面影

山本楽志

第1話 面



 富福とんぷくは葉柴見の市電駅前から伸びる商店街を入ってすぐに軒を構えているおでん屋だ。

 持ち帰りを専門にしているが、夕方頃から売り切れるまでは、奥に引っ込んだカウンターを使って一杯ひっかけることができる。

 お品書きはおでんの盛り合わせとコップ酒だけと愛想なかったが、なにしろ安いのと、日本酒は店主の生まれの石川から気に入ったものを取り寄せているという触れ込みとでなかなか飲ませてくれる。

 だから、たまに早く帰れた日など、黄昏の暮色が漂っているところで、煮詰まったしょう油の香りが流れてくると、つい立ち寄りたくなってしまう。

 ある日もそんな風にひょいとのぞきこんだところが失敗した。小雨のぱらつく天気だったので、少々せわしなげに軒先から中をうかがってみたのだが、少ない座席は客で埋まってだった。

 かろうじて奥にひとつ丸イスが頭を見せていたが、手前はサラリーマンらしいスーツの三人組が陣取っている。あきらめて帰ろうとしたところが、

「すいません、ちょっと詰めてもらえませんか」

 普段は愛想のない店主が、その日に限っては先にそんな声をかけてしまった。

 一番隅にいた客は黙って腰を上げると、座っていたイスごと、気持ち半身だけさらに奥に寄せたのだった。

 ありがた迷惑に思ったが、こうなってしまってはしかたがない。いっこうに席を詰めようともしないサラリーマンたちの後ろを通り、丸イスにたどりつくと、場所を空けてくれた人物に礼をいった。

「いえいえ、お気になさらず」

 それが山根だった。

 三十絡みの肩幅の張ったいかにも頑丈そうな男だったが、どこか陰を帯びていた。隅の席でおでんをつまみながら二、三杯ひっかけるのが常だったが、殊更に身を縮めて椅子にも尻をちょこんと引っ掛けるだけで座っているのが印象的だった。

 縁は異なもので、なにしろ狭い店だから、これがきっかけとなって、以来顔を合わすごとに、席が離れていれば勘定の際に挨拶をして、隣同士になれば世間話を交わすようになっていった。

 口をきくようになれば案外と気さくな男で、笑うとはにかんだようなあどけなさを見せるのがなんとも愛嬌があった。

 空調といってもほぼ形だけで、開け放たれた店の造りでは夏の暑さには物の数ではなく、陽炎のたちそうなおでんを冷やで飲み込むようにして席を立つのが精一杯だったが、季節が移ろうに従い、腰も重くなり注いでもらう酒も分量が増えていく。

 その結果、会話が世間話から個人的な部分に踏み込む機会もまた多くなっていった。

 山根が面を打つ職人だと耳にしたのは秋もずいぶんと押し詰まった頃のことだった。

「面? 面て、あの剣道に使う?」

「いえ、そちらじゃなくてお面の方です」

「ああ、お面の」

「はい、お面の」

 ふたつほど年下ということもあり、季節を経て私の言葉がくだけていっても山根の口調は改まらなかった。四角い強面で丁寧な言葉遣いは時にくすぐったかった。

「舞踊や芝居で使いますような」

「能とか伎楽とか?」

 山根は大根にすっと箸を通してふたつに割った。断面はきれいだが、それでもいくらかの細胞壁は損なわれて、煮込まれてたっぷり含んだだし汁とともに水分がにじんでくる。

「そうです、そうです。とはいいましても、そうした古典芸能の本式のものは打つのはおろか、直しでも私どもにはなかなか指一本触れさせてもらえませんけど」

 意外や驚きというよりも、あまりにも雲をつかむような話で、ぴんとこなかったが、けれども伝統芸能とはいえ古来よりのものを使い続けるわけにもいかないだろう、むしろ古いからこそ修繕や時には新調することもあるかもしれないと、なんとなく腑に落ちて、それ以上は疑問もわかなかった。

 それよりも、山根の箸の動きが気になった。

 癖で、山根は出されたものを箸で割かないと気が済まないらしい。

 こんにゃくにてこずるあまり箸を左右で一本ずつ持ち、突き刺して無理に引き裂いているのを目にした時にはあきれてしまった。

「これはみっともないところをお見せしまして」

 山根も俺の目線に気づいたらしく、やにわに何度も頭を下げてきた。

「こうして断面を見ないと落ち着かなくて。不作法な話で、お気を悪くさせてしまって申し訳ないです」

 もとよりマナーを云々するような店でもない。なのにあまりにも恐縮しているから、こちらがばつが悪く思えてきた。

「面というと、俺なんかはあの能面が子どもの頃なんかは怖くてしかたがなかったな」

「お客様からもそのようなお言葉をいただきます」

 話を逸らすつもりでもとの面の話題にもどしたのだが、そこからどう続けたものかあてがあったわけでもなかった。

「そのあたりはどうなんだい?」

「そのあたりといいますと?」

「面は怖くはないかな」

「私どもは常日頃からずっと面ばかりを見ていますから、巧いや拙いばかりで、かえってそういう鑑賞の機微には疎くなっているのかもしれません」

「でも、ものの喩えにも、怖いくらい上手だとか、ぞっとするほどに冴えているなんていうこともあるだろう」

「畑違いの、よそさまのことはわかりませんが、私どもでは恐ろしい腕前ということはありますが、怖いとはあまり申しませんね。もっとも、自分の作ったもののあまりの拙さにぞっとすることは、これは年がら年中ですが」

 そういうと山根の方から少し笑ってくれたので、雰囲気もなごんでほっとした。

「ですので、私などは面よりは、実際の人のお顔、特にどう面を打っていいかわからないようなお顔に出くわしますと、すうと血の気の引くような思いにかられますね」

「よっぽどおかしな顔とか」

「いえ、誇張のききやすいお顔というのは、これはずっと楽なんです。面にもこれまでの造形の歴史がございますから、それが手本となりましてなぞることができます。ところが目は目、鼻は鼻というように収まるべき場所に収まった、とても端整なお顔となりますと、これが難しい」

「そうか、特徴は個性だから」

「さようです。面には必ずどこかに誇張が含まれております。それで鑑賞者は、ああこれは武人の顔だ、これは年寄りだ、これは少し抜けている、これは化物だと理解する手がかりをつかむのです。美人の面というのも無論そのうちに含まれておりますが、そうした誇張でなく、それぞれのバランスによって成り立つ美人のお顔というのはまったく手も足も出ません」

「なるほど、難しいのはわかった。でも、だからといって怖いわけではないだろう」

「ところが、そうとも言い切れないんです」

 山根がガラスのコップに口をつける。体質的にあまり強くないらしく、いつもちびちびと舐めるように含ませているところが、その時に限っては半分ほどを一息に流し込んでしまった。

「新潟の遊佐のなかほどの村では毎年夏前に豊年を祈願する祭りが行われます。七つ以上の村人が総出になって面をつけて踊りを行うことになっておりまして、ありがたいことに毎年新規と直しの御依頼をいただいております」

「あのあたりは美人どころで有名だから」

「そのようなお話ですね。もっとも私どもは直接村にうかがうわけではありませんので、あいにく拝見いたしますのは、工房にお越しいただく方だけなのですが。この方が、実に、見事に整われた美人でいらしたんです」

 山根は熱い息を吐き出す。既に顔は真っ赤に染まっているが、それは酒のせいとばかりはいえなさそうだった。

「村の祭りを取り仕切られている方の娘さんということで、毎年お父様とごいっしょに夏の終わりか秋口に差し掛かったあたりにいらっしゃいます」

 そういいながら宙を見る目は茫洋としてなにか捉えきれないものを追うようだ。

「この方のお顔はとてもお美しく、とても均整がとれておりまして、ああ、一生に一度このような面を打てれば、なんの思い残すこともないだろうというほどでした」

「夢にまで見る理想の顔というわけだ」

 なにげない相槌のつもりだったのだが、山根はぎくりと肩を震わせて、つかの間固まってしまった。

「だったはずなのです」

 継いだ言葉はやや掠れて、こわばりを含んでいた。

「美しいお顔だった。この事実は疑いようもなく私の頭に刻み込まれています。でも、具体的な像が一切思い出せないのです。いずれあのお顔をモデルとした面を打とう、それを目標として日々努めてまいりましたが、日課に追われてついその思いが疎かになっている間に、次にあのお顔を浮かび出させようとしたところが、それが抜け落ちていることに気づいたのです」

「抜け落ちている?」

「はい。ないのです。眉、目、鼻、口、どのような形でどのような大きさをしていたか。どのようにたどってもまるで記憶にありません。ぽっかりと穴が開いたように、その部分だけ空白になってしまっているのです」

 俺の頭の中でものっぺらぼうになった女の顔が思い浮かんだ。確かにぞっとしない光景だった。

「とはいえ、それはイメージする時はという話だろう。実際に本人を見れば、面にはならないかもしれないけど、目は目、鼻は鼻としっかりついているところを確認できるだろう」

 その時、ちょうど私の隣に座っていた客が立ち上がり勘定をはじめた。

「さようでございますね」

 そのため少し間が空いてしまったこともあり、山根の返答が少なからず距離のあるものに感じられた。そうするうちにまたあの癖が出ていたらしい、がんもどきを縦に二つに割ると銀杏がこぼれてつやのある黄色い粒が転がった。

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