元老兵少年と聖女 1
記憶に残る泣き声と、あの日と同じ鼻声に、思わずファリーナの手を取ってしまったガスールは、誰にも気取られないように周囲を観察した。
それは、前世に培われた癖の一つ。
追っ手は来ていないようだった。この小さな体、そして武器なしで、ファリーナを守りながら大人数を相手に戦うのは、少々骨が折れる。
――――負けてやる気はないが。
動きを止めてしまったガスールのことを不審に思ったのか、ファリーナがつないでいた手を離して、目線を合わせるようにかがむ。
「……どうしたの? 馬車を待たせているから、行くわよ?」
「……ところで、今は何年の何月何日だろうか」
「――――え? 建国歴268年……5月1日よ」
ガスールが命を落としたあの日から、ちょうど8年の月日が流れていた。
つまり、当時まだ8歳だったファリーナも、すでに16歳になっているということだ。
ガスールと名乗った少年は、名前を持たず、年齢も分からず生きてきた。
物心ついた頃には、すでに扱うことが出来た魔法のおかげで、今日この日を迎えられただけだ。
「助けてくれたこと、感謝しているわ。ガスールは、魔法が使えるのね。誰かに習ったわけではないのよね? ……すごいと思うわ。でも……子どもなのに、命をかけるような無茶をしてはダメよ?」
「子ども……」
確かに、ガスールの視線の高さは、ファリーナの胸あたりに位置する。
改めて見つめた手は、物をきちんと掴めるのか疑問に思ってしまうほど小さい。
つまり、ファリーナが言う子どもという言葉に間違いはないのだろう。
「……お嬢様こそ、なぜこんな治安の悪い場所に?」
「…………治安の悪い場所だなんて、難しい言葉を知っているのね」
「…………常識だ」
「月日も分からないのに」
実際、今の年齢は、ガスール自身にも分からない。
前世で死んですぐ生まれ変わったのだとすれば、8歳くらいなのだろう、その程度しか。
ガスールが前世の記憶を思い出したのは、治安の悪い貧民街で、襲われていたファリーナを魔法で助けたのがきっかけだ。
目の前にいるファリーナは、特徴的な美しいストロベリーブロンドの髪の毛をフードの中に隠してはいるが、地味な色のマントは質がよく、一見して裕福な女性と分かる姿。
こんな姿で、こんな場所をうろついていれば、襲われるのは時間の問題だっただろう。
「しかし、襲ってきた相手は、訓練されたプロ」
「…………ガスール?」
小さくつぶやいたガスールは、いつもの癖で顎を撫で、髭が一本も生えていないことに苦笑した。
記憶を取り戻した今、この体になじむまでは、もうすこし時間が必要そうだ。
それに、記憶のまま行動しては、周囲に不審がられるだろう。
ガスールは、少し子どもらしく演技しようと決める。
――――傭兵として働いていたとき、諜報活動では姿を変えるのも得意だった。問題なかろう。
「と、とにかく、一緒に来なさい!」
ガスールは、そう決めるやいなや、演技に入り、子どもらしく少しだけ首を傾げる。
空色の瞳が、パチパチと瞬きするのを見ながら、ガスールはあえて子どもらしい言葉遣いへと変える。
「……ご迷惑なのでは? 僕は、この場所でも十分生きていけます」
「ん……? 急に子どもらしくなったわね?」
「僕はまだ、子どもです」
「そ、それもそうね!?」
「…………」
この体でも、どこでも生きていけるのは事実だ。
氷結の傭兵と呼ばれていたガスールは、ちょうど今くらいの年頃から、傭兵団に入り戦いの日々を送ってきた。
隣国との境に位置する領地が、燃やし尽くされたあの日から。
次の瞬間、パサリとフードが取り払われて、豊かなストロベリーブロンドの髪が、こぼれ落ちる。
懐かしいその色は、彼女が母親から受け継いだものだ。
空色の瞳は、強い意志を宿しガスールをまっすぐに見つめる。
「子どもは、そんなこと気にしなくていいの」
「…………ふふっ」
「何がおかしいの……」
それは、ガスールが、夫人のいないレイブラント辺境伯家で、直系唯一の令嬢として、必死に大人になろうとしていたファリーナに告げた言葉そのものだった。
「そんなこと、言われたことが今までなかったもので……」
実際、それはガスールの前世を通しての本音だ。
目の前のファリーナには、まだ少女の面影が残る。
ファリーナは、聖女だと名乗った。
おそらく、あの日から類い希なる治癒の力を使って、生き延びてきたのだろう。
「でも、お嬢様のこと、これからは僕が守ってあげますね?」
「あなた、変わっているわ……」
「褒めてもらって嬉しいです」
「ほ、褒めてないわ!!」
ガスールが、レイブラント辺境伯家に仕えること決めた日、ガスールの恩人であり、剣を捧げた女性は、娘の子どもらしい幸せを願った。
目の前の少女が、大人になるまでもう少しの時間があるだろう。
それまで、少女の笑顔を守るのも悪くない。
――――きっと、あの日の誓いは、もうしばらくは有効に違いないから。
もう一度差し伸べられた手は、ガスールよりも遙かに大きい。
だが、細い指先は、まだまだ守られるべきものだろう。
二人は手をつないで馬車へ向かった。
つながれた手の意味。それは主従の関係の再構築にすぎない。
しかし、かつて40歳近く開いていた年齢は、逆転したといっても8歳に縮んでいる。
そのことが、少女が大人になった日、二人の関係にどんな変化をもたらすのか、まだ誰も知らない。
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