第20話 おやすみなさい
ナオと結弦が去った和室では、結依が布団を準備していた。
押し入れ上段の、枕を取ろうと手を伸ばし、その場をぴょんぴょん飛んでいるところに、
「高いところのものは、取りますよ」
と、当主が笑いをこらえながら声をかけた。
結依は、火を噴く勢いで焦った後、
「見られてました?」
と、真っ赤になって聞き返し、はい、と当主に返され、ますます赤面した。
「あの…、助かります…。奥の枕を、二つとっていただけますか?」
当主は枕を手に取ると、布団敷きを手伝い始めた。
「あの…、お兄ちゃんに、ナオさんとは、お布団を二メートル以上離して敷くよう、言われました」
結依が控えめに言うと、
「無視して、くっつけておきましょうか。昔から、お二人は仲が良いですから」
当主は笑いながらそう言って、布団を二組並べて敷いた。
「そうみたいですね。今日のお兄ちゃん、嬉しそうだったなぁ…」
結依がつぶやくよう言ったのを、当主はうなずいて聞いた。
いつも優しい兄ではあるが、最近は結弦が難しそうな顔をしていることが、結依には気になっていた。
先程見かけた表情は、生き生きして、本来の兄の姿に戻ったようで、結依は少し嬉しかった。
「おかげで早く終わりました。ありがとうございます」
「いえ」
結依は下げた頭を上げ、当主が穏やかに微笑むのを見た。
いつもは、気恥ずかしさでまともに目を向けられないが、向けた瞳は雄弁に訴えていた。
「どうしました?」
当主に尋ねられ、結依はさらに、言うか言うまいか、何度も迷った。迷ってやめて、でも上手くいかず、
「…当主。顔色が、良くなりましたね。ナオさんの…おかげでしょうか」
と、思いきって口にした。見過ごせるほど器用ではないが、真実と対峙する勇気のなさに、結依の心は芯から震えた。
「あぁ、…結依さんにも、気づかれていましたか」
「ご無理なさってまで…」
「それは、こちらの台詞です。手首ひねってしまったのを、ナオさんに治療していただいたんでしょう?」
結依は目を見開いて当主を見返した。治療のことは、あのあと誰にも言及していなかった。
「…どうして、それを?」
「私はともかく、ナオさんは、辰巳家の当代でいらっしゃいますから。体調に関する不実は、通用しません」
「そんなにひどいとは、思っていなくて…」
「自分のことでも、相手の方が、実はよく見えていることって、ありますよね。私も先ほど、ナオさんにお叱りを受けました」
当主は柔らかく苦笑したが、結依は首を横に振った。
「当主は、周りのこともご自身のことも、ちゃんと見通していらっしゃいます。それでも、無理していらしたのは、…あの時、当主を傷つけてしまったことを、私に悟らせないためで…っ」
当主は、結依の唇に人差し指を優しくあてがい、言葉をさえぎった。
「違います。昨夜から少し、体調が優れなかっただけです」
当主は言い含めるように言ったが、結依は当主の手を返すと、唇を震わせ、目に涙を浮かべた。
「そんなの、嘘です。私のせいです。私が当主に怪我を…!」
結依は崩れるようにうずくまり、両手をついて額を重ねた。
「申し訳ございません! 私…」
当主はしゃがむと、結依の肩に手を添えたが、結依は小さく震えながら、何度も謝罪の言葉を口にした。
「偶然が重なっただけです。もう治りましたし、結依さんが謝る必要はありません」
当主は繰り返しなだめたが、結依はそのたび、うずくまったまま首を振った。
「申し訳ありません。私…もう、どうしていいか…。本当に、ごめんなさい。ごめんなさい…っ」
「私は大丈夫です。そんな、ご自身を責めないでください。結依さ…」
当主が声をかけている途中で、ナオと結弦の足音が近づき、結依はハッとして泣き顔を上げた。
「待ってください。話を…」
当主は、立ち上がった結依の腕を咄嗟につかんだ。
「ごめんなさい。一人にさせてもらえませんか。お願いです、当主」
結依は頑なに首を振り、泣いた顔をこれ以上見せまいと、下を向いたまま言った。
当主の腕を振り切ると、結依は奥の襖から、逃げるようにして部屋を飛び出した。
畳には、涙の跡が残っていた。
結依の表情が、いくつもの遠い記憶と重なったが、深遠のイメージはおぼろげで、思い出そうとすればするほど、夢幻に思えてきた。
「あれぇ~、当主。いらしてたんですか?」
戸が勢いよく開き、ナオのすっとんきょうな呼びかけに、当主はゆっくり立ち上がった。
「はい。今夜はゆっくり、おやすみください」
当主は振り向くと、いつも通りの穏やかな表情を二人に返した。
装えば、見抜かれる。
感情は、完璧なまでに反応する。
そして事実は、無常で残酷だ。
「気にしない、というのは難しいかもしれませんが…。どうか、一人で抱え込まないでください」
当主は、結依の部屋の戸口で言った。
聞こえているはずだが、返事はなかった。その代わり、
『ごめんなさい。今夜は一人にしてください。明日は、ちゃんとできますから。ごめんなさい。ごめんなさい。おやすみなさい』
当主は、結依からの言霊を受け取った。
言霊とは、言葉以上の本心。
かすかに、部屋の奥から結依の嗚咽が聞こえた。
当主は目を閉じ、ぐっと両手を握りしめた。おやすみなさいと、一言伝えると、その場をそっと離れた。
想えば、傷つけてしまう。言葉も、慰めにはならない。
せめて、すれ違いざまひとかけらでも伝わって欲しいと、願うばかりでただ、時間が過ぎ去っていく。
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