11月12日 3
執務室の隣が先代当主である三ノ
「母はすでに他界している。ボクが生まれる以前から病気を患っていてね、薬で無理に延命を続けていたんだけど、最近亡くなったんだ。だからこそ継承試験が回ってきたといえるね。この部屋は使用人たちが定期的に掃除しているけれど、母が亡くなった時から物の配置は変わっていない。ただ遺品整理のために収納やクローゼットの中は整理してある。さて、それじゃあ見て回ろうかと言いたいが、部屋の広さは世間一般の個人部屋と変わりないと思う。だからすぐに終わりそうだね、部屋のインテリアには触らないように頼むよ」
案内された部屋は可愛らしい桃色の壁に囲まれていて、机や棚やベッドなどのインテリアも全て桃色で統一されている。ベッドの両脇のサイドテーブルには可愛らしいぬいぐるみが積まれていた。部屋の主が存命であれば、この少女趣味の部屋の感想を素直に伝えられただろう。
「そういう事情があったんですね、入ってしまってもいいんですか? 飛鳥先輩にとっても大切な部屋じゃないです?」
「いや、構わないよ。気を使ってくれてありがとう。でもそういう感傷はすでに乗り越えた。今は三ノ女家の跡取りとして当主になることを優先しなければならない。それに、ここは先代当主の部屋でもあるんだ。試験の肝があるとしたら、この部屋にある確率が一番高いだろう」
若干の湿った空気に俯きがちになる蒐と巣南であったが、ドッペルゲンガーはどこ吹く風で部屋に入り煙草に火をつけた。
「三ノ女様、辛い時やどうしようもなく悲しくなったときは、いつでも呼んでください。ドッペルゲンガーである私はご主人様の命でなければ外に出れませんが、そこに居るもう一人の私がいつでも貴方のもとに駆けつけると約束しましょう。力になれるかはわかりませんがね。彼女もちょっと複雑な事情で大切な人を亡くしていて、最近向き合えるようになりました。同類相憐れむというのはお互い柄じゃないでしょうが、くだらない遊びやストレス発散にはいつでも付き合いますよ」
四方の壁に順に主流煙と副流煙が吹き付けられていく。
「塞ぎこむことが一番しんどいですからね。心の傷はそう簡単に癒せませんが、形のないモノだからこそ、その傷を一時的に引き離すことはできます。それは誰かとお喋りをすることです。意味のない話でも真剣な話でも、それを誰かと分かち合い寄り添い合うことで、心の靄を引き離せるのです。古来より話すことは離すことと言いますからね。それは逃避でも棚上げでもありません。意思のある人間だからこそできる防衛手段で、これからたくさん待ち受ける辛い人生を謳歌していくための通過儀礼でもあります。だから、いつでも呼んでください。オリジナルの私がいくらでも付き合いますよ」
邪気のない声で話し終わるとともに、煙草の火が消える。奇行ばかり繰り返す存在から己を鼓舞する言葉を受け取った三人は、驚きで動けないでいる。ドッペルゲンガーは棒立ちの巣南から棒切れを取り上げて、壁に向かって振り回し始めた。
「もう、何やってるんですかあなたたち。こう見えても私は歴史ある都市伝説が具現化した存在ですよ、生まれたのはごく最近ですが、ドッペルゲンガーとしての伝説の知識は持ち合わせています。その歴史の長さも合わせて、ね。そんな私にかかれば、ご主人様やその友人たちを慰める、含蓄のある言葉くらいお茶の子さいさいです。私を見習いましたか? それに重い空気は御免ですよ。切り替えていきましょう。楽しむことが一番です。」
「そうね、貴方からいい言葉が出てくるなんて意外過ぎて思考停止していたわ、その棒を返しなさい、一応その仕事は私の担当よ」
巣南は奪われた棒切れを取り返す。
「ありがとうドッペルゲンガー、君は油断ならない怪異だね。可愛いだけでなく気遣いもできるのか、君の言うとおり、一人で居るのがつらい時には遠慮なく瑞穂を呼ばせてもらうよ」
三ノ女はドッペルゲンガーに後ろから抱きついて、後ろ髪に顔をうずめた。
「俺に言ってもらえれば、いつでもゲンガーを貸し出しますよ。オカ研にもいつでも顔を出してください。そういえば俺の中の怪異って離れた場所に出られるのか?」
部屋の入り口で三人を見守るように蒐は言った。
「それはどうでしょうね、面白そうなので今度試しましょう。離れた位置に出られるのであれば色々と悪さ……いえ、便利に役に立てます」
不穏な言葉を言おうとして訂正したドッペルゲンガーだった。彼女のおかげで最初の湿った空気が完全になくなっていた。これからもこの明るいキャラクターに救われる人は多そうだ。
その時、棒を振り回していた巣南が、驚いた様子で声を上げた。
「え、あれって……」
「どうしたんだい瑞穂」
巣南が何かを見つけた様子で部屋の外に視線を向けている。同時に戸惑ってもいるようだ。
それは部屋の外に黒猫が現れたからではない。
同じように視線を向けている三ノ女が、黒猫の存在に気づいていないのである。
「いた! 黒猫!」
「黒猫がそこに居るのかい? どこだい、ボクには見えないよ」
「可愛らしい黒猫です、捕まえてしまいましょう。どことなく怪しいです。黒猫はキーアイテムと相場が決まっています」
ドッペルゲンガーは、扉の前に立つ蒐の股を潜り抜けるようにヘッドスライディングをして黒猫を捕まえようとしたが、黒猫はその手の隙間からするりと抜け出してしまった。蒐はヘッドスライディングに巻き込まれて不覚にもドッペルゲンガーに馬乗りになっている。
「逃がしました。私のゴッドハンドでも捉えられないとは、なんという身のこなし!」
「おまえ、急に飛び出してくるな、びっくりするだろう」
「申し訳ありませんご主人様、とりあえず一服いいですか。失態でざわついた心を落ち着かせたいのです。できれば胸ポケットからライターを取り出していただきたいのですが」
「寝タバコは危ないから禁止だ!」
寸劇を始めようとしている二人に巣南が声をかける。
「ちょっと貴方たち何ふざけてるの、黒猫はどっちに逃げていった? 追いかけるわ」
ドッペルゲンガーは階段方面を指さす。確認して巣南は駆け出して行った。
「大丈夫かい二人とも」
差し伸べられた手を握る。三ノ女の細い腕はものすごい力で蒐を起き上がらせた。ドッペルゲンガーは「ピロ―トークっぽくないですか?」と言いながら寝タバコを決め込んでいた。非常に危険だが、放置しよう。
「寄名君とドッペルゲンガーも黒猫を見たのかい? ボクには何も見えなかった」
「三ノ女先輩には見えないんですか、これはますます怪しくなってきましたね」
「そのようだ、ボクに見えないということはこの世のものではないということだからね」
「先ほどヘッドスライディングのタイミングであの黒猫に少し触れたのですが、手触りは柔らかいにゃんこそのままでしたが、あれは間違いなく怪異です。次こそは捕まえて拷問という名のもふもふをしてやりましょう。猫吸いともいいます。継承試験の秘密はあの猫が握っていそうです」
「とりあえず移動しよう。屋敷は北館に行こうと南館に行こうと絶対に大階段を通る。大階段前はロビーも兼ねているから来客用の椅子もある。そこで巣南を待つとしよう。黒猫を捕まえようが見失おうが大階段の前に居れば合流できるだろう」
三人は三ノ女母の部屋から大階段へと移動する。廊下は直線状に伸びているため遠くからでも見通せるはずだが、巣南の姿は見えない。どこかの部屋に入ったのだろう。
「瑞穂はいないようだ。廊下を注意深く見ていたけど猫の足跡すら見当たらない。そういえば青行灯は下半身が透過しているし、ドッペルゲンガーも歩いた道に跡は残らないんだね。あの黒猫も同様なんだろう、怪異で確定だね」
「今回の試験に関係しているかはまだ謎ですが、今のところ手がかりがあの黒猫だけですね。意思の疎通が出来ればいいんだけれど……ゲンガーは怪異同士だと会話できたりするのか」
三人は大階段を下りて一階のロビースペースで話し込んでいた。真っ白に燃え尽きたように椅子に座るドッペルゲンガーに声をかける。
「意思の疎通ですか……人型だろうと動物だろうと人外であろうと、怪異側に意思の疎通ができる機能や能力があれば可能です。そればかりは試してみないと謎です。でも猫と話すというのはいかがなものでしょうか、夢が壊れる気がしませんか。酷いセリフを言われたらどうしましょう」
「お前の夢より三ノ女先輩の試験のほうが大事だろ」
「しかし寄名君、猫には夢が詰まっていると聞くよ。ないがしろにすると秘書ちゃんが悲しむ」
「その秘書ちゃんというのは誰なんですか」
「とても可愛い女の子だよ。ボクと同い年だ。尾咲学園でボクと同じクラスに居るんだ、今度紹介しよう」
話し込んでいると階上から巣南が下りてきた。黒猫は捕まえられなかったようで、首をかしげながら晴れ晴れしない表情をしている。
「ごめんなさい、見失ってしまったわ」
言いながらも巣南はどこか落ち着かない様子で、難しそうな顔をしている。
「どうかしたかい瑞穂」
「ええと、なんていえば良いのか……黒猫には追い付いたんです。それどころか、私が追い付くのを待っているかのように、ゆっくりと歩いていました。そのあと黒猫は執務室の扉をすり抜けるように入っていったんです。私も後を追って執務室に入ると、黒猫が飛鳥先輩の机の後ろにいて二本足で立ってました。なんか変だなって思って遠巻きで見ていたら、その立った状態で、神社とかでするように二拍一礼をして机の後ろの壁の中に消えていったんです。消えていったというより、入っていったという表現のほうが正しいかもしれません。後ろ目で私のことを見ていたので、やり方を教えているようにも感じましたね」
三ノ女と蒐は顔を見合わせる。巣南の説明はどう考えても、秘密の部屋への入り口とその侵入方法についての概要を説明している。疑問点は巣南を導いているかのような黒猫の動きだが、部屋へのルートが判明した今はあまり考えなくてもいいのかもしれない。
「これは試してみる価値はありそうだ」と言い出すころには執務室に走り出していた三ノ女を、一同は慌てて追いかける。開け放たれた執務室の扉を抜けると、三ノ女飛鳥は既に二拍一礼を終えていた。そのまま壁に向かって歩き出し、思い切り壁にぶつかって尻もちをつく。
「だ、大丈夫ですか飛鳥先輩」
「ぶへっ、入れないぞ。何か手順を間違えたのか」
三ノ女は立ち上がってスカートについた埃をはらう。打ち付けた額は少し赤くなっていたが、痛みはないようだ。
「瑞穂、確かに二拍一礼をしていたんだね?」
「ええ、私の目の前で、姿勢よく二拍一礼をして、すり抜けるように壁の中に消えていきました」
蒐は黒猫が消えていったという壁を見つめる。特に異常も違和感も見当たらない。よく見るとこの部屋だけ壁がコンクリートでできている。試しに少し手で触れてみると、ひんやりとした肌触りの中にちょっとした不快感があった。
注意深く観察をしている横では「瑞穂、実際に見た通りにやってみてくれ」と言われた巣南が、二拍一礼後に壁に突撃をして頭を打ち付けていた。ドッペルゲンガーも同じように続いた。あまりの痛さに巣南は頭を押さえてうずくまっている。力が入らないのか足が震えていた。
「お、おかしいですね。確かに黒猫がこの壁に吸い込まれるように入っていったんですけど……あと壁にぶつかった時に、すごい痛みのほかにも何か感じたような気もします」
「巣南さん、その感じたことって、言いようのない不快感とか、そんなものか?」
「え? ええ、そうね。言われてみるとそうかも」
「だとすると、先に行う手順はこれじゃないか?」
蒐は巣南が壁にぶつかった衝撃で落とした棒切れを取り上げる。そして手招きをしてドッペルゲンガーを呼び寄せた。
「ゲンガー、この壁に向かって煙草をふかせてくれ」
「合点承知の助です、ご主人様。そして優秀な私は今のセリフで状況をすべて理解しました。これが最後の煙草になりそうですね。味わって吸いましょう。今日という一日を終えた暁には、青行灯に頼んで百鬼夜寮の売店に
手に持った棒切れを壁に向かって振り、そこに煙草の煙が吹きかかる。一度は全員で立ち寄って行った動作だが、その時と決定的に違うのは、黒猫がこの壁に入るように消えたという事実と触れた時に感じた不快感。この事実から導き出せる答えは、この壁こそが塗り壁であるという結論だった。
もちろん一抹の不安はあるが、他に類推できる材料がない以上、この結論に頼るしかなかった。
やがて、ドッペルゲンガーの吹きかけた煙が、執務室内の空気の流れに交じって消えるころ、目の前の壁の中から一匹の黒猫が現れた。
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