11月17日 4
鮮血が飛び散る。
勢いよく飛来した影響だろうか、その血しぶきは蒐の顔に降りかかった。
初めて感じる人の血液に、あまりにも日常からかけ離れた目の前の光景に、ただ呆然と、想像以上に温かいんだなと、場違いなことを思ってしまった。
きっと体温と同じ温度なのだろう、涙に似ているな、なんてロマンチックな妄想も追加してしまったのは、三ノ女飛鳥の顔が驚愕の様相になっていたから。
その
ならば、飛んできた
「ぐ、うおおおああああああああああああああ!!!!!」
糸を操る男が伸ばした左腕。身動きのできない少女の頸を狙っていたその腕は、上腕二頭筋の途中から先が消えていた。
否、上空を旋回していた。
よほど勢いよく切断されたのだろう、その切り口は鮮やかと呼べるほど綺麗で、無駄な肉片などが飛び散った跡はない。
飛んでいる腕や、男の二の腕の切断面からは冗談みたいな量の血が流れ出ていた。
「な、なんだ、何が起きた。俺の腕がなぜ切れているっ」
左腕を抑えて男は膝をつく。
苦悶の表情を浮かべているが、その声は戸惑いに満ちている。
「お前らか、まだ何か隠し玉でも? それとも他に協力者がいるのか?」
蒐たちを含め、周囲を警戒するように視線を泳がせている。気丈に振る舞っているようだが、その顔には脂汗が浮かんでいた。
(何が起きたんだ? 前触れもなく男の左腕が吹き飛んだぞ)
三ノ
ピンチを救われた形ではあるが、ここにきて第三勢力が介入するとなれば、こちらもあの男も無事では済まないだろう。
まずは冷静に状況の把握に努める。熱い鉄に打たれたように体は熱いが、イレギュラーの発生で幸い、思考ははっきりとしている。
男にコントロールされていた高山渚は、その魔の手から解放され呆然自失となりその場にへたり込んでいる。
自身の手で三ノ女飛鳥を傷つけてしまった衝撃から、何も考えることが出来なくなっていた。壊れたマリオネットのように、その四肢は無造作に投げ出されている。空虚に口を開けて俯いたその顔には、涙とも鼻水ともわからない液体が流れている。操られていたとはいえ、手にした包丁が人の身体を貫いた感覚、刃が肉を裂く手ごたえ、傷ついた相手の表情や声を身体が如実に覚えている。
それは今後の人生において、忘れたくても決して消えることのない感触だろう。
「寄名君、平気?」
緊張感のある空気の中、内緒話のように声をかけてきたのは巣南瑞穂だった。
トラウマになりそうな光景からの防衛本能として嘔吐していた彼女だったが、その行動が幸いしたのか、一連の出来事を目の当たりにしても落ち着き払っていた。
涙を浮かべているようだったが、無理をしている様子はない。
持ち前の冷静さをもって自分なりに状況の把握に努めていたようだ。
「いつも通りの、のんびりとした顔だから当然平気よね。飛鳥先輩は重傷そうだけど、私たちが何かしては足を引っ張ってしまうわ。でも高山先輩は危なそう。馬鹿な行為に走りそうな感じだわ。だから私たちで囲っておきましょう」
「うん、瑞穂の言うとおりにしておいてくれ。罪悪感から自傷なんてされたら、それこそ夢見が悪い。出来るなら三人で…いや、後ろで眠っている、繭に捉えらえていた人たちと一緒に固まっていて欲しい。どうやらもう、あの男に戦うだけの気力はないようだ」
目の前の男は血を流し過ぎたのか、青ざめているのを通り越して、血の気が引きすぎて紫色になっていた。悪事を働いた本末転倒だと思うが、その様子は痛々しい。未だに空中に浮かんだままの左腕を唖然と見つめていた。
(未だに空中に浮いている?)
男の左腕は未だに旋回して空中に在った。
すでに血液は枯渇したのか、血飛沫が飛び交うことはなくなっていたが、不細工なおもちゃのような腕が空気中に漂っているシュールな光景は、このやけに気持ち悪い緊張感を
ほかの当事者たちもその異様な光景に気づいたようで、全員がその腕を見上げていた。
後ろから近づいてくる足音に気づくことも無いまま。
「このお粗末な
唐突に後ろから聞こえてくる声。闇夜から響くそれは聞き覚えのある声だった。だが口調は聞き慣れない。その喋り方に違和感はなく、さも最初からそのように振る舞っていたとばかりに言葉を繋いでいるが、寄名蒐にだけは微かな違和感を植え付ける。
その声の持ち主、
「最初から一子相伝の宝剣を持ち出していれば、ここに辿り着いた時点で有無を言わず怪異を殺し、その後に難なくその男を拘束できたはず。要は詰めが甘いんだよ。実戦は遊びじゃないんだ、失敗したら死ぬ。その心構えを本当の意味で分かっていない。だから今にも死にそうな状態になっているんだ。先代が見たら情けないと
天衣稲は三ノ女飛鳥を
かろうじて、三ノ女飛鳥が正しく反応できるだけだった。
「いろいろと反論したいこともあるが、これは、貴方が?」
「ああ、そうだよ。久しぶりだね小娘。先代から、娘のことをよろしく頼まれていたんだ。正直そんな義理は無いんだが、世話になった覚えは確かにある。だから一度くらいは助けてやろうかとは考えていた。こんな早く恩返しの機会が来るとは思っていなかったがね」
包丁が刺さったままの少女は、現れた珍客と顔見知りのようだった。あまり仲が良くないのか獲物を睨むような顔つきをしている。
美しい金髪をなびかせた、外国人モデルのような体型をした長身の美女が三ノ女の横に並ぶ。背の低い三ノ女と並ぶと親子のように思えた。大人びた顔出しが余計にそう思わせる。少しほりが深い顔のつり目で、一見するときつい性格に思えるが、それは美人の裏返しとも言えよう。整った顔立ちは、あの日放課後に話した彼女の姿と同じだった。
「天衣先輩…?」
「ああ、寄名蒐、君か。今回は大変だったね。君にとってはいい経験になっただろう。そうだ、これを取っておきなさい。いい機会だし、君の手に渡るのが一番収まりがいい。防御一辺倒というのはどうも無様で滑稽だ。攻撃は最大の防御だよ」
言いながら、三ノ女の腹部に突き刺さっている包丁をためらいなく引き抜く。
三ノ女はぐっ、という声と共に腹部から血を流して片膝をついた。
睨まれていた事実と言い、容赦なく乱暴に扱うことと言い、三ノ女の様子など意に介していないようだ。天衣は会話を続ける。
「君の中の青行灯は怪異譚を収集するようだね。原理に確信は未だ持てないが興味深い。青行灯が本棚であるなら、収集する怪異は一冊の本。本を持ち出す君は司書か管理人か…何はともあれ、この包丁も収めておくことだ。戦いの役に立つし、北に居る悪霊心霊マニア女がコレクションしていた、紛れもない逸品だよ。しかも、武神三ノ女飛鳥を貫いた一振りという概念付きだ。大業物であることには間違いない。これを超える包丁は世界中探しても見つからないだろう」
「え? ああ、えっと、ありがとうございます」
蒐は状況を呑みこめず、情けない返事をして包丁を受け取った。受け取った包丁はやがて消えていく。それは確かに百鬼夜行の怪異同様、蒐の中に入っていった感覚があった。
「三ノ女飛鳥、なぜそこで脱力しているんだ。それくらい止血できるだろう。それは蜘蛛女の傷ではなく、口裂け女が宿った包丁の傷だ。事情があって多少強い力ではあるが、呪いでも何でもないただの傷。乙女の
「いきなり引き抜いておいて、よく抜け抜けと……この化け狐が」
三ノ女は苦言を呈しながらも呼吸を整えることに勤める。恐らく豪語した通り気合で止血をしているのだろう。
「さて、三ノ女次期当主はしばらく動けそうにないな。それに動かなくてもいい。お前はここで情けなく放心して学べ。この状況から一つの場所に集まれなんていう、馬鹿げた発想をする小娘には似合いの姿だ」
そういって目の前の男に音もなく歩いていく。
その所作は緩慢で、武に通じる者の動きと比べると粗末なものだが、予断を許さない空気を纏っていた。不思議と一片の隙すら見当たらない。
「お前が、俺の腕を吹き飛ばしたのか、いったい何をした、お前は一体何なんだ」
向かってくる天衣に対して男は声を荒げる。
だが、その声が聞こえていないのか返答はなく、また返答の期待も出来そうにない。
その瞳は間違いなく男の方向を見据えているが、捉えているのは心臓部分で禍々しく光る
「あの状況から、力のないものを一か所に集めるというのは愚策だ。この男は呪術師になって間もないから勘違いしているが、蜘蛛女の力を掌握しているわけではない。三ノ女飛鳥が圧倒したことで弱っているだけだ。この男の中でゆっくりと自我を取り戻し、やがてその精神を乗っ取るだろう」
淡々と言葉を繋ぐ。それは目の前の男ではなく、蒐や三ノ女に向けた言葉だった。
「こうして依り代にしている人間体が弱った場合、死ぬ前の最後の抵抗として呪力を放出させる場合がある。呪いの力を無差別にまき散らし、運が悪いと辺り一帯を霊の集まりやすい霊脈とさせてしまう時もある。力の大きい怪異を相手取る時は、その命の終わらせ方も重要となる。相手が手負いであるなら容赦なくその命を摘むことだ。しかしこいつの呪層核膜を傷つける武器を持っていないのなら結果は同じだったか。今回の一件で学んだろ、早く宝剣を扱えるようになることだ」
そう言って右手を上げる。そのまま振り降ろして、大した感傷も無いまま呪層核膜ごと男を殺すのだということが、容易に想像できた。男も予感がしたのか、声を張り上げる。
「ま、待て!! 俺を殺すのはなぜだ、お前たちに迷惑をかけてはいないだろう。それにまだ死ねない理由がある、俺には神になるという崇高な目標がある。こんなところで終わるわけにはいかない!!」
勢いに任せて痛みに耐える身体から力を振り絞り、繋がっているほうの腕を伸ばす。その右腕は先程まで高山渚を操っていたものだ。マリオネットが壊れた以上、その手は自由になっている。今度は指先から不可視の糸を繰り出し、目の前の金髪の女性を捉えようとする。
だが、そのような見え透いた小細工は、目の前の脅威には通じない。
頭上には激しく旋回する男の左腕。種や仕掛けは不明だが、操っているのはもちろんブロンドを輝かせて闇夜に佇む夜の蝶。空中の左腕はやがて指先を伸ばし、地面に向け静止し、男の右腕めがけて急発進する。それは弾丸のように早く、
「があああああああああ!!!」
「……お前の考えなど知らんし、興味もない。ただ、一つ言えるとしたら」
無機質で抑揚のない声を返す。高い場所からごみを見下ろすような視線を持ってその手は振り下ろされる。
「お前の目の前にいるモノは、紛れもなく、お前が目指している神というものだよ」
蒐は色もなく透明な、巨大な爪のような塊がその男の存在ごと切り裂いたのを見届けた。
「事件というものは探求している時が一番心が躍り、真相が分かってしまえば呆気ないものだ。怪異絡みでもそれは同じ。人とは違い生死によって片が付くことが多いことから、終わらせ方が原始的になり、力関係によっては一方的な虐殺で終わる。今回のようにな」
当たり前だが息一つ切らすことなく、道端で目に入った気になるものを見に行った帰りのような顔をして天衣は戻ってきた。
「さて、これでこの街に巣くった土蜘蛛騒ぎは終わりだ」
天衣はきれいな金髪をなびかせて事件の終幕を宣言した。
「土蜘蛛、というのがあの怪異の名前なんですか?」
「そうだ、膝丸でもないのに一太刀で両断したその手腕は素晴らしいが、油断しすぎたな。もう呪いも消えているだろう、頸の血も止血しておけ」
事件の当事者たちも含め会話を始める。
「ああ、そのようだね。全く面目ない、まさか貴方に借りを作ることになるとは」
「いや、とんとんさ。今回は私が借りを返した形だ。もう二度とこのような助太刀は無いと思え」
「ああ、心得ておく、礼も言わない。だけど、なぜここに土蜘蛛がいるとわかった?」
「ナーシェから怪異騒ぎのことは聞いていたから頭の片隅に意識はあった。それが突如として大きな力を纏って顕現したんだ。山の神に見に行けとパシられたのもある。遠くから見守っていたんだよ。そしたら若い才能たちが散ろうとしていた、助けないのは損失でしかないだろう」
綺麗な顔が少し醜悪に染まる。腹に一物を抱えた台詞であることは間違いなかった。
「その言葉を素直に受け取れと?」
「事実、そのおかげでお前たちは生きているわけだ。若い才能を助けるというのも嘘ではない」
天衣は蒐と巣南を見つめた。傍らにはいまだ精気を失った高山がいる。
「寄名蒐はもちろんだが、そこにいる娘…ナーシェは気絶娘と呼んでいたな。そこの気絶女にも才能がある。ああ、先に自己紹介が必要かな、私は天衣稲。尾咲学園の三年生。どこにでもいる金髪のお姉さんだよ」
「天衣先輩であることは分かりますよ、巣南さんは初対面だろうけど」
「そうね、初めまして、巣南瑞穂です」
「ああ、礼儀正しくありがとう、知っているよ」
間抜けな自己紹介を交わす初対面組。静寂に包まれていた森に涼やかな風が吹いた。風で木々がなびく優しい音が響き渡る。
本当に、今回の行方不明事件が終わったのだと実感した瞬間であった。
最後の夜は全く役に立てなかったけれど、天衣稲の言葉を真に受けるわけではないが、この経験から学んだことは確かにあった。
「自己紹介はまた今度にしよう。お互い色々と気になることはあるだろうが、こうして縁もできた。もう夜も遅く明け方に近い。疲労もあるだろうしボクは事後処理もある。ここらで解散にして、別日にまた席を設けたいんだが、いいだろうか」
会話の途切れめにすかさず三ノ女は提案する。その意見に異論をはさむ余地はなかった。深手を負っている三ノ女飛鳥は当然として、蒐と巣南、高山、捕まっていた女性たち全員が
気丈に振る舞っているが、三ノ女飛鳥の出血量は無視できるものではない、止血は済んでいるようだが、早く治療したほうがいいだろう。
「今日初めての良い判断だな、私達学生が出歩いていい時間ではない、女子であるなら肌にも響く。こんな気味の悪い山からは早く引き上げよう。そこに倒れている女生徒たちも助けたついでだ、屋敷まで運んでやろう」
何言ってやがる化け狐、と憎らしい表情を隠しもせずに三ノ女は小さく呟いて睨む。だが天衣稲はどこ吹く風だった。この二人、意外に仲がいいのではないだろうか。
「俺達も三ノ女先輩の家に向かうんで、手伝いますよ」
「そいつは重畳、いい男じゃないか寄名君。ああ、そうだ、高山渚」
天衣稲は、白川和泉の傍らで安らかな眠りを心配そうに覗き込んでいる、高山渚に声をかけた。
「土蜘蛛の呪いが解けたことでこの女生徒達も明日には目を覚ます。何よりあの怪異は意外にも律儀で、お前との約束を守るため、その女だけは大切に扱っていたらしい。そら、しっかりと見届けるといい。眠り姫が目を覚ますぞ」
言葉が終わると同時に、白川和泉の口から吐息が漏れる。それは、朝、眠りから覚めるときの吐息に似ている。永遠とは言わないが、長い眠りからの覚醒。変わりない寝顔から一転、瞼を強く閉じ、筋肉の収縮から顔がびくっと揺れる。
白川和泉は血色の良い顔に不釣り合いな睡眠状態から、その健康状態に釣り合うように意識を取り戻す。
王子の口づけは無い。現実にそんなロマンチックな結末などない。
よくある日常の一幕のように、人間とは眠ればやがて起きるものなのだ。
ただ、今回は特別。
目を開ければそこには、愛しい存在の姿がある。
白川和泉はゆっくりと目を開けて、高山渚の顔を確認した。
その、口の端から耳にまで大きく裂けた、その醜い顔を。
「い、いやあああああああああああああああ、やめてっ! 私に乱暴しないでっ!!」
激しく取り乱した少女は、叫び声を上げた後に気を失った。
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