第13話 蓮の間
「蓮の間」とは、本家の中庭に面した和室の呼び名だ。名前の通り、池の水面に浮かぶ蓮が鑑賞できる。
蓮は優美な白い花を咲かせていたが、ナオには庭すら視界に入っていなかった。
ナオが急いで和室に入ると、当主はすでに正座で座っていた。
本家の家事を担う初老の女性・小池さんが、お茶二客を置いて去るところで、ナオにも優しい笑顔が向けられた。
ナオが小さく会釈すると、
「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
小池さんは、ナオの肩をポンと軽くたたくと、不自由な左足をひきずりながら、和室を出て行った。
「ナオさん、改めて。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
テーブルをはさんでナオと向かい合うと、当主は真っ先に頭を下げた。
「当主。顔を上げてください。礼を言うべきは俺の方です。本来なら許されないのに。こんな、好き勝手ばっか…」
「いえ…」
当主はスッと顔を上げ、ナオの言葉を遮った。
「私が、ナオさんにはしばらく休息が必要と判断したのです。…あぁ、先程力を使わせてしまいましたが…」
「あれはっ、当然です! 一族の当主が何を。こんな時こそ俺を呼んでください」
ナオは腰を浮かせ、前のめりになって訴えた。
今日たまたま本家に来たからよかったものの、治療が遅れていたら、どうなっていたか分からない。大切な人を治療するのに、いったい何のためらいがあるのかと、自然な気持ちを口にした。
「私たちのため、だけに?」
当主は、ナオを真っすぐ見据えて聞いた。
その問いは、問いであって問いではなく、重厚な鎖のようにナオの首を締め上げた。
「それはできない。ナオさんの力をより必要とする人たちを差し置いて、私たちだけが、独占できることではありません」
語気を強めて当主がたしなめた矛盾を、誰より実感しているのは、ナオ自身だった。
ナオはうまく言葉が出てこなかった。何を言っても無駄と分かっていて口にする言葉は、どれもむなしい。
「当主。…もっと、自分勝手になられてください」
ナオが苦し紛れに言うと、
「これが、私の思う勝手ですから」
当主は言った。考えはどこまでもブレなかった。
緑茶から立ちのぼるかすかな湯気が、二人の間にゆらめいた。
「…」
互いの思考は交わる境を見失い、宙に浮かんだ蒸気のように、行き場を失いさまよった。
当主のたたずまいは、変わらず穏やかであったが、ナオには全身を針で刺されているような心地がした。
正座した太ももを、ナオは拳でぐぐっと押さえつけた。
「すみません…。ナオさんを苦しめているのは、私ですね」
沈黙を破って当主が言った。
「いえ、違います。俺が、…弱いせいです」
「弱いことが悪ではないでしょう。私も弱い。私にできることなど、たかが知れています。そんな弱さを隠し、騙し、装ってでも、貫きたいわがままがあるだけです」
当主の返しを、ナオはうつむいたまま聞いた。当主の弱さもわがままも、ナオのそれと比べれば、あまりに話の次元が異なっているように思えた。
「そう…なのかもしれませんが、当主がおっしゃると、どうも、俺には綺麗すぎて…」
「どんな言い回しでも同じことです。人が生きる上では、常に感情がつきまとう。感情が生まれくることに、逆らえる人はいない。私も、ナオさんも。それだけのこと」
ナオがそろりと見た当主の表情は、寛容さに溢れていた。ナオは余計、自分の小ささに嫌気がさした。
「やっぱり、逃げ回ってばっかの俺には、綺麗すぎます。何かで気を紛らわせても、他の何かになろうとしても、結局とらわれて、あなたに戻る気がして…」
ナオはそう言いながら、数秒固まった。
緊張のしすぎで何か変なことを口走ったような気がする。が、頭の動きが鈍すぎて、自分でも言った意味が咀嚼できていなかった。
当主は茶托から湯呑を手にとって、ゆっくり緑茶を口にしたあと、
「まるで、ナオさんから愛の告白を受けているようですね」
と言って、軽く苦笑した。
ナオは、目を見開いて何度かまばたきした。全身の血が沸き立つように熱かった。
「そ…そりゃあ、当主になら、誰もが愛されたいと思うでしょう?」
ナオはどぎまぎしすぎて、声がかすれた。
「…どうでしょうか」
当主は言葉を濁して言うと、湯呑を戻した。
「じゃあもし、当主が本気で俺にだけ、心を向けていただけるなら戻る。…と、申し上げたら、応えていただけます?」
思わず、ナオは聞いていた。心臓が口から飛び出そうだった。
ナオの挑発的な言葉にも、当主は穏やかな表情一つ変えることなく、
「そのような交換条件には、応じられません」
と、即答した。
「かといって、当主の権威とやらを振りかざして、戻るよう強いるつもりもありません。戻られることがナオさんの本意であるならば、歓迎します。本意でないならば、引越しの手配を含め、ナオさんが自由でいられるよう、尽力します」
これまで何度も聞いた言い回しだが、当主の心配りは痛いほど伝わってきていた。
「でしょうね。当主の答えは、分かりきってます」
ナオは息を吐き、真っ赤になってうつむいた。不遜が過ぎたことに自覚はあった。
「変われないだけです」
「それが、俺には綺麗すぎると言うんです」
「…そうですか。誉め言葉として受け取ります」
当主は穏やかに言った。
ナオは肩をすくめてちらりと目線を上げると、すぐに当主と目が合った。
柔らかく微笑まれ、ナオは再びどぎまぎして、自分が中高生にでもなった気分になった。
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