10年前のおじへ
おじがパン工場のバイトを始めてから、10年が経過していた。
かつて――おじが面接が行った時、おじはパン作りの技術を教えて貰えることを条件に働くことを了承していた。しかしながら、結局その話は有耶無耶にされ、おじはパンを一度も焼いたことはない。
「でもええねん。おじには起業とかきっと無理だったんや」
おじはもうすっかりパン工場になじんで、バイトリーダーにまでなっていた。
確かに起業して大勢に人に認められ大金も得るという道は絶たれた。だがおじはいつからかパン工場のみんなから尊敬されている今も悪くないと思うようになった。
そんなおじにもささやかな夢があった。
それはパン工場のバイトから正社員として格上げしてもらうことだ。
「これまでずうっと工場を良くしようの一心で働いたんや。それくらいは望んでもええよな?」
今日はちょうどおじが働き始めてから10年目。おじは工場長に正社員にしてもらえるようかけあってみようと決心した。
***
「おはようございますやで!」
パン工場に付くとおじは元気よく挨拶した。
「陰くんもおはような!」
「……っす」
おじは最近入った新人にも自分から挨拶をしに行くことを欠かさない。
少しでも職場の雰囲気を良くしてみんなに気持ちよく働いてもらえるようにしようというおじの心意気だった。
「アカン最近リウマチが辛いわぁ」
おじが大げさに腰をトントンしてアピールをするが、周囲で反応するものは誰もいない。
朝はみんな忙しいようで、各自始業開始の準備を進めていく。
「作業開始!」
そしていつも通りのライン作業が始まるのだった。
***
「みんなお疲れ様やで!」
「……っす」
何事もなく仕事は終了した。
おじは少し気後れしながらも、工場長の元へ向かって、話しかけた。
「あのー工場長」
「おぉ、どうした? おじくん」
「実はな、おじな、今日で働き始めてから10年経ったのですやで。でな、パンの焼き方を教えてくれる話とか覚えてたりせえへん?」
「あーそんな話もあったなあ。パンは焼いてるの?」
「イヤッ。結局」
「だめだよおじくん。俺なんてその話される今の今まで忘れてたもん。学ぶ姿勢ってのは自主的に行かないとな」
「さすが工場長。勉強になりますやで」
「まぁあのおじくんも今じゃバイトリーダーだ。よくやってくれてると思うよ。これからも頑張ってね」
工場長はあっさり会話を切り上げようとするが、おじにとっては今から話すことが本題だ。
「工場長、おじ、そろそろ正社員になりたいですやで」
おじがそういった瞬間、工場長の表情が険しくなる。
「あー、正社員ね。そっか、なりたいんだ、正社員」
「はいですやで!」
元気よくおじが答えると、工場長は髭をいじりながら苦虫を噛み潰したような表情で答えた。
「でもさ、言われて思い出したけど、おじくんが面接に来た時、パンを焼く技術身につけたら、すぐにでも独立するみたいな雰囲気出してなかった?」
「当時はそうなんやけど、最近はもうこの工場で定年まで働きたいかなって、ハハ」
おじの乾いた笑いが、業務終了後の工場の中で響き渡った。
「そういうやおじくんさぁ、ビジネスマネジャー検定の資格取った?」
「イヤッまだです」
「なんで取らんの?」
おじはその資格を取ろうと一度試験を受けていたが落ちていた。しかし、落ちたとは言いづらかったおじは言葉を濁す。
「いやー、取ってもあんま意味ないんやないか思いまして、ハハ……」
おじが引きつった笑いと共にに答えた瞬間、
「意味なくはないだろうがよぉ!」
工場長が急に大声を出してブチ切れた。
「イヤッ、すんません!」
「あと前からずっと気になってたんだけどさ、そのイヤッっていうのなんなの?」
「これは口癖で……」
「おじくんさぁ、否定から入るのが癖になっちゃってるよね。よくないよ、そういうの」
「イヤッ! あっ…」
「おめえ舐めてんのか! ゴラァ!」
「ちっちがうんす、すんません……すんません……」
おじはもう平謝りするしかできなかった。
「お前リーダー職になったのつい最近だよな。ぶっちゃけて言うけど前のリーダーより評判悪いからな?
工場内では陰くんの方がリーダー向いてるって意見のほうが多いんだわ。まだ20代で将来性もあるしさ。おじくんもう40後半でしょ?」
「はい……」
「おじくん高学歴で勉強はできるんだからさ、俺なんかが何考えてるか簡単にわかるんじゃない?」
「……」
「うちの工場は給料上げる余裕なんてないくらい経営カツカツだしさ。正社員の件、こっちも善処するけどおじくんももっと頑張ってくれよ」
「はい……」
***
工場からの帰り道。この道も10年前から何一つ光景が変わってない。
おじが住む西成は生活保護の受給率が日本で最も高いと言われている。
隣の区画とは露骨に壁で区切られており、さながら壁の中は国から見捨てられたスラムのようだった。
「ただいま」
そして、いつも通りにおじは家へと帰ってきた。
「ふぅ~、みんなおるかな」
おじがいうみんなとは、デュラララチャット上の知人たちのことだ。
10年前からデュラララチャットは衰退に衰退を重ね、今では同時接続人数が100を上回ることはなくなった。
昔存在していたおじファミリーは全員既にどこかへ消えてしまったのだが、それでもおじの立てる部屋に全く人が集まらないということはなかった。
『デュラララチャット(仮)閉鎖のお知らせ』
「えっ!?」
しかし今日おじがデュラチャを開くと、出てきたのはいつものログイン画面ではなく、長らくサービスを続けてきたデュラチャがついに閉鎖を決定したことを告げる告知のみであった。
「イヤッ……イヤッ!」
おじはあまりの衝撃に、スマホを放り投げると、現実逃避するかのように布団の中へと逃げ込んだ。
おじの唯一の現実逃避先であるデュラララチャットが失われた今、おじの脳内ではこれまでのおじの人生が思い返されていた。
「なんでや……なんでこんなことになってしまったねん」
おじは布団の中で独り悲しく涙を流した。
おじにもかつては愛すべき人たちがいた。おじの周りにはいつも大勢の仲間がいたのだ。
「おじはイケメンでモテるはずやろ……こんな人生おかしいねん」
おじは思い出の詰まった学習机の引き出しを開けた。そこにはおじの青春時代の写真がたくさん残されていた。
引き出しの中には手鏡も入っていた。おじは何気なしにその手鏡を取り出すと、鏡に写った自分の顔を見て驚いた。
「う、うわぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
鏡に写った顔はおじの輝かしい思い出の中でのものとはまるで別人だった。
「おかしいやろ、どこや、どこで選択を違えたんや」
おじはこの絶望から逃れようと必死に過去の記憶を掘り下げた。
そして、気づいた。
「10年前の究極の二択や」
おばぶか、ひめかか。おじは結局あの究極の二択に答えを出せずダラダラと今の今まで生きてしまっていたのだ。
「あの時、おじにどちらか選ぶ勇気があれば……」
***
おじは更に思い出に浸ろうと、押し入れの中を開けた。
そこにはホコリを被ったペペローションが大量に積まれていた。
「結局せどりも面倒臭なってやらんくなってまったな……」
押し入れの中には今でも不良在庫になったゴミが山積みだ。
「おじのオリジナルローション出すのが夢やったんけどな……」
おじはすっかり古くなったローションボトルを見つめた。
「よっしゃ、また薄めて作ったろか」
おじは10年前に買って残っていたローションをメルカリで再び売るためにタライを取り出すとローションの調合を始めた。
「多少古くなったけど食いもんじゃないしいけるやろ、えーと、容器はっと」
おじが容器を取りに立ちあがったその時、
「うおっ!」
腰にガタが来ていたおじは、体勢を崩し、片足を調合中のローションに突っ込んでしまう。
「アカン!!!!!」
そのままバランスを崩し、ガン!と机に頭を打ちつけた。
46歳のおじはローションに足を滑らせ、ピクリとも動かなくなった。
(身体が動かん……おじ……このまま死ぬんか……?)
おじが薄れゆく意識の中最後に見た光景は、ローションまみれになった自分の下半身だった。
(ローションを大切にしなかったから罰が当たったのかもしれへんな)
そして、おじの意識は深い闇に沈んでいった。
***
「ううっ……」
どれくらい時間が経っただろうか。おじは意識を取り戻した。目の前には先ほどと変わらぬ部屋が広がっている。
しかし――こぼしたはずのローションは綺麗さっぱりなくなっており、さらに身体にも変化が現れていた。
(身体が軽い……? リウマチが治ってる?)
おじは身体を起き上がらせると、スマホを見た。
「今日は……2023年やて!?」
そこでおじは初めて気づいた、いままでずっと長い夢を見ていたのだと。
「うぁぁぁあ……」
おじは感極まって天を仰いだ。
「神様ほんまにありがとう……ありがとう……。今度こそおじ、うまくやってみせますやで」
そしておじは歩き出した。10年前に出せなかったあの答えを出すために。
HAPPY END
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