第21話 けっこう繊細なの

 ナオの天地は逆さになっていた。


 和室でナオが、おもむろに逆立ちを始めたせいだが、

「電気消していいか?」

 と、結弦は気にすることなく聞いた。

 ナオが逆立ちするのは癖で、昔からだ。

「んー」

 ナオは答えると、ストンと身軽に足をつき、同時に結弦はライトを消した。 


 暗闇の中、隣で布の擦れる音がした。相手が結弦だと知れている安心感に、ナオは重いまぶたを閉じた。

 すると不意に、明日結弦は、隣にいないんだなと、思いがよぎった。


 結弦は明日、本来自分もいるべき場所で、辰巳であれば、診るべき人たちと接するのか、と。

 医師としての限界に憤りながら、ナオがいれば…と、真面目なこいつは思いはしても、決して俺を呼びはしないんだろう、と。


「ねぇ、結弦。俺が任務戻ったら、嬉しい?」

 ナオは聞いた。子どもみたいな質問だなと思った。

「嬉しい。…けど、昔みたいに面倒被るのは御免だね」

「言うねぇ~」

 ナオの冗談めかした返しに、結弦は反射的に乾いた笑い声をあげたが、表情にはいつもの真剣さが戻っていた。

「本音言うとさ、嬉しいとかいう感情より、現実的にいないと困る。切実に戻ってきて欲しい。戻ってくれるなら、面倒とか、正直どうでもいい。…それに、伽奈さんも、会いたいと思ってるはずだ」

「…うん」

 ナオは素直に答えると、顔を枕に押し当て、しばらく布団の上でもぞもぞ動いていた。


「…その…、伽奈は、…最近、どう?」

 ナオのくぐもった声に、結弦は暗闇の先に頭だけ向け、

「やっと聞いたな」

 と、少し呆れて言った。

「そうだな…、体調は芳しくない。ここ半年、入退院を繰り返してる。症状は前より安定してるんだけど、薬の副作用がね…しんどそう。気丈なだけに、痛々しい」

「そう…」

「そんなに心配なら、戻ればいいじゃん」

 結弦が軽い口調で言うと、ナオは枕から顔を離した。

「簡単に言うなよ」

「彼女は、ナオに治して欲しいわけじゃないし、完全寛解しないのは、ナオのせいじゃない」

「分かってる。そんなの、…分かってるよ」

 ナオは、いじけた少年のように言い返した。


「ちなみに伽奈さんは、ナオが戻ることを望んでない。お前が復帰して苦しむくらいなら、戻らないままでいて欲しいってさ」

「…なんだよそれ。結弦から戻れって言っといて」

「苦しまなきゃいいんだろ? 簡単だよ。つまり、お前が戻ればいいって話」

「無理! こう見えて、俺、けっこう繊細なの!」

 ナオが反抗すると、結弦は明らかにむっとして、布団から上体を起こした。

「何が繊細だ! 分かってんだからな。お前、先週もラボの病室しのびこんで、こっそり伽奈さん治療しただろ」

「げっ!」

 ナオは肩をすくめてそっぽを向いたが、結弦はさらに畳みかけた。

「せめて、数日前に俺に言えってんだ。その後、俺が毎回毎回、数値やら改ざんして根回しすんの、どんだけ大変か知らねぇだろ!」

「知らねぇ!」

 ナオは吐き捨てるように言うと、ぐいっとガーゼケットをつかんで、丸くくるまった。

「んだよ、そこまでやるなら、伽奈さん治療する前提で、堂々と戻ればいいだろ。俺にできること、あるなら言えよ。とことん力になるから。だから、頼れよ!」

 熱のこもった声を聴きながら、なんだよ、紅さんと同じこと言いやがってと、ナオは思ったが、悔しすぎたので喉元までで止めた。


「お前にできることは、結依ちゃんと何歳までお風呂一緒だったか、白状することだな」

 ナオが、布団から顔だけ出して口をとがらせると、結弦は目を細め、ちっ、と舌打ちした。

「あほくさ。俺は寝る。おやすみ」

 結弦は冷たく言うと、ナオに背を向け、再び横になった。

「あっ、ねぇねぇ、結弦センセー…」

 ナオは結弦に近づき、背中をぐいぐい押したが、梃子でも動かなさそうに、返事も返ってこなかった。

「ちぇ~。おやすみー」

 ナオはそう言って仰向けになると、しばらく暗闇の中の天井を、ぼんやり見つめていた。


 結弦から規則的な寝息が聞こえ始めたころ、ナオは顔だけ結弦の方へ動かした。

 すでに目が暗闇に慣れて、親友の後頭部がくっきり見えた。


 寝不足、眼精疲労、腰痛、胃の不調と、ナオが捉えた結弦の体調は、深刻ではないものの、好調とはいえなかった。


 結弦は夜勤中でも、座って電子カルテばっか見てるからだよ。

 視力も落ちてんじゃん。気づいてないんだろうけどさ。

 胃酸過多なのは、さっきのアルコールのせいじゃなくて、ストレス溜めすぎ。気ぃつかいすぎなんだよ。…って、これは俺のせいでもあるか。


 ナオは一人で苦笑したあと、小さく息を吐いた。


「ありがとな、結弦。俺のこともだけど、十分、お前十分救ってるよ…」

 ナオは小さく言って、そしてゆっくり目を閉じた。

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