チャウチャウ

大阪の片隅にある古びたアパートは、夜中に不気味な鳴き声が聞こえてくることで知られていた。

地元住民に恐れられ、なかなか人が寄り付かないアパートにある日、新しい住人が引っ越してきた。若い女性で仮名をA子としよう。

A子が引っ越してきてから最初の数日間は噂なんて嘘のように平穏な日々が続いた。


しかしある日の夜、A子の部屋に異変が生じた。

A子はその日会社の飲み会のせいで帰宅が遅れ、帰ってきたのは夜中の0時を回っていた。

疲れた体を引きずりながら、A子はまず手を洗おうと洗面台へ向かう。


プッシュ式の石鹸ボトルの頭を押して手に取ると、A子はいつもと何かが違うと微かに違和感を覚えた。

手を擦り合わせてもなぜか泡が立たない。それにやけに粘つくように感じる。

A子は慌てて手を洗い流すも、摩擦が感じられず、まるで皮膚が溶けているかのような錯覚を覚えた。


それからA子の部屋では妙な出来事が起こるようになったのだ。










夜が更け、アパートが闇と静けさに包まれた頃。


「……ゥ」


A子はこれまで意識していなかったが、隣の部屋から時々に不気味な鳴き声が聞こえてくることに気づいた。


「……ヤン」


それはまるでネット民に対する憎悪、嘆きや呪いが、壁を越えて彼女に語りかけているようだった。







ある晩、A子は勇気を振り絞って隣の部屋に何があるのか確かめに向かった。薄暗い廊下を進み、チャイムを押すが反応はない。


「誰もいませんかー?」


部屋の中に声をかけるが反応はない。

試しにドアノブをひねってみると、古びた蝶番が軋む音とともに簡単に扉が開く。


部屋の中にはおじがひとり佇んでいた。


おじは陰鬱な表情で、幼児のように口を開けたまま、その口から不気味な鳴き声が発せられるのを止めようとはしなかった。


「チャウチャウ……オンネン……」


おじの声は深く、哀れな響きを持っていた。彼の目は悲しみに満ち、A子はおじの悲しい過去に触れたような気がした。


「ご挨拶遅れまして申し訳ありません。先日隣の部屋に引っ越してきたA子と申します」

「オジヤ……」

「おじさんは一人でこちらに住んでらっしゃるんですか?」

「チャウチャウ……オンネン……」

「……」


A子はこれ以上、彼と会話をするのは不可能だと判断し部屋を去った。














自分の部屋に帰ってきて色々家事をこなしていてもA子の心は落ち着かなかった。

あの不気味な声色がA子の耳にこびりついて離れないのだ。


ピンポーン。家の呼び鈴が鳴った。こんな夜遅くに誰だろうと思いつつA子は玄関のドアを開いた。


「どちらさまですか――」


ドアを開け、A子は恐怖で凍りついた。


そこには今日話した隣人の男が土鍋を持って立っていたのだ。


「オジヤ……オジヤ……」


どうやらこのおじは、A子のためにわざわざ、おじやを料理し持ってきたようであった。


「ありがとうございます。でも私、おじやは苦手でして……」


A子はなんとかおじを穏便に家に帰そうとしたが、おじは引く気がないようで、


「オジヤ……」


と言いながらA子の方へ土鍋を突き出してくる。


土鍋からは謎のどす黒い煙が立ち上り、煙とともに放たれる悪臭がA子の鼻を突いた。


「いやぁ!」


その不快感からA子は反射的に、手を出してしまう。


パリン!おじの手から叩き落された土鍋は、重力に逆らえずに落下しA子の家の前で無惨に砕け散った。


「……」


おじはその様を無言で眺めたかと思うと、緩慢な動きで身体を翻し、曲がった腰を押さえながら隣の部屋の中へ消えていった。


「なんなの……」


一方的に弄ばれたという気持ちがA子の中に生じ、隣人が去っていくまでその後ろ姿に、憎々し気な視線を外すことはなかった。


隣人が去ってから、A子の怒りは徐々にふつふつと沸いてきた。ふと気づくと自宅の前では粉々になった土鍋の破片とおぞましい内容物が広がっている。

なんで私が片付けもしなければならないのかとA子は肩を震わせた。














その夜、A子は窓から差し込む月明かりに照らされながら、眠れずにただただ天井を見つめ続けていた。

隣の部屋からは相変わらず不気味な声が聞こえてくる。


「……ャゥ」


A子は目を閉じながらその声を聞いていた。意識を集中するとポリエステルが擦れるような音と、地面が踏み鳴らされるような振動も感じられた。


その声を聞くたびにA子の心にはおじに対する嫌悪感が募り、ついには別の家に引っ越すことを心に決めた。

もうこの場所には居られない。A子がそう思った時、壁越しに伝わってきていた隣人の声が止んだことに気づいた。


やっと安眠できると安心したのもつかの間、A子が寝返りを打ったその時、


「ひっ!」


A子の元に、おじは近づいてくる。


「オンネン……」

「いやっ!来ないで!」

「チャウチャウ……オンネン……」


A子は投げるものをがむしゃらに探し、枕をスマホをペットボトルをおじに投げつける。


「もうこれ以上私に付きまとわないでぇ――」


A子が悲鳴にも似た叫びをあげた瞬間、彼女の姿は跡形もなく消えていた。


最後に薄暗い部屋の中に残ったのはおじ一人。


「チャウチャウ……オンネン……オンネン……」


END

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