花圃ちゃん先生の「にー、にー、さん、し!」
あの日は、今にも雨が降りそうな曇天で。イヤになるくらい。思い出すだけで頭痛がするような、そんな鈍色のくもり空だった――。
「うちの保育園の子を泣かせるなんて――高校生として、恥ずかしくないの?!」
私は声が上擦っていたのじゃないかって思う。緊張で喉がカラカラだった。鉄の聖母と周囲は勝手に言ってくれるけれど、私だって普通の高校生だ。正直、秋田君が怖いと思ってしまう。
でも、
ついたあだ名が
あだ名で判断されるのは、決して気持ち良いものではない。だから私は、秋田君と話せる機会があったら、しっかりと話をしてみたい。そう思っていた。
正直、彼が何を考えているか分からない。でも、湊ちゃんや黄島君は気安く声をかけている。その時に見せるはにかむ笑顔を、盗み見していた。だからこそ、信じられなかったのだ。子どもに悪意を振りまく人には思えなかったから。
(……でも、やっぱり噂通りだったんだ――)
彼は
火のないところに煙はたたない。つまりは、そういうことだ。
そして、私はやはり男の人が信用できない。
「ちが、違う、違うから。
栞ちゃんが、狼狽えている。
「……大丈夫、怖くないから」
私は自分に言い聞かせるように、声を絞り出した。
ポツン、ポツン。
雨が落ちてきた。
「――」
え? 私は息を呑む。なんで、って思う。どうして? と声が漏れそうになるのを、かろうじて飲み込んだ。
(なんで、どうして?)
秋田君。どうして、あなたが泣きそうな顔になっているの?
「返すよ、傘」
ドンと、秋田君は傘を栞ちゃんに押しつけてきた。女性ものの、ハートがデザインされた傘。確かに彼が持つには不釣り合いで。でも、保育園児が持つには、大きすぎて不釣り合い過ぎた。だって栞ちゃんは、男の子が使うような傘を、愛用していたから。
「あなた、そんな乱暴に――」
「お、お兄ちゃん!」
栞ちゃんが、慟哭するかのように叫ぶ。その声すら振り切るように、秋田君は駆けていったのを私は、呆然と見送るしかなかった。
天気が崩れる。
雨が落ちる。
叩きつけるように。まるで、殴られるかのように。
「……ちゃんと、話を聞いてくれない花圃ちゃん先生なんか、大嫌い!」
栞ちゃんの声が突き刺さって。
私は、傘をさすことすら忘れて、立ち尽くしていた。栞ちゃんのことを探していた、彼女のお母さんと鉢合わせしたのは、それからすぐのことだった。
■■■
「
商店街の軒下で、ぼーっと雨を見やっていた私に声をかける人が一人。そんな呼び方をする人は、たった一人しかいなかった。
「……
目をぱちくりさせる。確かに、ショックを受けていた。
今でも、栞ちゃんの声が、鼓膜の奥底でリフレインするから。
――花圃ちゃん先生なんか、大嫌い!
あの後、栞ちゃんから、ありったけの感情が降り注がれた。傘をさしても、そのキモチでずぶ濡れになってしまうくらいに。栞ちゃんのお母さんが、懸命に止めるけれど、栞ちゃんの感情は止まらない。
でも、それ以上に胸に突き刺さったのは、秋田君の何もかも諦めたと、言わんばかりのあの
「なるほどねぇ」
湊ちゃんは、濡れるのもお構いなしに、あぐらをかいて座り込む。そもそも、バスケのジャージにTシャツ姿の湊ちゃんは、すでにずぶ濡れで、青いブラが透けて見えた。女の私がドキドキしてしまう。それくらい無防備で、天真爛漫。人に対して拒絶を見せない。それなのに色香を感じてしまう。海崎湊はそんな子だった。
「ん? どうしたの、花花ちゃ――あぁ、そういうこと」
とずぶ濡れのTシャツを引っ張ってみせる。余計に透けて見えて、女の子同士なのに、私の頬が熱くなってしまう。
「いや、今日部活がなくてさ。だから、
湊ちゃんは、そう言って髪をかきあげる。つーと雫が、髪から滴り落ちた。
「朱理って、誤解されやすいからね」
「え?」
「中学の時にね、うちのキャプテンが高校生に絡まれたことあってさ。キャプテンも意外とケンカっ早いから。それで、女子バスケ部でカチコミを、ってなったことがあってね」
「え? え?」
「それを止めてくれたの朱理だったんだよね。ちょうど、報復にやってきた高校生を一睨みで撃退してくれたのも朱理でさ。いわゆる不戦敗ってヤツ?」
湊ちゃんら懐かしそうに言うが、かなり危ないことをしようとしていたのではと思う。
「あの時の先輩達の、ビビり具合って言ったらねぇ」
そうクスクス笑う。
――先輩、ここは穏便に収めてもらって良いですかね? 落とし前、しっかり、つけるので。
――だ、だ、だ、大丈夫です! 俺たちもう納得した、したから!
――いや、そういうワケにはいかないでしょう。しっかりとお詫びをさせてください。 こちらも、このまま先輩方をタダで帰らせるワケにはいかないので。
――あ、悪魔? た、助けて。 お願いだから、もう、ゆ、許して! 帰して!
――お母ちゃんっっっっ!
湊ちゃんは楽しそうに回想するけれど、言葉のチョイスに問題があったのじゃないだろうか。 でも、それはともかくとして。私は拳を固める。秋田君が、みんながイメージする子ではないと知れた。それだけで、収穫だって思う。今さらだって、自分でも思うけれど。
「でも、花花ちゃんって、男の人が苦手だったでしょ?」
言葉につまる。でも、そんな個人的なことを言い訳にできないって思う。
「謝りたい――」
私の言葉に湊ちゃんは、目を丸くして――それから、微笑んだ。
「朱理はきっと『気にしてない』って言うよ?」
「私が納得できない。子ども達に、お友達とちゃんと向き合おうねって言っているのに。私がちゃんと、秋田君を見ていなかった」
「そっか……」
湊ちゃんは立ち上がる。
「朱理はね、もうちょっと愛想良く笑ったら、みんなの評価が違うと思うんだけどね。花花ちゃんが、そうやって朱理と向き合ってくれるのなら、私は嬉しいかな」
「え?」
「だって、朱理は本当に良いヤツだからね」
私を見て笑みを溢す。なぜかその笑顔と、教室で盗み見した秋田君の笑顔が重なって。私は目をぱちくりさせてしまう。
雨は、小降りになってきた。
■■■
目が覚めてしまった。
なんで秋田君の笑顔が、今も瞼の裏側に焼き付いているのだろう?
今になって、彼の表情が頭から離れないのはどうしてか、自分でもよく分からない。
みんなは彼のことを怖いと言う。
でも、私には、他の男の人のように怖いとは思えないのだ。
あの髪が綺麗だって、思っていた。
(それなのに――)
私は彼を疑った。
カーテンが揺れる。
妙に寝付けなくて、目をこする。ずっと、そんな思考に囚われてしまって、眠りが浅い。結局、私が秋田君を傷つけたことは、変わらない。後悔ばかりが滲んでいく。
と、風が吹いて。
なにかが焼ける。そんな匂いがした。
「え?」
反射的に、ばっと起き上がって、カーテンを開け放った。夜闇に浮かび上がるように、紅い光が灯す。揺れる。パチンパチンと弾けて。
(あの方向は確か……)
園児の顔が脳裏によぎる。私は慌てて、上着を羽織って家を飛び出した。妙な胸騒ぎを憶える。そんな感情を振り切りたくて、私は駆ける。ただの思い過ごしだと信じたくて――。
■■■
どぉぉぉん!
鈍い音が響いて――アパートの階段が崩落する瞬間を目の当たりにする。私は思わず立ちすくんでしまった。
砂塵なのか、灰なのか。コンクリートの残骸なのか。炎に照らされて、礫が雨のようにキラキラと舞っていた。
イヤな予感というのは当たるもので。予想通り、きりん組の
「秋田、この火じゃ流石にダメなんじゃねーの?」
「自殺志願者、乙だね?」
「颯爽と助けに行ったのに、中は誰もいませんでしたとかだったら、笑うよな」
まるで他人事のように彼らは呟く。同じ高校で見た顔だった。
(秋田君が中へ?)
何を呑気に傍観して――。
そう言いかけた瞬間だった。
「ウソだろ?」
彼らは呻いた。二階に、女の子を抱きかかえている男の人の姿が見えた。炎が揺れて、その表情が灯される。間違いなく秋田君だった。階段は崩落して、降りるべき場所はない。後ろから火の手が迫っている。
と、秋田君は、迷い一つ見せず飛んだのだ。
まるでスローモーションのように見えた。
この瞬間、私の周囲の音がかき消えて。
私は息を呑むことしかできなかった。
秋田君は車の
「お
「観月、秋田君?!」
「朱理?!」
「朱理!」
聞き慣れた声に目を向ける。観月ちゃんのお母さん。それから湊ちゃんに黄島君――
「花圃ちゃん先輩?」
「朱梨ちゃん――」
でも、今はそんなことより秋田君だった。慌てて、駆け寄る。
秋田君と一瞬、目が合って。
――良いヤツだよな。鉄の聖母とか、
そう彼が微笑んだ気がして、私は目を丸くする。
「
秋田君が呟いた。
「お兄、無理しすぎ――」
「大丈夫だって、心配性だな」
そう言いながら、秋田君が優しく髪を撫でたのは――私だった。
「え?」
「ちょっと、お兄? 私じゃないから! そっちは花圃ちゃん先輩だから!」
「心配しなくても、大丈夫だから」
ぎゅっと、抱きしめられて――それから秋田君は安心したのか、カクンと力なく項垂れてしまう。彼の意識はそこで落ちてしまったようだった。
「全然、大丈夫じゃない! 私じゃない人に、そういうことするのダメだって! 最近、全然構ってくれなかったクセに!」
とまで言って、朱梨ちゃんは周りの視線に気づく。
「……あ、あはは。あの、これは物の例えと言いますか、その、なんと言いますか――」
「あかりんが、ブラコンなのは今に始まったことじゃないから大丈夫だよ! ブラコン仲間大歓迎!」
湊ちゃんがサムズアップして見せる。そういえば湊ちゃんはお兄ちゃん大好きっ子だったよね。
「海崎先輩、私はブラコンじゃないから!」
狼狽える朱梨ちゃんを尻目に、私は秋田君から目が離せないでいた。
遠くから聞こえる消防車のサイレンを聴きながら。
睫毛が長くて。
紅い髪が、やっぱり綺麗だって思ってしまう。
かすかに漏れる秋田君の呼吸に、安堵してしまう。
――でも、
あの時の湊ちゃんの声が響いて。苦手というよりは嫌い。嫌いというよりは、拒絶したい。もう、治ったはずなのに、じくじくと背中が痛む気がする。
でも、秋田君には、不思議とそういう感情が湧いてこない。
(……お兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかな?)
観月ちゃんや栞ちゃん。それから朱梨ちゃんのように、何かあれば私のことも守ってくれるのだろうか?
なぜか、そんな図々しいことを思ってしまっていた。
「ちょっと、お兄?! 起きて、起きて!」
お酒なんか飲んだこともないけれど、まるで酔っ払ってしまったようで。
朱梨ちゃんの叫びと、サイレンの音。野次馬の喧噪。それから未だに、燃えさかる炎。そんな音が入り交じって。でも、それが、まるで遠い世界の出来事のように感じて、呆然としてしまう。
「お兄! 起きて! ねぇ、お兄ってば! 花圃ちゃん先輩、困ってるから! お兄!」
朱梨ちゃんの声すら遠い。
心臓がバクバクと、胸を打つ。
顔が熱を灯す。これは、きっと火事のせいだ。予想外の出来事が続きすぎて、思考が追いつかない。きっとそう。きっとそうなんだ――。
それなのに、どうしてなのだろう。
私は、秋田君から目をそらせなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます