過去の亡霊
これは、世界一カッコ悪い兄の記憶だ。
「にな、カタツムリって歯が25000本あるんだぞ」
「えぇ!?」
「くしゃみする時、目をとじるのは目玉が飛び出さないように――」
「こわい! やめて!」
「ぶどうの一番下には毒があるんだ」
「……ほんと?」
――小学一年生。
妹には、よく本で得たどうでも良い知識を披露していた。
「はじめにー、ほんよんで!」
「いいよ」
小学校に上がったばかり。
そして妹は幼稚園。
「はじめにーはともだちできた?」
「……うん」
「そうなんだ! どんなひと?」
「めちゃくちゃあしがはやい……ひと」
もちろん嘘だ。
当時の俺は、姑息にも話しかけてもらった=友達としてカウントしていた。
あっという間に100人達成……でもなく、そのカウント方法でも10がやっと。
「いえにあそびにいかないの?」
「いそがしいから……」
今思えば、この時はまだ兄としての威厳を保とうと必死だったと思う。
でも――
――小学三年生。
二奈が一年生として同じ学校へ入ってきたころ。
「はじめ、にー……?」
「ちょ!? なんでここにいるんだよ!」
昼休み。
上級生が鬼の様に怖く見えていた自分と違い、二奈は本当に恐れ知らずだった。
誰とでも話せた。
だからこそ……二学年上の教室に、全く怖気ずに現れたのだ。
「そとであそんでなかったから……いるのかなって。きちゃった」
「く、くるなよ」
周囲からの視線が痛く感じた。
それは、妹が来た恥ずかしさだけじゃない。
教室の角……独りぼっち。
友達、ゼロ。
兄ながら、その光景を見られたくないと思った。
「みんなみたいにおそとであそばないの?」
「お、おれは本よんでるから……」
「……ふーん」
でも、見られた。
化けの皮はすぐになくなった。
「……はじめにい」
「なんだよ……」
「はじめにいは、ともだちとあそばないの?」
「おれはべつに。そういうのはいいから」
嘘だ。
今思えば、無理がある強がりだった。
普段話さないクラスメイトが、
――「そういうのはいいから、だってー」「なんだあいつ」――
教室ではそんな声が聞こえた気がした。
そりゃそうだ。
周囲との壁はいっそう深くなった。
「いいから。二奈は教室にもどりなよ」
「……そっか。ごめんね、ほんのじゃまして」
その時から既に――二奈よりも、俺の方が子供だった。
気を使わせたんだ。
二歳下の、妹に。
「っ」
やがて聞こえるのはグラウンド、彼女の声。
たくさんの友達と遊ぶ妹の声。
バキバキと、何かが折れていく音がした――
――小学五年生。
「はじめにー。しゅくだいおしえて」
「……いいよ」
それでも二奈は家の中では変わらず接してきた。
きっとそれも、気を使わせていたんだろう。
「はじめにい、一緒にあそぼ」
「になのお兄ちゃんだ!!」
「こんにちは!」
「こ、こんにちは……」
しかし、転機はいきなりやってきた。
二奈が友達を連れてきたのだ。
それ自体はよくあったけど、一緒に遊ぼうと誘われたのは初めてだった。
彼女が家で遊ぶときは、気まずい思いで自室に閉じこもっていたけれど――その日からは違った。
「トランプしよ!」
「……うん」
恥ずかしい。けど、嫌と言うわけにはいかなかった。
“兄”として。
それを断ったら、本当に駄目なやつになってしまうから。
「はじめにー、あそぼってみんなが――」
「ハジにーさん、おにごっこ!」
「ニンジャおにーさん、かくれんぼリベンジしよ!」
「分かったよ……どっちから?」
そして、いつからか妹を交えて、その子たちと遊ぶのが普通になっていた。
……けれど。
「お母さん、写真はとらないで……」
「えぇ? なんで? 楽しそうじゃない」
「……とらないで」
「え~。分かったけど……」
どこか、心の底では“恥ずかしさ”みたいなのがあったんだろう。
妹の友達に遊んで“もらっている”と、ひねくれた考えがずっと心の底にあったんだろう。
……いいや、事実だ。
俺は、彼女に施しを受けていた。
そしてそれを――受け入れる自分が恥ずかしかった。
でも、一人は寂しかったから。
勇気も度胸も無かったから。
ただただ、俺は楽な方へ逃げたんだ。
彼女には何を返せないまま。
――小学六年生。
生粋の陰キャである俺は、よく一人で遊んでいた。
生粋の陽キャである妹は、よく友達と遊んでいた。
住む世界が違う。
小さいながらも、なんとなく悟った気になっていた。
だから仕方ないんだと――無理矢理に情けなさを押し込んだ。
「
「友達がバーベキューやるから、一兄も来て」
「一兄! 今日はみんなでクリスマス会やるの、きなさい!!」
ずっと一緒だった。
俺に似合わず充実した日々を過ごしていた……と思う。
ずっと彼女に助けられていた。
でも、俺が彼女を助ける事など一度も無かった。
ずっとずっと頼りっぱなし。
結局――俺は、自分一人じゃ何もできなかった。
卒業式、きっと一番早く家に帰ったのは俺だった。
「卒業おめでとう、一兄」
それを何でもない様に装って、祝ってくれる妹を見て。
「一兄? なんで泣いて――」
その日。
小さいながら、俺はこのままじゃいけないと思ったんだ。
――それから。
「一兄、中学は私が居ないけど大丈夫なの?」
「年上の友達居るから、何かされたら言うのよ」
「心配いらないって……そんな言うなら、分かったわよ」
優しい彼女を突き放した。
中学。“妹離れ”を決心した。
俺が、家族に付いていかないと決めたあの日まで。
いつか彼女に、兄として何かを返せる日が来れば良いなと思っていた。
いつになるかは分からない。
でも、必ず――
☆
「兄失格だな」
ずっと、頭の片隅にそれがあった。
『このままで俺は良いんだろうか?』って。
何をやっていても、次の日曜日の事が頭に過る。
『このままで、俺は両親に会っていいのだろうか?』って。
かのんちゃんと遊んでいても。
如月さんの夜ご飯を味わっていても。
制服と鞄を家に取りに帰っている時でも。
そして――
《――「……戻ってきてよ、おにいちゃん……」――》
――パリン、と。
何かが弾けて割れた音がした。
目の前には、もう数年も見ていなかった彼女の涙があった。
その時、俺はようやく気付いたんだ。
家族に心配ばかり掛けた自分が、より心配を掛けてしまった。
変わろうと思って変わったら、より家族の目は酷くなってしまった。
妹を、泣かせてしまった。
“変わる事”は、きっと良い事だと思い込んでいた。
でも――それは違う。
少なくとも、目の前の彼女にとっては。
「……ほんと、一兄は、私が居ないと……」
ベッドの上。
目の下を赤くして、寝言を言う彼女。
「予想できたはずだろ。こうなる事は」
言い訳をするつもりはない。
「これのどこが、“兄”なんだよ――」
昔の俺は、彼女に頼りっきりで、情けなくて。
迷惑を掛けていた。
でも、泣かれるまでのことはなかった。
「……くそ」
兄として何かを返す?
馬鹿か俺は。今の状況を見てみろよ。
如月さんは?
羽織さんは?
彼女達は、しっかりと“姉”をやっている。
でも、対して俺は?
「……くそっ!!」
泣かせたんだ。
泣かせてしまった。悲しませた。
自分に良かれと思ってやっていた事は、全て家族には逆効果だった。
自分が嫌になる。
そして、それを少しでもマシに出来るのであれば。
彼女がもう泣く事がないのならば。
その為なら――“今”を捨てても構わないんだ。
髪色も。
大事な趣味も。
続いていたスレッドも。
全部、全部、全部!
「だから……これで、良かったんだよな」
ノートパソコンを閉じる。
訪れる静寂。
「……良かったん、だよな?」
その声に答えてくれる人は、誰も居ない――
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