第29話 残された世界と、滅び去る世界

「血の儀式・・・?」

茜の言葉に、椛は頷く。

「血晶を強化する為には、血を捧げるしかない。この前、僕の血を力づくで奪って、自分の血晶へと捧げさせた事で沙耶は、「邪印」から底知れない程の魔力を放てるようになった。覚醒した沙耶に対抗する為には、僕らも同じ事をお互いにやるしかない。僕が茜の血を、茜が僕の血を取り込むんだ。それ以外に、沙耶に勝つ方法はない」

そう言って椛は、自分の血晶のネックレスを外すと、その形を剣の形へと変形させる。紅い剣を右手に持つと、その刃を、床についたままの左手にあてがい・・・

「うっ・・・!」

唇を噛んで声を押し殺し、彼女は剣で自分の左前腕の肌を引き切る。そこから、剣の刃と同じ色の滴が滲み出して、ゆっくりと垂れ始める。

「今から・・・僕の血を、茜にあげるよ」

茜に覆い被さる姿勢になっていた椛は、一度、上半身を起こして、その腕を口元へと持っていく。そして、腕に絡まり着くよう赤い糸のような、血の滴に唇をつけて、口の中へと含んだ。

そして、カーペットの上に倒れ、椛に組み敷かれたままになっている茜は、自分の頬を両手で挟まれた。椛が、顔を近づけてくる。

彼女が、どうやって自分に血を捧げるつもりであるのか、その方法を察するのに時間は要さなかった。茜は、忽ちに顔中が熱くなる。今、もし自分の顔を鏡で見る事が出来たなら、きっと、熟れた桃のような色に、自分の頬は染め上げられているだろう。

茜は、こう言った事をした経験は勿論ない。学校に行っても無難なグループの中に適当に入って、そこでもまた、他の同級生とも深くは関わらずに無難にやっていくような人付き合いしかしてこなかったのだから、恋人などいる訳もなかった。

『生涯で最初の口づけが、こんな形になるなんてね・・・』

茜は、ぼんやりとそんな事を考えながら、椛の唇を見つめていた。彼女のそれは血に濡れて光っている。まるで口紅を引いたように。椛はメイクというものをほぼしない。霧島家の硬派な家風が、学校にメイクをしていくという浮ついた行動を許さなかったというのもあるだろうが、そもそも、そうしたものを必要としない程、彼女の顔の造りは整っていたし、茜もメイクのない彼女の顔を好んでいた。

そんな彼女の唇が、今は口紅の代わりに血で、鮮やかに艶やかに紅く光って見える。それはまるで、儀式に臨む血化粧に見えた。

そして、茜がそっと目を閉じると、程なくして自分の唇の上に柔らかく、温かい物が触れた。唇を薄く開くと、程なくして、口の中に鉄の味が広まり、熱い液体が入って来るのが分かった。茜は意を決して、その血を飲み込む。

血が、喉を通り過ぎて、体の中に入っていった、その直後から、変化は現れた。

「んっ・・・!!」

茜は、自分の胸元に、火で直接炙られているかのような、激しい痛みと、熱を感じた。ここで声を出す訳にはいかない。そんな事をしたら、椛の母親や霧島家のお手伝いさんなどが驚いて、部屋に駆け込んでくる。そして、この驚くべき光景を見てしまうだろうから。声を漏らさない為に、茜は椛の背中を探り当てると、それを覆うシャツの生地を苦し紛れに掴む。そして、椛の唇をもっと、貪るように激しく吸う。

声を抑え、漏れないようにする為に行っていた筈が、椛の唇の感触をもっと欲しくなって、夢中になっている自分に茜は気付くが、もう今更歯止めをかける事など出来なかった。こんな心地よい物を今まで知らずにいた事が、惜しまれた。今までの人生の経験で、特に何かを惜しんだ事のない自分が、初めて惜しんだ。

椛も、どうやら茜と同じ感情のようだった。口に含んだ血液を全て、茜の中に注ぎ込んでも、彼女の唇が離れる事はなかった。最初、茜の両の頬を優しく、そっと包むだけだった彼女の手も、無意識のうちにだろうが、指を立てて、力強く茜の顔を挟み込んでいる。息継ぎをする間もなく、口づけは続いた。耳の中にまで鳴り響いて来る自分の鼓動の他に聞こえるものは、唇と唇がこすれ合って立てている、水の跳ねるような、淫靡な音だけだ。

こんなに長く息を止めて、全身が温かな感覚に包まれていると、窓の外は真冬の寒さだというのに、行った事もない南の海の、波間を漂っている自分の姿の幻影を見る。

「・・・っぷ、ストップ!!」

流石に、これ以上、息を堪えるのにも限界があり、茜は、小さくそう言って、椛の体を押して、自分から離す。そして、まだ熱い胸元の「聖刻」の場所を手で押さえながら、カーペットの上で、全力疾走した後のようにぜいぜいと荒い息をついた。

少しでも熱を逃がす為に、胸元のボタンを緩め、「聖刻」の刻まれた肌を露わにする。

「も・・・、椛・・・!こんな大変な時に、がっつきすぎ・・・!これは、そういう目的じゃなくって、血晶と『聖刻』の力の強化の為に必要だから、血をお互いにあげるって話だったでしょ?」

茜は、堪らず抗議の声を上げる。自分の声が必要以上に上ずって聞こえるのは、茜も、あの心地よい南の海の幻影に飲まれかけていた、その照れ隠しに感じられた。声とは裏腹に、茜は、先程のあの、椛が自分とは違う、「生きようと願う人間」の側に行ってしまったような、離れていってしまうような心細さが消えて、満足に浸っていた。

口の中は椛の血の味で満たされている。それが、茜の体の中全てを、椛が満たしてくれているように感じられたから。

「聖刻」を押さえていた手を離してみると、掌一面が血で真っ赤に染まっている。顔を下に向けると、胸元の「聖刻」の紋様を成す、一筋、一筋が紅く光りを放っていた。

「み、見て・・・椛・・・ぐっ・・・!私、やったよ・・・、椛の血のおかげで、『聖刻』が力を増してるのを感じる・・・!」

時折走る痛みに耐えながら、茜は椛にそう言った。そして、血に染まった自分の掌を椛へと見せながら、途切れ途切れの言葉で言う。

「今度は、私のこの血も・・・、椛にあげるよ」

そして、痛みで遠のきそうな意識の中、血晶を握りしめ、念を送る。それは、雪の結晶と同じ形をしながら、その姿とは裏腹に、火傷しそうな程に熱くなっている。そんな紅く熱い雪は、やがて紅い剣に姿を変える。

掌に剣の先を立てて、すっと、肌を切り裂く。そこから流れ出す血を零さないように気をつけながら、掌を口元まで運び、流れてくる血を吸い取る。口の中を軽く満たす程度まで。

「じゃ、じゃあ、今度は僕が貰うね。君の血を・・・」

椛は、床から起き上がれないでいた茜の肩を掴んで、支えるようにして、カーペットの上に座らせる。そして、血を含んだ茜の口に、また椛の唇が近づいて来る。

今度は2回目だからか、茜も少し気持ちに余裕をもって、血を移し合う為の口づけに臨む事が出来た。唇と唇が、お互いの吐息の漏れる隙間もない程に硬く、密着したのを確かめると、薄く口を開いて、含んでいた血を、舌も使って押し出して、椛の口内へと送り込む。その際に、椛の舌と自分の舌が触れて、生温かく濡れたその感触に、体の芯が疼くような感覚に見舞われ、脳が痺れる。

椛の肌に焼き付いている、「聖刻」。それが血を流しながら、紅く光っているのを薄目を開けて、垣間見る。自分の血が、椛の秘めた力を更に引き出しつつあるのを見て、満足を覚える。

茜が椛に与えられるものは、彼女の拗らせた母性への渇望に応える優しさだけではない事を感じられたから。

『ああ、また、この感覚だ・・・。私の頭の中も、体の中も皆、椛で満たされていく・・・』

こんな事をしている場合ではないと、さっき、椛に言った手前ではあるが、茜もこれ以上続けていると、この心地よい温かさで、頭の中を全て溶かされてしまいそうだ。

「うっ・・・!!」

椛の手が、茜のブレザーの裾を掴む。「聖刻」の覚醒に伴う、激しい痛みが椛を襲っているようだった。茜は空いている方の手で、震える椛の背中を摩ってあげる。

こうした事が出来るのも、これが最後になるかもしれないのだ。椛から貰ったものと等価であるとは思わなくても、茜も、せめてもの温もりを与える。例え、彼女の本物の母親には叶わなくてもいい。椛が信じてくれた、同志として、自分は彼女の隣に居続けよう。


お互いの血を託し合った後、二人は、しばらく、息を切らして、床の上で隣り合って横たわっていた。窓の外は、もう日は落ちて、夜の闇の中、小雪が舞い続けていた。それだと言うのに、茜も椛も、額に汗が浮かんで、熱さにシャツのボタンの上二つを外したままで、天井を見上げていた。

「何だか、血を貰う前よりも、この血晶から力を感じる気がする・・・。これで、沙耶との戦いに僕たちは行けるね」

椛は、今、窓の外を舞っている物と同じ形をした、紅い宝石を指先に持って、宙に掲げて、呟く。それを大事に、彼女は胸に抱く。

「でも、その前に・・・。血を与える儀式としてだけじゃなく、茜とやっておきたい事がある」

そう言って、椛は起き上がり、シャツのボタンを閉める。そして、茜に手招きをした。茜も身を起こして、手招きされるがままに、椛へ身を寄せる。

すると、椛は茜の両肩を優しく掴んで、そっと、茜へと口づけた。

さっきの、熱に浮かされたような荒々しさはない。とろけてしまいそうなあの感覚もない。しかし、それは、茜に、寒さの中で焚火に身を寄せるような、染みわたる温かさをくれた。

「今のは、血を分け合う為のじゃなくって、今まで僕についてきて、力を与え続けてくれた事への、感謝と親愛を込めてのキス」

そう言って、椛はウインクをしてみせた。

「母さんと、ああして最後に仲直りが出来ても、君の居場所はなくなってなんかない。沙耶を倒して・・・、最期の時まで、僕の隣にいてほしい。僕にとって、茜の代わりなんか、誰もいないんだから」

茜の手をとって、椛は続ける。

「君を置いていく事も、先に行かせる事も絶対しない。死ぬ時は一緒に。初めて、この短い人生の中で、何か、自分の為以外に、必死になって生きる事が出来たんだ。君がいてくれたから。改めて聞くけれど、こんな僕についてきてくれる?」

その問いには、茜の答えはもう決まり切っていた。椛の手を握り返して、答える。

「私こそ・・・、椛に自分が与えられるものは、こんなに少ないのに、椛が私を必要としてくれてる事が嬉しい。だから、椛が必要としてくれるなら私はついていくし、一緒に死ぬ以外の最期なんて考えられない。」


そして、嵐の前の静けさのような日々が終わると共に、沙耶との最終決戦の時は、訪れた。

その日、茜と椛の暮らす街では朝から、異常な事態が発生していた。

「朝起きたら、家族の○○がいなくなっている!『この世界にサヨナラを』という書置きを残して!自殺しに行ったのかもしれない」

という内容の110番通報の電話が、市内の警察署に、鳴りやむ事なくかかり続けた。

その中の多くが、10代から20代の若者であった事-、つまり、SNSによく触れていると思われる年代の人間の失踪であった事。更には、世間を恐怖に陥れている、血晶関連自殺を象徴する、あのフレーズ-、『この世界にサヨナラを』という言葉を決まって、家族の元に書置きやメールで残しているという事実が、人々を震撼させた。


「な、なんだ、これは・・・」

朝、茜と椛のクラスの担任は、見慣れた筈の教室の中の様子を見て、絶句していた。

無理もない話だった。そこには、茜と椛を除いて、誰も生徒がいないという異様な光景が広がっていたのだから。

「き、霧島・・・、それに穂波。お前達、だ、誰か、自分以外で他の生徒を見かけなかったか・・・?」

担任は、冷や汗をかきながら、そう尋ねてくるが、それには、椛も茜も首を横に振るしかなかった。

隣の教室からも、血相を変えた教員が、状況を確認するように茜と椛がいる教室に駆け込んでくる。

「先生!こっちも登校しているのは数人だけです。朝から、保護者から『うちの子がいなくなった』という電話が、職員室では鳴りやまなくて・・・!」

「嘘だろう・・・?一体、何が始まったっていうんだ・・・」

教室によって、消えた生徒の数に多少の差はあるが、多くの生徒が姿を消して、保護者も連絡がとれなくなっている、という状況は変わらないようだった。

「それも、皆、『この世界にサヨナラを』という遺書のような手紙を残して出て行ったそうです」

「そ、そんな・・・。まさか・・・、皆、集団じ、自殺にでも行ったっていうのか・・・!あんな言葉につられて!」

想像を遥かに上回る、何かとてつもない事が起きようとしているのを、事実として彼らも受け入れざるを得ない様子だった。

廊下を慌ただしく駆けて、教員らが「一旦、臨時休校にして、来ている生徒らの保護者には、家から絶対生徒を出さないように、注意喚起しよう」などと、切羽詰まった様子で言葉を交わしていた。

そんな、慌てふためくばかりの大人達の様子を見ながら、二人は、この状況に戦慄していた。

「椛・・・。これって・・・」

「うん・・・、きっと、沙耶の言っていた計画が始まったんだ・・・!」

沙耶が動き出した事はもう、間違いなかった。彼女の計画の全容は見えないが、兎に角、これ以上、ここで教員らが右往左往する様子を見ていても仕方がない。


二人が、街の中で見た物は、宛ら、「戦場」だった。

「離して!私は行かなければならないの・・・!離せえ!!」

そんな金切り声があちらこちらから飛び交い、「馬鹿な真似はやめなさい!」と、それを制止する声も聞こえてくる。

憑りつかれたように、虚ろな目で、同じ方角を目指して、人々は歩き続けている。

「解放されるんだ・・・」

「この汚い世界から、サヨナラするんだ・・・」

うわ言のように、そう呟きながら。

そんな彼ら、彼女らの行く手を阻むように、道路を塞ぐようにしてパトカーが何台も、赤のライトを点滅させながら止まっている。警察官らが、何とかして、人々の足を止めようとしているようだった。既に、何人かが、警察官に抑え込まれて、動きを封じられている。

「ね、ねえ、今、お巡りさんに取り押さえられてる、あの子って・・・!」

茜は、警察官に羽交い絞めにされて、動きを封じられている、一人の少女に目が留まった。椛も、その方向に目を向けて、絶句した。

「あの子は・・・!沙耶は、あの子まで死なせるつもりなのか・・・!」

それは確か、椛と沙耶の取り巻きのグループの中でも仕切り役で、二人と対等に話が出来る数少ない女子生徒だった。いつも冷静だった彼女が、人が変わったように何かを喚き散らし、警察官にアスファルトの上で取り押さえられて、手足をばたつかせて藻掻いている。

その他にも、大人達に混じって、何人もの見知った同級生の顔を、茜と椛は「死の行進」の中に見出した。椛が時折、彼、彼女の名前を叫んで、呼び止めようとするが、全く耳に入っている気配はなく、黙々と歩き続けるばかりだ。

学校で、一人の女子生徒を錯乱させた時と同じように、彼ら、彼女らは皆、沙耶の「邪印」をネット上で見てしまい、操られたのは間違いなかった。

「あの時は、操られたのは一人だったから、血晶の力で浄化出来たけど、今日は、数が多すぎる・・・!」

椛は、歩き続ける群衆を見て、呻いた。これだけの数を、茜と椛の二人だけで、一人一人浄化して回るなど到底不可能だ。

皆を操る邪悪な魔力の源である、沙耶を倒す以外に方法はない。

そんな中、更に、恐ろしい事態が起こった。

警察が張っていた規制線の方に、エンジン音を唸らせながら、一台のトラックが突進していったのだ。

「と、止まれ!!」

一人の警察官が、腰のホルスターから拳銃を抜いてそう叫んだが・・・、発砲する間もなく彼は、鈍い音と共に宙へ吹き飛ばされた。そのまま車は、パトカーへ突っ込んでいき、一台のパトカーの側面に激突した。

そして、停車したトラックの右側の扉が開き・・・、降りてきた一人の若い男が叫んだ。

「SAAYA様の崇高な目的の為に動いている、俺たちの邪魔をするなぁ!!」

叫ぶや否や、彼は、背中のリュックから一本の瓶を取り出し、警察官達に向かって投げつけた。次の瞬間、警察官達の足元で、火の手が上がった。

「さ、下がれ!火炎瓶だ!」

燃え上がった炎が一人の警察官の制服に燃え移り、彼は火だるまになって地面を転げまわった。彼は、その警察官の、断末魔の叫び声を聞いて、薄笑いを浮かべながら更に、二本目の火炎瓶を取り出した。

その瞬間、二発の乾いた破裂音が響き・・・、赤い飛沫を飛び散らせて、男は路上に倒れた。

「ば、馬鹿野郎!威嚇射撃なしで撃つやつがあるか!」

「う、撃たなければ、我々が焼き殺されます・・・!巻き添えになって死ぬのは嫌だ・・・!」

一人の若い警察官が青ざめた顔で、震える両手で拳銃を握りしめて、そんな事を叫んでいた。その銃口から上がる白い煙で、茜は何が起きたのかを悟った。うつ伏せに倒れた男の体の下から、赤い液体が広がっていく。

「うっ・・・!!」

堪らず、茜は膝から崩れ落ちる。目を瞑り、口を押さえ込む。これ以上、凄惨な光景を見ている事は出来なかった。

トラックに衝突されたパトカーからも火が出ていた。規制線の一部が緩み、警察官達が怯んだ隙を見逃さぬように、「死の行進」を歩む群衆は駆けだして、パトカーの上を乗り越えて、突破していく。

ただ突破するだけではなく、男達は、数に物を言わせて、警察官に集団で殴る、蹴るの暴行を加え出した。容赦なく、何度も拳を振り下ろし、鈍く重い音が鳴る。

「国の犬め・・・!お前らに、俺達の苦しみが分かってたまるか!!」

そして、再び、威嚇射撃の発砲音が響く。それでも、群衆の、警察官に向いた敵意は怯まないようであり、獣のような唸り声をあげて向かっていく。

「まずい・・・!この前以上に、操られた人々の凶暴性も増してる・・・!沙耶は、一体どれ程の魔力を送り込んだんだ!」

何とか、群衆の拳の雨から逃れ、頭から血を流しながら、一人の警察官がパトカーに戻り、無線で何かを連絡していた。もう、彼らの人数ではどうにもならない規模の混乱となっているのは明らかだった。

そんな中‐、椛のスマホが着信音を立てる。

椛はスマホの画面を見るや、顔色を変える。その反応を見ただけでも、椛にメッセージを送ってきた相手が誰か、茜にはすぐに分かった。

「柊木さんから・・・?」

茜の問いに、椛はスマホの画面を見せてくる。そこにはこう書かれていた。

『12月〇日の夜、○○市近郊の廃墟群、○○リゾート跡まで来る事。そこで、私達の決着を付けましょう。私と紅羽の、世界を変える意思が勝つか、椛と穂波茜の、こんな世界でも守りたいという意思が勝つか。それを決める戦争よ。今、貴女が見てるだろう人々の群れも、そこに向かっているわ。私と一緒に、この世界に消えない傷痕を刻み付けてやる為に』

今日の夜、沙耶は全ての決着をつけるつもりのようだ。

○○リゾート跡は、この周辺では、心霊スポットとしても取り上げられる事の多い廃墟群だ。経営していた会社は倒産して、ホテルやらコンサートホールなどの建物だけが残った。

客が笑顔になれるような場所を夢見た、とある経営者が、作り上げようとした世界。経営が破綻した後、彼は命を絶ったと噂されている。彼の思いは現実に敗れ、夢見ていた彼の世界も崩れ去り、現実世界には「廃墟」という、手に余るだけの、消えない爪痕だけを遺した。

そうした場所を、自分の目的を叶える、最終決戦の場所に指定した沙耶の意思に、茜は感じるものがあった。彼女の「世界」という物への執着を。

「今日が、僕と茜。そして、沙耶の最期の日になるだろう・・・」

椛はそう呟いた。


「椛・・・!」

玄関の三和土(たたき)で、自分を呼び止める声に、振り返ると、そこには母親の姿があった。こうして母親に見送られるのも、これが最後になる。

茜のおかげで、自分と母親は、最後の最後ではあるが、こうして「親子」に戻る事が出来た。茜には、感謝しても、し尽くす事は出来ない。

「どうしてもいかなければならないの・・・?貴女が。沙耶ちゃんを止める為に」

「・・・僕でなければ駄目なんだ。この地獄を、沙耶に始めさせてしまった原因は僕にもあるから。だから、沙耶と刺し違える事になっても、僕には止める責任がある」

椛の母親は、椛の事を抱きしめてくれた。

「行かせたくない・・・!貴女の話を信じているけど、沙耶ちゃんを止める力を持っているのが、貴女と、穂波さんだけだとしても・・・、死んでほしくなんかない・・・!」

母の震える声。こんなに、弱く聞こえる母親の声を、椛は未だ嘗て聞いた事がない。常に、家の中では厳しい親であろうとしていたのが彼女だったから。

「沙耶の野望を、ここで終わりにさせなくては、父さん、母さんの生きているこの世界も、未来も崩壊してしまう。そうさせない為には、僕と茜が行くしかない。だから、どうか嘆かないで」

そして、椛はこう言った。

「こんな状況になるまで、母さんと親子に戻れなかったのは哀しいけど、最後にこうして、母さんに、娘として見送ってもらえて嬉しい」

母親の背中に手を回して、椛も、感情を込めて、抱きしめる。もう感じる事は出来ない、彼女の温もりを、頭の中に刻み込む。

「僕の事を、記憶に刻んでくれる人が、誰もいないままで、死に向かっていくのなんて、そんなのは、あまりにも哀しすぎるから・・・。僕の好きだった世界。母さんと僕の間で産まれた、あの、一瞬でも幸福だった時間。僕に、血晶のネックレスが似合うって、母さんが褒めてくれた時間が存在してた世界。それが、僕が死ぬと共に消え去ってしまうのだけは、耐えられないから・・・。僕が生きた証を、心に刻んでくれる?」

あの時間を共有出来た事。間違いなく、幸せを感じられた時間があった世界。それを、母親が覚えてくれているなら、椛の魂は滅んでも、自分がいた世界は滅ばない。

自分が生きていた証を、胸に刻み付けてくれている人は確かにここにいる。

「何を、言ってるの・・・。貴女との時間を、誰が忘れたりするものですか・・・!」

目頭が熱くなる。しかし、もうそろそろ行かなければならない。沙耶が指定した時間まで、時間はそう残されてはいない。このまま、ここにいては、きっと自分は、世界への未練に囚われて、動けなくなる。その前に、母親との世界に別れを告げねばならない。

「それじゃあ、母さん。父さんにもよろしく伝えてね。僕は、茜と共に、沙耶の元へと行ってくるね」

そこから先は、振り返らない決意を固めて、椛は、二度と帰る事のない家の玄関を後にする。

母親のすすり泣く声が、後ろから微かに聞こえた。それにつられて、目尻から零れ落ちそうになる熱いものを、椛は急いで、指先で拭った。


家の門の前に、茜は立って、椛が出てくるのを待っていた。茜は、やはり、椛の母親の事をかなり気にかけてくれていたようで、複雑そうな表情であった。

「ちゃんとお母さんに、お別れを言えた?椛」

そう尋ねる茜に、椛は頷く。

沙耶との戦いという、確定した死が待ち受けているというのに、今の椛の心は、不思議な程に、凪いだ海のように穏やかだった。そして、今まで心の中に、汚泥のように堆積していた感情・・・、母親への罪悪感、沙耶への罪悪感。この世界に対する怒りだとか、哀しみだとか、そう言った、負の感情の数々は、綺麗に洗い流されてしまったかのように、心は澄み渡っているように感じられた。

「茜は?ちゃんと、家族には、お別れの言葉を言う事は出来た?」

「私は・・・、自分の家にもう、未練なんて何もなかったから。最初から、私の家は、家族として成り立ってなんかいなかったから、お別れの言葉なんかいうつもりないよ。今の私には椛さえいてくれたら、それでいいんだから」

茜らしい言葉だった。彼女は、自分が生きている世界において、椛以外の存在に対しては、最後まで執着を何ら見せなかった。「椛と共に、華々しく死ぬ」事だけが、彼女の望みの全てであり、その後、自分の世界が跡形もなく滅び去ってしまっても、「穂波茜」という個人の存在は忘れられてしまっても、何も惜しくはないのだろう。

「霧島椛」という世界は、母親の胸の中に残されて、「穂波茜」という個人の世界は、きっと彼女亡きあとは、滅び去る。

そんな事を考えながら、椛は茜に、こう言った。

「それでは、行こうか・・・。沙耶と紅羽の元へ」

二人は、死出の旅へと、足を踏み出した。

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