第三章:口裂け女
序
同性でありながらそのような感情を抱くほど、白川は高山のことを慕っていた。
マドンナと呼ばれる三ノ
授業中にシャープペンを
とりわけ目を引いたのは、ほどよい厚さでありながら決して小さすぎず、笑うと口角の上がる血色の良い桜色の唇だった。
考え事をする時に唇を少し突き出してすぼめる癖や、食事を終えた際は舌で上唇を舐める仕草が画になっていた。
彼女が隣でうたた寝をしている時は、上気する胸のリズムに合わせて静かに呼吸する彼女のほんのりと火照った顔に手を当てて、髪やうなじ、吸い込まれるような唇に口づけをしたくなる衝動に幾度となく駆られた。
そんな絵画のような魅力を持っている彼女を見て、外見を美しく魅せる努力をしている女性は、内面も美しいということを白川和泉は初めて知った。
他人の悪口や陰口を言っている姿を見たことがなければ、困っている同級生が居たら進んで助力を申し出る。
押しつけがましいわけでも、お節介というわけでもない。
あくまで自然に、それが当たり前のことのように、彼女はそういう生き方を本能で演じていた。
反対に、そんな高山渚の近くにいる白川和泉は、どこにでもいる普通の女子高生だった。これといった身体的特徴もない。誰もが羨む体型をしているわけでも、胸が大きいわけでもない。成績は良いほうだが、頭がいいだけで一般常識は何も知らない。無垢と言えば聞こえはいいが、要は怠惰で努力を怠っているだけだった。容姿にも頭のつくりにも自信がなく、いつも将来の不安や周りからの視線や評価といった、形のない亡霊みたいな何かに、必要以上におびえて過ごしているような影の薄い女、それが白川和泉だった。
そんな日陰にいる彼女だからこそ、眩しい光の世界にいる高山渚を見ると心が
白川和泉は同性愛者というわけではない。むしろいたってノーマルな性癖を持っている。だが高山渚が
まだ恋心というものを自覚したことはないが、高山渚を見るときに抱く劣情や言葉にできない高揚感は、それに最も近いものなのではと白川和泉は思っている。
高山渚はいつも明るかった。
その朗らかで、誰をも笑顔に変えてしまう太陽のような存在感をもって、クラスの中心人物としての地位を確立していた。
白川和泉が感じている己の
だから、彼女が話しかけてくるようになった理由が良くわからなかった。
それが、同じクラスの他人の目に、どのように映っているか想像すらつかない。
学力的に優秀だったという理由で入学した白川和泉にとって、地位も生まれも違う人々が多く
ただでさえ内向的で社交性もない白川和泉にとって、同じクラスのお金持ちやお嬢様たちは違う世界からきた外国人や宇宙人と変わらなかった。
クラスの中で無視されているわけでも、いじめられているわけでもない。むしろ傍から見れば上手く立ち回れていると思う。
しかし白川和泉にとって、意味の分からない外国語が飛び交う尾咲学園は、窮屈な牢獄と変わらなかった。
それは白川和泉が、学園側からの細かい強制が多い三年生である、ということにも由来しているのかもしれない。
だからこそ、眩しい存在感を放つ、性格に裏表のない高山渚の愛らしい唇から、名前を呼ばれることに最初は抵抗感を覚えた。
最初はおどおどとしていたが、やがて雪が解けるように、段々と言葉を理解できるようになって、白川和泉は高山渚に惹かれていった。
高山渚に名前を呼ばれることが白川和泉にとっての至上の喜びで、学園に通う最良の意味となっていた。
気づいたら二人はいつも一緒に居た。
お互い部活に所属しておらず、学生寮に住んでいた彼女達は、授業が終わるとお互いの部屋を行き来するか、寮の学食で時間を潰すか、図書館で本を読みふけるか、街に降りて遊びに行くか―――週末には、一日中一緒にいて有意義とも無意義ともつかない時間を過ごすようになった。
今までの暮らしが決して裕福と言えなかった白川和泉にとって、高山渚がもたらしてくれる様々な遊びや価値観は全て新鮮で、冷たい身体に温かい血が浸透していくように、飢えて乾いた心を満たしていった。
今までの学園生活で学んできたことなど、周囲との溝から生まれる劣等感くらいだったが、高山渚と過ごすことでその劣等感が消えてなくなっていったのである。
急激に仲を深めていった二人だが、そこに確たる所以があるわけではなかった。
尾咲学園は学生寮で過ごすことが半ば強制されている。家族との面会や連絡も然るべき手順を踏むことが義務付けられていた。全国からお金持ちや秀才が集まる最新鋭の進学校という触れ込みだが、他学年との異常なまでの隔離、監禁の如く厳しい校則によって、各生徒たちの素性を知るには、秘密裏に調べるか、本人に直接訪ねるか、根も葉もない噂を鵜呑みにするくらいしか方法がなかった。少なくとも、平凡な家庭に生まれた白川和泉にとっては。
だからこそ、白川和泉は高山渚がどういった生い立ちか知らない。だが、上辺だけのべたべたした気持ち悪い話し方をするクラスメイトとは違い、彼女の口から発せられるのは、はっきりとした綺麗な音で聞こえてくる日本語であるということが白川和泉を何よりも安心させ、それだけで高山渚に当初抱いていた疑惑や不信感は浄化されていった。
その綺麗な声を全て独占してしまいたいほどに。
「和泉、土曜日は街に降りて買い物をしよう」
教室で渚が話しかける。渚から誘われる時は、いつも内容が決まっていた。
和泉はそれに従うだけだったが、その嫌味のない爽やかさが気持ちよかった。
断る理由なんてない。
渚から誘いを受けた夜は緊張からか眠れなくなる。
鏡の前に立って醜い部分がないかいつも確認をした。
美しい彼女の横に並ぶに相応しい人間にならなければと努めた。
その為に努力をすることも和泉にとっては苦ではなかった。
肌の手入れも、産毛の処理も、化粧も、表情の作り方も、視線の流し方も、棘のない柔らかな話し方も、すべて渚を参考にして渚のために覚えた。
全ては二人で過ごす時間のすべてをかけがえのないものにする為だった。
和泉はそれが幸せだった。
だからその日の帰り道では落ち込んでいた。涙までは見せないものの、心の沈み具合は今まで感じたこともないほど深かった。
遊んでいるうちに和泉が落とし物をしてしまい、見つけ出したはいいものの、その時には学生寮の門限が刻一刻と差し迫っていた。
「気を落とす必要はないよ。失敗は誰にでもあることだ」
渚はそう言っているが、どう考えても門限に間に合う時間ではなかった。全力で走ればギリギリ間に合うかもしれないが、山の頂上に向かうまでの、傾斜や勾配のある山道を走るのは現実的ではない。何よりそんな姿の渚を見たくないし、和泉もそんな姿を見せたくなかった。
学園側は校則を守らない生徒に厳しい。特に最高学年の三年生となるとそれが顕著だった。このままでは私のせいで渚が怒られてしまう。それは何としても避けたかった。
渚は何か考えているようだった。きっと私には想像もつかないような、今の状況を打破する、優雅で素晴らしい方法を頭の中で模索しているのだろう。
外見も内面も、そのすべてが美しくて完璧な渚が考えることだ。それがどのような内容のことであれ、きっとすべて正しい。
だが、渚の思いついたことは優雅でも
山道の東側に、一部の三年生だけが知っている、勾配が少ない比較的なだらかな抜け道があるらしい。舗装されていない森の中を突っ切る道だが、だからこそ近道できるとのことだった。二人の現在地からほど近いその道を出来るだけ走って抜けて、あとは寮の一階の空いてる窓を見つけてこっそり侵入しようということだった。本気で走っていけば、ギリギリ門限にも間に合うかもしれないと。
なぜ渚がそのような抜け道を知っているのかは知る由もない。きっと三年生の間で噂にでもなっているのだろう。クラスの中心にいる彼女が知っていても不思議ではない。そういえば、東の森の中にちょっとした開けた空間があるという話を耳にしたことがある。恐らくその道のことを言っているのだろう。
そんなことよりも、必死に走って汚い森の中を抜ける渚の姿のほうが見たくない。和泉にとってはそれが最も大きな気がかりだった。
だが、彼女の考えはすべて正しい。杞憂かもしれないが、私なんかが口を出してしまえば、きっと今の関係は終わってしまうだろう。それはとても恐ろしいことだった。
何よりこれは自分の失態が招いた結果だった。優しい渚はそれを
渚と森の中を走ってしばらく経った。冬だというのに肩で息をして汗をかいていた。冷たい汗がウール素材の服に染みわたって気持ち悪い。厚着をしていることが余計そう思わせた。
渚も肩で息こそしていないが汗をかいていた。苦しそうな横顔に流れる汗を拭ってあげたい衝動にかられるが、ぐっと我慢する。そもそも走っているからそんな余裕がない。
最初こそ恐ろしいと感じた夜の山と森だったが、渚がいるおかげで魔法にでもかかった童話の迷宮のように感じられた。彼女の案内でここまでやってきて、先導する彼女について森の中へと足を踏み入れている。さながら渚は童話に出てくる魔女のようだった。主人公は渚でないといけないのにそのような配役になっているのは、私という至らない無名の作家がいるからだろう。
噂で聞いた開けた空間に出た。やけに霧が濃くて息苦しい。夜の
渚の顔を盗み見る。浮かない顔をして霧の奥を見ている。心なしかその横顔には恐怖の色が浮かんでいる。ここまで走りっぱなしで疲れたのかもしれない。長時間運動を続ける渚など見たことがない。喘息などを持っていたら大変だ。私は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
心配して駆け寄るようにして渚に近づくと、渚は小さい声で「糸」と呟いた。
同時に私の身体は強い力に引き寄せられ、重力を失った。
「今度は小娘二人か。この道には人除けの結界が施してあるんだが、どうしてこうも迷い人がやってくる。だがこれはこれで好都合。うら若い女体が簡単に手に入るなど、こんな美味しい話はほかに転がってはおらぬ」
白川和泉は虫の
「おや、ここにも小娘がおったか。動いておらんから結界に引っかからんかったのかのう。急ごしらえは駄目じゃな、改良の余地ありじゃ。しかし運のいい奴じゃ。先ほどの小娘はお前の連れかえ?」
出てきたものは形容しがたい何かだった。少なくとも渚の持っている知識にはそれを決定づける固有名詞や単語は存在しない。強いて言うのであれば妖怪であろう。でも、そんなものが本当に現実に居るのか。
「ふむ、見立てが良い姿をしておる。芯の強さや意志の硬い魂を感じるぞ。何より美しい、今までの中で一番の上玉じゃ。どうした、震えておるのか?」
顔だけ繭から出した和泉は意識を取り戻す。身体を動かそうとも、身動き一つとれず、顔の向きさえ変えられない。目の前には人型ではあるが異形の何かと、立ち尽くす渚の姿が見えた。
渚の瞳には怯えや恐怖が浮かんでいた。それは和泉が今まで見たことのない姿だった。何が彼女をそうさせているのだろうか。
やはり私が悪いのだろうか。今日だって私がドジを踏まなければこんなことにはなっていない。必要以上に渚に負担をかけることもなかった。こんな汚くて暗くて怖い山道を通らなくてもよかった。今も私は意味も分からず、身動きが取れない状態になっている。
「和泉は、無事なのか」
「ほう、恐怖に包まれていると思ったが、口が利けるか。これは面白い。和泉とは先ほど捕まえた小娘かえ? そうじゃなあ、見ての通りじゃ、あそこに見えるじゃろ? 目を開いてお主を見ておる。無事に決まっとろうが。まあ、わしは気まぐれに小娘を殺すこともあるがの」
異形のモノは真後ろの木に吊るされている繭を指さした。
和泉は後悔と不安の入り混じった視線を渚に向けていた。
「なんじゃ、あやつはお前のことを随分好いておるようじゃ。わしにもわかるぞ。お前は外見も内面も美しい。どっちが先なんじゃろうなあ? そういうのはわしにはよくわからん。わしは醜いからなあ。顔をよく見てみい。口が耳までスーッと裂けとるじゃろ? こんな話は聞いたこと無いか? 『私、綺麗?』とな」
異形の何かは、触れるほどの近さで視線で渚を
その度に全身に針を刺すように感じる恐怖を、渚は強い意志で振り切っていた。
震える身体を鼓舞するように握りこぶしに力を入れる。
「い、和泉を、返してくれ」
「なんじゃ、お主ら両想いか、お熱いのう、青春じゃのう。じゃがな、先ほどの質問にまだ答えてもらっておらぬ わしは無視されるのが嫌いでのう、これは仕置きじゃ」
異形の何かは腕のような長さの物体を、渚めがけて振り上げた。
和泉は本能で察した。
あれは悪いものだと。
私だけでなく、渚にまで危害を加える害虫だと。
醜く口から耳まで裂けていて、舌まで飛び出している化け物だと。
美しい渚に傷一つ付けられたら私は生きていけない。
渚は私の生きる意味で、希望であり道標なんだ。
ましてや、私なんかのために渚が怪我をするなんて耐えられない。
和泉の目の前には、渚に襲い掛かる異形の何かが見えた。
お願いやめてと願っても恐怖から言葉が出ない。
襲い掛かる鋭い物が渚の顔に触れる瞬間、
そこで、和泉の意識は途切れた。
「ぐ、くうう……」
その美しい顔は口元から耳に至るまで裂かれていた。
舌は飛び出していないが、頬まで裂けて歯がむき出しになっている。
「先ほどの質問じゃ。答えは貴様の行動で示してもらおうかえ。その美しさは内面が先か、外見が先か。その顔でお前はどう生きていくんかのう。今までの生活にはもう戻れんのう。わしは退屈しておったんじゃ、貴様程度でも暇つぶしにはなるじゃろ」
異形の何かは、歯を食いしばって叫ぶのをこらえている渚の前に包丁を投げた。
「さっきも言ったじゃろ、『私、綺麗?』とな。お前は今日から口裂け女じゃ。その包丁には口裂け女の力が宿っている。拾えばお前は正真正銘、怪異となれるぞ。いや、呪術師か? 細かいことは分からぬが、拾わねば和泉とかいう小娘の命はない。これからはわしのためにお前が、どこぞの小娘の命をここに持ってくるんじゃ。楽しみにしておる故、あまり待たせるでないぞ」
異形の何かは繭に包まれた和泉の輪郭を優しく撫でたかと思うと、力なく気を失っているその少女の唇を奪った。
恐怖と痛みで身動きが出来ない渚の目の前で。
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