第8話 名前をつけて
ゆきのお腹を取り巻く、黒い影がナオには見えていた。
ここで、今すぐに信じてもらえなければ、手遅れになる。猶予がなかった。
ゆきはナオの真剣な視線に捉われ、次の言葉を失っていたが、
「…なんて、この子は言ってるの?」
警戒心に覆われた思考に先んじて、ゆきの口先がそうナオに尋ねていた。
「名前を、つけて欲しいって」
「名前?」
「うん。その子の」
言い終わったナオは、涙がこぼれないように目を閉じ、ぐっと唇を噛んだ。
後悔は今必要なことじゃないと自分に言い聞かせ、声なき声に集中した。
「男の子なら朔也。女の子なら咲って、考えてたけど…」
「男の子だよ」
ナオはそう言うと、ゆきの座るすぐそばへしゃがみ込み、
「名前、呼んであげて?」
と、ゆきの手をとって、そっとお腹へあてがいながら、促した。
「…朔也」
ゆきは、初めて我が子の名を呼び、
「あなたの名前は、朔也よ」
そっと呼びかけるように、優しい声をかけた。
名前の響きに呼応して、跳ね上がるように喜ぶ声がこだまするのを、ナオは奥歯を噛み締めて聞いた。
ナオの手に支えられながら、ゆきはゆっくりお腹をさすった。
さすると同時に、腹部の奥から、気泡がはじけるような、ほんの小さな胎動が感じられた。
生きている―。
今、朔也は確かに生きている―。
ゆきは足元から全身にかけて、わっと鳥肌が立ち、愛しくこみ上げる想いを強く感じた。
それでも、ゆきが抱える、腹部をぐっと絞らるように続く、痛みが消えはしなかった。
「ねぇ、さっきの…。命が尽きるって、朔也は生まれてくることができないの?」
ゆきは震える声で聞いた。以前から、お腹の痛みを感じるたび、嫌な予感がしていたからだった。
「心音が、もう、だいぶ弱くて…」
ナオは、ゆきのお腹に手を当てた時、すでに治療を終えていた。子宮の収縮を抑えて、胎児へかかる負担をほんの少し弱めることしか、できることは残っていなかった。
「死産に、…なるってこと?」
ゆきは肩で息をしながら、顔をこわばらせて聞いたが、ナオは苦しそうに唇をかんで、目を伏せた。口にするには、その言葉はあまりに重く、強すぎた。
「…っ」
ゆきはナオの表情を読み取って、全身の体温が一気に失われたように感じた。
ナオの言葉が真実なのだと、本能で感じ取ったゆきの頬には、涙が次々伝っていた。
「…ごめん。ごめんなさい、朔也。お腹痛むのに、何度病院に行っても、大丈夫だからって、言われて…私、ごめん…。ごめんね…」
ナオは、震えるゆきの手を優しく覆った。小さな命が、大きな愛を必死に訴えかけていた。
「ごめんじゃないよ、って言ってる。ありがとうって」
「朔也が…? 私、産んであげられないかもしれないのに?」
ナオは目を真っ赤にして、微笑みながらうなずいた。
「お腹の外は無理でも、ママのお腹の中で生きれたことが、嬉しいって。名前も、ママからの最高のプレゼントだって、すごく喜んでる」
ゆきは朔也の言葉を聞いて、唇を震わせた。
涙があふれ、お腹に数粒こぼれ落ちた。
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