11月17日 2

「今日はずいぶんと遅いんじゃな。そこの小脇に抱えとるのが今日の献上品か。ほう、お前に勝るとも劣らず、良いかおをしておる」

 高山渚は異形のモノが待つ、尾咲市東部の山の中腹にある開けた空間に辿り着いた。

(あれが異形のモノ、そうはいっても、目の前の空間が大きなもやのようになってるだけで姿形すがたかたちは見えないわね、寄名君になら見えるのかしら、飛鳥先輩は……例外を除いて怪異は視えないんだったわね)

 相変わらず小脇に抱えられたままの姿勢で、巣南は現状を把握しようと心がける。

 高山はこの状況に慣れているのか、目の前の靄に向かって言葉を続ける。

「和泉は、どこにいる」

「あの小娘ならそこじゃ、安心せい、精神は疲弊しとるが、肉体的には健康体じゃ」

 靄の後ろの大木に、繭に包まれた女性の姿がある。それは木にぶら下がる蝙蝠こうもりのように見えた。他の木の枝にも似たようなシルエットが確認できる。蝙蝠は全部で六体。あたかもその場所が互いの定位置であるかのように、棺に納まるミイラのように、顔だけを露出して眠り続けている。


(あれが後々の私の姿ね。まるで安らかに寝ているようじゃない、痛みや辛さは無いのかしら。さすがに頭に血が上ると思うんだけど)

 巣南は冷静に近い未来の自分の姿を想像する。すぐに助けが駆け付けると信じてはいるが、寝顔を見られるのは勘弁願いたいと、場違いなことを考えてしまう。

「その小脇の小娘、意識があるようじゃな。何処で見つけてきた上玉か知らんが、恐怖に震えぬのはつまらぬ」

 大きな靄が動く。その景色はまるで、四足歩行の動物が前足を動かす様に似ていた。

「芯の強いおなごは好きじゃ、美しいおなごもな。じゃがその眼は好かぬ」

 異形のモノは、高山と話すときの無関心な口調から一転、巣南に興味を向けてからは、幽邃閑雅ゆうすいかんがな庭の如き容態に関心が高まっているらしい。

「何かを待っておるのか? この芳紀ほうきの口裂け女に入れ知恵でもされたか、それとも後ろの小娘たちが無事なのを見て、束の間の冷静さを取り戻しておるのか」

 巣南は空気の流れが変わったのを感じた。

 靄の中から聞こえる声に呑まれたのではない。

 物理的に、空気の流れを変える何かが、周囲に漂っている。

 まぶたを細めて目を凝らせば、それらは透明に近い、線虫せんちゅうを思わせる細さの糸だった。


(なんて細い糸、肉眼で見えるのが奇跡ね。これであの女生徒たちをぐるぐる巻きにしてるのね、だとしたらとんでもない量よ。身体にかかる重量で圧迫されてもおかしくない)

「ふむ、漂う糸に気づいたか。人間相手に気づかれるとは、わしもまだ全盛期には程遠い……全く忌々しい。本来であれば、斯様な地で秘密裏に動く事はないというのに。今は糸を張り巡らせるだけが最大限、人間如きに気づかれるなぞ愚の骨頂じゃ」

 声に憤怒と哀愁の気が帯びる。

 事情は分からないが、何か理由があって、力をうまく使えないらしい。

(これは……この怪異は弱ってるってことでいいのかしら?)

 単純な文脈から読み取った暴論に近い結論だが、弱っていることは確実だろう。

 とはいえ、力のない巣南では何もできない。

 できることは三ノさんのめ飛鳥が辿り着くまで時間を稼ぐことくらいだろう。

 だが、現状に適した第一声が、どうしても思いつかない。

 根拠はないが、不相応な言葉を発すれば、取り返しのつかないことになる予感がしている。


「さて、ではこいつも包むとするか。口裂け女、いつまで小脇に抱えておるか、とっとと渡さぬか」

「……渡す前に、私の質問に応えろ」

 遠目で和泉の無事を確認した高山渚は、巣南を抱える腕に力を込めた。

「いったい、この所業はいつまで続ければいい。果ては無いのか、この行為に何の意味がある」

「藪から棒じゃのう。確固たる信念を持っていたのは覚えておるが、そこまでの威勢や気概はなかったはず。お前、何者かに入れ知恵でもされたか?」

 高山に向けていた無関心な口調が、関心を寄せる物言いへと変化していた。

「私は正直、お前が人間に危害を加えないというのを、信じていなかった。私を傷つけたことが何よりの証拠だ。だが、周囲を見渡してみても、捕まっている女生徒は健在だ。怪異は約束を守るということだが、そう考えても腑に落ちない点が多い。お前は、私に何をさせているんだ」

「解が無いと不安と申すか? 人とは難儀な生き物よな。疑問が生まれただけで情も生まれてくるとは、矛盾も飼っておるようじゃの」

「情が生まれる?」

「そうじゃ。貴様、和泉とかいう娘が無事である事実と、約束を違えぬわしの振る舞いに、お前らの言葉でいうと、情状酌量の余地があると考えておらんか?」

「……」

 高山渚は答えない。


「見下げ果てた奴じゃな。貌を傷つけた相手を許そうという想いが一瞬でも巡るなら、それは異常じゃ。だというのに、貴様のはそれ以上じゃな。ここまで来て、同類を嵌めておきながら、話せば分かり合えるとでもいうのか」

 巣南を抱える腕に込められた力は、痛いくらいだった。

「あながち、その見識は間違えてないかもしれぬがな。貴様は口裂け女という怪異の力で、わしと同じことをしておるんじゃ。その点でいえばわしと貴様は同じ。話せば分かり合えるだろうよ」

「違う!! 同じなわけがない!!」

「その言霊にも迷いがある。悪意というものに鈍感なのはいいが、度が過ぎれば毒と同じじゃな。初めて人を手にかけた時に何を思った? この小娘に出会って人らしい感情を知ったのだろう? 貴様は周囲が押し付けてくる幻想を演じることに飽き飽きしていたはずだ」

 込められている力はやがて震えに変わっていた。

「偶像を演じていたのは紛れもなく、貴様の魂に根付いた原初の想いだろうよ。だがな、人に悪意を抱いたことが無い? そんな人間いるものか、そんなものは人間ではないよ。人でなければわしと同じ怪異じゃ。貴様は人の皮を被って、そのじつ心の中には怪異を飼っておった。だからわしが、その貌を相応しい形に変えてやったまでよ、口裂け女というわかりやすい力も与えてな。それが、今回のお前の行為の答えじゃ。人を襲うのは楽しかったじゃろう?」

 力を無くした腕は巣南瑞穂を解放し、その膝を曲げる。

 地面に落とされた学年のアイドルは鈍い声を上げる。

 異形のモノの指摘通り、学年のカリスマは入れ物だけ精巧に作られた、人の形をしたただの化け物だった。



「その理屈なら、白川和泉に出会って高山渚の中の怪物は人間に戻れたということだ。せっかく人間に戻れたのに再び怪異にしてしまうなんて、乱暴なことをするものだ。とはいえ、彼女は性質が怪異に近いだけの人間だったんだけどね。それを完全な怪異にしようだなんて、その行為は悪意以外の何物でもないな」

「いんや、その理屈でわしらの言葉を使うなら、呪術師になると正したほうがよい」

「そうだね。全く、幸せな青春を送っていた女生徒にとんでもないことをしてくれたね。悪夢の始まりはこの二人が門限に遅れたせいなんだけど、この処遇は罰にしては重すぎる」

 話は聞かせてもらったよ、といって三ノ女飛鳥が現れた。

 その後ろには寄名蒐がいる。

「三ノ女先輩、いつでも壁を張る準備はできています」

「ああ、君は身構えていてくれ、ちなみに怪異の姿は視えるかい?」

 蒐はとある事情により、怪異の知覚に対して抜群の適性を持っている。俯瞰視点で世界を眺めることで、視認している事実を誤魔化してはいるが、その焦点を戻せば、彼に視えない怪異などこの世界に数えるほどしかいないだろう。

「いえ、視えないですね。目の前に大きな靄があるだけです。しかもかなり大きい」

「そうかい、君にも見えないか」

 気を引き締める蒐の声に、三ノ女は相槌を打つ。

 二人は高山たちの会話を全て、少し離れた位置から把握している。

(恐らく、目の前の怪異は弱っている。高山渚を一目見ただけで、その精神性や魂の形まで見抜いていることから、かなり実力のある怪異だと予測できるが……声だけは聞こえるが、姿が見えないのがその証拠だ。寄名君にも見えないというのであれば、そうとう衰弱しているのだろう。事情は分からないが、能力も満足に使えない状態か)

 自身の形すら保てないほどの衰弱。

 糸を扱うようだが、その能力を人間相手に簡単に見抜かれる不手際。

 気配すら感じられないほどの脆弱さ。

 確かに、これほど弱っていれば、三ノ女家の監視も潜り抜けられるだろう。


「にしても、貴様が来るとはな。知っているぞ、この土地に住む四大貴族の者だな? 全く、物事とはうまく運ばぬが道理か」

「そうだね、お前の様子を見て何がしたかったのか大体予想はできた。命からがら逃げこんできたのだろう。所感だけど、恐らく北からかな? だが、逃げ込んだ場所が悪かった。現在の尾咲市は色々と混沌としているからね」

「北から逃げてきたのは正解じゃ。だが運はよかった。貴様ら三ノ女は代替わりでバカ騒ぎをしていて、土地の神は半隠居、間借りしている他所の怪異は事情があるらしく、満足に動けぬ状態だ。わしの力が弱まっていることからも害のない雑魚と勘違いしてくれたようだしの」

 周囲を漂う糸がおびただしい量となり、その流れが速くなる。

 呑気に問答をしながら、手練手管を仕込んでいたのだ。

 だが、三ノ女はその姑息さに気づいている。

 その体は半歩引いて、腰に差した刀に手をかけている。

「何かしようとしているみたいだけど、チェックメイトだよ。本当に弱っているみたいだね、糸が伸びるたびに風を切る音が漏れている。まるで間抜けな初犯者みたいだ」

「ああ、これが今のわしの限界じゃ。だがこんな力でもひ弱な人間、数人くらいは手籠めにできる。たとえ貴様でも……自分以外を守りながら戦えんだろう!!」

「!!」

 周囲を漂う糸が、四方八方から槍のように目の前の四人に襲い掛かった。

 高山、巣南、蒐に対してはごく少量、だが捕らえるには十分すぎるほどの糸。

 だが三ノ女飛鳥に対しては、腕のような太さの幾重にも織り交ぜられた糸が、無数の鞭のように襲い掛かる。

「塗り壁!」

 蒐は目の前を壁で塞ぐ。だがこれは愚策だった。

 文字通り糸は四方八方から押し寄せる。たかだか一方向の守りなど、何の効果も無い。

 ましてや前方を塞いだことにより視界が遮られ、三ノ女との導線も遮断される結果になる。

 そんな子供の遊びのような些細な抵抗など、本物の怪異の力の前では無意味だった。

(ご主人様、想定していなかったとはいえ、これは無理ですーー!!)

「くっ」

 青行灯の叫びが体内で残響のように響き渡るのを感じながら、蒐は呆気なく糸に捕まり、繭のようにくるまれ、大木の枝へと引き寄せられる。

 顔だけはむき出しになっているため、上空から現状が見渡せるような図になる。


 三ノ女は抵抗する力のない女性陣を守ろうとしたが、その行為は失敗に終わったらしい。

 今は矢継ぎ早に襲い掛かる糸を切り裂くことで精一杯なようだ。

 蒐が元居た場所を確認すると三ノ女以外の姿は認められず、次に周囲の木々に目を移すと、高山と巣南も繭のように包まれて木にぶら下がっていた。

「三ノ女家が代替わりするというのは本当だったらしいな。力はあるが実戦経験がないと見える。悠長に話などして目的を勘ぐろうとするから足元をすくわれる。接敵した瞬間に切り落とせば、人質など取られなかったろうに……それにな」

 蒐を含め、捕らえられている繭が怪しく光りだす。

「やや時期は早いが、こいつらを使わせてもらおう。三ノ女の跡取りがこの程度であれば、もう隠れている必要もない。土地神も、土地の居候も、たとえ干渉してきたとて逃げ出す力としては十分だろう」

「やはりお前、そういうことだったか!」

 三ノ女は未だ襲い掛かる糸に捕まらないように、演舞のように刀を振り回している。

 彼女の実力があれば、糸のカーテンを掻い潜り怪異の懐に潜り込むなど容易だが、弱り切って姿の見えない相手では、その間合いすら測ることが出来ない。

 三ノ女はその事実にもどかしさを覚えながら踊り続ける。

「気づいても遅い、準備は整っている」

 蒐たちが捕まっている繭は糸を通じて、導火線のように大きな靄と繋がっている。その線は妖しい色を帯びていた。

 やがて、身体の力が抜けていく感覚が訪れる。

(身体の力が抜けていく……これは吸われているのか?)

 蒐の実感、巣南の予想、三ノ女の確信、高山の疑惑はすべて正解だった。


 大きな靄―――この事件の黒幕である怪異―――はとある地で傷つき、命からがら尾咲市まで逃げてきていた。衰弱しきったその存在は道端の石と何らかわらない。その結果、尾咲市の土地を守る三ノ女に気づかれることはなく、禁忌の山に住む土地神も脅威と捉えず、排除に動き出すことはなく済んだ。

 この怪異は身を潜める安全な場所を見つけ、力を取り戻すことに専念していた。

 口裂け女の力を帯びた包丁は、逃げ出してきた土地で手に入れた戦利品である。

 怪異が身を潜める土地は、尾咲学園の三年生の生徒に代々伝えられている秘密の抜け道だった。時折、その抜け道に女学生が通りかかることを知った怪異は、自身の栄養にするべく捕らえることに決めた。

 弱っていても能力の一端は扱える、糸を伸ばして人間を捕らえることなど呼吸と等しいほど容易いことだった。

 だがここで一つの問題が発生する。

 捕らえた人間を自身の力の糧にするのはいいが、それにより存在の大きさを増すことは、土地に目を付けられる危険性も孕んでいる。

 また、人里に降りて人間を捕まえることも、同じ危険性を抱えている。

 悩んだ結果、捕らえた人間を外付けの電源のように保管し、手間ではあるが、死ぬことがないよう仮死状態にして、迷い込む人間が訪れることを待つ方針に決めた。

 そこに高山渚という面白い人間が紛れ込んでくる。内側は怪異のような偏りを持っているくせに、美しい人間の皮をかぶった女。

 内面と外見がちぐはぐだった。

 彼女を口裂け女として利用することで、効率よく人間を捕らえることができると怪異は確信した。なぜなら彼女にはその資質があったし、いつまでも持っていた包丁を手放したいという気持ちもあった。そして最後には捕らえたすべての人間から精力を吸い取り、力を取り戻すことを画策した。

 高山に対して捕らえた人間は傷つけない、という約束をしたが、死人に口なし、最後には裏切る気だったのである。

 人間の精気など高が知れている。本来であれば数十人ほどから吸収することで力を取り戻せる予定だったが、土地の防人さきもりに見つかったのであれば、悠々と身構えている暇はない。


「お、おお、なんじゃこれは、力が溢れてくる…!!」

 捉えた人間から精気が吸い取られる。力を吸収する度、大きな靄が次第に明確な形を帯びていく。

 蒐は突然の脱力感から意識が途切れそうになるが、百鬼夜寮の中の怪異達が、意識を繋ぎとめるために必死に主へと呼び掛けていた。

 消え入りそうな意識の最中で目の前に映るのは、大きな蜘蛛の背に乗った、これまた大きな人間の女。

 心臓の位置が燃えるように赤く輝いている、悪魔のごとき裸婦の姿だった。

 やがて、襲い掛かっていた脱力感が消える。

 同じように力を吸い取られた人間を確認すれば、巣南、高山も苦しそうな顔をしているが、意識はあるようだった。

 見下ろせば、蜘蛛女の怪異と三ノ女が対峙している。降りかかる糸も今は消えていた。

 あの糸は三ノ女の自由を奪うためのアプローチだったはず、だが今は、蜘蛛女が恍惚と驚きが入り混じった表情を浮かべ、糸の雨は鳴りを潜めている。

 剣舞のように動き回っていた三ノ女も、呼吸を乱してはいないものの、その顔には疑問符が浮かんでいる。

「お、おお、どういうことじゃ、わしの計算が外れるとは……土地神に目を付けられても、この地から逃げ出せる程度の力しか戻らないと考えていたが、これはいったい……」

 蜘蛛女の怪異は自身の両腕をわなわなと見つめている。

 その触覚を確かめるように拳を握ったりしていた。

 八本ある強靭な足も、地面の感覚を確かめるように地団駄を踏んでいた。

「なぜ全盛期以上の力に戻っておる……!! 誰じゃ、どいつの仕業じゃ!!」

 それは嬉しい誤算に取り乱した台詞だった。

 目の前にいる敵対者から視線を逸らし、糸で捉えていた人間たちに焦点を当て声を荒げる。


 狂気に満ちた視線は、一人の人間の前で止まる。

「そうか、お前か。なんじゃお前は。なぜそのような素質を秘めておる……!!」

 気に留める相手でもないという雰囲気で蒐の存在をスルーした蜘蛛女は、巣南瑞穂を視線に捉えていた。

 何のことかわからない巣南は反応できない。

 力を抜かれたはずの巣南だが、そこには衰弱している様子が見られなかった。

 よく通るはっきりとした声も健在である。

「素質って何よ、意味わからないこと言わないで。目的を達成したなら私たちを解放しなさい」

 だが、その声は一方通行。

 襲い掛かる三ノ女の刃を、石柱のような蜘蛛の足で受け止めた怪異には届かなかった。

「まさか、ボクの目に映るほどの存在になるなんてね。予想してはいたが、中々に強力な怪異のようだ」

「ふ、ふふふ…正直、本来の力を取り戻しても貴様には適わないと思っていたが、この状態であれば、負けることはない!」

 足を振るって三ノ女を弾き飛ばす。

 有り得ない速度で飛ばされた三ノ女だが、空中で身をひるがえして華麗に着地した。


 三ノ女飛鳥は怪異が見えない体質をしているが、無秩序に十重二十重と蔓延はびこる怪異世界の中には、稀にイレギュラーが現れる。

 それは寄名蒐のように呪術を行使して呼び出されている怪異のパターン。こういった場合は、術者の力量にもよるが怪異が見える場合が多い。呪力なり魔力なりを媒介としているため、純粋な怪異としての在り方との相違から、視認しやすいのだ。

 そしてもう一つは、存在規模が大きすぎて、そこに居るだけで現実世界へ影響を及ぼすほどの怪異の場合だ。吉兆であれ凶兆であれ、純粋にそこに居るだけで、人類や森羅万象に影響を及ぼすほどの存在。強力な存在であるが故に、世界そのものが、それを無視することができないということである。

 目の前にいる怪異それは、後者だった。


(なるほど、今年は本当に、怪異達に縁がある……)

 弾き飛ばされた十メートル弱の距離を埋めるため、三ノ女はゆっくりと、蜘蛛女に向かい歩みを進める。

 禁忌の山に住む土地神、土地神の敷地に居候に来たナーシェ含む怪異、寄名蒐に取り憑いた青行灯、そして目の前の蜘蛛女の姿をした怪異。

 怪異を相手にすることを生業とした一族に生まれながら、怪異に縁のない三ノ女飛鳥にとって、これほどの頻度で魑魅魍魎、悪鬼羅刹に出逢うことなど一生に一度あるかどうかであろう。

(力のない有象無象ならわかるが、今の状態のボクに視える怪異を立て続けに視るのは稀だ。正直、気持ちが昂って仕方がない。だけど、何より我慢ならないのは……)

 可憐な少女は想いを馳せながら、お互いの必殺の間合いに入った。

(その程度の存在規模で、ボクに勝てると思いあがっているその驕りだ)


 空気が一変する。

 少女から感じる人間味はなくなり、機械のような無機質な冷たさが蔓延していく。一瞬にして周囲の気温が下がったかのような錯覚。正確には背筋に奔る悪寒。

 三ノ女の名を知っていながら、今なお余裕と隙を隠そうともしない不埒者に対する明確な怒りと敵意だった。

 相対する怪異は気にも留めていない。だが、いつでも迎撃が出来る周到さだけは心得ておく。

「随分と軽い斬撃じゃのう、小娘には相応の実力じゃ。わしの間合いに入っていることすら気づいておらんとは……極東の島国の神秘を司る一族というのも、廃れたものだ」

「……お前の敗因はただ一つ。その存在規模の大きさが原因で、ボクに姿を現してしまったこと。その一点に尽きるよ」

 過去に例を見ないほどみなぎっている自身の力にうつつを抜かしていたが、その存在規模そのものをコケにされたことにより、蜘蛛女の怒りの沸点が突破した。

 予備動作も何もなく、大鎌のような二つの前脚を目の前の少女に向かって放つ。

 その速さは目で見えない。音すら置き去りにするその一撃は、相手の呼吸を乱す不意打ちにも近く、そして確かに少女のくびを捕らえていた。


 では、音速に相対する少女の速さは神速なのであろう。

 敵対者に対する余裕を見せるだけならまだしも、弱者と見下す発言をしておきながら、不意打ちによる奇襲を選択する下策。

 蜘蛛女のすべての動作を確認した少女は、前脚による一撃はかすってしまうな、と冷静に判断をしたのちに、一撃でほふるための必殺の踏み込みを放った。

 呼吸を乱すなど、拮抗した実力者同士の戦いでしか意味を成さない。

 三ノ女飛鳥は、そのつまらないおごりごと、力づくで蜘蛛女を打倒する。


 少女はまず迫りくる前脚を、上体を低くするという最小限の動きでかわす。とはいえ、リーチの長いその足は柔らかい少女の肌を掠め、そのくびからは鮮血が溢れる。

 上体を低くした少女は脚部に溜めた力を一気に解放して、蜘蛛の身体の真下へと移動する。それはまさに瞬間移動だった。

 そして、居合のように刀を引き抜き、その一閃をもって、蜘蛛の体躯たいくの上にある裸婦の身体ごと真っ二つにした。

 

 蜘蛛女は何が起きたのか理解できず、その命を散らせた。

 その光景を見ていた蒐にも、目の前で起こった不可思議を理解できなかった。

 それは無理もない。

 一瞬、瞬きよりも早い時間。たったそれだけの間に、驕り高ぶった巨躯を誇る怪物が、小柄な少女の手によって、ただの動かぬ死体になったのだから。

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