11月16日 1

「寄名様、お目覚めください」

 凛とした声に誘われて、意識が覚醒していく。

 目が覚めて最初に飛び込んできたのは天井にあしらわれた豪華な紋様。

 歴史ある名家ということだが、予想に反して近代的な洋風の造り屋敷は、たとえ客間であってもその豪華さを損なわない。

 値段が想像もできない幾何学模様のラグに、サイドテーブルと椅子。就寝のためのベッドしかない簡素な部屋ではあるが、シンプルであるが故に気後れするほどの静謐さを伴っている。

 未だ横になっているベッドですら、今まで味わったことのないほど寝心地がいい。

「寄名様、お目覚めですか」

 傍らには、黒白のコントラストが映えるクラシックなメイド服に身を包んだ女性が立っている。

 歳は同じくらいだろうか、整った顔立ちはあまり視線が合わないように控えめに目線を寄越す。

「お目覚めでしたら制服にお着換えいただいて、身なりを整えた後に食堂にお越しください。恐らくですが、お嬢様と巣南様は既に集まっていると思います」

 寝起きで回らない思考が、ワンテンポ遅れてその言葉を噛み砕いていく。

 見慣れない光景の理由を考え始めるより先に、反射的に体が動いた。

 食堂、お嬢様、巣南様、既に集まってる。

「ま、まずい!」

 慌てて状態を起こす。

 ベッドの脇に立つ小柄な使用人は落ち着いた優しい口調で起こしてくれたが、発した内容は遅れているから急いで支度しろということだった。

 乱暴に曲解すると、四十秒で支度しな、でも三分間待ってやる。という感じだろうか。

「お、おはよう、起こしてくれてありがとう。えっと着替えは」

「制服はハンガーにかけてあちらにかけてあります。汚れておりましたので昨夜のうちに洗濯とアイロンをしておきました」

 淡々とした口調で三ノさんのめ家の使用人は告げる。

「そうか、ありがとう。急いで着替えて食堂に行くよ」

 名残惜しいが慌ててベッドから飛び降りて制服に着替えようとする。

 だが、降り注ぐ視線が外れる様子がない。

「えっと、今から着替えるんだけど」

「はい」

「えっと……」

 可愛らしい少女のような使用人は蒐を見つめたまま動こうとしない。

 着替えを手伝おうと考えているのか、勘違いでなければ無表情に近い表情に戸惑いが見える。

 むしろなぜ一人で着替えるのか理解できないといった佇まいだ。

「着替え、るんだけど……」

「お手伝いいたします。飛鳥お嬢様もそのようにしておりますし、その寝間着も回収したいので」

 まるでヴィクトリア朝時代の貴族の生活だ。

 使用人からすると仕事の一環で、当たり前の日常なのだろうが、さすがに同い年の女性をはべらせるような趣味は蒐にはなかった。だが有無を言わせないその迫力と、ただでさえ遅刻をしているという事実が、冷静な判断を狂わせた。

 男として、ほんの少しのよこしまな気持ちが無いわけでもない。

「わ、わかった。ならお願いしようかな」

「かしこまりました」

 蒐はショーウィンドウに佇むマネキンになった気持ちで、その場でなすがままになっていた。

 

「ボクが一人で着替えができないって? 誰から聞いたんだい、ボクはいつも一人で着替えているよ、制服の手入れは使用人が担当するけどね」

 やや遅れて食堂に到着し、待っていた巣南と瑞穂に一言詫びを入れて着席する。

 食堂に向かうまで、青行灯の怒号にも似た小言を浴びせ続けられ、若干の疲れを感じている。

 当たり前ではあるが、三人とも制服を着て身なりも整えてある。

 余談だが、食堂やリビングには身なりを整えて入室する暗黙のルールが三ノ女邸にあることを後から知った。

 生活感あふれる油断した姿を期待していたわけではないが、寝起きの様子くらい見たかったと、邪な気持ちが後を引いている蒐だった。

 三人揃ったことを確認して、キッチンから料理が運ばれてくる。

 それをテーブルの上に並べるのは、それぞれの使用人の担当。

 用意されたのは消化スピードと栄養バランスを意識した典型的な和食だった。

「もしかして、君を担当した使用人に聞いたのかい。感情の変化に乏しい子だけど、そんな悪戯心があったんだ。ああ、そういえば君は……」

 三ノ女は言いよどむ。そしてこの話は終わりだと言わんばかりに、無理やり話題を変えた。

「さて、食事後はリビングで少し休憩をして、車で学園まで行こう。いつも通り授業を終えた後はオカ研に集まって、丸腰の報告を受けよう。彼は今日も学園内で調査に奔走しているはずだ」

「あいつ、相変わらず意味不明ですよね。わかりやすいようでわかりにくいというか、興味がそそられるものの基準が曖昧というか。優秀なことは認めるけど、それをもう少し生活態度にも反映したらいいのに」

「曖昧ではないよ。むしろ好き嫌いや嗜好はハッキリしてるほうだと思う。常に男の浪漫が刺激される方向や、未知の体験を求めている奴だよ。面白そうっていう興味本位があいつの動力源だ」

「そうだね。本人が居ないところでこういうことを言うのは気が引けるけど、本人は決して語らないだろうから少しヒントを出そうか。彼は警察官の息子として、何不自由のない生活を送ってきたんだ。英才教育で作法や社交術なんかも完璧に身についている。多くの大人達も彼に対してはかしずくほどね。ただ、丸腰本人はそれが窮屈で退屈みたいでね。成績だけは上位をキープすることを理由に、あとは素行も態度も好きにさせろってことだ。親にも会いたくないみたいだね」

 三ノ女は未だ知らない丸腰の一面を淡々と語る。

 恐らく、今後もあまりスポットを浴びないであろう彼の人間性が分かる貴重な瞬間だった。

 巣南はその評価を聞いて『やっぱり私、あいつのこと好きになれないわ』と小さくつぶやいた。

 

 一行は三ノ女家の車に乗り込んで学園に到着した。

 二年生の三ノ女は自身の校舎へと消えていく。

 蒐と巣南も自分たちの教室へと向かってやがて授業が始まった。

 いつも通り淡々と日常は過ぎ、相変わらず丸腰は休み時間に奔走しているようで、学生達にとって退屈な授業は今日も何事もなく終わりを告げた。

 放課後の教室を眺める。仲のいい友人同士で帰路につくグループ、教室に残って教師の足止めに躍起になっている生徒、規則だって机を並べ徒党を組み宿題を済ませようとする一団。

 違和感など何もないいつも通りの風景だが、少し焦点をずらして観察すると、部活に向かおうとする生徒が一人もいないことに気づく。

(既に学期ごとの試験は終えて過去のものとなっている。私立高校である尾咲学園は冬休みに入るのが早くて、その期間も長い。十一月に試験を設けるのは、長期休暇中に補講を行わないようにするための施策だ。だから今の時期は、直近にある楽しい未来に向けて何の縛りも憂いも無く生活するだけの期間。部活が休みになったり禁止になる理由など何もない。なのになぜ、誰も部活に向かわない?)

 考えれば考えるほど深みにハマっていく泥のような思考だった。

 昨日、名前も姿もおぼろげになった金髪の生徒から告げられた言葉が心に残る。確かにこの学園には不思議が多い。

「何やってるのよ寄名君、早く部室に行くわよ。先輩が待ってるかもしれないわ」

 よく通る声で呼びかけられ、思考の海で漂っていた意識が浮上する。

 席に座ってぼんやりとしている蒐の目の前で、巣南瑞穂が覗き込んできた。

「どうしたの、昨日の今日で疲れているとか? 先輩にも言われなかった? 疲労を残して休むなんてことはないようにって、期待には答えなきゃ。でもどうしても辛いっていうなら、仕方ないとは思うけど」

 芯のある声が後半には気遣いの色を帯びていた。

 気を抜いていたわけではないが、心配されるほど様子がおかしかったらしい。

「いや、大丈夫だよ。疲れていない。少し考え事をしていたんだ。今回の事件とは関係ないと思うけど、大きな違和感というか、思い過ごしだといいんだけどね」

「??」

 目の前の少女は何を言われたのかわからず、表情だけで疑問符を投げる。

 あまり見ない、珍しい表情だった。

「そう……これでも結構心配してるのよ、昨日死にかけたって聞いたから」

「確かに死にかけたけど。大丈夫だよ。むしろいい経験になったと今は思ってる」

 昨夜目の前で起きた現象は今でも信じられないが、あれは紛れもなく現実だ。

 間近に迫る死の匂いも、砂塵が飛び散る中で睨み合う緊張感も、身体の中が膨張しそうになる威圧感も、その中で最初は身動きが出来なかった情けなさも。

 怪異や呪術師と呼ばれる者たちの戦い、その生業を実感して五体満足で無事でいることの幸福も。

 そのすべてを理解したうえで、いい経験になったと心から思ってる。


 寄名蒐は魔術師の家系に生まれているが、特殊な事情でその研鑽を一切積んでいない。

 本来であれば三ノ女飛鳥と同じ立場にいるはずなのだが、ただの一般人と同じ枠に収まっている。

 そのため、怪異がらみで起きる出来事は全てが初体験だ。

 実戦に基づく経験も、経験を凌駕できるほどの知識量も、何も持ち合わせていない。

 そんな中、すべてが無い物尽くしであると実感し、彼なりに精一杯考えた結果、自分にできることは一つだけだと悟る。

 それは、目の前で起きることはすべて有ることとして受け止める、ということ。

 目を背けるでもなく、有り得ないと思考を放棄することでもない。その現象に理由を付けられるだけの知識がないにしても、あるがままを受け止めて生きてゆく。ただそれだけだった。

 ぎこちなく手を組んで、心配する瞳を向ける少女を見つめる。

 彼女も、自分と同じような経験をする日が来るのだろうか、その時どのような答えを出すのだろうかと想いながら。

 なぜそうしたかわからないが、思わず頭を撫でる。

 たぶん、安心させたかったのだろう。

 想定していた以上に手触りのいいその黒髪をすくうように、優しく扱う。

 巣南は思わぬ行動に、放心したようにされるがままになっていたが、ハッとして慌ててその手を振り払った。

「な、何すんのよ!」

 顔を赤くして親の仇でも見るかのような巣南の声に、思わず吹き出してしまった。

「いいね、その調子だ。いつも通り凛とした君のままでいてくれ。むしろ俺は巣南さんのほうを心配してる。あの現場に遭遇して取り乱さない人なんていないだろうから」

「ふ、ふん。人が襲われる現場ってことでしょ。それこそ大丈夫よ、私なんて一度死んでいるようなものだし。何ならその時は貴方たちがいるんでしょ?」

 さも当たり前のように呟く目の前の少女。

 無条件に信頼されている事実にくすぐったさを感じるが、同時に根拠のない危うさも覚えた。

 文化祭の一件で巣南の過去を知ったはいいが、その時の心情までは測りかねる彼には、気の利いたセリフが思いつかなかった。

「……そうだね、俺はともかく巣南さんには三ノ女先輩がついてる。理由は分からないがナーシェだって君を心配している節がある。俺達は予想外にいろいろな人に守られているんだ。それを心に抱いていかないとね。さあ部室に向かおうか」

 蒐は立ち上がって教室の扉へと向かう。

 巣南もそれに続いて歩き出した。

「そういえば、一緒に部室に向かうのは駄目って言ってなかった?」

「ああ、それね」

 蒐は廊下から自身が所属するクラスの教室を覗き込む。

 誰も二人のことを気にも留めていない。

「俺の取り越し苦労だったみたいだ。人間ってのは思ってる以上に他人に関心がないらしい」

「当たり前よ。毎日忙しく生きているんだもの、みんな自分たちのことで精いっぱいでしょ、要らぬ苦労や心配は心の病気を招くわよ」

 いつもの調子を取り戻して二人は歩き出す。

 今日こそは口裂け女を捕まえねば。


「さて……昨日の行方不明者は二名だ」

 丸腰はありのままの事実を告げて殺人地図マーダーマップを更新する。

 尾咲市の西部と東部、それぞれの最後の目撃情報をその二か所として、二人の生徒が行方不明になっていた。

 蒐たちが探し回っていた生徒と同一人物である。

 部室内は静寂に包まれる。

 犯行を防ぐことが出来なかったという真実を如実に伝えているからである。

 その中でも、三ノ女飛鳥は努めて冷静に発言する。

「そうか、高山渚は犯行後に我々に接触してきたということだね」

「高山渚? 行方不明者の一人となってるはずだが、発見できたんです?」

「いや、一連の犯行の犯人が高山渚である可能性が高いということが昨日判明した。加えて別の問題もね」

 丸腰が付箋ふせんでさらなる情報を殺人地図に付け加えていく。

「高山渚が犯人っと……んで、別の問題というのは?」

「高山渚が犯人というのはほぼ確定だが、それだけではない。彼女は何者かに……そうだな、洗脳されている可能性がある」

 丸腰に怪異の存在は知られているが、三ノ女はあえて遠まわしな表現をした。

 彼の心情を気遣ってのことだろう。

 その無理のある物言いに丸腰は何かを悟ったようだ。

「ああ、そっち専門のヤマってことが確定したってわけですね」

「そういうことだね。人間離れした動きをして襲ってきた。だが意思の疎通ができることは確認できている。まずは彼女の確保が最優先だと思うね」

「そうですね、こっちも欠席してる生徒を調べることと、聞き込みくらいしかできませんし。そういえば、二日前保護した生徒をもう解放したんですね」

「そうだよ。ボクの家に居ることと、学園の寮に居ること、比べてみてもどちらも安全には変わりないからね。この学園は外敵からの攻撃に対して完璧な守りを誇る要塞だよ。外にさえ出なければ危険はないさ」

「それもそうか……俺からの報告は以上ですけど、何か聞いておきたいことはありますか?」

「そうだな……」

 二人は淡々と事実確認を積み重ねていく。

 感情さえ取り除いてしまえば、人間同士の会話などこんなものなのだろう。

 無駄な話がないため、短時間で簡潔に進んでいく。

「東部で目撃のあった生徒について、どこに向かう予定だったか情報はないか?」

「東部で行方不明になった女性は、山沿いの側道に向かっていった、っていうのが最後の目撃情報だ。時間軸でいえば先に西部で犯行に及んで、東に向かっているな。なんだ、東は蒐の担当だったのか? 一番目撃情報が多いのによくやるぜ」

 蒐は微かに首をうなずかせるだけで返す。

 山沿いの側道は口裂け女と遭遇した場所だ。あれは犯行直後だったのだろうか。

「それだと西部でさらった女生徒はどうなったのかしら? 西部で犯行に及んで、生徒をどこかに運んで、そこからわざわざ東部に向かったってことよね?」

「そうなるな、ご苦労なこった。だが、お前らの話だと既に人外に近いんだろ? 別に不可能な犯行ってわけじゃない」

 巣南の問いに答える丸腰は柔軟な視野で事件の概要を組み立てているようだ。

 常識にとらわれた凝り固まった思考では、分かるものも分からないのかもしれない。

「ふむ、ボクからの質問は特にないね。明日も頼むよ、丸腰君」

「ええ、わかりましたよ。じゃあ蒐と巣南、あんま気を張りすぎんなよ。お前らまで行方不明になったら、俺がこの部室を魔改造しちまうからな」

 まるで余計な情報が入ってくるのを避けるように、丸腰はすぐに部室を後にした。


「さて、今の三人の受け答えから、高山渚が東部に潜んでいる可能性が高いことが分かったね」

 丸腰が出ていったことを確認してから三ノ女は口を開いた。

「飛鳥先輩、今のでわかったんですか?」

「正確な場所までは分からないけどね、消去法だよ」

 昨夜の犯行の時系列が西部の次に東部だったということ、昨夜の接触後に西部や南部に向かったと仮定しても、三ノ女飛鳥や白いバンを運転していた三ノ女家の精鋭の視界を潜り抜けるのは不可能ということ、西部は三ノ女の土地、南部は繁華街、目立つ容姿をしている高山渚が見つからないわけがないということ、東部のはずれはほとんど家屋が建っておらず、隠れ潜むには最適であるということ、行方不明者の目撃情報が東部に集中していること

「以上の点から、東部に潜んでいる確率が高い。昨日会敵した地点からさらに東ということだね」

 言いつつも三ノ女は浮かない顔をしている。

「どうかしましたか?」

「ああ、いや、昨日西部で入れ違いで犯行に及んでいるとは思わなかった。気づけなかったことが悔しくてね」

 こんな事件一つすら最小の被害で解決できないとはね、と続ける。

「今日で必ず捕まえよう。もう出し惜しみは無しだ。今日の寮の調査結果がどのようであろうと、ボクはボクのやり方で尾咲市中を探してみるよ。たまには本気を出さないと腕が錆びる」

 口調こそは穏やかだが、その目は獲物を待ちわびる狩人のようだった。

「飛鳥先輩は単独行動をするってことですか?」

「そのほうが動きやすいからね。大丈夫、君たちのことを意識したまま動き回るからさ。何かあったら秒で駆けつけるよ」

「昨日の三ノ女先輩ならホントに秒で駆けつけそうですね」

 昨日の少女三ノ女怪異ナーシェのぶつかり合いを思い出す。

 まるでアニメで見るアクションシーンみたいだった。

「まあ、探索の方針は寮の生徒を調査してからだ。今は違う話をしよう。幸いまだ少し時間がある。何か気になることがあるなら話しておこう」

「気になることか、だったら……」

 蒐は昨日の光景と会話を思い出す。

 人間離れしたスピードを持つ口裂け高山渚、異常な力を持つ包丁を。

「昨日、口裂け女の持っている包丁が塗り壁を切り裂いたり、逆に切り裂けなかったりしたんです。あの仕組みは一体どうなっているんですか」

「…なるほど、それは一言で答えるのは難しい質問だね」

 三ノ女は頭を掻く。

「青行灯に聞いたほうが早いんじゃないのかい? 怪異呪術呪力呪術師については、ボクより実際の怪異である彼女のほうが詳しそうだ」

 たんに説明がめんどくさいだけかもしれないが、確かにその通りかもしれない。

 最近外に出てきてなくてストレスも溜まっていそうだ。

 ここは一度、たくさん喋らせて発散させておこう。

(聞こえてますよ、ご主人様)

「わかってるよ、済まない。出てきてくれ」

 蒐が言い終わる前に青行灯が現界した。

「みなさま、お久しぶりです。青行灯です。お話はすべて理解しております。ご主人様の中に居ながら事の顛末はすべて把握しておりますので」

 正座を組んで全員に向き合う。

 三人と怪異一体で座敷の上のちゃぶ台を囲むように座っている。


「さて、昨日の戦闘における疑問点の解消ですね。私からも、改めて説明が必要かと思いました。まず、昨日会敵いたしました口裂け女……正確には”口裂け女の力を宿した包丁を持った高山渚様”と申したほうがよろしいですね」

「口裂け女の力を宿した包丁?」

「ええ、そうです。あれは概念系と呼ばれる呪術、あるいは魔術ですね。都市伝説であるところの口裂け女の逸話を、あの包丁に埋め込んでいるのです。故にあの包丁は状態にあります。本来の口裂け女伝説は包丁ではなくハサミを使って女子供を切り裂いていますよね。―――地域によっては包丁の場所もありますが―――それと同じことをあの包丁で再現しているだけなのです。その包丁を持っていることで高山渚様も、口裂け女と同様の力を行使できるというわけですね」

 口裂け女とは近代の日本の各地で伝わった都市伝説である。

 マスクで口元を完全に隠した若い女性が、学校帰りの子供に「私、綺麗?」と訊ねる。「綺麗」と答えるとマスクの下の素顔を披露する。「綺麗じゃない」と答えると持っているはさみで切り殺されるという逸話。

 ちなみに、「綺麗」と答えて素顔を披露された後も、なんだかんだで殺されるか連れ去られる。どちらも結果は同じ。被害者は無事では済まない。

「今回の事件ですと、行方不明者が多いことから連れ去ることに比重を置いているのでしょうか。安否が不明のため切り裂かれている可能性もありますがね。どちらにせよ、人間であるはずの高山渚は、概念系の呪術を帯びた包丁を持っていることで一時的に呪術師となっているようですね。呪力を帯びた肉体は身体能力が向上します。人間離れした動きもある程度は可能でしょう。それも限度はありますが。このまま犯行を続けていけば力はどんどん強くなります」

「成長しているってこと?」

「ニュアンスは若干違いますが、簡単に言えばその通りです。口裂け女としての実績を積むことで、その力が強くなっていくのです。呪力とは呪いの力。人々の不安や恐怖、負の感情がその力になります。被害者が増えるほどに彼女に恐怖を抱く人間が増えていき、口裂け女としての概念が強力になっていきます」

 青行灯曰く、呪力に限らずだが怪異や呪術師、魔術師は空気中に漂う架空の物質を取り込んで力にしたり、土地の信仰心の強弱を力の源にしたりもするらしい。身体の内から湧き出る強い感情や、術者の気力や胆力といった不可視の精神力を変換することでも力になるとのこと。

 きっと、高山渚が黒幕である何者かの影響で、口裂け女になってしまったという見立ては正しいのだろう。


「推測ですが、以上が高山渚様の身に起きたことでしょう。次は塗り壁の件ですね。これは単純です。一回目に両断された時は口裂け女のほうが力が強かった。二回目に切断されなかったときは塗り壁の力が強かったということです。まあその後無残にも切り裂かれてしまいましたが、その時は彼女の様子がおかしかったですからねえ。操られているようでしたから、操縦者が何かをして一時的に呪力が強まったのでしょう」

 確かに、二回目に塗り壁を切り裂いた時、口裂け女は痛々しいセリフと共に、慟哭どうこくにも似た雄たけびを上げていた。

「一回目の塗り壁は私の詠唱で発動されました。名前を呼ぶだけの一節だけの詠唱を、一条発句いちじょうほっくといいます。名前だけ、一節だけの詠唱というそのままの意味です。これが二言二節、三言三節と増えていくと、二条発句、三条発句と数が増えていきます。言の葉が少ないと発動までは早いですが威力が低いです。逆に、言の葉が多いと発動までのインターバルが長いですが、そのぶん威力は大きくなります。……話が脱線しました」

 こういった場合、話に入れない巣南は率先して書記に勤しむ。鞄からノートを取り出してメモを始めた。


「先ほども言いましたように、一回目の塗り壁は私の詠唱で発動されました。ご主人様の力の指示系統は、ご主人様、私、その他怪異という組織図になっています。もちろんご主人様が一番上です。時点で私。術の発動権はご主人様と私にあります。一回目の塗り壁は、非力である私の呪力で発動されたものだったため、簡単に両断されてしまったのです。二回目の塗り壁は組織のトップであるご主人様の詠唱で発動されたため、両断されませんでした」

 要は、力を使った存在が違っただけという話だった。

「でも、怪異の力か何だかわからないけど、使うには何らかの力の消費が必要なんじゃないのか? その、さっき言ってた呪力とか」

「その点は心配ないだろう。君は寄名の血筋なんだ、十分な魔力も持っているし、怪異と契約している以上、呪力も帯びているし操れる。むしろサラブレットだよ」

「そうは言いますけど、なんか、力を使った印象は無くて……あの時も名前を呼んだだけだし」

「きっと無意識で力を使っているんだろう。それだけ君に強い才能が眠っているという証拠だよ。意識的に使えるようになればもっと強くなれるよ」

「三ノ女様の言うとおりです。ご主人様は無意識にその眠れる力を行使しています。そうでなければ私共は現界できないのですから。ご主人様は身体の中で練られる力も強ければ、大気中から力を取り込むことも無意識で実行しています。そうでなければ、長時間怪異を探知したり、力を行使するなど不可能です」

 二人の見立てでは、何らかの力を行使したりしているらしい。

 今までの、己の中の怪異との出来事や、昨夜の戦いを振り返ってみても、力を使うことでの脱力感や疲労感というものは自覚できていない。

 今後、何らかのきっかけで未知の感覚を発芽させていくのだろうか。

「さて、そろそろ良い時間だ、駐車場に移動しよう。昨日と同じく車が到着しているころだ」

 部室内に時計は置いていないが、相変わらず三ノ女には正確な時間が分かっているようだ。

 役目を終えた青行灯は蒐の身体の中へ帰っていく。

 一行は今日も街に降りていく。

 蒐は昨夜の、口裂け女の悲痛な叫びを思い出す。

 壮絶な一夜を体験しておきながら、またその渦中に身を落とそうとする不思議な感覚に、いつか慣れる日が来るのだろうかと考えながら。 

 

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