100日後にパン工場を辞めるおじ
薄暗い工場内で機械音が
等間隔で繰り返される工場の景色は――まるで時間が止まっているかのようにも見えた。
おじはその中で死んだ魚のような目をして、ひたすらにパン生地をこね続けていた。
「
隣の作業台で働く仲間の声がおじの耳に届くが、おじの表情には――ほとんど変化がなかった。
「おう、がんばりますやで」
(元気がないのはお前らやろ。死んだ顔しやがって)
おじはそうやって心の中で悪態をつきながらも、黙々とパンをこね続けた。
工場内の光と影が織りなす世界の中で、おじは自身が工場の機械の一部になってしまったのではないかと感じた。おじは時折浮かんでくる――そうした不安を払拭するためにも、自分の役割に集中し続けていた。
***
カツカツと重い足音がおじの元に近づいてくる。堂々とした風貌の初老の男性が、作業中のおじに話しかけた、
「おじくん、ちょっといいか?」
「は、はい。どうしましたやで、工場長」
おじはぎこちなく背筋を伸ばし、工場長の方を向き直した。
工場長はおじに微笑みかけると、おじに付いてくるように促した。
工場の機械音が後ろで鳴り響く中、2人は歩き出した。
「おじくん、最近君の様子がちょっと変な気がするんだけど、大丈夫かい?」
「……」
おじは黙り込んだ。工場長はおじの表情を見て何かを悟ったようだった。
「何かあったら何でも言ってくれていいよ。なぜなら俺たちは同じ工場の仲間なんだからね」
工場長は頷きながら笑顔で、おじの肩を軽く叩いた。
おじは工場長の優しさに感激し、声を震わせながら話し始めた、
「工場長……おじ……パンが焼きたいです…………」
工場長はおじの言葉を聞くとキョトンとした表情を浮かべた。
「そうかそうか、おじくんがなぁ……。おじくんも知ってるだろうが、今パンを焼いてるのはリーダーだ。君はリーダーよりも美味しいパンが焼けるか?」
「焼けます!」
パシン! おじが即答すると、工場長がおじの頬を思い切りビンタした。
「パン作りを舐めるな!!!!!!」
工場長の憤怒の表情をおじはまともに見ることができなかった。
「確かにおじはパン作り素人かもしれへん。でもパンを作りたいという熱意は誰にも負けないんや」
「じゃあ無給でパン焼けるか?」
「えっ無給でパンを!?」
「無給で焼けるんだな?」
「イヤッ……」
おじは答えに窮し、黙り込んでしまった。
その反応に工場長は怒り出し、まくしたてた。
「なんだその答えは! お前はただの金儲け目的でパンを焼こうとしてるんじゃないか?」
「イヤッ、ちゃいます」
「じゃあお前はどうしてパンを焼くんだ?」
「パンは命や! 魂でパンを焼くんや!」
「その通り! 給料とお客様の笑顔どちらが大事だ!?」
「お客様の笑顔です!」
「そうだ! お客様の笑顔があれば給料なんていらないな!」
「給料なんていらへん! 無給でもいいのでおじにパンを焼かせてください!」
「よし、じゃあ明日からパンの焼き方教えてやる。お前の熱意、確かに受け取ったぞ」
「はい、ありがとうございますやで!」
2人は魂を震わせる問答を経て――熱い握手を交わしたのであった。
***
翌日、工場内は騒がしさに包まれていた。おじが無給でパンの焼き方を教えてもらうことになったという噂がまたたくまに広まっていたのだ。
「聞いたよ、
おじに話しかけてきたのは、隣の作業台で働いていた仲間だ。仲間の声は少しだけ興奮気味だった。
「ああ、おじはパンを焼く技術を身につけるためにこの工場に来たんやからな。給料とかどうでもええねん」
「すごいなあ」
「やろ? おじこの工場で一人だけ大卒やねん。ちょっとは特別扱いされてもええよな」
その言葉に仲間は少し困ったような表情を浮かべつつ諭すように言った、
「俺たちは皆、同じ工場で同じ仕事をしてるんだ。学歴なんて関係なく、みんな一緒。お前だけが特別ってわけじゃないんだよ」
「特別なおじに嫉妬すな! お前は一生ここでライン作業しとけばええ!」
おじは仲間の説教に我慢できずブチギレてしまった。そしてバツが悪くなったのか、おもむろにおじがこれまで被っていたヘアキャップを外し仲間に放り投げ言った、
「……これをおじだと思って元気にやってくれな」
こうしておじはかつての友を残し、工場長の元へと向かうのであった。
***
「ほう、来たか。覚悟はできてるだろうな、おじくん」
工場長に呼び出されたおじは緊張しながらも力強く答える。
「もちろんですやで。パンを焼く技術を身につけるためならどんな努力も惜しみまへん!」
すると工場長は満足げに頷き、手元のマニュアルをめくり始めた。そしてようやくあるページで手を止めると、そのページを指さしながら言った。
「おじくん、君に教えるのは基本中の基本のパン作りだ。この通りに作ってくれれば、絶対に美味しいものができる」
「イヤッ!おじは今すぐオジリナルパンを出したいねん」
「あのな、いいかい?」
工場長がおじに説教を始めようとしたその時だった。
バァン! と勢いよくドアが開けられ一人の男が入ってくる。
「工場長! 俺にもうパンを焼かなくていいってどういうことですか!?」
入ってきた男は、前日に工場長に降格を言い渡されたリーダーだった。その男はおじの姿を見て驚いたように尋ねる、
「まさか本当に南のやつにパン作りを仕込むんですか?」
「そういうことだ。今までご苦労だったな」
「納得できません!」
何を言おうか迷っていた工場長だったが、それを遮るようにおじが前に出て言う、
「もうええ、もうええ。
ペチッ! おじはパン生地に拳を叩きつけると、挑発するように拳にベットリと張り付いたパン生地をリーダーに見せつけた。
「正気か?」
「美味いパンを作ったほうが勝ち。負けた方が工場を去る。簡単な話や」
「お前、無給で働くとか言ってるらしいな」
「それがどしたんや?」
「俺らの仕事は遊びじゃない。こちとら生活がかかってるんだ。大卒様だかなんだか知らんが俺たちの職場を舐めて荒らすようなら容赦しないぞ」
「イヤッ、おじは本気やで。見せたるわ本気のおじのパン」
両者は睨み合うと、作業台に向かいあいパンを作り始めた。
***
リーダーはパン工場で長年パンを焼き続けてきただけある、慣れた手つきでパン生地をこね、形を作っていく。
一方のおじはというと、全く素人の手つきで、ぎごちない様子だ。
「さて、やるで」
おじはそう言うと急にボールからパン生地をテーブルの上に取り出し、
「オラァ! オラァ!」
膝でパンをこね始めた。
工場長は目の前で広げられる光景にあんぐりと開けた口が塞がらない様子だった。
「なんや! そんなんで驚いてたらあかんで!」
そう言うと、おじはさらに激しく膝を使ってパン生地をこね続ける。
「オラァ! オラァ! パン界に革命が起きるで!」
「馬鹿野郎! そんなこねかたしたらグルテンが破壊されて発酵すらままならなくなるだろうが!」
リーダーがおじに制止を呼びかけるも、おじには届かなかった。
「オマエラヤンに妨害されてもおじは負けへん!」
おじが膝を打ち付ける度に、テーブルの上に広がるパン生地は次第に奇妙な形状へと変わっていった。
それはまるで、おじの心の形が現実世界に表出したようで、見るものにはそれがもはや――パンではなくアートだと感じられる程であった。
***
そして2人ともパンが焼き上がった。
「うむ、ではまずリーダーくんの方から試食していくぞ。これはうちの看板商品のクロワッサンだな」
工場長はリーダーの焼いたパンをまじまじと見つめながらパンを口に運んだ。
「うん、美味しい! すごくよくできてるじゃないか!」
「ありがとうございます」
リーダーは工場長に一礼すると、おじの作った汚らしいパンを見てほくそ笑んだ。
「さて、では次。おじくんのパンを試食するとしようか」
工場長がおじのパンを手に取る前に、おじは口を開いた、
「パンに革命を起こすで」
そして、おじは皿の上に置かれたパンに拳を打ち付けた。
「な!? 何をしてるんだおじくん!」
工場長は啞然としながら目の前の光景を見つめることしかできなかった。それはリーダーも同じだったようで、呆然としている。
「このパンのな、外側の部分はいらんねん。食パンも耳はまずいやろ。ええか? パンの一番うまい部分ちゅうのはな、中心にあるねん」
「おい、やめとけ! パンの中心に一体何があるっていうんだよ!」
リーダーはおじを静止しようとおじの身体を掴むが、おじはパンを殴り続けることをやめない。
「お前ら、おじがこれまでパンに執拗に膝なり拳を入れてた理由わかるか?
これはな、おじの魂を込めてるんや」
「イカれてやがる……」
リーダーが小声で呟いた。
「さあ工場長、ご賞味くださいやで」
工場長は困惑しながらも、恐る恐るそのぼろぼろになったパンを口に運んだ。そして咀嚼し飲み込んだあと、手で顔を覆ってしまった。
「おじくん……これはパンではない。ただの廃棄物だ」
「なんやて!?」
「本当はね、無給で働いてくれるというからおじくんを勝たせるつもりだったんだが、気が変わったよ」
工場長はそう言うと、おじを睨みつけ、
「貴様はパンを舐めすぎた。今すぐ工場から出ていけ!」
と言い放ったのだった。
「イヤッ、イヤや!」
「どうしてもうちで働きたいというなら、無給で今までと同じ仕事をして誠意を見せれるか!?」
おじは愕然とし、そのまま膝から崩れ落ちた。そしてその目にはうっすらと涙が浮かんでいたのだった。
「工場長……すんませんでした……おじ、心を入れ替えますやで」
***
翌日。
工場には死んだ魚のような目をしてひたすらパンをこねる男がいた。
「おっ
隣にいた同僚がおじに声をかけたが、おじは一切の反応を示さずパンをこねている。
「聞いた? リーダーが芸能人とコラボして新作のパンを開発してるらしいよ」
「……」
「あっ、そうだ」
同僚はしわくちゃになった汚らしいプラスチックをおじのこねていたパンの上に投げた。
「ヘアキャップ。返しとくよ」
「……」
無心でパンをこね続けるおじは、もはや一切の不安も感じることはなかった。
おじが退職するまであと98日
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