど触れるほどにお顔を間近に感じますと、もしかするとこのなにもない容貌こそが自ら求めていたものでなかったかと思えてくるのでございます」
不意に、私はかたわらから、誰かに見られているような感覚に襲われた。
首をそちらに向けてみても、そこにも背後からの明かりでは照らしきれない闇が広がっているばかりで、奥はなんともうかがい知れなかった。
だが、そのかわりに、今さらながら、そのやや先の壁に電灯のスイッチがあるのがわずかに見えた。
咄嗟に指を伸ばし、何かを考えるよりも先に、それを押してしまっていた。
たちまち目がくらむほどの明かりに襲われて、私はたまらず瞼を閉じてしまった。
熱い涙がわずかににじんでくるとともに目を開いて、
『山根君』
けれども、その呼びかけは喉の奥で詰まってしまった。
蛍光灯に照らされた下、敷かれた布団にはだれの姿もなく、枕の上には一つの面がごつごつとした彫り跡に影を添わせて、こちらに裏を向けて転がっているだけだった。
面影 山本楽志 @ga1k0t2
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