第7話 ゆきと胎児

 車内販売のカートを押す女性を恨めしそうに見送り、ナオが頭を車壁にもたれた時だった。


 わずかな違和感と共に、誰かの声がかすかに聞こえた気がして、ナオは目線だけ左右に動かした。

 車内はナオと紅の他、数名しか乗車しておらず、走行音だけが響いていた。


 聞き違いかと思って目を閉じたが、ナオはすぐに確信を得て、パッと目を開いた。

「ね、結界解いて。すぐ。お願い」

 ナオは上体を起こして紅に訴えた。


 有事を思わせる目線の鋭さに、紅はうなずき、素早く結界を解いた。同時にナオは立ち上がり、車内前方へ歩き始めた。


 前から三番目の窓際。一人で座る女性に、ナオは迷わず声をかけた。

「すみません。ちょっといいですか」

 長い黒髪が艶めく、青と白のストライプシャツワンピースを着た女性・ゆきが均整のとれた顔をあげた。


 ナオは人懐っこい笑顔をゆきに向けた後、サッと後方の紅を見た。

 紅は明らかに侮蔑の表情を示していたが、ナオは構わず、小さく人指し指を一回転させた。自分たちに結界を張るよう促したのだ。

 紅はさらにムッとして、

『ナンパのために、うちの能力使わすな!』

 と、言霊を使ってナオ脳内に罵声を響かせ、後方から鬼の形相で迫った。が、車内で騒ぐのは後々面倒であるし、護衛するうえでは仕方がないと、苦々しくも結界を張ってやることにした。

 紅は右手二本指を立て、その手を軽く引き上げるような動作を見せた。


 瞬きすれば見逃してしまうほどの一瞬で、高速移動する車内に強固な結界が、しかも的確に敷かれた。紅が一族でも高度な使い手であることの現れだ。


(なんだかんだ、紅さんて結局、優しいよな…)

 ナオが表情を和らげながら、座席に座るゆきに向き直ると、こちらからは、あからさまな警戒心を向けられていた。


(ん~。損な役回り。ちょっと切ない…)


 ナオはしょんぼりしかけた気持ちを持ち上げ、再び、懐っこい笑顔を向けた。

「妊娠五カ月くらい、かな?」

 声をかけると、ゆきは顔をゆがめながら、いぶかしげにナオを見上げた。

「…突然、何なんですか?」

 息は荒く、こめかみには、冷汗がにじんでいた。断続的なお腹の痛みのせいで、ゆきの思考はうまく回っていなかった。

「あんま時間ないから、単刀直入に言うね。その子のお願いを、叶えてくれないかな」

 ナオは、ゆきのお腹を指差しながら言った。深刻になりすぎず、しかしすんなり受け入れてもらえる微調整した声色で。

「その子って、お腹の…?」

「うん。そう」

「…」

 ゆきは肩で息をしながら、じっとナオを見上げた。

 困惑するのも無理はないと思いつつ、ナオは続けた。もたもたしている時間はなかった。

「ものすごく、言いにくいんだけど…。信じられないかもしれないけど、もう、その子の命がね、尽きてしまいそうなんだ」

「…なに言っ」

「だから最期に、ゆきママにお願いしたいことがあるって、俺が呼ばれた」

 ゆきの言葉をさえぎって、ナオは最後まで言い切った。

 奥に涙をたたえたナオの瞳が、小さな命と、ゆきを真っすぐ見つめていた。

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