第5話 逃亡

「ここも、そろそろ潮時かな」

 ナオはポロシャツを手に、半裸で突っ立ったまま、独り言のように呟いた。

「それは、うちが決めることやない。けど、そうやな。さすがに…限界やな。色々つけられすぎとる」

「そう…」

 足元に散らばった、書類の一点を見つめながら、ナオは答えた。

 そうであろうことは、ナオ自身勘づいていた。

 何度引っ越したか数えるのも億劫なら、また引っ越すのも、ひどく億劫だ。


「ナオ。行く先ないなら、灰屋でかくまう。うちにできること、あるなら言い。もっと頼ってええんやで?」

 虚ろな表情を浮かべたナオを、紅がまっすぐ見つめて言った。

 あまりの真剣さに、ナオの瞳は一瞬驚いたが、すぐまた擦れた笑顔に戻った。

「紅さんが、灰屋ホテルで相手してくれるならね」

 ポロシャツを広げると、ナオの口からは軽口が出ていた。

「あほ言い。結弦から、…その、聞いとるやろ…」

 紅が口ごもったその先を、もちろんナオは聞いて知っていた。紅と付き合うことになったと、結弦が一番に知らせた相手は、ナオだった。

「いいよ。結弦も好きだから、三人で」

「小説のネタには困ってへん。お断りや。さっさと着替え!」

 ナオに乗せられ、紅の口調はヒートアップしていた。

「え? ボクちゃんの可愛いお尻が見たい?」

 ナオはふざけて腰を振ったが、紅は外の気配を気にして、全く見ていなかった。

「あほ。見る価値ないわ。もう行くで! ナオ、あんたが電話なんかするさかい、探知されたやないか!」

「しょうがないじゃん。言霊、苦手なんだからさぁ…」

 焦る紅とは対照的に、ナオはのろのろとポロシャツに腕を通していた。

「知らん。嘘つくのやめて修行し!」

 紅は声を張り上げ、赤いパンプスを履くと、ナオと玄関に通じる通路を交互に見て、小さく舌打ちした。


 紅の表情にただならぬ気配を感じて、さすがのナオも慌てて、財布とスマホをポケットにつっこみ、近くのスニーカーを手に取った。素足で逃げる大変さは、何度もやってさすがに懲りている。

「あぁ、もう、しゃあないな…。片すのは煌陽こうように頼むか…」

 紅は手を横に合わせて言霊を放つと、二本指を立ててその腕をしなやかに振り下ろし、ナオを結界で囲んだ。

「行くで! 玄関はあかん。窓から…」

「えっ…」

「飛び降りるで!」

 そう叫ぶと、紅は結界ごとナオを抱えて窓を突き破り、ガラスの破片と共に飛び降りた。部屋は八階。紅の結界はエレベーターより百倍安全だが、真下のコンクリートへ急降下する景色は、昇天するような迫力があった。


「紅さぁん、…死ぬかと思ったぁぁ」

 ナオは叫びすぎて枯らした声を出し、ぺたんとその場に尻もちをついて涙目で訴えた。が、たった今降りてきた部屋からは、ドォンッ、ドォンッと玄関を突き破ろうとする物騒な音と、窓から逃げた、と叫ぶ男性の声が聞こえていた。

「あぁ、いっぺん死んだらええ言うたさかいな。とにかく急ぐで!」

 紅の容赦ない声に押され、ナオはよろけながらスニーカーを履き、割れたガラス片を踏んで立ち上がると、振り返らずに最寄り駅へ走った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る