雨。

 雨。水の匂いが鼻につく。


 雨音が、くりぬかれた私の中身に反響する。


 こんな日は体が労働を拒否する。

 ただ、そんな怠惰は許可できない。


 朝食のために台所に立つ。

 子供が起きだしてくる。


 子供が来てから、三食そろうようになった。

 ただ、子供が何を食べるのかは、いまだに分からない。

 私は、行政が指定する栄養表に従って食べ物を用意する。

 そうすれば、間違いはないと思っていた。


「あや子」


 小さな手が皿と箸を運ぶ。


 テーブルの横で、ガシャン、と大きな音が鳴る。


 食器が床の上でバラバラになっていた。

 もう、数回目になる。


 私は黙って、破片を新聞紙にくるむ。

 駄目になった食材は、生ごみと一緒にする。


 子供は下を向いていた。


 新聞紙の中身は、ずしりと重い。

 子供の手には、不釣り合いだと思った。


 私の分を子供に渡す。

 朝食は、子供だけに取らせた。


 私の胃は食事を求めていなかった。


 体が重い。 

 二度寝をしたい気分を抑える。


 雨を遮る車庫で、増えた衣類を干す。

 湿った空気は水分を蒸散させてくれない。


 風が雨を回転させる。

 風が稲田の泥の匂いを吹き上げた。

 こんな雨で、稲田に住み着く生物たちは流されないのだろうか。

 それとも水中の彼らにとっては、毎日と変わらないのだろうか。

 陸上の私には分からない。


 そんなことよりも、問題が一つある。

 湿った空気に、洗濯物は乾かない。

 せめて間隔をあけて、臭くならないようにはする。


 小さな洋服が増えた。

 小石や虫が、洗濯機に入るようになった。

 居住空間が散らかる。

 子供が来てから、まとまりのない生活になった。


 子供が来てから、人間らしい住処になった。


 悪いようには思えなかった。


 機械が業務を終了させた合図を鳴らす。

 乾燥された洗濯物を、ちいさなタンスに詰め込む。

 収まりきらなかった。

 収納の上限を超えている。

 洋服を買いすぎたことに気づいた。

 たたんで収めようとする。

 服のサイズがバラバラなことに気づいた。


 頭の芯が痛む。


「あや子」


 呼ばれた子供が、朝食を飲み込む。


 何を言おうとしたのか。何を聞こうとしたのか。

 私は出かけた言葉を飲み込んだ。


 子供は、赤くなった皮膚を擦っている。


 私は額を抑えた。

 耳の奥で、羽虫が飛んでいるようだった。

 目の奥が痛い。


 湿った空気が肺の中でまとわりつき、陸上で窒息しそうだ。


 子供のことなどままならない。

 自分が不十分であればなおさら。

 この家が、子供には不釣り合いだ。


 私は、いくつかの選択肢を並べた。

 どれを選ぶにしろ、この家にいるよりはましだ。

 行政は、親ではない大人から子供を引き取ることには、積極的だった。

 液晶に表示される情報が、いくつかの手段を教えてくれる。

 私は黙々と作業をする。


 その間、子供は好きに遊ばせる。


 この家には、子供の遊び道具が増えた。

 私は用意できなかった。

 実子が成長しきった近所の大人たちが用意した。

 子供は、一人で遊ぶ。


 寂しさというものはあるのだろうか。

 親を恋しがる感情くらい、存在するだろう。

 私は、どうだったのだろう。


 慢性的になった感情を、改めて言語化することは、難しかった。

 しいて言うのであれば、空虚、その一言に尽きる。


 母のために喪服を着たときも、父のために喪主になったときも、涙というものは流れなかった。


 ただ、がらんどうだけが存在していた。


 液晶を眺める目が、滑る。

 頭の回転が鈍くなっていることを、客観的に認識し始めた。


 ぱたん、とパソコンを閉じる。


 カタカタと、台所で音がした。


「あや子」


 子供の名前を呼ぶ。


 こちらを向いた。

 手元には、平たい粘土。

 重ねられた皿の上に乗せられている。


 少しの間、逡巡する。


 沈黙の中、子供の顔には、申し訳なさのようなものが見られた。


 つまりは、詫びだろうか。

 皿を割ったから、子供なりに贖罪をしたのだろうか。


「あや子」


 声音を緩やかに意識する。

 怒りや、失望といった感情に解釈されないようにする。


 はたして、子供を褒めるとはどのような行動を指すのか。

 私だってかつて褒められたことがあるだろうが、今の私には具体的な記憶を即座に浮上させることはできない。


 だから、そっと手を伸ばす。

 恐る恐る、子供の頭部を撫でた。

 身じろいだ子供は、何を思ったのだろう。

 私には分からない。


 雨が、小降りになった。

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