11月16日 4
目的の生徒なら、すぐに見つけることができた。
尾咲市南部の繁華街。近代化の進んだ街並み。
東部が歴史の流れに置き去りにされた原風景であるなら、南部は科学技術と私欲に塗れた極楽浄土だ。
その中でも、意中の生徒は歓楽街と呼ばれる場所に居た。
眠ることを忘れた街、眠ることを恐れる人々。忘れたい現実のある亡霊のような大人達。癒されることを知らない獣たちが、本能を舐めあう輝く桃源郷。
夜の南部は、満たされない人々の欲にすべて応える、ネオンが渦巻く不夜城と化していた。
「不夜城と言いつつ、大抵のお店には、閉店の時間が訪れるんだけどね」
その盛り場を見下すように三ノ
彼女は背の高いビル群の屋上から街並みを眺めていた。
夜の繁華街は大人たちの時間だ。
まだ学生の身分である三ノ女が徘徊したら目立つだろう。
何より、彼女は人混みが嫌いだった。
ビルからビルに飛び移るように街中を移動する。
寮に不在の学生は、夜の街で遊んでいるようだった。
大人たちに囲まれながら、場を盛り上げようと音頭を取っている。
「……あの調子なら問題無いか、きっと二十四時間営業の店で泊まるのか、あの大人たちの誰かの家に寄っていくんだろう。朝帰りといっても、普通の学生は朝は通学するものだし、これはこれで健全なのかもね」
夜の街に怪しい姿はない。
時折、気の大きくなった大人たちが衝突しているくらいで、行方不明事件など起きる雰囲気はなかった。
代わり映えのない景色に、三ノ女は今日何度目かの大きな跳躍をする。
ビルからビルに飛び移るのではなく、真上への高跳び。
常人の数倍の五感を持っている三ノ女は、遥か上空から尾咲市を
「相変わらず西部にも大きな動きはない、ここに比べたら遥かに静かで不安になるね。それともボクが短時間でこの遊郭に毒されたか……全く、慣れないことはするもんじゃない」
無重力にも近い浮遊感を堪能して、異常な滞空時間を誇るハイジャンプから着地する。
常人であれば、身体にかかる衝撃によって、下半身の骨格を中心に、内臓に至るまで破裂する高さからの下降、着陸。
しかし三ノ女飛鳥は、何事もなかったかのようにすぐに歩き出す。
彼女を武人たらしめている肉体にとって、この程度の空中浮遊は児戯にも等しかった。
「こうなると心配なのは東部か、ん??」
歓楽街で豪遊する生徒は、街中でひときわ輝く建物に入っていった。
いわゆるラブホテルと呼ばれる、手軽に非日常を体験できる大人の娯楽施設。
緊張することもなく自然に入り口を
「……」
三ノ女は軽蔑の視線を向けるが、状況的にはある意味安全だな、と冷静に考える。
宿泊施設である以上、常に他人の目がある。
それは他の利用客や従業員といった人達だ。
これから高山渚がラブホテルに突貫して、成人向けのレクリエーションに勤しむ生徒を拉致するなど、現実的にもあり得ない。
ラブホテルで暴れまわる口裂け女というのも聞いたことはない。
時刻は二十二時弱。
この時間の入室であれば宿泊に違いないだろう。
これ以上、この場にとどまる理由はない。
三ノ女飛鳥は繁華街を後にした。
「はあ、はあ」
坑道内には荒い息のみが鳴り響く。
声の持ち主は、口裂け女の能力を振るう高山渚。
目前に迫るご褒美を捕まえられない飢餓状態がそうさせたのか、血を求めた包丁は赤黒く染まっていた。しかし、咀嚼まであと一歩のところで、目的を無くしたかのように宙で止まり、そこから動くことはなかった。
目の前で、追いかけていた対象が忽然と消えたわけではない。
その証拠に、尻もちを着く
(なぜ彼女は止まったのでしょうか?)
(わからない、でも助かったのは事実だ。ここからまた逃避行を再開しよう)
高山渚が止まったのは、青行灯に脅威を感じたためである。
青行灯を知っている関係者であれば、その無力で無害な能力を前に
しかし、高山渚は違う。
青行灯の正体を知らない。
だからこそ、彼女の半透明の青白い着物、長い黒髪の隙間から覗く切れ長の目、頭部から生えた角、その怪異然とした容貌に脅威を感じて静止したのだ。
昨日の白髪の少女の襲撃のような、理解の外にある力を恐れて動きが止まってしまったのだった。
数秒、向かい合い様子を見る。
熟練の剣道家の戦いのように、相対しているが動くことはなく時間が流れていく。
それはまるで身体を動かすことで発生する隙を、先の先、後の先を互いが狙っているかのようだった。
(合図する、そしたら俺の中に戻ってくれ)
(意図はわかりました、お任せください)
なおも高山渚は呼吸を乱している。坑道内での鬼気迫る取り乱し方が落ち着いたことで、忘れていた疲労を思い出したようだ。
蒐は冷静にその呼吸を感じ取る。そしてその隙間を狙い、
「ゲンガー!」
現代の日本の都市伝説に対抗するため、世界規模の超常現象の名を叫んだ。
「先程はすいませんでした!! でもこの登場もすぐに終わるのです!! 機会があれば改めて謝罪させてください!! では!!」
息を荒げる高山渚の背後にドッペルゲンガーが登場する。
彼女の心を折った因縁の相手の登場に、手に持った包丁に力が入るのは必然だった。
「貴方は、また性懲りもなく!」
包丁を逆手に持って振り向くと同時に横一線、空気の読めない珍客を切り裂くため弧を描き、鉄の刃を大振りする。
だが、その動作に入る前にドッペルゲンガーはすでに消えていた。
「!?」
高山渚が後ろを向いたことを確認して、蒐は坑道の入り口に後退する。
青行灯もドッペルゲンガーもすでに蒐の中に退避済み。少しでも足止めの時間を伸ばすため、同時に塗り壁も召喚する。
(お見事です、ご主人様)
(最後まで逃げきってから賞賛してくれ。あと塗り壁には最大限の報酬を与えてやれよ)
前方で塗り壁が切り裂かれるのを確認して、蒐は改めて気を引き締めた。
愉快な追いかけっこは続く。
当事者達には永遠にも似た生き地獄。
実際には数分と満たないランデブー。
命を削り、千日手のように同じ手順を繰り返す流れ作業。
ベルトコンベアーで運ばれるように、高山渚と寄名蒐は一定の距離を保つ。
だが、その均衡が崩れるのは突然だった。
変化に気づいたのは狩人。
だがその時には手遅れだということを、未熟なハンターは気づくことができなかった。
それは何度目かの壁を処理したときに見えた景色、目の前に現れたのは少年ではなく、可憐な少女だったということ。
「会いたかったよ。三年生、学年のカリスマ、美しいブロンドの高山渚先輩。願わくば、このような形でなければ最高だった」
三ノ女飛鳥は、斬り裂かれた塗り壁の隙間から手を伸ばし、包丁を握る高山渚の右手を掴み捻り上げ、そのまま上体に体重をかけ、仰向けに押し倒した。
突然の出来事に、高山渚は自由な手足で暴れるが、石像にのしかかられているかのように、眼前の少女はびくともしない。人間の平均値を優に超える握力に握られ、口裂け女の象徴ともいえる包丁をその場に落とした。
そして、むき出しになった顔を三ノ女に覗き込まれる。
「ちゃんと顔を見たのは初めてだ。とても綺麗だね、素敵だよ、先輩」
口から耳まで裂かれた顔に怯むことなく断言して、高山渚は今度こそ抵抗する力を無くした。
坑道の横穴、高山渚の居住スペースに一同は集まっていた。
三ノ女家まで連行する前に、ここにある荷物を全てまとめていきたいということだった。
包丁を取り上げられ、力を失った彼女は弱弱しくゴミや段ボールをまとめ始める。
「ここに住んでいたのか、寒くて窮屈だったろう。これからはボクの家で保護するよ。先輩の顔の傷はそれからだ」
探索メンバーの三人も、居住スペースの荷造りに協力する。
あらかじめ整理整頓されているため、横穴から生活の痕跡を消すのには時間がかからなかった。
「高山先輩、ごめんなさい。私の姿をした分身が失礼なことを言ったらしいですね」
「謝らないでください、私。謝るのは私のほうです。忍者になりたいのは事実でしたが、その独白を浴びせる場面を絶妙に間違えていました。忍者についての所感は、また後日お伝えしたいと思います」
お揃いの顔が並んで頭を下げている光景に、高山渚は、一瞬ではあるが、顔の傷を忘れて噴き出してしまった。
「いや、もういいよ。君達に敵意が無いのは伝わった。私も我を忘れて取り乱して済まない。色々と限界だったんだ。それよりも」
高山渚は興味深そうに備蓄の缶詰を眺める三ノ女に目を向ける。
「私の傷についてとは、どういうことだ?」
「ふむ。先輩の傷についてですけど、確証はないですが治せる可能性はあります。それに、こちらからも聞きたいことは山ほどあります。なので、まずはここを片付けてボクの家に移動しましょう。ゆっくり腰を据えて話したい」
それと、この缶は戦利品としていただきますね、といって三ノ女飛鳥は妖しげな表情で鯖缶を懐に入れた。
三ノ女邸は、相変わらずの豪華絢爛な佇まいを保って、使用人達もやはり変わらず、忙しなく走り回っていた。
光の届かないほど暗い坑道で、命を削る体験をした蒐にとって、その温かい光は、闇の中で何よりも安らぎを与えてくれる常夜灯に似ていた。
規模で見れば灯台と例えたほうがいいかもしれない。
山奥に潜む屋敷は、遥かな海の先に居る船を導く灯台のように、尾咲市の果てまでその光を轟かせていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様、お客様。お風呂の準備はできております。先に身体を温めてから食堂にお越しください。お荷物は私共が客室まで運んでおきます」
昨夜と同様、規則正しい動きで出迎えた使用人が告げる。ロビーの脇には、それぞれに就く使用人達が控えていた。
「昨日と同じだね。先に風呂に入ろう。瑞穂と高山先輩はボクと一緒に入ろう。各学年の偶像が一堂に会することなんて滅多にない。ここで親睦を深めようじゃないか。寄名君は使用人に背中を流してもらうといい」
「だから、流さないですって」
軽口を叩いて大階段を上る。
初めて訪れる三ノ女邸に高山渚は狐につままれたようになっていたが、大人しく使用人や三ノ女の言うことに従っていた。
彼女はマスクを外しているのだが、三ノ女家の人々は、人ではない存在を見慣れているのか気にも留めていない。
二階に辿り着いて男女で分かれる。
目の前には、昨日から蒐に就いている使用人。
横目でじっと蒐の顔を見つめている。
「な、何か顔についてます?」
「いえ、浴場はこちらです。お背中はお流ししなくてもよろしいでしょうか?」
「使用人さんまで……大丈夫です、一人で出来ます」
「かしこまりました。着替えは脱衣所に置いておきます。制服は昨日同様、洗濯しますので脱衣所に放置しておいてください。あと、お嬢様たちの入浴は長いのでゆっくりと湯に漬かっても問題ないかと」
使用人は伏し目がちに丁寧に説明する。客人にはこのように説明するのだと教え込まれているようだ。
「わかりました。丁寧にありがとうございます」
「それでは、また後ほど」
蒐が浴場に入るのを見届けてから、使用人は本来の仕事に戻っていった。
坑道での汚れを綺麗に洗い流した後、細かな擦り傷等を使用人に手当てしてもらい、蒐は食堂に向かう。
使用人に案内されて食堂に入ると、女子達の姿はなく、その代わり長机の端で食事を摂っている男女入り混じった団体の姿があった。
蒐と同い年くらいの女性もいれば、中年といっても差し支えないほどの男性もいる。出で立ちや風貌も様々で、恰幅のいい男性や小柄な女性、知的な眼鏡をかけた人物もいれば、プロレスラーのような筋骨隆々の人物までいる。
全員スーツを着ていて、無言で食べ物を口に運んでいた。
人数にして八人。恐らく三ノ女家で働く社員と呼ばれる人たちだろう。
彼らは入ってきた蒐には目もくれず、目の前の豪華な料理に集中していた。
ただ唯一、蒐と同じ年齢くらいの女性だけが視線を向けたが、興味がないのかすぐに食事に戻っている。
その姿を確認した使用人は、慌てた様子で頭を下げていた。
「し、失礼しました。まだ皆さまがいるとは思っておらず……寄名様、食堂ではなく客室にてお待ちください。準備が出来次第、呼びに伺います」
半ば追い出されるように食堂から退散した。
そのまま客室まで案内される。
「昨日と同じ部屋だろう? わざわざ案内しなくても」
「いえ、広い屋敷で迷ってしまっては万が一ということもあります」
要は、屋敷の中で怪しい動きをしないか監視しているということだった。
「さっきの人達はここで働いてる人達なのかい?」
「ええ、皆さま三ノ女家を支える、私共使用人の主達です。先程は殺伐としておりましたが、普段は多くの会話を交えて楽しく食事をしているんですよ」
蒐の抱く疑問が顔に出ていたのか、使用人は質問するより先に答えてくれた。
「そうか、なら挨拶したほうが良かったのかな。当主である三ノ女先輩を借りている形になっているわけだし」
「いいえ、お気になさらず。お嬢様が居ないときの手筈も整えてありますので……それに、寄名様が心配することではありません」
蒐の客室が近くなり、後ろを歩いていた使用人が扉を開けるため小走りで追い抜いていく。
昨日と同様、豪華な紋様と家具を拵えてある高級ホテルの一室のような客室。
その客室の主を迎え入れるように、使用人は扉を開けて、不相応な出で立ちの賓客の入室を促す。
「昨日よりもいっそう掃除は行き届いていると思います。短時間ではありますが、こちらでごゆるりとおくつろぎください。準備が整い次第、呼びに参ります」
丁寧なお辞儀と共に扉が閉められる。
手持無沙汰な蒐はとりあえず窓際まで近寄り、外の景色を眺めた。
これも灯台下暗しというものだろうか、光り輝く屋敷からは、尾咲市は暗すぎて様子をうかがうことはできない。
この街のどこかに、行方不明になった女子生徒たちが居るのだろう。
きっと、高山渚が全ての解決のカギになると信じて、命がけでつかんだ手掛かりの結果を待ちわびた。
入室からすぐに、食堂まで案内された。
先程まで食事を摂っていた社員たちの痕跡は全て無くなっており、、代わりに蒐たちの食事が用意されていた。
食堂には暖炉が設置されていて、その暖炉を中心として左右対称のつくりになっている。
その暖炉も手入れの方法を知る人は一人もおらず、使うと山火事と勘違いされるかもしれないとのことで使うことはないらしい。
そんな無用の長物と化した暖炉から見て、右側に蒐と巣南、左側に三ノ女と高山の食事が並べられている。
「さて、食事にしよう。今日はちょっとしたお祝い、事件解決のための進展があったということでね。うちの料理長……といっても使用人なんだが、彼女が一番得意にしている料理をお願いしておいた。最高に美味いと思うよ」
用意されていた料理は卵かけご飯と豚汁だった。
「日本有数のブランド卵と最高級の白米。豚汁に使われている豚肉も国産の人気銘柄だ。あと野菜を育てるのが趣味の使用人が居てね、野菜は家庭菜園で採れたものだよ。とても美味しいと思う、是非食べてくれ」
この時間だから高カロリーな食事はやめといたんだ、と言って三ノ女は箸をつけた。
館の主が箸をつけたのを確認して、残された三人も食事にありつく。
いわゆる時短、質素と呼ばれる方向性の料理だとは思うが、食材や調理法、かける手間暇、使用する器、そのすべてにこだわりを感じる逸品だった。
まずは恐る恐る一口、続いて確かめるように二口目、味を噛みしめるように三口目、無心に箸を進めて、用意された料理はすぐになくなってしまった。
夢中で食べ進めてしまい、後ろに控える使用人が嬉しそうにしていたことには気づかないほどの美味しさだった。
高山渚は歯がむき出しになっていることから、食べにくいのかと思ったが、器用に食べ物を摂取していた。伊達に坑道で生活していたということではないらしい。
全員が食べ終えるのを待ってから、それぞれの後ろに控えていた使用人達が食器を下げる。
その後、使用人達は併設されているキッチンから紅茶を入れたポッドと茶器、お茶請けを用意して、それぞれの前に置いていった。
「パックではなく茶葉だよ。オレンジペコーだ。使っている磁器も、この銘柄専用の最上級のモノだ。今日は疲れたろう、これで癒されてくれ」
淹れられた紅茶は美しく透明ではあるが、綺麗で鮮やかなオレンジに近い茶色をしている。
食堂の明かりに照らされて、宝石のように光り輝いている。
お茶請けのシフォンもこだわりがあるのだろう。
横に座るシフォンに心を奪われている巣南の顔も、輝いて見える。
「さて、まずは高山先輩から話を聞こう。怖がらなくていいよ、ボク達は貴方の力になるために居るんだ」
一族の主は慣れた手つきで上品に磁器を扱う。魅力的な唇を器に付ける姿はやけに煽情的だ。風呂上がりの効果で二割増しということもある。
「貴方の身に何が起きたのか、出来るだけ詳しく話してくれ」
その声を境に、食堂には静寂が訪れる。
口裂け女の力に依存していた高山渚は、怯えた様子で脆弱な雰囲気を纏っていたが、食事を終えたころには一転して、一本芯の通った強い瞳をその目に浮かべていた。
そして、訪れた静寂を飲み込むように、懺悔室で罪を告白する罪人のように、高山渚はぽつぽつと語りだした。
高山渚と白川和泉は、日曜日に繁華街へ遊びに出かけた。
二人は三年生。三年生は入寮が義務付けられる。寮生である二人には当然、学園が指定する門限があり、その時間までに帰らないと厳しいペナルティを負うそうだ。
しかし、思いがけないトラブルでその門限に間に合わない可能性が出てきた。
だから三年生だけが知っている秘密の山道を通ることになった。
尾咲市の東部の山の麓から伸びている道で、一見すると獣道だが山を直進して登っていける道らしく、かなりの近道が可能とのことだ。
その獣道の中腹、開けた空間、
「そこで私と和泉は異形のモノに出会った」
よほど怖い思いをしたのか、震える身体を抑えるため、両手で自分を抱くようにしている。
「姿はよくわからなかった、目の前の空間がぼやけて視える以外には、私には声しか見えなかった。ただ…」
「ただ?」
「糸が、張り巡らされていた。蜘蛛の糸みたいな。その糸に和泉は捕まって、繭みたいにぐるぐる巻きにされた。私が、和泉を返してほしいって言うと、その目に見えないもやもやが、私の顔を切り裂いた」
高山は自身の頬に触れる。むき出しになった歯を指で確認し、苦しそうに顔をゆがませる。
「あとは、内面や外見がどうたらとか言ってたけど、痛みを我慢していたからよく聞こえなかった。そして目の前に包丁が置かれて、この小娘を返してほしかったら、生贄を連れてこいって言われた。助けるためには従うしかなかった。ただ、あいつは約束をしてくれた。必ず和泉は返す。捕らえた生贄も命は奪わない。だから安心して連れて来いって」
異形のモノの姿を想像してみる。蜘蛛の巣のように糸を張り巡らしていたという言葉から、安直だが大きな蜘蛛を想像したが、どうなのだろう。
大きな蜘蛛が糸で人々を捉え、高山渚には、人にとっては凶器ともいえる大きな足で切りつけた。たまたま傷つけた顔が、口裂け女に似ていたことから包丁を授けたのだろうか。
「それからは貴方たちが想像している通りだと思う。私は夜な夜な生贄を探して歩き続けた。都合よく一人でいる女性をね。山の麓の近辺に居れば帰りそびれた生徒を見つけられると思った。最初は一人、会話で納得してもらおうと思ったけど、不幸にも怪我をさせてしまった。その人には申し訳ないけれど、和泉を助けるために、山の中腹に連れて行ったわ」
高山は震える声で話し続ける。
最初の咎を犯した部分では、声だけでなく指や身体全体も震えていた。
「連れて行ったときはどうだった? その異形のモノとやらと何か話したかい?」
「いや、何も。会話らしい会話などなかったよ。和泉を返せと言ったら、まだ足りないと言われただけさ。そこからはどうすることもできず、あの坑道に戻るしかなかった。逆らって殺されでもしたら、和泉を助けることもできなくなる。きっとたくさんの人を持って行かないとならないんだろうと諦めた気分になってね」
「まだ足りないという言葉は引っかかるね。しかしこちらの予想通り、黒幕が居ることが確定した。口裂け女として高山先輩に犯行を肩代わりさせている以上、彼女を保護している限り被害者は現れない。今日は誰も手にかけていないんだね?」
「ああ、今日は誰も見つけられなかった。だからこそ不安だ。たった一日だが、それでも時間を置いた場合、捕まっている和泉が酷い目に合っていないか心配になる。今もだ」
「ですけど、その、異形の存在は傷つけることはないと約束したんですよね?」
「ああ、そうだ。確かめる術はないけどね」
確かに、たしかめる術はない。さらには実害として顔を切り裂かれている。自身の傷口を確認するたびに、不安な気持ちに駆られるのだろう。
わずかに訪れた沈黙を好機と思ったのか、蒐の中の青行灯が食堂に現れた。
「急な登場で申し訳ありません。それと高山様、私は青行灯、この世界で怪異と呼ばれている存在です」
急な珍客の登場に高山は目を見張る。しかし坑道に続く二度目の
使用人達は三ノ女の事情に精通しているためか、急な怪異の登場に動じることもなく、事の成り行きを静観しているだけだった。
「気休めかもしれませんが、怪異が交わす約束には力があります。そう簡単に破れるものではありません。捕まっている方々が無事である可能性は高いかと思われます。高山様が生贄を用意するというのも、一日一人というノルマを課されていない限り、破ったところで、それが原因で和泉様が傷つけられることも無いでしょう」
「青行灯、それは本当か?」
「ええ、本当ですご主人様。怪異にとって約束や契約とは大切なものです。存在自体が不安定な我々怪異が、現世という次元との関係を繋ぎとめるためには、ある程度の信仰心も必要になります。それは畏怖でも信心でも何でもいいのですが、その地に住まう生き物、地球の生物に知られていることが大切なのです。その生き物との約束を反故にするなど、存在の力を小さくしてしまう愚策にすぎません。その異形のモノがどういった怪異かを断定するだけの情報はありませんが、この地で悪だくみをしている以上、自身の力を弱めることはしないでしょう。ただでさえ、この地には三ノ女様や、ナーシェ様、そして禁忌の山に住まう存在が居ます。恐らく対抗するための力を蓄えているんでしょうけど、それで弱体化してしまっては本末転倒ですからね」
伝えたいことは全て伝えたのか、青行灯は蒐の中に撤退した。
「ふむ、青行灯の言葉を真に受けるのであれば、捕まっている人々は無事だということだ。とりあえずは安心していいだろう」
「ま、待って。貴方たちは、あの変な生き物の言うことを信じるのかい?」
さらっとその場をまとめた三ノ女に高山は食らいつく。
興奮して荒げた息がむき出しの歯の隙間から漏れ出て、奇妙な音を響かせている。
「高山先輩。今は信じるしかないよ。今日はもう被害者は出ない。行方不明の少女たちは無事。少なくともこれだけは分かった。ならば、今日はゆっくりと休んで、万全の状態で明日、異形のモノの退治に向かうべきだ。それにね、怪異というのは善悪に関係なく誠意のある存在なんだ。約束、契約、取り決め、ルールには従うものなんだよ」
黒幕がどういった存在だろうと、怪異である以上、その存在規模を維持するためのルールには絶対に従うという信頼がある。ということだった。
「高山先輩も疲れているだろう? 友人を助けるためにずっと奔走しているんだ。今日くらいゆっくり休んでも罰は当たらないだろう」
「し、しかし、そうは言っても」
「高山先輩。明日必ず貴方の友人を助けると約束します。今は僕たちを信じてください」
蒐と三ノ女の言葉に高山渚は揺らぐ。
一時的に怪異の力を扱う呪術師になったとはいえ、その経験はたったの数日間だ。
怪異と相対することを生業として、その秘儀を代々継いでいる三ノ女家の令嬢と、その身に怪異を宿して神秘を駆使する少年の言葉には、相応の含蓄がある。
それは、納得したくないが、反論もできない不思議な重圧があった。
「わ、わかった。君達に従おう。その代わり、明日必ず和泉を助けてくれ」
「ああ、当たり前だとも。それと高山先輩の傷のことだけど」
傷、口の端から耳の付け根まで裂けている大きく醜い傷。
「傷を負ってから数日が経っているというのに、肉体がその傷を塞ごうとする兆候が見られない。ある程度の細胞の形成が見られてもおかしくないが、その様子もない。その傷は恐らく呪いの類だ」
「呪い?」
「ああ、人や社会といった対象の不幸を望んだり、逆境に立たせたり、または悪意を持って災厄をもたらさんとする行為。今回のケースなら、その傷口が治ることはないという不幸を与えられている。うちに治癒が得意な社員がいるんだが、解呪しない限り治すことはできないと言われてね。十中八九、東の山の中腹に巣くう異形のモノとやらが呪いの元凶だろう。裏を返せば、そいつを退治すれば、先輩の顔の傷は治せるということだ」
「ほ、本当に治るのかい?」
高山は信じられないと言った視線を三ノ女に向ける。
「ああ、治るよ。本人の目の前でいうのも酷だが、その程度の傷なら元通り以上に治すことが出来る。それより酷い傷を負ったことのあるボクが言うんだ。間違いないよ」
三ノ女は高山の傷口に手を添える。
「綺麗に治った君の顔が早く見たい。それに、ボクは三ノ女家の人間だ。この地に住まう人たちを助けるのは当然の義務だよ」
そう言って、三ノ女は立ち上がる。
事件の沿革は整理できた。続く話は後日にしようということだろう。
「さて、もう日付も変わっている。僕たちは明日も学校があるんだ。早く寝て明日に備えよう。ああ、高山先輩はうちで休んでていいよ。久々の快眠を貪るといいさ」
いいながら足早に食堂から退室する三ノ女家の令嬢。控えていた使用人もそれに続いて姿を消した。
喋るべきことを喋ったら、次の行動に移る。
次の行動とは、休むということだった。
「ではお客様方、それぞれの客室にご案内します。朝になったら起こしに参りますので、ごゆるりとお休みください」
食堂の椅子に座った三人の客を急き立てるように使用人は告げる。
三人は顔を見合わせて、その指示に従った。
巣南はだんまりを決め込んでいたが、疲労の色が顔に浮かんでいる。すぐにでも眠ってしまいそうだった。
高山は未だ現状を把握できていないのか、混乱状態のようだ。だが、その思考を落ち着かせるために休眠に入るのは大切だろう。
三人は各使用人に案内されて宛がわれた客室に入った。
かつてないほど怪異の力を酷使した蒐の身体には、疲労が蓄積していた。
温かくふかふかなベッドに横になった途端、急激な睡魔に襲われ、深い睡眠へと誘われた。
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