魅力のない絵

榎木扇海

第1話

砂季さき、早く来なさい。有名な画家さんの絵よ」

高揚した顔の母親が手招いている。厚く塗ったリップが醜く光を放っていた。


 砂季は首をもたげるようにして、入口に掲げられた大きな絵を見た。

 クレヨンのような油っぽい画材で描かれた、丸とか四角とかばっかりの顔。ふとすれば幼稚園児の駄作のような絵。

 芸術がなんだというのだ。これを素晴らしいと称賛するやつらの気がしれない。

 この絵がどれほど独創的で、いかに計算しつくされているかなどどうでもいい。少なくとも、彼女を魅了しない絵であることは事実だ。

 母親のいう「この絵の良さ」とは、「絵自体の良さ」ではなく、「有名な画家が描いたことに対する良さ」なのであろう。


 芸術なんぞに甚だ興味のない彼女は、数日前、潤んだ瞳を向ける母親に懇願されてこの美術展にやってきた。

 母親はとりあえず流行りのものにはすべて手を出す性格をしていた。これも「みんなが評価している人の絵」を自分も知っておくために求めたのだろう。

 ならばひとりで行ってくれたらいいのに。お小遣いを減らす脅しまでして砂季を連れてきたのは、娘と仲のいい自分に酔いしれているのだろうか。

 明日、期末テストが砂季を捕まえる。

 こんな醜い母親の機嫌取りなどしてる場合ではないのだ。

 こんな醜い絵画に嘘の称賛を述べている場合ではないのだ。


 不貞腐れた顔で絵を見上げる砂季の格好は、非常にフラットだ。

 小学生の時に買ってもらったジーパンと、ちょっと袖のほつれたセーターに、履きつぶした運動靴を身に着けている。

 別に格式の高いところにいくわけでもないし、それなりに歩かないといけないのだから、と彼女が普段から着ている服をチョイスした。おしゃれなどというものに非常に疎い砂季は、あまり気にすることなく家を出たのだが、それに母親は激怒した。


 かわいい服を着てほしかった。これじゃあ恥ずかしい。一緒に道も歩けない。せっかく連れて行ってあげるって言ってるのに。女の子なんだから親の言うことだけ聞いておけばいいのに。ひどい子。私をいじめてばっかり。ああもう、なんのためにあなたを産んだと思ってるの。


 嫌味を呼吸のように口にする女の顔はひどく不細工だった。目がぱっちりとしていて頬がしゅっとしているあたりは砂季とそっくりなはずなのに、背伸びして買ったハイブランドの化粧に圧されてぐちゃぐちゃに溶けている。

 目の前のこの絵みたいだと、砂季は心の中で考えていた。

 作者の威光に気圧されて、まともな形も保っていないくせに、みんなからの愛想笑いを一身に受けるところが、そっくり。


 ああもう、なんて言えるのは、おまえじゃないだろう


 そっと噛んだ唇に痛みは感じなかった。


 関節がおかしい裸の女が絡み合っている絵を見て化粧の混ざった涙を流す母を他所目に、砂季は先に進んだ。

 極端に人の少ない通りに出た。五歩くらいですぐに曲がる道で、誰も絵を見ずに足を進めるだけだった。

 早足で、あくびをかみ殺しているような顔を見たとき、この人たちは仮面をつけていたのだと気づいた。

 砂季は、ふと足をとめた。その廊下の真ん中で立ちすくむ男を見つけたのである。

 ざんばら髪で白茶けたよれよれのシャツを身に着けた男は、じっと吸い込まれるように絵に見入っていた。

 そこで初めて、この通りの絵は他のものとタッチが違うことに気づいた。すこし後戻りして説明のところを見てみると、「若かりし頃の作品」と書いてあった。

 顔をあげて見直すと、ぞっとするほど上手な男の子が映っていた。肌が真っ白で、青いビー玉のような目をした少年が、そこに生きていた。

「なんで・・・」

おもわず息とともに漏れ出た言葉は、彼女のあふれでる感情を表すにはあまりに不十分だった。

 彼女が今まで見たどの絵よりも精巧で美しい絵だった。シンプルな額縁のなかに立ちすくむ少年は、確かに息をしていた。

 こくりと息をのみ、しばらく少年と見つめあっていた。

 心臓がはち切れんばかりに鳴り響いた。喉の奥で熱い感情が渦巻いていた。

 鼻がつんと痛んで、そっと顔にふれたとき、涙があふれた。何か複雑な感情が彼女を包み込み、小さく苛立たせていた。目の奥がキリキリして、唇が震えた。

 彼は、絵の中で生きるには不釣り合いなほど、優しく輝いていた。


「ねーぇ、たっくぅん!こんなのつまらないじゃーん。二人で早くおうち帰ろうよぉ」


 頭の痛くなるような大声が鳴り響き、砂季は目を覚ました。どうやら後ろを歩いていた、ヒールの高い靴を履いたパンダ顔の女子高生から発せられた超音波らしい。

 ふと気づけば母親がすぐそばまで来ていた。

 慌てて進もうと進行方向を向くと、あの男の人がまだ同じ絵の前で立ち尽くしているのが見えた。

 さっきはただの変人だとしか思わなかったが、先ほどの経験を思い出すだけで、彼がいったいどういう状況なのか理解できる気がした。

 砂季は身をすくめてそっと近寄り、真隣に並んだ。

 男の服からは、かすかにタバコのにおいがした。

 べたつく頬をぬぐって、絵を眺める。

 この通りの絵はどれも小サイズだったが、その中でもこれは特別小さかった。

 地球だった。青い球が、暗闇の中ぷかぷか浮いていた。

 この作者が生きていた時代、地球の姿を見た者は存在しない。しかしこの絵は確かに地球を描いていた。

 何億年も前に、存在していたであろう美しい地球を。

 突然、砂季の体が、何かに強く揺り動かされた。


 ぐぅぅぅぅんと飲み込まれるように、彼女は小さな額縁の中に飛び込んだ。

「なっなに!?」

彼女は突然宇宙空間に投げ出され、そのまま地球へと落ちていった。

 青い世界が近づいてきて、彼女の体は強い衝撃に打ち震えていた。

 けれど、地球が近づくにつれ、砂季の恐怖は薄れ、代わりに強い興奮が彼女を抱きしめた。

 真っ白な紙に墨を一滴落とすような、どうしようもない背徳感が彼女を一層楽しませた。

 ぐうっと手を伸ばし、海に飛び込んだ。

 柔らかく、とげとげしい水が口の中にまで入ってきた。痛みも苦しみもないまま、彼女の心を絡めとっていくようだった。

 砂季は目をつむって地球にキスをした。

 彼女の目にたまった大量の涙が、海に流れて消える。


 砂季は、足先から徐々にとけていった。


 まぶしい光が、海を明るく照らしていた。



――― あの時、君がいてくれたらよかったのにね ―――――――――





 そっと目を開けた少女はしばらく、小さな額縁の中に飾られている青い球を眺めていた。

 その目はつまらなさそうに廊下の絵を流し見て、早足でこの通りを抜けた。

 廊下を曲がると大きな空間が広がっていて、豪勢な額縁と厳重な警備に守られた、人間か玉ねぎかもわからない物体がうごめいている絵が飾られていた。

「わぁ、この人の絵ってほんとかっこいいなぁ」

心の底から出た称賛の言葉に、少女の目はすこし揺れてすぐに枯れた。


 母親と同じ目をした娘を見ながら、ざんばら髪の、ビー玉のように青い目をした白人の男は小さく微笑んでいた。




 それでいいんだよ、きっと ―――――きっとね

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魅力のない絵 榎木扇海 @senmi_enoki-15

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