10月30日 1

 良く晴れた眩しい日差しで目が覚める。朝に弱いしゅうにしては珍しくすっきりと起きた。冴えた思考、低血圧の体に脳が熱を送り込むこともないほど、眼や脳が完全に覚醒している。今日これから起こる出来事が、どのような結果に収束するかわからない。そのため、あまり重く捉えることは心身の負担になるからやめようと考えていたが、自覚している以上に緊張しているようだった。


 いつものように制服に袖を通す。秋とは言えまだ温かさの残る日々が続いているが、今日に限っては朝から冬が押し寄せてきたかのような寒さを感じる。暦が変わるのと同様に、季節の移り変わりもはっきりとしているのかもしれない。

「朝から随分と感傷かんしょう的ではございませんか、ご主人様」

 おはようございますと続けながら青行灯あおあんどんが蒐の中から出てくる。

「昨晩はよく休めたようで、安心しました。今日はきっと上手くいくでしょう」

「ああ、最初から失敗する気なんて毛頭ないよ」

「その通りですね、失敗するときのことを考えて行動してはいけません。良いことだけを考えましょう。そうですね、成功した暁にはオカルト研究会全員でお食事会など開催してはいかがです?」

 青行灯はずいぶんと俗世に染まった提案をした。

「お食事会?」

「そうです、文化祭を協力して乗り越えた仲間なのでしょう? 戦いの後の楽しみは食事だと古来からよく云われております。文化祭と、今日これから起こる戦い。それを乗り越えた後のご褒美くらいあって然るべきかと」

 青行灯の提案をまとめると、頑張るための分かりやすい理由があったほうがいいとのことだった。

「確かに、休日もずっと学園にいたからろくに街に下りたことなんてなかった。即物的な考えでちょっと忌避きひしてたけど、ご褒美っていう考えもモチベーションを保つためには必要かもしれないな。巣南さんが目覚めたら、丸腰も含めてみんなで食事にでも行くか」

「はい。その暁には私、噂で聞いた、パフェというものを口にしたいです。ご主人様が口にしていただければ感覚は共有できますので、お願いいたしますね」

 青行灯はしっかりと約束を取り付けた後、蒐の中へと帰っていった。


 蒐は手早く食事を済ませると学園に足を運んだ。二日前の文化祭、昨日一部の生徒で行われた後片付けの騒がしさが嘘だったかのように、学園は静寂に包まれている。文化祭後ということでほとんどの部活動も今日は活動を控えている。そのため学園に生徒の姿はほとんど目に入らず、教師も職員室に数人いるくらいで学園内は閑散かんさんとしていた。

 その学園を一目散に裏へと抜け、焼却炉へと立ち寄り、旧校舎へと向かう道へ迷わず進む。授業後の放課後や、普段の休日であれば、学園から騒がしい生徒の声が聞こえたりもするが、今聞こえるのは自分の息遣いと、葉が落ちたり風で木が揺れる環境音、その枯葉や枝を踏む雑踏音ざっとうおんだけだった。

 そのままのスピードでオカルト研究会の部室に入って準備を進める。

 といっても準備なんてものに意味はなく、要は気の持ちようなのだが、これから初めて怪異と対話するにあたって、その行動が正しいかは別として、自身を鼓舞こぶすることはやっておきたかった。

 座敷に上がり小さいちゃぶ台の真ん中に燭台しょくだいを置く。蝋燭ろうそくを一本刺して火をつけた。ホントは注連縄しめなわ祭壇さいだん装束しょうぞくなど―――持てる知識を総動員して昨夜考えた―――を用意したかったのだが、ただの高校生にそのような財力やツテはなかった。いつもと変わらない風景、住み慣れた空間で今日これから、初めて怪異と対話をする。あまりにも現実感がなかった。


「こ、こんにちは、寄名君」

 しばらくしてオカルト研究会の部室の扉が開いた。巣南瑞穂すなんみずほ―――ドッペルゲンガー―――が現れる。昨日と同じでどこか自信がなさそうで暗いオーラをまとっていた。やはりその姿は、蒐の知っている巣南ではない。

「こんにちは、巣南さん。もうお昼になる時間だっけ、そんなに時間は経ってないと思ったんだけどな」

「い、いいえ、まだ午前中よ。朝も昼もこんにちはって使わない? それにしても、随分と朝早いんですね」

 巣南瑞穂は、核心はないが朝であればおはようと声をかける女性だった。それに彼女の言葉は語尾が安定していない。まるで、初めて会った人と話すような、他人行儀な感じがある。距離感を頑張って計っているのだろう。

「そうだね、こんにちはって便利な言葉だね。巣南さん、今日は特別な活動をしようと思っているんだ」

「特別な活動?」

「そう、そろそろ活動報告を付けないとね。文化祭の内容以外にも何か一つ、メインとなる活動内容を報告書に書きたいと思っていてさ。何なら月末だし、来月分の報告書に回すこともできる」

「そ、そうね。活動は大事よね。何時もみたいに部活動をしましょう」

 オカルト研究会は集まりたいときに集まるだけで、何か特別な活動を行うことは皆無。雑談したり、各々の趣味のことに時間を費やすのがほとんどで、今回の文化祭は本当にただのイレギュラーだった。報告書だって毎回蒐と丸腰ででっち上げた内容を提出している。

「巣南さん。活動を始めるから、こっちに来て正面に座ってほしい。そうだね、両手は机の上に乗せようか。こうやって手を開いてくれるかな?」

 あたかもこれから活動をするかのように、巣南―――ドッペルゲンガー―――を座敷の上に来るよう促す。まるで当たり前のように、作法に則った行為であるかのように、自然に巣南の手を取ってちゃぶ台の上に置かせた。巣南にすり替わった怪異に触れた時はやはり不快感が身体を襲った。蒐に手を取られた彼女は驚きからか一瞬身体を震わせたが、どこか宙に浮いたような非日常を思わせる蒐の言葉や動きに、何も言わず従う。

「そんなに緊張しなくてもいいよ、取って食べたりしないから。これは、ただの部活動だよ」

 重苦しく、堅苦しい雰囲気や、どこか予感めいた嫌な空気が充満しているのであろう。もしかすると御坊おぼうさんや陰陽師おんみょうじ除霊じょれいをするときの雰囲気に近いのかもしれない。怪異であれば余計、身が竦んで、自然と身構えてしまう。しかしドッペルゲンガーはあくまで人間として、巣南瑞穂として、蒐に接している。ここで嫌がる素振りはあまりにも不自然だ。それに本来の巣南は蒐に好意を寄せている。触れられて、促されて、態度として表面上嫌がる仕草は見せるが、断ることは決してない。

「え、ええ。大丈夫よ。緊張なんてしていないわ」

「それはよかった」

 座敷の上に座る。蒐は胡坐あぐら、ドッペルゲンガーは正座。お互いを正面に据えて見つめあう。やがて蒐は互いの中間に鎮座する蝋燭へ視線を移す。

「巣南さんも、蝋燭を見ようか。火は人を落ち着かせるんだよ。温かい場所に居たり、温かいものに触れていると落ち着くだろう? 人は産まれた時に母親の体温を真っ先に感じるんだ。だから温かさが人肌に近いほど安心できるんだよ」

「……そうね、その通りだと思うわ」

 それぞれに火を見つめる構図が出来た。この構図に意味はない。しいて言うのであれば蒐が考えた雰囲気作りというだけだ。持ってる知識を総動員して、怪異にかかわらないようにしてきた少年が、今まさに怪異に立ち向かおうとしている。その覚悟や勇気を産み出すために、自分で自分に暗示を、催眠をかけているようなものだった。願わくば、この自己暗示が怪異にも効いていると期待しながら。

 窓から差し込む光も少なく、部屋は薄暗い。

 しかし蝋燭の火は確かに明るく温かかった。

「どう、少しは落ち着いた?」

「ええ、大丈夫。最初から緊張していないといっているでしょう」

 ドッペルゲンガーはだいぶ、最初の挙動不審な態度が抜けているようだった。完全に巣南瑞穂として成立しようとしている。その進行具合の是非ぜひが蒐にはよくわからないが、個人的な感情として嫌なことに変わりはなかった。

「じゃあ、活動を始めようか。といってもここまで雰囲気作りをしたけどやることはただの一問一答なんだ」

「一問一答?」

「そう。こちらから投げる質問に答えてほしい。オカルトと心理学の境界というか、そういう面白い問答法を見つけたんだ。試してみたくってさ」

 オカルト研究会は、オカルトを追求する集まりである。蒐の提案に不自然さはない。

「そうね、わかったわ。なんでも聞いてちょうだい」

「じゃあ、始めるよ」

 いつ掻き消えてもおかしくない火を中心に据えて、二人きりの問答が始まった。


「じゃあ一度、深呼吸をして。終わったら眼を閉じて少し俯いて、肩の力を抜くんだ」

 可憐な少女にふんしたドッペルゲンガーは、蒐の言うとおりに動作を済ませていく。お互いの鼓動が聞こえてきそうなほどの、静寂に包まれた。

「落ち着いたね、じゃあ始めよう。貴方の名前は?」

「巣南瑞穂」

「生まれた場所は?」

「海の中」

 彼女は表情を崩さず、冗談めいた回答をした。母なる大地とでも言いたいのだろうか。

「冗談はダメだよ、ちゃんと答えてね。答えたくない質問には、答えたくないって言えばいいから」

「……わかったわ」

「年齢は?」

「十六歳」

「子供のころのあだ名は?」

「特にありません」

「趣味は?」

「特にありません」

「好きな作家は?」

「……答えたくありません」

 淡々と、ありきたりな質問が続いていく。ドッペルゲンガーは個人的な情報に関する質問には、無回答の姿勢を示す。

「この学園に入学した理由は」

「寮生活がしたかったから」

「急な一人暮らしに対して不安はなかった?」

「特にないわ。今までの生活の延長線にあると思っただけ」

 目をつむり、言葉だけを聞けば、彼女はもう巣南瑞穂と変わらない。

「実家はどこにある?」

「答えたくありません」

「小学校、中学校の友達は?」

「答えたくありません」

「両親はどんな人?」

「……答えたく、ありません」

 蒐は変わらない口調で淡々と質問していく

「今日に至るまでで、一番嫌だった出来事は?」

「…………」

 ドッペルゲンガーは言葉に詰まる。しばらく待っても何も答えない。今日の蒐の雰囲気作りはすべて、この質疑の為だった。沈黙が守られる空間にしない。質問にはすべて答える。その状況を作ることだけに心血しんけつを注ぎ、このシチュエーションを作り出した。

「どうしたの、巣南さん。巣南さんの思い出について聞いているんだよ」

「わ、私の、思い出……」

「そう、巣南さんの記憶、今までの人生について、聞いているんだ」

「わ、わたし……私は…………」

「巣南さん、貴方の、一番嫌な、心に残っている出来事は何だい?」

 蒐は巣南瑞穂の過去について知らない、聞いたこともない。だからドッペルゲンガーの言う記憶と巣南の因果関係はわからない。どちらの巣南瑞穂が彼女自身の本当の姿なのかわからない。彼女の記憶が巣南瑞穂の記憶を元にしていると信じるしかない。快活で明るい性格の今の彼女が生まれた転換点が、どこかに必ずあると信じるしかないのだ。

「お―――」

 そこに怪異であるという面影はない。ただの少女のように、顔を歪めながらドッペルゲンガーは言葉を続けようとする。

「お、置いていかれたこと」

「置いていかれた?」

「私は、私に置いていかれたの……」

 出てきた言葉は蒐の想像していない言葉だった。さらに謎が深まる。

「本当は、こんなことになるなんて思ってなかった。私だって信じられなかったの、もう一人私がいるなんて。だってそうでしょう? 私は変わらず今まで通り生活していたのに、急に二人になったのよ。でもね、正直それでもよかった。私はあの子が捨てた感情だから、今まで我慢して生きてきたから。その足枷あしかせが亡くなったあの子が幸せなら、それでよかったの」

 そのままドッペルゲンガーは話を続ける。

「それでね、色々あって私は生きる意味を失ったの。もう存在している意味がないから死のうと思ったわ。でもおかしいのよ。なぜか私はお腹が空かないの。睡眠だって必要がない。高いところから落ちたって死なないわ。でも感情は確かにあるの。そこで初めて、私は化け物になっていたんだってわかったわ。人間として生きてきた記憶を残したままの、死ぬことも生きていく力もない、ただのどっちつかずの化け物よ」

 ドッペルゲンガーは自分が化け物、怪異だと自白した。

 彼女の考えは正しい。紛れもなく、正真正銘、彼女は化け物、怪異だ。人間ではない。

 だが、これは自白と確認をしただけ。

 どうやって生まれたのか、なぜここに来たのか、肝心な部分を彼女はまだ伝えていない。

「死のうと思ったのは、それは何故なんだい?」

「それは……」

「言って御覧ごらん。君の生きる理由、生まれた理由は何だったんだい? それからここに来た理由も。力になれるかもしれないよ」

「……わかったわ。でもね、貴方あなたが力になれるかはわからないわよ」

 彼女は溜まっていた重みを吐き出すように、今日までの生活を吐露した。


 寄名蒐よりなしゅう巣南瑞穂すなんみずほという少女の生い立ちをこの時初めて知った。

 巣南瑞穂という少女は、一言でいえば不幸な子供だった。

 彼女は幼いころに両親を亡くし、遠戚の女性に引き取られ、街の喧騒から隔絶された寂れた民宿の中で、完全な放任主義の下で育てられたらしい。

 小学校中学校では誰からもまともに相手にされず、家の中で話し相手もいない、不幸で孤独な少女だった。

 その生活の中、彼女は処世術を学び、おおまかな人生設計を練る。

 そして、目論見は成功した。

 彼女は不幸な人生からの脱却、尾咲学園への入学という、幸せを手にするための切符を手に入れた。

 そこで巣南瑞穂は初めて人生のスタートラインに立った。

 ただ、この時に異常事態が起きた。彼女が幸せを手にすると同時に、不幸せな部分が―――物理的に―――切り離されてしまった。

 そして産まれたのが、目の前にいるドッペルゲンガー。

 尾咲学園の合格発表の日にその高揚感から巣南瑞穂は海に潜った。その時海の中で切り離されるように、母胎ぼたいに堕とされるように産み出され、オリジナルの巣南瑞穂に見つからないように生きてきた。その後、中学を卒業して巣南瑞穂がいなくなった後は、寂れた民宿で生活をするようになり、今日に至るまで売れない作家を支え続けた不幸な怪異だった。

 これがもう一人の巣南瑞穂、ドッペルゲンガーの誕生の経緯だった。

「でもね、生きる理由はなくなってしまったの。世話をしていた女性……作家のあの女性は死んでしまった。当然よね、お金がないから食べていくこともできない。食べなければもちろん餓死するわ。私はこんな身体になってしまったから働くこともできない」

 うわの空で、遠くを見つめたまま、彼女は独白を続ける。

「こうなることは目に見えていたのにね、最後まで女性の傍から離れられなかった。というか離れることなんてできないわ。たしかに私はあの子の切り捨てた感情だけれど、切り捨てた感情だからこそ大切にしないといけなかったの。だって、本当にどうでもいいことなら、この感情は、今の私は残っていないはずでしょう?」

 そうなのだ。感情として残っている以上、それは巣南瑞穂の心残りなのである。

 幸せをつかむために新たな人生を歩み始めた。だがそれでも、喉から手が出るほど焦がれた幸せを目の前にしても、どうしようもなくだらしない、あの女性を一人で残していくことに抵抗があったのだ。

 だから、その強烈な二律背反からドッペルゲンガーは産まれた。

 幸せをつかむための通過儀礼のように、何かを得るためには代価が必要だと言わんばかりに、彼女は無自覚に、もう一人の自分に全ての負い目を背負わせたのだった。そしてそれは、現実となった。

「ごめんなさい。こんなことになるとは思っていなかったの。私はただあの子に、もう一人の本当の私に、あの女性の最後を伝えるためにここに来たの。でも実際に目の前にした時、あの子は気を失ってしまった。それもそのはずよね。彼女は私の存在なんて知らない、目の前にいるのはただ、自分の姿をした怪物だとでも思ったのでしょう。それも間違えてはいないわ」

 ごめんなさいといって、ドッペルゲンガーは話を終えた。

 彼女の告白に、蒐は何も言うことが出来ない。

 これはどちらが正しい、どちらが悪いということではない。

 いうなれば事故のようなもの、巡り合わせが悪いだけなのだ。

 辛いことと向き合い続けることが偉いとか、目を背けて逃げることが罪だとか、そんなことはない。

 人は、辛ければ逃げてもいいのだ。

 寄名蒐が、怪異という存在を無視して逃げ続けてきたように、心をすり減らしてまで、辛い現実に向き合い続ける必要はないんだ。

 こうして蒐の提示した一問一答は終わった。

 残ったのはうつむきながら謝罪を続けるか弱い怪異と、怪異と呼ばれる存在に向き合ったばかりの頼りない少年だけだった。

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