11月16日 3
今日は獲物が見つからなかった。
異形のモノが提示した条件は、一日一人、少女を山の東側にある開けた空間へ連れていくこと。
それが和泉を解放する条件だった。
あれの目的が分からない以上、この苦行がいつまで続くかもわからない。
ただ、捕らえた少女に危害を加えることはないらしい。
その言葉の真偽を確かめる術はないが、今は信じるしかなかった。
一人の友人を救うために、多くの他人を犠牲にしている事実に眼を逸らしながら。
「……!!」
微かに聞こえた声に反射的に体が反応する。
切り裂かれた頬の隙間から空気が漏れる。
大きく開いた口は上手く言葉を発することが出来ない。
思い通りに言葉を発せないストレスから、醜く声にならない声を荒げてしまう。
感情の発散方法がそれしかないみたいに。
獲物を捕らえられなかった高山渚は、隠れ家にしている尾咲市東部の山の地下に掘られた坑道に帰ってきた。
これは小休止。
休んだらまた街に繰り出し、うら若い少女を探す。
しかし、夜も深くなったこの時間に外を出歩いている少女はいないだろう。
それでも、和泉を助けるためには探すしかない。
最悪のケースとして、学園の寮を襲うことも視野に入れていた。
考えているうちに、寝床にしている横穴に辿り着いた。
怪異のエッセンスを帯びた包丁を与えられたことにより、呪術師になったとはいえ、カロリーを消費して生きるヒトである以上、空腹にもなるし水分だって必要だ。
今は一分一秒も惜しい、すぐに栄養補給をして狩りに出かけなくては。
高山渚は聡明な少女だった。
あの日、無情にも友人を捕らえられ、身も心も深い傷を負った夜。
あるがままの現実を受け入れ、冷静に異形のモノの要求を聞いた。
その後は街に降り、たまたま見つけた坑道の中で、痛みと流血に耐えながら朝を迎えた。やっと血が止まってきたと思うと同時に、授業が始まって無人となった学生寮に戻る。そして私服や食料、防寒具、備え付けの医療キットを抱え、とんぼ返りのように坑道に戻って簡易的な拠点を作った。
およそ一人では持ちきれない量の荷物を、軽々と抱えられた事実を自覚した時、異形のモノに出会って自分が人ではなくなってしまったのだと実感した。
それは何より、この傷跡が証明しているのだろう。
段ボールや新聞紙は道を歩いていればたくさん転がっていた。
それらを使って簡易的なベッドを作る。
寝心地は思ったよりも悪くない。
坑道内は風が無く、無駄に暖かい。
道に溜まった水による湿気た空気さえなければ、及第点といってもいいくらいだ。
たった数分で人生が逆転した渚は、
たった一日過ごしたこの拠点が、唯一の安息の地となっていた。
誰が見ても美しいと評したその顔は、異形のモノの手によって大きく裂かれ醜くなった。その顔は人を不快にさせるだけでなく、明確な
だから大きな布で顔の半分を隠し、周囲の視線を浴びないように、視線を感じないように下を向いて街中を歩いた。寮の自室にある食べ物だけではとても一日と持たず、買出しに出る必要があった。ただ、必要以上に不信極まるその態度が周囲の視線を引き付けた。自由奔放に、どこまでも飛んでいく鳥のように過ごしていた彼女は、逃げるように生活をするようになった。
逃げるような生活は
その中で、まともに話せる言葉が一つだけあった。『私、綺麗?』というフレーズ。それはあの包丁の力を使うための詠唱だった。
力を使っている時は痛覚が薄くなった。まともに話すこともできる。嬉しくなった。
覚悟を決めて少女を探した。
決して襲うためではない。話をして説得するためだ。
あてもなく歩き回り、尾咲市の西側で少女を見つけた。
学園で見たことがある。同じ学年の女の子だ。
話したことはないが、見かけたことはある。
渚は目立つ格好をしているから、あちらはこっちを知っているだろう。
ならば好都合だ。説得して和泉を助けるために協力してもらう。
そのためにあのフレーズをつぶやく。
痛みのない体で淀みなく話すために、力を解放するフレーズをつぶやく。
目の前の少女は、化け物でも見たかのように泣き叫んで逃げだした。
まずい、と思った。
逃げ出すのは、この姿を見られて逃がすのはダメだと本能的に感じた。
心無い人々にこの姿を知られることでどんな迫害を受けるか、容易に想像できる。
それ以上に、私が居なくなったら和泉を、あの優しい少女を助けることが出来なくなる。
危害を加えるつもりはなかった。
意思の疎通ができる相手に手を上げるなんて考えられない。
だが、この身体は意に反して動いた。
誰かに操られているようだった。
きっとあの異形のモノだ。
和泉を捕らえたあの糸で、私の身体を糸人形のように操っているのだ。
目の前には傷ついて倒れた少女。
失意と虚無感に包まれて、私はその少女を山まで運んだ。
「あ、あああ、ああああああああああああああ!!!」
唯一安心できる坑道、寝床にしている横穴に帰ってみたら、そこには真新しい足跡があった。
足跡は二人分。大きさからして片方は少女だろう。
昨日、遭遇した人たちだろうか。
あんな凶暴な人たちに目を付けられたら、絶対に助からない。
「う、うううう……」
涙が溢れる。
ここは安息の地ではなくなった。
唯一安心できる場所は無情にも簡単に、他人に踏み荒らされてしまったのだ。
悔しくて涙が出るが、痛みでまともに声も出せない。
その時、坑道の奥で物音が聞こえた。
「……!!」
坑道の奥、横穴二つか三つ分だろうか、それとももっと奥?
確かに聞こえた。少女の声だ。
耳を澄ましていないと聞こえないほどの音量。
声の主は、坑道のもっと奥にいるかもしれない。
この坑道については理解している。この奥は塞がっている。
横穴もほとんどが行き止まりだ。
それに、直線しかないこの場所で、今の私から逃げられる人間なんていない。
寝床にしている横穴から出て、坑道の奥に向かう。
一つ二つ、一歩また一歩と横穴を通り過ぎるたびに中を覗き込むが、少女の声や息遣いはおろか、人の姿すら見えない。
確かに聞こえたあの声は、過度なストレスが生み出した被害妄想だったのだろうか。知らぬ間に私は、そこまで精神的に追い詰められていたのだろうか。
等間隔で空いているはずの穴も、不自然に埋められている気がしている。
後ろ向きな考えを拭うように包丁を構え、無駄な思考で止めていた足を動かして奥に進んでいると、背後から物音が聞こえた。
「―――、―――!!」
遠目では良く見えないが、制服姿の少女だろうか、通り過ぎた横穴に隠れていたらしい。
運がいいのか悪いのか、隠れて脅威をやり過ごしても、安全に逃げようと策を巡らせていようが、物音を出してしまっては意味がない。
何を発しているかは聞こえないが、何やら声を出しているようだ。
家を訪ねるように『ごめんください』とでも挨拶をしているのだろうか。
浅はかだ。その行動で、口裂け女である私に見つかった時点で、終わりだというのに。
まずは対話。逃げるようであれば捕まえる。決して乱暴はしないからお願い逃げないで、
「―――!! ――――――!!!」
少女は逃げ出す。バタバタぴちゃぴちゃと大げさなほど足音を響かせて。
「……私、綺麗?」
高山渚は少女を捕まえることに決めた。
高山渚がこちらに気づいたことを確認してから、巣南瑞穂は全速力で坑道の入り口まで走る。
大切なのは初動。
いくら巣南が健脚であろうと、怪異の力を帯びた呪術師のスピードには適わない。
だから、相手が追いかけ始める前に視認できなくなるほどの距離を取り、横穴に飛び込んで奥まで逃げる。横穴の入り口は
坑道の入口まで走るという選択肢では高山渚に捕まってしまうだろう。だから横穴でやり過ごす。
要は逃走版のヒットアンドアウェイだ。ステルスアクションとも。
相手の隙をついて逃げ出し、チャンスが巡ってくるまで隠れて身を潜める。またチャンスが巡ってきたら逃げ出す。
暗い直線が続く坑道での決死の鬼ごっこ。鬼は口裂け女で、見つかれば訪れるのは死だった。
巣南が飛び込んだ横穴はしっかりと、穴の入り口が塗り壁で塞がれている。
(はあ、はあ……寄名君と離れてはいるけど塗り壁はちゃんと出せたのね。それなら一安心)
ほっと一息つく。距離を考えると、あと一度全力で走れば外までは行けるだろう。
通常の口裂け女の力であれば、寄名蒐が唱えた塗り壁は切り裂けない。この横穴にいるうちは安心だ。
この鬼ごっこを坑道の入り口まで続け、外に出たら三ノ
巣南は横穴を塞いでいる塗り壁に近寄り、耳を澄ませて通路の音を確認する。
(高山渚は……近くにいるわね。この横穴付近をうろうろしている)
歩くたびにぴちゃぴちゃと鳴る、通路に張っている水が情報源だ。
高山渚は、巣南の居る横穴辺りを右往左往している。
ときおり壁を叩いて、感触を確かめている音が聞こえてくる。
(……まずいわ、見つからないわよね?)
巣南は塗り壁に耳をくっつけて、高山渚の行動を少しでも把握しようとした。
(……!!)
衝撃を感じて横穴の奥に飛び退く。
巣南の耳にはがりがりと嫌な音が響いていた。
高山渚が塗り壁を包丁で傷つけているのだ。
(うそでしょ!? 気づかれた? ちょっと、これからどうするのよ……!!)
例えるなら彫刻刀で木材を削る感覚。いや、もっと乱暴に刃を突き立ててこの壁を抉っているみたいだ。
削る音が深く重くなるたびに、空気の振動が巣南の下腹に積みあがるようにのしかかる。
(まずいわね、塗り壁はもつのかしら? 耐久力は? 少しずつ傷つけられても平気なの?)
横穴の奥は目に見えないが塞がれている。侵入されてしまったら逃げ場はない。
巣南は自ら袋小路に飛び込んで安心していたのだ。
(高山渚は昨日、寄名君と接敵した時に塗り壁を見ている。それと同じだと気づかれたら、もしかすると……)
壊されるかな?と思案した直後、壁の外から悲痛な叫びが聞こえてきた。
同時に、乱暴に振り回された包丁によって塗り壁が切り裂かれる。
巣南瑞穂が隠れている横穴に、口裂け女となった高山渚が入ってきた。
息を切らした高山渚の、涙を浮かべながらも射貫くような視線が横穴に隠れる少女を捕らえる。
横穴の奥まで逃げようとした巣南だったが、口の端から耳の付け根まで大きく裂かれ歯がむき出しになっているその顔を見て、足が動かなくなってしまった。
(な、何よあれ、あんな風になるなんて……とても正気では生きていけないわ)
それは恐怖による震えで動かなくなったわけでも、逃げられないと悟って諦めてしまったわけでもなく、目の前の女性を
傷ついた顔や横穴の生活で汚れた身体を見てもわかる。この人物はとても可憐で麗しく、芯の強い女性だということが。
穢れた身であろうと清廉潔白に努めようとしたのだろう。丁寧に整えられた拠点や、背筋の良さから溢れる気品は失われていない。
彼女のトレードマークであろう金色の美しい髪は、色あせることなく輝いている。
何より、友のために涙を流して罪を犯す彼女を、簡単に否定することができない。
だが、高山渚からは、巣南瑞穂が恐怖で足が
「私、綺麗?」
渚は、彼女を呪術師たらしめる呪詛をつぶやく。
手に持っている包丁は、血が滲んだような、どす黒い赤色で輝いている。
(今は逃げるしかないか、数秒くらい時間を稼がないとね)
巣南は尻もちをついた姿勢から足に力を入れて、横穴の奥に走り出す。
それを見た高山渚は悲しい表情を浮かべた。
「そう、あなたも逃げるの。ならまずは捕まえないと……お願い、逃げないで、私にこんなことをさせないで」
「……??」
どこか釈然としない展開を感じるが、足を止めることはない。この横穴がどこまで続いているかわからないが、行けるところまで走るつもりだ。
だが、現代の口裂け女を甘く見てはいけない。
たとえ極東の島国が生んだ、近代の都市伝説だろうが、
それは、人の想像程度で追いつく現象ではないのだ。
高山渚は姿勢を低くして構えを取る。そして両足で地面を蹴り、文字通りロケットのような勢いで巣南瑞穂との間合いを詰めた。
「塗り壁!!」
高山渚が横穴に入っていったのを確認して蒐は再度、横穴の入り口に壁を貼る。
その隙に一気に坑道を入り口まで突っ走る。
蒐は、同じく目の前で坑道を走っている巣南瑞穂に声をかける。
「巣南さんはそのまま入り口まで走って、俺はここで高山渚を足止めする」
「おーけー、すぐに飛鳥先輩を呼ぶから待ってなさい」
坑道に佇む門番として、幾分頼りになりそうな表情をした少年は、口裂け女を逃がさないために立ちはだかる。
「な、なんで?」
高山渚は考える。これはおかしい。あれは昨日遭遇した少年だ。少年が扱う奇妙な壁だ。目の前の少女は初めて見るが、少年の関係者のはずだ。なぜ彼女を見捨てて自分だけ助かろうとする、いったい誰に話しかけていたのか。
再度目の前の少女に目を向ける。彼女は尾咲学園の制服を着ている。女性の体形を強調する上品なロングスカートの制服は、尾咲学園にしか存在しない。
間違いなく、同じ学園に通う生徒だ。
「??」
目の前で少女の姿が揺れる。
湖に映った姿が波紋で乱れるように、目の前でノイズが走ったような現象を起こし、少女は奇怪な断末魔を残してその姿を消した。
「ふっふー、騙されましたね! 私はドッペルゲンガー、貴方たちの言葉でわかりやすく言うと分身です。私はくのいちに憧れていたこともありましてね、今日は記念すべき忍術デビューだったのです、忍忍!」
場の空気にそぐわない、相手を馬鹿にしたようなセリフを受けて高山渚は
「な、なんで……どういうこと」
高山渚からすると、怪異も、呪術も、初めて見た日から二日しか経っていない。
恐ろしい出来事に加えて、初めて見る奇怪な現象に折り合いをつけて今日までやってきていたが、今の気の抜けたやり取りで、心の中にある何か大切なモノが折れた気がした。
「な、なんなの、馬鹿にしているの、醜くなった私を、和泉を守ろうと手を汚す私を、そんな風に馬鹿にして楽しいの…!!?」
再度塞がれた壁に向かって、口裂け女は突撃した。
今度は塞がれず、一撃のもと、その厄介な守りを両断した。
「!! きたか」
飛沫が上がるほどの衝撃で塗り壁が切り裂かれる。
いや、切り裂かれるというより、吹き飛ばされていた。
(にゃ、今日の我、こんな役割ばかりなのにゃー!!)
後悔と怒りと自暴自棄の混じった塗り壁の本音が聞こえる。
「も、もう少し頑張ってくれ。三ノ女先輩が来るまで時間を稼ぐんだ」
(わかってるにゃ、最後の愚痴にゃ。我らは主に使われてなんぼの怪異。いくらでも使うがいいにゃ。猫缶のグレードアップで手を打つにゃ)
最近の重労働で、やけに打算的になった黒猫であった。
「それは青行灯に直談判してくれ、百鬼夜寮とやらの仕組みはわからないけどな、行け、塗り壁!!」
坑道内に再び塗り壁が形成される。
さきほどの横穴ではなく、一回り大きな坑道の道を塞ぐ壁が突如としてそびえ立つ。
だが、今の口裂け女にとって、それはただの紙切れと同じだった。
「こんなもの!!」
今までとは違う猛々しい叫びが響き渡る。
(なんだ、今までと違う。ドッペルゲンガーが彼女を煽ったのか? やはりあの性格とは相性が悪かったということか)
(相性が悪いってどういうことですかー!! ちゃんと巣南瑞穂を演じましたよ。最後だけちょっとふざけましたけど)
心の中のドッペルゲンガーが、眼を逸らしながら反論している姿が想像できる。なぜ最後の一言で、ずっと泣いていた相手を激高させられるのだろうか。
「くそ、ゲンガーは
再度塗り壁がそびえ立つ。
だが、先程と同様に無残にも細切れにされていく。
その後は一進一退、或いは五十歩百歩だった。
召喚された傍から切り裂かれていく塗り壁。
蒐と口裂け女、二人の距離は一定を保ったまま、牛歩のように坑道の入り口に向かっている。
だが、二人の関係は
「はあ、はあ、塗り壁!!」
召喚された塗り壁はすぐに切り裂かれる。
蒐は名前を呼ぶことで怪異を召喚している。或いは怪異の力を行使している。自覚は無くても蒐の持っている、呪力と呼ばれる目に見えない架空のエネルギーを消費している。その消費による蓄積は疲労として肉体に溜まっていく。
また、目の前で守りの要である塗り壁がいとも簡単に細切れにされているという事実が精神的疲労も積み上げていた。判断を一歩間違えれば手傷を負うという緊張感、道につまずいて転んでも終わりという現実が、疲労の集積に拍車をかけている。
もう何度も見た光景が、視界に飛び込んでくる。高山渚の顔に疲労の色は見えない。
「く、くそっ」
「もう諦めて、私の邪魔をしないで、和泉を助ける邪魔をしないで、面白半分で私の事情に関わらないで!!」
塗り壁を召喚しようとした蒐は、その気迫に圧され、足を引っかけて仰向けに倒れた。
口裂け女と化した高山渚はその隙を見逃さない。
怒りで赤黒い濃さが増した包丁を突き立てる。
(ま、まずい!!)
(ご主人様!!)
青行灯が盾になるように、身体の中から飛び出した。
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