第2章

第11話 三瀨本家

 車窓から皇居が見え始めた頃には、夏の日も暮れかけていた。


 もう少し早く到着できたはずだが、電車を乗り換える前に、

「ねぇねぇ、紅さん。結弦が世界一好きな小籠包、食べたくない?」

 と、巧妙に誘ったナオが、小籠包の入ったせいろを5つも注文したせいだ。


 三瀨本家に着くと、青月当主が濃紺の着流し姿で、玄関先まで出迎えた。

 当主はナオより年下であるが、その立ち居振る舞いは落ち着いていて隙がない。彼を目の前にすると、ナオは妙に緊張してしまう。


 二人が車を降りると、当主は穏やかに微笑みながら、

「ナオさん、よくお越しいただきました。紅さん、急な依頼にお応えいただき、ありがとうございます」

 と、ナオと紅それぞれに声をかけた。


 当主の声は、慈愛、共感、癒し、カリスマ性、影響力、独自性、全てを兼ね備えた、フルサウンドヴォイスだ。この稀有な声に引き込まれてしまうのは、ナオだけではない。

 しかし、この日の当主の声は、明らかに覇気がなかった。


 ナオは、不審に思って紅を見たが、紅からは微笑みだけが返された。

「うちはこれで、失礼させてもらいます」

 紅は当主に一礼し、完璧な笑顔を向けて言った。

「ナオ、ほなまたなぁ」

 柔らかな京ことばとともに、紅は去り際そっとナオの肩に触れ、

「青月さん頼むで」

 と、小さく耳打ちすると、乗車してきた黒いセダンの後部座席に再度乗り込んだ。


 紅の乗った車が、確実にその場から去ったことを確認すると、ナオはサッと顔色を変えて当主に詰め寄った。

「当主! なんてこと…!」

 ナオは思わず、切迫した声を漏らした。


 臓器を外してはいるが、右の脇腹には、深さ数センチの損傷があった。

 外科医であれば、縫合して一週間は安静にさせるだろう。適切に手当てされてはいるものの、立ち歩けば激痛が走るはずだった。

「やはり、気づかれ…ました?」

 当主は右脇をかばうように、玄関の柱に寄りかかった。

「当然です! 治療します。横になってください」

 ナオの差し出した手を、当主はそっとかわして拒み、意志の強い目でナオを見た。

「いえ。正式に戻ってくださるまでは、ナオさんからの治療は受けません」

「当主、この怪我は放っておいていいものではありません。なぜ、すぐに俺を呼ばないんです? くそっ、結弦は何をしてたんだ?」

「結弦さんには…気づかれないように、していました。彼を責めないでください。今、私は本家を空けるわけにいかないのです」

「だからって、こんな…! 無茶しすぎです」

 ナオは声を荒げた。一族の者は当主に逆らえないが、こればかりは引き下がれなかった。

 ナオは当主の手を除けると腹部に手をかざし、患部に指を押し当てた。

「っ…!!」

 当主は顔をゆがめたが、ナオは構わずぐっと力を込めた。

「当主、お許しください。治療します。あなたが全力を出せなければ、一族は守れない。そうでしょう?」

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