第3話 青月

 今年も、すっぽかし決定かもなと、ナオが自嘲気味に笑い、スマホを手から離そうとした瞬間、

『お兄ちゃんの腕、痛くないの?』

 先ほどの夢で聞いた声が聞こえた気がして、反応した指がとっさに、本家の番号をタップしていた。

(うげっ…!)


『ナオさん、おはようございます。お久しぶりですね』

 ノーコールで電話に出たのは、当主本人だった。


 落ち着き払った穏やかな声に、意識の全てを持っていかれそうになって、ナオは思わず息をのんだ。

「あ…。あー、当主、すみません。実は今、起きたところでして…」

 ナオは慌ててスマホを手に取り、前髪をかき上げて言った。

『そうですか』

 当主の相槌のあと、今日は行けそうにないと、ナオは言うつもりだった。

「今日は行け…たとしても、夕方でしょうか」

 口からは、心にもない言の葉が出てきてしまっていた。ナオ自身、目を見開いて固まったが、今さら事実は塗り替えられない。

 実際に当主が発する声は、あまりに引力が強すぎた。


『分かりました。では、お待ちし…結依ゆいさん、危ない!』

 急に当主の切迫した声が聞こえたとたん、バンッ、きゃー、グァシャーン、あほかー、ごめんなさーい、ほやで言うたやろー、などという盛大な音声が、電話の向こうで響いた。

「…」

 ナオが口を挟めずにいると、

『すみません、失礼しました。ちょっと、…事件でして』

 当主の苦々しく笑う声に、

「そのようですね」

 ナオはそう言いながら、久しぶりに少しだけ口元の筋肉が上がっていた。


『時間は気にせずいらしてください。夜になっても構いません。すぐに護衛を手配します』

「…はい。お気づかい感謝します」

『道中お気をつけて。では、のちほど』

 そう言って、まだ騒がしい後方の音声とともに、当主の電話は切れた。


 数分前の喉奥詰まる感情とは一転して、ナオは急にそわそわし出すと、ふらつく足がバスルームへ向いていた。


(ユイ? さっき、当主はユイって言ったよな。あれ…? そう、夢のあの子も『結依』だ。思い出した。結弦ゆづるの妹だ!)

 記憶のピースが繋がった瞬間、蛇口を思いきりひねったせいで、ナオは頭から冷水をあび、わぎゃっと大声を上げていた。

(結界師天野家あまのけの結依ちゃんって、確か…。それに、夏目家なつめけ佐助さすけさんの声もした。二人しているってことは、『いん』が出て、本家で修行してる…?)

 ぐらぐらと酔いが回る一方で、ふわふわした思考がナオの脳内を駆け巡っていた。


 ナオはシャワーを浴び髭を剃ったが、ボサボサの長い髪は今更どうしようもない。

 ジーンズをはき、少しでも見栄えするよう、久しぶりにジャケットを取り出したが、ぐにゃりと視界がかすんで、一瞬意識が飛びそうになるのを、壁に手をついて体幹を支えた。

 ふと気配を感じてナオが振り返ると、ガチャリと玄関ドアが開き、ボブヘアーの女性が現れた。

「ナオ、邪魔するで」

 艶の含んだその声の主は、灰屋はいやべにだった。

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