異変
第16話
「……て、起きて……」
近くで蚊が鳴くような、か細い声が聞こえてきて、シオンはそっと目を開ける。
目の前にはシオンの顔を覗きこむように、エンジュの鬱陶しい前髪があったのだった。
「エンジュ……」
身体を起こせば、そこは船室のベッドの上だった。
リカンたちと夕食を食べた後、船室に戻ってからの記憶が無かった。どうやら寝てしまったらしい。
「魘されていたのか……。煩かっただろう。邪魔したな」
聞き慣れた自分の声で礼を述べれば、エンジュは何度も首を振る。
額や身体が寝汗を掻いているところから魘されていたのだろう。
見かねたエンジュが起こしてくれたに違いない。
掛布を跳ね除けながら起き上がればベッドが軋む音が聞こえてくる。
「少し夜風に当たってくる。俺のことは気にせず、先に寝ろ」
ひと息に言うと、何か言いたげなエンジュを置いて船室から出る。すると目の前の廊下には、壁に寄り掛かるようにして、青い顔をした親友の姿があったのだった。
「よぉ……」
昼間とは打って変わったリカンの姿に驚愕したものの、すぐに事情を察する。
「もしかして、お前も?」
「ああ、サラに起こされた……珍しいな、お互い魘されるなんて」
「そうだな……」
リカンと出会ったばかりの頃、リカンは寝る度に悪夢に魘されていた。そんなリカンを起こすのは、同室だったシオンの役目だった。
本人が話さないので悪夢の内容は分からないが、おそらくヴァンパイアになった前後の記憶を見ているのだろう。
これまでシオンも断片的ではあるが、ヴァンパイアになった前後の記憶を夢に見ていた。今晩のように魘されるまででは無いが、身体に刻まれた恐怖と絶望、そして悲嘆が代わりに覚えているのだろう。
たとえ、本人が覚えていなかったとしても――。
「このまま寝てもまた夢見が悪そうだからと、気分転換に出てきた。展望デッキに行こうと思っていたところにお前も出て来たからさ……」
「俺も同じだ。魘されていたところをエンジュに起こされた。邪魔にならないように部屋を出たのは良かったが行き先が無くてな……」
「そうか……見たのは、人間の頃の記憶?」
「そうだな。俺自身は覚えていないが、どうも身体が記憶していたらしい」
そのまま二人の足は自然と展望デッキに向かう。時間帯が遅いからか船内の明かりは点いておらず、月明かりでわずかに見える程度だった。
他の船室からは寝息しか聞こえてこないので、二人の話し声と床板を踏む足音だけが辺りに響いていた。
「シオンはさ。人間だった頃の自分を考えたことはあるか?」
「いや。考えたことないな。過ぎた日を思い返しても意味が無いだろうと思っていたが……お前は違うのだろう?」
静かに問いた言葉にリカンは頷く。
「前はそう思ってた。お前やサラ、レイラさえいれば、過去なんてどうでも良かった。けれども今はさ……おれにも親兄弟がいて、友がいて、故郷があったんだろうな……って。そいつらはどうなったのか気になるようになったんだ。おれも親になったからな」
御触書が出た日、リカンはレイラが生まれてから考え方が変わったと話していた。人間の頃の自分が気になり出したのも、レイラの父親になったからであろう。
「人間からヴァンパイアになった混血は沢山いる。けれども人間の頃の記憶が無いのはおれたちだけ。もしかして過去も故郷も名前さえも、忘れてしまいたくなるような出来事でもあったのだろうか。偶然忘れたんじゃなくて……」
「例えば?」
「悲しみや怒り、悔しさ、恥ずかしさ、不安、罪悪感、そして絶望。負の感情に押し潰されて、全てから逃げ出したくなったのかもしれない。人間だったおれはさ……。本当のおれは大して強くないからさ」
頭を掻きながら力無く笑う親友の姿を、シオンはただ見つめる。
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