第28話 母との和解。茜の苦悩と血の儀式。

カーナビの画面に映し出されたニュースは、混乱の続く社会を報じ続けていた。

集団自殺の狂気に各地は対応に追われており、多くの街で警察官がほぼ総動員されて、パトロールに追われていた。街中だけではなく、崖から海に身を投げようとする者、砂浜から海に入っていき、入水しようとする者も増え始めた為、海上保安庁まで動き出して、海岸沿いの洋上には巡視船が昼夜を問わず、海に入っていこうとする者がいないか警戒に当たっていた。

砂浜を背に、ダウンジャケットを着こんだ記者が、険しい表情でマイクを手に放している。

「現在、○○県○○市の砂浜に来ております。夏場は海水浴場として賑わうこの場所も、冬の到来した今では、人の姿もなく閑散とした状況です。先日から、全国各地で多発している自殺ブームに扇動されてか、この砂浜でも数人が既に海に入っていき、溺死して発見されています。御覧のように、沿岸では海上保安官が、自殺目的で海に入っていこうとする人がいないかパトロールに当たっています。洋上には、海上保安庁の巡視船も停泊して、監視活動を行っています」

カーナビの画面の向こう、切り取られた海は、夏の爽やかな青さを失い、鈍色に染まり、波打ち際で白い泡を立てていた。地元の有志の人々と、海上保安官が数名、砂浜を歩いていて、不審な様子の人間がいないか、目を光らせているようだった。その砂浜の様子を見た、運転席に座る紅羽が、じっと、物思いに耽っているのに、沙耶は気付いた。彼女が何を思っているのかは、前に聞かされた話から、すぐに察する事が出来た。紅羽の愛した人が水の泡と消えて、自分だけが死に損ねた日の事を思い出しているのだろう。彼女は画面に映る海を見つめたまま、着こんだトレンチコートの上から、左の手首を、意識してかは分からないが、そっと右手で掴んでいた。そのコートの生地の下に何が隠れているかを、沙耶は知っている。躊躇いと後悔の痕がそこには幾つも刻み付けられている事を。

その彼女の右手を、助手席から沙耶はそっと手で包み込む。自分と同じ憎しみを抱く、この同志の手を。

「私は、貴女に死に損ねた後悔なんか絶対させないから。今度は、必ず貴女の望みを叶えて、貴女を連れていく」

沙耶は彼女にそう言った。紅羽も答えるように頷く。

「ええ。私も二度も死に損なって、取り残されるつもりはない。沙耶ちゃんと共に、復讐を成し遂げて、そして死んでみせる」

カーナビの画面を消す。車の前面の窓ガラスに目をやると・・・、そこには、小さな雪の欠片が付いていた。その数は、みるみるうちに増えていく。

窓の向こうには、沙耶の首に今かけられている、ネックレスの先にある物の、名前の由来になったものー、本物の雪の結晶が、ちらちらと舞い始めていた。

あの「償いの日」に、季節外れの寒波で、夕晴れの空に突如として舞った風花(かざはな)を思い出す。風に乗って舞い踊る、夕陽に照らされていた紅い風花達の事を。

「降り出したわね・・・。これが今年は初雪かしら」

沙耶の視線を追って、窓の外を見た紅羽も、そう呟く。そう言えば、さっきまで垂れ流していたカーナビのニュース番組で、今年は異例の早さで冬の寒気が到来して、例年よりも早い初雪となる、とアナウンサーが言っていたのを思い出した。

「そうね・・・、そして、私達が見るのは、これがきっと最後の雪・・・」

沙耶は、風花の事について、紅羽に話をする。

「紅羽は、勿論知ってるわよね?血晶の力で起きた自殺の現場で、紅い風花がいくつも目撃されてるっていう話は」

「ええ。これでしょう?」

そう言って、紅羽が見せたスマホの画面には、ネットにアップされていた一枚の写真が上がる。

青空へと舞い上がり、そのまま、一瞬のうちに、空に吸い込まれて消えていきそうな、紅く儚く光る、小さな花。それを捉えた写真だ。

死者の魂が、「紅い風花」に姿を変えたとネットでは噂されている。

「これが、一斉に、何十も、何百も夜空に向かって舞い上がっていく光景を想像出来る?それはきっと、すごく美しい景色だと思わない?」

「沙耶ちゃんの言う、私達の最後の晴れ舞台の事?」

「そう。私は、今からとある場所に集まるように、ネットの世界で苦しんで、この世界から解放されるのを求めてる人達に発信する。勿論、これの写真と一緒にね」

沙耶は、ブラウスのボタンを外して緩める。そこに現れている、黒い「邪印」を指で指し示す。

「私の血晶の魔力で、人々を一カ所に集めて、そこで、私達と一緒に集団自殺をさせる。そうして、夜空に、無数の紅い風花を舞い上がらせて、咲かせるの。それが、私の描く、理想の最期の晴れ舞台。この世界に支配され、踏みつけられて苦しんできた人達の命が、風花に変わって、最期に、世界を紅く照らす側に変わる事は、美しいって思わない?ずっと、支配する側だと信じて疑わなかったこの世界は、支配されてきた人達の怒りや哀しみの込められた、紅い風花の色で染められて、立場は逆転する。世界は私達の作り出した美しい景色に置き換わり、今までの、私達の支配者だった世界は、私達の意思の前に跪く事になる」

その景色を頭に浮かべながら、沙耶は話す。何も成せないまま、無力に既存の世界に踏みつけられ、支配される時間はもう終わる。自分と紅羽が、この既存の世界に忘れ得ぬ美しい景色と、その後には、消える事のない傷跡を刻み付けてやる。自分のような、何の力もない一人の学生にも、世界は変えられるのだという事を見せつける時がきた。

「沙耶ちゃんって、中々小難しい事を思いつくね。既存の世界に、忘れられない景色と傷痕を入れて、作り変えてしまおうなんて」

「あの子といれば、誰だってこうなるよ。椛みたいな、厭世主義の死にたがりの幼馴染がいて、ずっと話をしてくれば、ね・・・」

かつて、自分の「理解者」だと信じてきた者の名前を口にする。実際には、最初から、抱く思いは交わってなどいなかった、椛と自分の関係に思いを馳せる。今の椛は沙耶にとってはもう、理解者でも同志でもない。それなら、今の彼女は沙耶にとって何と呼ぶべき相手なのだろう。

『・・・もう、何でもいい。椛は、私と紅羽が動き出したら、必ず止めに来る。あの電話で、宣戦布告をしたのだから。あの女も・・・穂波茜も連れて。私達を止めに来るのならば、あの子は、今の私にとっては敵だ』

沙耶の横で、紅羽は、沙耶のアイデアに賛同を示すように頷く。

「うん。素晴らしい考えだと思う。忘れられない景色を見せて、消えない傷痕も同時に残すか・・・。沙耶ちゃんに私は付いていくまで。それに・・・、きっと、霧島椛は、穂波茜と一緒に現れる。魔力の根源の、沙耶ちゃんを止める為に。迎え撃つなら2対1よりも、2対2の方がいいでしょう?同じ、「邪印」を持って、血晶の力を引き出して、操れる人間は」

沙耶と同じく、『邪印』をその胸に持つ紅羽はそう言った。

「ええ。私の目的の集大成はさっき話した通りだけど、でも、それだけじゃない。止めに来るなら、椛には死ぬ前に、苦しんで、私を裏切った報いを受けてもらう。その為には、椛の前で、あの子の望まない形の死を、穂波茜にもたらしてやるまで・・・。ただ、椛の息の根を止める気はないわ」

椛とかつて、お揃いで買った血晶を、掌に乗せて、握りしめる。

「行動を開始するわ。紅羽。今から、私の言うように動いて。ネットで、協力者、共に死んでくれる人達に、呼びかけてほしい」


先日の緊急会合の後も、椛と茜の学校を取り巻く状況は、好転する事はなかった。

沙耶の策略で、錯乱させられたあの女子生徒は、病院で目を覚ました時、わっと泣きじゃくるばかりで、「何か、恐ろしい物が頭の中に入ってきた。自分が自分ではなくなっていく感じがして・・・どうしてあんな事をしてしまったのか、全く分からない」としか、駆け付けた親や学校関係者、事情を聞きに来た警察の人間に話せなかった。結局、女子生徒の話を聞いた学校は、その後の臨時の全校集会で「教室で突如暴れて、教師にも怪我を負わせたあの女子生徒は、精神疾患による一過性の混乱を来したのであり、決して不思議な力で操られたのではない」と強引に結論づけて発表し、事態を収束に動いた。現実を否定して、理解可能な枠の中に無理やり事件を押し込めて、事態を終わりにしたのだ。椛と茜、二人の血晶が剣に姿を変えた、あの瞬間の出来事も「極限状態で皆がヒステリーとなり、集団幻覚でも見たのだろう。多感な他の生徒が動揺しないよう、決して口外しないように」と、目撃していた生徒らは指導をされ、もみ消された。

一連の大人達の動きへの、椛の落胆ぶりは、茜の目にもはっきりと分かった。彼らが、二人の話を信じて、力になってくれる気はない事を思い知らされたからだ。

娘が自殺教唆を行っている、という事実を受け入れきれずに、混乱した柊木夫妻は、変わり果てた姿の沙耶から、犯行が事実だと聞かされた後、酷く落ち込んで、自宅に閉じこもってしまったという。

「母さんが、沙耶のご両親を心配して見舞いに行ったけど、会えずに帰されたらしい。二人共、『ネット上に広まった自殺教唆の発端が沙耶だったなんて、世間に明るみになったら、私達はもう社会的に終わりだ・・・』って言って、塞ぎこんで面会も全部謝絶してるらしい。柊木の会社も、経営者の夫妻がこんな事になって、混乱してるって」

椛はそんな話を聞かせた。

沙耶を傷つけた、その壮大な報復を今、彼女の両親は受けていると言っても良かった。彼女はさぞかし、今の両親の姿を見たら喜ぶ事だろう。

奇妙な沈黙の期間があった。あの、大人達の前で、椛と茜に『宣戦布告』を行った日から、沙耶が表立った行動を見せない時期が何日か続いていた。冷却期間にでも入ったように。しかし、椛は、沙耶のこの沈黙に、警戒心を募らせていた。

「急に、今まであんな過激な行動を取っていた沙耶が、動きを見せなくなるなんておかしいよ。きっと、この前言っていた、より何か大きな事を起こす為の、準備に入ったのかもしれない」

沙耶がSNSに、死への誘いの文言と共にばら撒いた「邪印」の画像を見て、多くの人が我を忘れ、死へと歩み出している。これ以上に、沙耶が過激な行動に出るとなれば、彼女はもうどのような地獄を望んでいるのか、茜には想像もつかない。

ネット上の反応も大荒れとなっていた。茜が今見ているスマホの画面には、沙耶の工作に乗って、命を絶った自殺者らを罵る声も溢れていた。

『死ぬのは勝手だけど、大勢の人を巻き込んで死ぬような奴は本当にクズ。一人で黙って死ぬ勇気すらないんだ』

『誰がこんな扇動始めたのか知らないけど、こんな事するろくでなしは見つけたら必ず吊るし上げないと。メンヘラが集うところに、噂の文章と写真?は流れてきてるらしいから、そこを探せば見つかるかも』

『今、自殺に突っ走ってるやつは、いじめに遭ってたり、仕事のノルマをこなせなかったりしてる、メンヘラの、弱くて、使えない人間ばかりだろ。生きてる間も社会の足引っ張って、迷惑かけてきたんだから、死ぬ時くらい迷惑かけないようにしろよ』

『こういうのに乗る奴がいるから、今、あちこちで大騒ぎになってるんだぞ』

あまりの醜い言葉の数々に、茜は画面を閉じる。ネットの世界に、死に走った人々の心の闇に寄り添って、何かこうなる事を防ぐ方法はなかったのかを考えてくれる人はいなかった。

扇動した犯人を捜せとやっきになっている者。巻き添えで命を落としている人もいる事から、自殺している人間を迷惑と、誹謗中傷する者。

校内でも、いくら教師らがもみ消そうとしたところで、口を完全に封じられる訳もなく、「沙耶の呪い」であの錯乱した女子生徒は殺されかけたのだという話が広まっていった。

「あの子、柊木さんの取り巻きだったよね、確か。それなのにこんな目に遭うなんて、もしかして、恨みを買ってたって事?」

「い、嫌だ、私達が何したっていうの⁉柊木さんが呪いをかける程、私達を憎む理由が分からない!警察が早く、柊木さんを捕まえたらいいのに」

「無理いうなよ、あいつが暴れた原因は呪いでしたなんて言って、警察が信じる訳ないだろ。でも、霧島たちの話が本当なら、あいつからのメールが来たら・・・俺たちも」

沙耶の呪いに恐怖する生徒達の声が、教室は飛び交っている。特に、沙耶と親しくやれていると思い込んでいた、取り巻きの生徒らは何故呪われないといけないのかと、恐れと怒りの入り混じった感情のようだった。

誰も、沙耶を恐れるばかりで、彼女の気持ちを理解している人間はいなかった。

その光景に、茜は、沙耶がいつも、人の中にいたのに、椛を除いたら、誰も彼女の本心に触れた者はおらず、彼女が本当は孤独な人間であった事を改めて感じた。かつての茜と同じように。

足を踏まれた者は忘れないが、踏んだ者はすぐに忘れる‐。教室の中を飛び交う言葉達を聞きながら、そんな言葉が頭に浮かぶ。

結局、茜と椛の二人だけで、沙耶と戦うしかない状況は変わらなかった。

そして、沙耶との対決の前に、大きな問題があった。茜の血晶の力不足だ。

「あの時、柊木さんの一回の「邪印」による心理攻撃を防ぐだけでも、私は殆ど力を使い切ってしまった・・・。今の柊木さんは、前に会った時よりも圧倒的に強くなってる。このままじゃ、私は、柊木さんと、紅羽との戦いの時に、椛の足を引っ張ってしまう」

茜は椛にそう告げた。あのようにあっさりと茜が消耗してしまっていては、椛は茜を守りながら、二人を相手に戦う事になり、不利にしかならないだろう。

「血晶と『聖刻』の力をもっと強くしないと、今の私じゃ、柊木さんには勝てない」

帰り道で、茜は椛にそう言った。血晶の力不足を補う為に、「聖刻」の力の強化が必要である事を。

「確かに沙耶は、僕の血を血晶に捧げる前より、圧倒的に「邪印」を通じて使える魔力が濃さを増してる・・・。今のままでは、僕達二人がかりでも沙耶を止められるか危ういのに、向こうにはもう一人、彼女の忠実な同志までいる・・・」

「紅羽っていうあの女の人だね」

「彼女も、沙耶程ではないにしても、かなりの力を持ってる。あの二人を相手に、今の僕達程度の血晶の魔力では・・・きっと勝ち目は乏しい」

椛も、厳しい現状は認めざるを得ないようだった。

椛の血と、紅羽の献身で力を得た今の沙耶を倒すには、茜と椛、二人の『聖刻』を通して、血晶の力を更に引き出せるよう、血晶の強化を行うしかない。

その方針を話し合う為、霧島家へ立ち寄る事となった。

茜は、一応、母親の携帯にメッセージで、帰りが遅くなる旨を連絡する。この手の連絡で、両親から何の用事かを聞かれた事がないのが、両親の茜への関心の薄さを物語っていた。今日も、既読がついただけで、何も問われる事はなかった。その無関心ぶりを今は幸いに思う。そのおかげで、親が椛との行動の妨げになる事はないのだから。

返事のないまま、スマホをブレザーのポケットに突っ込んで歩き出す。様子を見ていた椛がぽつりと言った。

「茜のご両親は、本当に茜の事を気にしないね・・・。これだけ学校が大騒ぎになってるっていうのに」

「うちのお父さんもお母さんも、保護者会とかも全然参加しないから、多分、学校の騒ぎもろくに知らないと思うよ。うちは、ひとつ屋根の下にただ一緒にいるだけで、お互いに他人みたいな家だから・・・。お父さんもお母さんも自分の事しか関心ないから。私が消えたところで、あの二人が動揺したり、泣いたりしてる姿を想像出来ない」

あの家の事は、椛に殆ど話した事もないし、特に話したいという気持ちにもなれなかった。それ程に、穂波家に家族の絆とか、結びつきというものはなかった。

だから、今の茜にとっての世界に、家族はいない。そこにいるのは椛だけだった。椛だけが、茜の空っぽの世界を満たし、構成してくれる存在だった。

椛の家に着き、部屋へと通される。

椛の母親と目が合った時、茜は、警察署の暗い廊下で、月明かりを背にして、瞳を潤ませていた彼女を思い出す。椛が、沙耶の母親から責め立てられた時にも、彼女は母親として、椛を守ろうと声を上げてくれた。厳格で、自分を中に押し込めて、感情を表にあまり見せない人という第一印象であったのが、今は、その眼差しの中に、椛への愛情を見出せるようになったと、茜には感じられた。

「穂波さん、ちょっと」

椛の部屋に入る前に、廊下で茜は、椛の母親に呼び止められる。茜は、椛に先に部屋へと行ってもらい、彼女とそこで少し立ち話をした。

「穂波さん、この前、警察署で話した時は、どうもありがとう」

「いえ、私はそんな、椛のお母さんにお礼を言われるような事なんて、何にも・・・」

茜はそう言うが、椛の母親は首を横に振る。

「そんな事ないわ。貴女に出会えてなかったら、私は自分の本当の気持ちと向き合わないまま、感情がない機械みたいに無機質に、椛と接していくしかなかった。椛と向き合う時、自分の中に湧いて来る気持ちと向き合っていたら、私は自分が壊れてしまいそうな気がしたから。自分の気持ちに向き合えずにいた私の背中を、穂波さんが押してくれたのよ」

椛の出生の時から、椛と、椛の母親。二人の心に刻み込まれた癒えない傷と、止む事のない自責の念。その感情に向き合って、彼女が少しでも救われたと感じてくれたのなら、良かったと茜は思う。

「椛が、あの・・・、学校で柊木さんの両親と揉めて、騒ぎもあった緊急会合の夜、家に帰った後で、『僕の事を庇ってくれてありがとう。あの会合の場にいた人達の中で、せめて、お母さんだけでも僕と茜の言葉を信じてくれてるのが分かって、嬉しかった』って言ってくれたの。微笑んでね」

「椛が、そんな事を・・・」

「そう。素直に椛から、『ありがとう』と言われたのなんて、何年ぶりか、もう覚えてないくらい久しぶりの事よ。私の方こそ嬉しかった。こんな状況になって、やっと椛と親子らしく、心を通わせられたっていうのは、遅すぎたかもしれないけど・・・」

遅すぎたなんて事はない。両親とはほぼ心の結びつきがない自分と違って、椛は母親と、親子として心を通じ合わせる事が出来たのなら、それは素晴らしい事だと茜は思う。

椛の母親は、笑っていた。とは言え、笑い慣れていないらしく、不器用に口角を上げて、何とか微笑んでみせた、という風だ。初めて見る彼女の表情だ。笑う事があるのだろうか、とさえ思っていた彼女にこんな表情をさせる程、椛の言葉は嬉しかったのだろう。

そして、彼女は、その笑顔を収めて、真剣な表情に戻り、茜に尋ねる。

「貴女と椛で、柊木さんを止めにいくの・・・?この惨劇を終わらせる為に」

椛の母親が、真剣な表情で問う。教員らも、誰も、茜と椛の言葉を信じなかった中で、唯一信じてくれた大人は、彼女だけだった。

それは、彼女にとって椛が娘だから。

彼女と椛の間には、「母親と娘」という関係が、再構築されつつあった。

茜は胸に、「聖刻」の痛みとは違う、鈍い痛みを感じる。ようやく心を通じ合えた母と娘。その片方を、自分は連れて行こうとしているのだという事実に直面した。そうして、今までは、椛が、拗らせた母性を求める相手としても、茜を選んでくれていたのに、もう、その役目も終わりだと言われた気がしたから。

茜の世界を構築していたものが、崩れていく気がした。

自分が死んでも、両親はきっと泣かない。しかし、椛が死ねば、やっと椛への素直な気持ちを出せるようになったこの人は、きっと泣き崩れる。自分はなんて残酷な事をしようとしているのだろうと、茜はひりひりと心が痛んだ。

自分が椛と共に死ねば、椛の母親は、きっと自分の事を死神として憎む事だろう。

「本当に、あの血晶という宝石の不思議な力を使って、柊木さんを止める戦いに行くのなら・・・、どうか、椛も穂波さんも、生きて帰ってきてほしい」

椛の母親の言葉に、茜は答える事が出来なかった。

生きる事を望まれる言葉を、かけられたくはなかった。

彼女とこれ以上、話を続けるのが苦しくなり、彼女にさっと背中を向ける。茜は言葉を濁したまま、椛の部屋へと入っていった。


「初雪だね・・・」

椛はポツリと呟いた。部屋に入り、丸テーブルを挟んで、茜と椛は向かい合って、カーペットの上に座っている。

部屋の窓に茜は目を向ける。レースのカーテンの隙間に見える、どんよりと曇った空から、チラチラと風に乗って光る粒が舞い始めている。冬の到来を一目で分からせるものだった。

茜は、部屋に入ってから、黙っていた。自分の心に重くのしかかっているものを早く退けたいのに、思うようにいかない。椛も、ずっと黙って物思いに沈んでいる茜の様子をおかしいと思ったようで、尋ねてきた。

「母さんと何か話した?部屋に来る前、廊下で呼び止められていたけど」

「えっ?ああ・・・、うん」

茜は口ごもる。椛に何と答えればよいのだろう。椛の母親に言われた言葉が引っ掛かって離れない、なんてそんな話をしている場合ではないのに。今は、強くなった沙耶に打ち勝つ事に集中しなければならないのに、茜の思考は揺らいでいる。

『言えない・・・、椛に、お母さんを残して死んでほしくないっていう気持ちが出てきているなんて・・・。私の幸せは、椛と一緒に死ぬ事だけだった筈なのに』

椛に目を合わせられない。視線が泳ぎ、部屋の中、白い戸棚の上にある写真立てに、茜は目が留まった。その木製の写真立ての中には、今より少し幼い、黒のセーラー服姿の椛が、両親と共にとった写真があった。校門の前で、小学校の入学式の時を映したものらしかった。

もうこの頃には椛は、自分の業を‐、母親の体を傷つけてしまったという罪を感じて、心を閉ざしてしまっていたのだろう。そして、椛の母親も、自分の中にある、椛を恨んでしまう気持ちと、それでも椛を親として愛する気持ち、それらが合わさった感情の渦の中にいたのだろう。

長く続いてきた親子の間の溝が、やっと埋まろうとしているのに、自分は椛を母親の元から連れ去ろうとしている。それは許される事なのか。

元はと言えば、自分が、椛に何も知らないままで、死んでいってほしくなかったから、彼女の母親の本当の気持ちを引き出したのに。気付けばその行動が、『椛はもしかして、生きる事を望み始めているのではないか』という恐れへと繋がっている。そう考えると、自分の行動が愚かしいものに思えた。

茜は、椛に恐る恐る問いかける。

「ねぇ、椛はさ・・・、このまま、お母さんと別れてしまっていいって本当に思ってる?もしかして、お母さんとこの先もやっぱり生きていきたいって、思い始めてる?」

「え・・・?」

今度は、椛が言葉を失う番だった。

「急に、何、言い出すの、茜・・・?」

「だって・・・、さっき、椛のお母さんが声をかけてくれた時、すごく、お母さん、嬉しそうだった・・・。久しぶりに、椛が自分に微笑んでくれて、そして、ありがとうと言ってくれたって!椛の、死を望む理由が、お母さんを傷つけてしまった自分を許せない事にあるんだったら、二人が仲直り出来たのなら、椛はこの先も生きていっていいんじゃないかって、思ってしまったから。お母さんとの仲直りした椛に、もう私は必要じゃなくなったのかなって」

椛も、茜が言おうとしている事に見当がついたようで、はっとした表情になっていた。

話しているうちに、頬を熱いものが零れ落ちてくる。

「柊木さんは、私が、一人でも何とかするから・・・。椛がこれ以上苦しまないように、柊木さんの事は絶対、私が死んででも止めるから、椛はお母さんと共に生き続けてくれても、いいんだよ・・・?私の事は忘れて・・・」

最低だ。口ではそう言いながら、椛が自分の言葉を否定してくれるのを、自分は待ち望んでいる。

否定してくれなかったら、茜はもう・・・、椛を置いて一人でも、沙耶を止める戦いに向かっていくだろう。死ぬ為に。そして、椛の苦しみを生み続ける、沙耶を葬るという形で、椛へ最後に愛を伝える為に。

「茜・・・。僕はそんな事、思ってない!」

「じゃあ、椛は、お母さんを置いて、死ぬ事に、今も躊躇いはないの?やっと、親子らしい関係に戻れたのに。私・・・、椛のお母さんの綻んだ顔を思い出したら、椛を連れていけないよ!やっと、笑ってくれた椛のお母さんと椛を、私には引き裂けないっ・・・!」

最初は、ポツリポツリと話していた筈なのに、自分の声は、悲痛な涙声にいつの間にか変わっていた。

椛が、母と娘の関係を再構築すれば、「死」という共通の目的に二人で向かう、不思議な満ち足りた日々の根底にあった、茜の感情。「椛は、拗らせた母性的愛情を求める相手として、自分を必要としてくれる」という茜の自信も失われていく気がしたから。足場が崩れ落ちていき、いきなり虚空に投げ出される感覚に近かった。


茜は、自分の体がふっと、包み込まれるのを感じた。

椛の体温が、香りが、すぐ近くにあった。茜の背中に、椛の手の温もりを感じる。

小柄な茜は、簡単に椛の腕の中に納まっている。

「・・・あの夜とは、逆の構図だね・・・。あの時は、泣いていた椛を、私が抱きしめてた」

警察署の夜を思い出しながら、茜は言った。

「茜は優しいね・・・。そんなに、僕と、母さんの関係を、気にしてくれてたんだね。いつか、君は僕に優しいって言ってくれたけど、君だって優しい。僕の母さんにあの警察署の時もしっかり向き合ってくれて、今日も、よく見ててくれたんだ」

「誤魔化さないでよ・・・。椛に、もう死ぬべき理由はないんじゃないかって思ったんだから。柊木さんを止めるのなら、失うものもないし、どうせ空っぽの私だけが行けば、それでいいんじゃないかって、椛のお母さんの話を聞いてたら思っちゃった」

自分達の事にしか関心がなく、生活に要る小遣いを渡すだけの関わりしか娘とはしない、自分の両親を思い浮かべながら、茜は言った。

「僕と、茜の契約を疑ってる?お母さんと仲直りして、家との確執が解決したから、一緒に死ぬ約束も、はい終了ですってなると、君は思ってるの?」

言葉遣いはややくだけているものの、椛の目は真剣そのものだった。はぐらかす気はない事は伝わった。椛は、茜の肩に頭を軽く乗せて、言葉を続ける。

「君がいたから、僕と母さんの関係が変わったっていうのは事実だよ。それは、茜の言う通り。もしも、茜に出会わないままだったら、僕は母さんも色んな感情の狭間で苦しんでいた事を知らなかったし、ずっと母さんとは互いに近づけないまま、僕は死んでいっただろうと思う。そっちの方が、確かに死ぬ理由としてはぶれてなかっただろうね」

「自分でもそう言ってるじゃん・・・、だったら、やっぱり椛はお母さんの元に残って、生きるべきだよ・・・」

茜の頬にふわっと、毛先が撫でていく感触がして、口をつぐむ。椛が首を横に振った、その髪が頬に触れたらしかった。

「でも、僕が死ぬべき理由は、母さんの事だけじゃない。沙耶を、止めないといけない。あの子の人生を破壊してしまった、大きな罪を僕は背負ってる。僕は、母さんへの罪や、僕に男の子のように振る舞うよう強制した、家に対する恨みだけじゃない。沙耶への罪もずっと負ってきて、そして、この最悪の結末を招いてしまった。沙耶がいる限り、僕の罪は消えないんだ。その罪の償いとして、刺し違えてでもこの地獄を終わらせなきゃいけないのは僕なのに、それを茜だけにまかせて、僕は何もせずにこの先も、霧島家で生きていくなんて事、どうして出来ると思うの・・・?」

ぎゅっと、背中に優しく触れていた、彼女の掌が、握りこぶしに変わったのを肌で感じ取る。椛の感情の高まりを物語っていた。

「例え、もしも茜が沙耶と紅羽を倒せたとしても、茜もきっと死ぬ。茜を死なせたのに、自分だけのうのうと未来を生きていくなんて、僕には出来ない・・・。そんなの、自分を許して、生きてはいけない。君に置いていかれるのは嫌なんだ・・・!僕に沢山の気持ちをくれて、僕が投げ槍になった時だって、手を取って導いてくれた君に・・・!死ぬ時は一緒だって約束を、ここに来て破らないで・・・」

椛にこんな苦しそうな声を出させて、それでも、自分の不安を否定してくれる彼女に、安堵している自分が、茜はたまらなく嫌だった。今は、投げ槍になった自分を、椛が引っ張ってくれている。これも、沙耶に襲われたあの晩とは反対の構図だった。

「まだ、僕の言葉、信じられない・・・?君をはぐらかす為に言ってると思う?」

茜は答えない。椛の必死の表情を疑う訳がない。だけど・・・。

「私、自分に酔ってた・・・、椛の甘えたい気持ちとか、そういう物を受け止められる唯一の存在になれてるって。でも、椛とお母さんの溝が無くなったのなら・・・、その立場も無くなるんじゃないかって、不安になったの!」

茜の言葉に、椛は何か、意を決した表情で口を開く。

「じゃあ、僕が、茜と一緒に、沙耶と刺し違えて、死んでいく。その気持ちに揺らぎなんかない事を、証明してみせるよ」

そうして、椛は、茜をカーペットの上へと押し倒した。急に横倒しにされて、茜は、目尻に溜まっていた涙が、顔の横を伝い落ちていくのを感じた。お互い、自分の感情を出し合った直後だからか、息が荒い。

茜が動く間もなかった。椛は、上着のブレザーを脱ぎ捨て、制服のシャツのボタンを開けて、襟を緩める。そして、顔の両横、カーペットの上に椛は手を突いた。茜を押し倒して、その上に椛が覆い被さる形になっている。

茜は、はだけた椛の襟の向こう、白い肌の上の「聖刻」が、彼女の気持ちの高まりそのままのように紅く光っているのに気付いた。そして、「聖刻」から血が滲み出している。垂れ下がるネックレスの血晶も、紅く光っていた。

気付けば、茜も胸のシャツの部分に紅く血が付いていた。胸元の血晶も、「聖刻」の部分も熱い。

茜を見下ろしたまま、椛は言った。

「僕の血を、茜にあげるから・・・!茜と僕、お互いの『聖刻』を強める、儀式をしよう!」

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