10月30日 2

(ご主人様、いかがいたしましょうか。このお方の話が真実であれば巣南様は気絶しておられるだけで、時間が経てば目が覚めるかと)

 状況を理解した青行灯あおあんどんしゅうの中で語り掛ける。確かにその通りだ。

 ドッペルゲンガーの言うことが正しいのであれば、巣南瑞穂すなんみずほはただ衰弱しているだけ。然るべき処置をとれば自然と目覚めるはずだ。

 だがそれは根本的な解決ではない。

 事実として、同じ人間が二人存在している。

 その問題を解決しなければ意味がない。

 蒐の考えが間違っていなければ、このドッペルゲンガーは死ぬために尾咲学園まで来たのだ。

 恐らくではあるが、ドッペルゲンガーである彼女が抱える問題を解決しなければ、死ぬこと―――この場合は成仏というのだろうか―――は出来ないと思う。

 しかし蒐には、彼女の力になれるだけの関係性も、特殊な力もなかった。

 蒐がやったことと言えば、力にもなれないのに不躾ぶしつけに、彼女の弱みに付け込んで、抱えている秘密を暴いただけであった。

 完全な沈黙の中、蝋燭ろうそくの火も静かに、だが激しく揺らめいていた。


「話は聞かせてもらったわよ、当事者の私を抜きにして話し合うなんて、お門違いもいいところじゃないの」

 その時、オカルト研究会部室の扉が開いた。

 そこには、制服姿の巣南瑞穂が立っていた。

「なぜか分からないけど、この部室の前で寝ていたみたい。自然と話してることが聞こえてきたわ。最初から全部聞いちゃったわよ」

 ナーシェの仕業だ。音も気配もなく、一問一答が始まったときに扉の前の廊下に巣南を置きに来たのだろう。

 約束とは違うが、結果でいえば良い機転だった。

 巣南は体調が万全でないのだろう。

 ゆっくりとした足取りで部室の中に入ってくる。

 顔色も悪い。約二日間寝込んでいたのだ、当たり前だろう。

 そしてそのまま、座敷に足をかけた。

「顔を上げなさい、もう一人の私。私がもう一人いるなんてホントに驚いた。それに、あの時は気味が悪い夜だったからね。思わず気を失っちゃったわ」

 巣南はドッペルゲンガーへと近づいていく。

 もう触れられる距離まで詰めている。

 ドッペルゲンガーは驚いた表情のまま動くことが出来ない。ただ、謝ろうとしているのだろう、何とか口を動かして声にならない声を上げている。

「自分のこと化け物だとか言ってたけど、やめてよね。一応、貴方も私なんでしょう? 私は私を化け物なんか思ってないわ。それにね―――」

 そして巣南は、ドッペルゲンガーの前で正座を組み姿勢を正し、床に手をついて深々と頭を下げた。

「ごめんなさい。あなたに私の重みを貴方に背負わせてしまって。そしてありがとう。私の思いを最後まで貫いてくれて、あの女性を見守ってくれてありがとう」

 巣南瑞穂は自ら進んで土下座をして、ドッペルゲンガーに謝罪と感謝を述べた。

「もういいの。私が間違ってた。あの民宿も、あの女性も間違いなく私の生きた証なの。決して捨ててはいけないものだった。だからもう、あなたも、楽になっていいの。残りはすべて私が背負うから」

 我慢するような涙声で彼女は訴えた。

 決して泣いてはいけないと、罰を与えられるべきは自分だと言い聞かせるように。

 巣南瑞穂は頭を下げて、自分の犯した罪をまっすぐ受け止めて謝罪した。

 その姿を見たドッペルゲンガーは、その存在がだんだんとおぼろげになっていく。

 目的を、目標を達することが出来たのだろう。

「私はもう、終わっていいの? 本当に、一人で背負っていけるの?」

「ええ、もう大丈夫よ。もう泣かないわ」

「そう……それは、よかった……」

 ドッペルゲンガーは巣南瑞穂を見据えて柔らかにほほ笑む。

「あなたは強くなったのね、大切にしてくれる人もそばにいる。今の私では考えられないくらい眩しい人間になったわ。もう間違いを犯さないでね。あなたの持ってる思いはすべて貴方が産み出したもの。決して切り離していいものではないわ」

「ええ、もう間違えないわ」

「感情は捨てるのではなく乗り越えていきなさい。嫌な思いも、前に進む原動力もすべてあなたのもの。あなただけの大切なものよ」

 ドッペルゲンガーが巣南瑞穂に手を伸ばす。彼女たちはそれぞれの両手を握って見つめあった。

「本当は、あの女性が大好きだったんでしょう? いつも書きかけで捨てられた物語を拾っては読みふけっていたものね」

「うん、そうね。私はあの人が作る物語が大好きだったわ」

「素直にそう言えるのなら、私に心残りはないわ。あとね、あの女性は貴方のことをちゃんと覚えていたわよ。最後に貴方の物語を書き終えて息を引き取ったわ」

 最後の女性の姿を思い出すようにドッペルゲンガーは呟く。

 呟きながらも、身体はどんどん透けていく。

 もう手を握ることもできないらしい。

 目の前で消えていくもう一人の自分を見て巣南瑞穂は泣きじゃくってしまった。

「じゃあね、もう心残りはないわ。泣かないで頂戴」

 わがままな子供をあやすように言って、ドッペルゲンガーは蒐を見た。

「ありがとう、私のために頑張ってくれて、貴方はいい人ね」

「もう君には会えないのかな?」

「何を言っているの、私はここにいるじゃない。この私は消えるけど、私の思いを受け取った巣南瑞穂は残り続けるわ」

 巣南瑞穂は止まらない涙を指で拭っている。

「こんな私だけど、よろしくお願いします。ホントは人付き合いとか苦手なの」

「ああ、よくわかってるよ。それに」

 蒐は自分の胸に手を当てる。青行灯と想いを共有するかのように。

「君のことも忘れない。今日ここで話し合えたこと、対話できたことはかけがえのない僕たちの思い出だ。決して忘れてなんかやるもんか」

 精一杯胸を張って、それから虚勢きょせいも張った。蒐はなんだか悲しかったのだ。

 目の前で消えていく怪異を見て、どうしようもなくやりきれない気持ちを抱いた。

「そう、本当に貴方はいい人ね。私のことお願いね」

 ドッペルゲンガーは最後にそう言って、音もなく静かに、蝋燭の火と共に消えてしまった。

 最初からそうであるのが当たり前かのように、その存在は完全に消滅したのだ。

 蒐の目の前にいた存在は完全に消え、その傍らにうずくまって泣きじゃくる少女だけが残った。

 今回、蒐は何もできなかった。

 巣南がここに現れなければ、ドッペルゲンガーを成仏させることも満足にできなかった。

 気のきいたセリフなどもっての外だった。

 ただ事の成り行きを見守りながらぼんやりと、怪異と向き合うことの大変さを考えることしかできなかった。


 巣南瑞穂は作家の女性と同居していた。正確には作家と呼べるかはわからない。彼女は一度も本を出版していないからだ。せいぜい有象無象の大衆誌のなかで、年単位で不定期の短編小説を掲載するくらいが限界だったらしい。その内容も素人投稿の私小説と何ら変わらないレベルだったという。それでも巣南瑞穂は女性の描く物語が好きだった。貧乏な生活で贅沢もできず、話す相手も遊ぶ相手もいない彼女にとって、その女性の書く小説、女性の紡ぐ世界がこの世の全てで、家族として女性と繋がれる唯一の手段で、証だった。巣南瑞穂が本を読むようになったのも、勉強を好むようになったのも、女性の小説の影響を大きく受けている。

 今となっては、その関係性が歪だと理解できる。

 しかし、友人もおらず、狭い世界で生きてきた彼女にとって、それ以外に女性とコミュニケーションを取る方法が分からなかった。

 一人で生きていくにはあまりにも無力な子供である以上、どのような形であれ家族が必要だった。話しかけても返事のない日々が続いても、存在が認知されているかわからないように扱われても、学校でいじめを受けて泣いて帰った日ですら女性の生活の世話をして、小説を読み続けた。

 だが、巣南瑞穂を女性が引き取ったことによって、不幸な生活を送ることとなったのも事実なのだ。家族の形を教えてもらえず、歪な関係性を数年も続けた不幸な時間を同じくらい呪った。

 思春期であったことも重なったのだろう。

 彼女は自分の生い立ちや立場をよく理解していた。

 周りからどのように見られているか、自信がどのような立場なのか。

 そのすべての諸悪の原因が女性だとして心の中で強く非難した。

 女性の書く物語を読みながら、女性を憎み続けて世話を続けた。

 そうして、かろうじて家族として成立した生活をしていた。

 巣南瑞穂が切り捨てたのは不幸な自分だけではなかった。女性と過ごした時間、女性と唯一繋がることのできた、小説が好きという気持ちまで捨ててしまっていた。

 彼女は新しい自分、新しい幸せを手にするために自らの不幸を、大切な思い出も含めて捨ててしまっていたのだ。

 決して捨ててはいけない。

 今の彼女を作るきっかけとなった思い出を。

 そのかけがえのない記憶を。


 泣きじゃくる巣南の横で蒐は思いせる。

 これが怪異と関わることだというのだろうか、これほど辛い想いをすることがこれからも続くのだろうか。

 怪異と対峙することを選択したことが正解なのか、判断に困った。

 ただ一人の少女、大切なクラスメイトでさえ、満足に救えない。

 このまま怪異と関わり続けて、はたして自分の心は保てていけるのだろうか。

 この選択に間違いはないのだろうか、不安な気持ちが心を埋め尽くす。

「ありがとう、寄名君。もう落ち着いたわ」

 巣南は涙をぬぐって顔を上げた。その目じりは赤く腫れている。

「私のために頑張ってくれたんだってね、とても嬉しいわ」

 目の前の少女にまっすぐ見つめられて、思わず眼を逸らす。

 そのように見つめられるほど、こちらは何もしていない。

「今までの私は過去を語ることを良しと思わなかったわ。あんな日常を振り返ることは時間の無駄で、私の人生にとってプラスに働くことがないと思っていた」

 自戒じかいするように呟くが、その顔は晴れやかだ。

「でもやっぱり私の大切な思い出なのよね。忘れちゃいけないことだったわ。それに一つ良いことがあった」

「良いことってなんだよ」

「あなたと深く理解しあえたことよ」

 恥ずかしそうな顔で頬を赤らめて、しかし胸を張って巣南は言う。

「これからも仲良くしてね。あと、乙女を泣かせた責任は重いわよ?」

 その顔と仕草だけで、一連の出来事の疲労が浄化されていくようだった。

 ドッペルゲンガーのきっかけは百物語ではなかったけれど、

 彼女の存在はこれからも、蒐を振り回すことになりそうだ。

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