第26話 「死と解放への行進」

「死への行進」が始まっていた。

「死によって解放されるんだ・・・、救われるんだ。この世界から」

「もう、これ以上、傷つかなくて・・・苦しまなくていいんだ・・・」

熱に浮かされたように、そんな言葉を口にする人々が、街のあちらこちらで現れ、スマホの画面を食い入るように見つめながら、一心不乱に歩き出していた。何処か同じ場所を目指しているらしい彼ら、彼女らは、自然と集まり始め、宛ら「行進」の様相を呈した。

「この世界に、サヨナラを・・・」

同じ言葉が、彼ら、彼女らの口から幾度も発された。

「やめろ、何を馬鹿なことをしてるんだ!」

「お願い、正気に戻って!」

「行進」する群衆に、ふらふらと吸い寄せられるように、スマホを片手に歩いていく我が子を、悲痛な叫びをあげて止める両親もいた。止められた彼は、人が変わったように喚き声をあげ、拳を振り上げて親を殴り飛ばし、何もなかったように、群衆へと歩いていく。「この世界にサヨナラを・・・」と、取りつかれたように呟きながら。

頬を殴られた母親は、泣きながら「あなた、け、警察に電話を!うちの息子が、狂ってしまった!」と夫に縋る。

こうした事象は、瞬く間に全国の都市に波及し、最早、警察の力でも収拾がつかない事態に至っていた。「死」「解放される」という言葉を呟く彼ら、彼女らを、何とか止めようとした警官に激高して、命を絶つために持っていた包丁で襲い掛かり、拳銃の正当防衛射撃で射殺される、という最悪の事態まで発生してしまった。

「○○市上空からの中継をお送りします!御覧のように、最初は数人規模だったとみられる市民が、今や、車道にはみ出すまでの勢いの大集団となり、宛ら、暴動の様相を呈しています。全国各地で、同様に、全く原因が不明の、謎の行進が発生し、止めようとした家族や友人も危害を加えられ、出動した警察官まで刃物や鈍器で襲われた為に、銃撃されるという凄惨な事態が続発しています!一体、彼ら、彼女らは何故、死を求めて、行進しているのでしょうか⁉」

報道ヘリの女性リポーターの悲痛な声がテレビに舞い込む。「これは、ドラマや映画の撮影ではありません。この国で現実に発生している事態・・・、ああ、また、今、市内で発砲音らしい音が・・・⁉警察官がまた凶器で襲われ、正当防衛で射撃をした物とみられます」

大画面のスクリーンが設置されているスクランブル交差点でも、人々が揃って足を止め、この異様としか言いようのない、謎の熱病に浮かされたような熱気のこの群衆を、驚愕の目で見つめていた。

「なんなんだよ・・・、何が起きてんだよ、この国で⁉」

皆、自分の仕事や学校の事も忘れ、画面に釘付けになっていた。

そうした中、戦慄が走る言葉が、小さい声で、しかし、じわじわと染み渡るように、その場にいた群衆の耳に届いた。喧騒の中であるにも関わらず、その言葉は何故か、そこにいる皆が聞き取れた。

「この世界に、サヨナラを・・・」

一斉に、血の気が引いた顔が、恐怖に見開かれた目が、その声が発されたと思しき場所へと集中する。

暗く、底のしれない洞窟のような瞳をした、制服姿の女子学生がそこに立っていた。一見すれば、通学中か下校中の何処かの学校の生徒としか見えないだろう‐、その右手に、包丁を握りしめていなければ。

悲鳴が上がり、周囲がパニックに陥る。

「ひぃっ・・・⁉ち、近寄らないで!!」

「み、皆、離れろ!!あいつの近くにいたら、俺たちも、『死にたい病』に気持ちを持ってかれるぞ!そ、そして誰か、警察を・・・」

「駄目だ、警察に電話かけても、あっちこっちで『家族が死んで解放されにいくとか言って、家を飛び出そうとして聞かない。無理に止めると、人が変わったように襲ってくる、何とか止めてくれ』という通報が鳴りやまなくて、警察署も交番ももう人手が空っぽの状態らしい・・・、に、逃げろ!!」

蜘蛛の子を散らした、という表現がぴったりな程、その場にいた大人も学生も、我先にと逃げ出した。彼女の放つ、死に誘う暗く禍々しい空気に、飲み込まれて、自分も同じようになってしまうのではないかと恐怖に駆られたから。


「美しい景色ね・・・、これよ、私が今日までずっと、見たかったものは!!」

スマホの画面に映し出されるニュース映像に、沙耶は歓喜の声を上げた。

運転席の紅羽も、沙耶の声を聞いて、優しく微笑む。二人は、車で移動を続けて身を隠しながら、そこで世間の様子を伺い続けていた。

紅羽と、ひと時の隠れ家にしていたあの分譲マンションの部屋は、安全の為に、早々に引き払っていた。SNSの発信源を特定され、警察が乗り込んでくる事を回避する為だ。

歓喜に打ち震える様子の沙耶の、その髪は、美しい黒髪から色素が抜け切り、白銀色になっていた。「邪印」の力の、完全な覚醒の為の代償は大きく、沙耶の体はこうしている間にも、「崩壊」を続けていた。

「痛っ・・・」

沙耶は眉をひそめる。右腕に、もう慣れた感触ではあるが、痛みを感じたから。

袖をまくってみれば、激しく打撲した痕のような、内出血による紫斑が前腕に大きく出現し、そこが破けて、血が流れだしていた。

最高の舞台を用意して、死に行くと決めた身なのだ。体の崩壊など、今更何を恐れるだろうか。しかし、舞台に辿り着く前に、「邪印」に耐え切れずに体が崩れ去っては笑えもしない終焉の有様だ。だから、沙耶は紅羽に声をかける。

「・・・、紅羽、またお願い」

紅羽は何も言わずに頷くと、助手席の方へと、身を乗り出してくる。

まずは「沙耶ちゃんの血の一滴たりとも無駄にしたくはないからね」と言って、紫斑が破け、出血を始めている場所に口をつける。彼女の柔らかな花弁が、そっと肌に触れる感触が伝わる。本当に、花弁を掌の上に置いたように、彼女の唇は軽やかで、そして、冷たい。

「邪印」を操る者にとって、血は一滴たりとて無駄には出来ない。体の維持の為に。

血を飲み込む度に、紅羽の白い喉が上下するのが見える。その首の下・・・、黒く刻まれた、雪の血晶と同じ紋様の「邪印」の姿も。

「吸血プレイはその辺にして、傷を治癒させて」

沙耶が促すと、「風情がないね、沙耶ちゃんは・・・」と言いつつも、紅羽は自分の血晶のピアスを片方外すと、その血晶を沙耶の紫斑に当てる。すると、やがて、傷痕に炙られるような熱が走って、出血が止まる。

しかし、「邪印」をもってしても、「邪印」の力を行使した代償としての、体の崩壊を止める事は完全には出来ない。沙耶は、血を失う度に紅羽に与え、そして紅羽は血でかろうじて「邪印」による体の崩壊を食い止め、時間を遅らせる。お互いの生命力の共食いをしながら、二人はまだ生きているようなものだ。

「ありがとう。まだ、こんなところで終わる訳にはいかないからね。あいつらとの決着だって、ついていないままだし・・・」

「霧島椛、あと、穂波茜ね」

「そう。あの二人は、必ず、私がばら撒いた『集団自殺』への案内も見てる筈だし、そして、必ず私を止めにくる。ただ、皆と一緒に私と紅羽が死ぬだけじゃ足りない。あの二人に報復してからでないと、気が済まない」

それだけが、最後の私の心残り、と沙耶は言葉を締める。あとは、学校の取り巻き連中も、柊木家の両親や親族さえも、どうでも良かった。学校にも家庭にも未練などない。

「決着をつけるっていうけど・・・、沙耶ちゃんは、どういう風になれば、満足する。霧島椛と穂波茜の二人が」

「穂波茜の方は、この手で殺してやる。椛の目の前で。そして、椛には・・・私を殺させるのもありかもしれないわね」

「沙耶ちゃんが、椛を殺すのではなくて?」

沙耶は首を横に振る。

「紅羽は、まだ、椛の事を分かっていないね。あいつが、一番嫌がって、恐れている事は、誰かに理不尽に殺されたり、逆に、自分が誰かを傷つけたり、殺したりしてしまう事なの。ただの死にたがりな訳じゃない。だったら・・・、椛に最期に一番、深い絶望を与えてやる方法は、あいつのその禁忌を破らせてやる事だとは思わない?」

自らの手で椛の息の根を止めたところで、沙耶の心は満たされない。それならば、椛が最も嫌っていた事を、彼女の「禁忌」を破らせてやる事が、一番痛快ではないかと、沙耶は考えている。

「椛が私と紅羽を止めたいなら、「邪印」の邪悪な力の源を・・・つまり、私を殺すしかない。あいつが世界を救いたいのなら、その過程で、自分の最大の禁忌を破るしかないの。その狭間で苦しむあいつの顔は、さぞ痛快でしょうね」

「沙耶ちゃん・・・、この、「邪印」の写真をネットにばら撒いて、皆を集団自殺に誘うっていう計画を立てた時点で、そこまで考えてたんだね」

「その通りよ。あいつは、穂波茜とくっついた今であっても、私への情を完全には捨てきれない。あいつはクール装ってるけど、ほんとは意外と優柔不断だし、情に脆いやつなのは知ってるから、私がこうして世界を壊していってるのを黙って見てはおけない筈。必ず、私を止めに現れるわ。あいつが、自分の信条を貫くならね」

赤黒く染まった自分の血晶を握りしめて、沙耶は不敵に笑う。

「ただし、『聖刻』の力を持ってるのが、椛だけじゃなく、あの忌々しい穂波茜もいるのは厄介ね。2対1になっては、私の力だけでは先に二人に、私が敗れて殺されてしまうかもしれない。だから・・・、紅羽の力が必要よ。あいつらを・・・特に邪魔な茜を足止めするのには」

「ええ、勿論。私はそのつもりよ。椛は、貴女に任せて、私は、穂波茜を弱らせておくわ。息の根は止めない程度にね。とどめは、沙耶ちゃんがさしたいでしょうし」

「流石、紅羽はよく分かってるわね。そう。茜の息の根は、必ず私が止める。紅羽は、あいつの手でも足でも切り飛ばしていいけど、それだけは忘れないで。椛の前で、あいつが私に一番してほしくないであろう事を・・・、茜の命を奪う瞬間を見せてやるの」

血晶が、沙耶の気持ちに呼応するように、瞬時に剣の形に変化した。復讐は蜜より甘い・・・。この剣が茜の胸を貫いて、紅い噴水がそこから噴き上がる瞬間を想像して、悦に浸る。

紅羽が、カーナビの画面をテレビに切り替えて、ニュース映像を映していた。放送局を変えても、全国各地から舞い込むこの異常事態に、皆、最早お手上げ状態となっているのが、画面から響く、悲鳴のような報道記者達の声で分かった。

「現場から中継です!!ああ、なんて事を・・・!今、次々と、あの高層ビルの上から人が飛び降りています!○○市警察はすぐに、市全域の高層ビルにシャッターを閉め切って絶対、中に入れないように通達していますが、ビルから飛び降りれなかった人達は、今度は橋から身を投げたり、道路を走る車に突っ込み、自ら轢かれようとする人まで出ています!こうした状況の為、市内の道路も最早通行不能な状態であり、完全に都市機能は麻痺状態に陥っています・・・。○○市署員が総動員で、自殺行為を図っている人達を止めに入っていますが、自殺を図る人が多すぎて全く人数が足りず、対処不能の状態です」

画面から聞こえるのは、鳴りやむことのないパトカーや救急車、消防車のサイレン。それにかき消されぬように半ば叫ぶように報道するマスコミ関係者の声。そして・・・「やめろ、早まるな!」とビルの屋上を向いて叫ぶ市民。「火災避難用のエアクッションを道路に!飛び降りてくる人を受け止めて助けるんだ!」と、懸命に、ビルから投身自殺を図る人を何とかして受け止めようと、アスファルトの上に、幾つもの大きなエアクッションを用意している消防士、警察官と、それに協力して駆け回る、一般市民達の声だった。

紅羽が、「これは戦争」だと称した通り、「死」という、苦しみからの永遠の解放に向けて歩む人々。そして、それを止めようと抗う、「生」をまだ諦めていない人間の、両者がぶつかり合う、「戦場」が画面の向こうにあった。

紅羽は、そうした人々の抵抗を、嘲笑うように言った。

「無駄なあがきね・・・。何人の警察官や消防士が来たところで、「死」を決意した人を止めるなんて出来やしないのにね」

「こんな世界を良しと思って生きてる、あんな人達と、私達は永遠に分かり合えないわ。いくら邪魔をされようと、私は、私の方法で、苦しむ人々を解放し続けるだけよ」

そう答えて、沙耶は自分のスマホの画面に目を向け、SNSで、自分の忠実な信奉者達の働きぶりを確認する。

表示されたコメントには、「拡散希望」というタグが付けられ、そして、沙耶の胸元にどす黒く刻み込まれた「邪印」の写真が貼り付けられている。沙耶の、「集団自殺」への誘いの言葉と共に。

今、SNSで拡散された沙耶の、「邪印」の写真にこもった力に、心の中の「この世界からの解放」を願う気持ちを増強させられた人々が、次々と「集団自殺」へと走り出している。

それはあたかも、レミングが次々と崖から身を投げていくようだと、沙耶は思った。

「この調子で、私の邪印の画像がメッセージと一緒にばらまかれていけば...、こんな世界、見ての通り、あっという間に壊してやれるわ」

カーナビの画面に映る、阿鼻叫喚の光景に視線を戻し、沙耶はほくそ笑みを浮かべる。自分が作り出したこの惨劇に、愉悦を覚える。

しかし、満足はまだしていない。本当に苦しませたい相手ー椛の、苦痛に喘ぐその顔をこの目に焼き付けてから死ぬのだ。それまでは、沙耶の気持ちは満たされない。

今、カーナビの画面に映る、各テレビ局の報道番組を埋め尽くしている、この「死と解放への行進」の光景すらも、椛と、あの憎むべき泥棒猫の茜を誘き出す為の前座でしかなかった。

「テレビ越しだけでは、まだ椛と穂波茜の二人に直接、今の私の力を知らしめるには足りない・・・。もっと身近な場所で、あいつらの目の前で狂乱を見せつけないとね」

そう言って、沙耶は自分のスマホを開く。かつての学校の「取り巻き」達の連絡先のリストがずらりと並んでいた。今更こいつらに、何の情もない。顔の周りを飛び回って離れないハエのように、煩わしいばかりのやつらだった。自分と椛に媚びて、そのおこぼれに預かりたいだけの卑しいやつらだ。きっと、今頃は沙耶の事を好き放題に悪口を言っているだろう。

「付き合っていて、正直何の得にもならないやつらだったけど・・・、最後くらいは私の為に役に立ってもらうわ」

そして、その「取り巻き」の連絡先のリストで、偶々、目に付いたというだけの理由で、ある生徒に向けてダイレクトメールを作成する。そこに、沙耶の怨念を込めた、「邪印」の写真も貼り付けて。

「今の私の力を椛、穂波の二人に披露して、最後の総仕上げの、前座にさせてもらうわ。その為に、あのハエ達のうちの誰かに、生贄になってもらう。椛の前で、命を絶ってもらう生贄にね」


茜と椛の学校は一日中、パニックに近い状況に陥っていた。教師らすら、舞い込み続ける報道の衝撃に、放心状態に近く、生徒らのパニックを収めるような力はなかった。

突如として、人々が取りつかれたように集まり始め、身を投げたり、車や電車に飛び込んだり、人々の目の前で突如、刃物で首を切ったりという理解の範疇を越えた光景が次々とSNSに、全国各地から動画でアップされていく。教室内は朝から放課後まで騒然となっていた。

最後の時限が終わり、放課後になっても、普段ならば部活等に思い思い席を立つところであるが、今日ばかりは皆、足に根でも生えたように、椅子から立ち上がらない。

「呪いの写真?みたいなのがアップされて、どんどん拡散されてて、それと一緒に皆で死にましょう、みたいなメッセージも貼ってあるんだって・・・、それを見てから急に友達がおかしくなったって話が流れてる・・・」

血の気の引いた顔色で、SNSに投稿された、とある自殺未遂を起こした人の友人を名乗る人物の投稿を、女子生徒が読み上げていた。周りの席で、他の生徒らも固唾を飲んで、その話に耳を傾けていた。

「は・・・?の、呪い?馬鹿馬鹿しい、そんな、呪いなんかにあれだけの人が操られて、こんな大騒ぎになったって言うの?」

そう言って、下らないと笑い飛ばそうとした生徒もいたが、台詞に不釣り合いな程にその声は、弱々しかった。それに対して、女子生徒は張り詰めた表情で反論する。

「じゃあ、何であんなヤバい事になってるの・・・?呪いじゃないなら、ここにいる皆の中の誰か、納得いく理由、説明出来る・・・?」

その反論に、この異常事態について、現実的な説を答えられる者は、誰もいなかった。彼女は続ける。

「いつ、どこで発生するか分かんないんでしょ・・・、あの、突然に皆の前で自殺しようとする現象・・・だって、原因がどんどんネットで拡散されて、ばら撒かれてくる呪いの写真ならもう、防ぎようが・・・」

誰かがポツリと呟く。途端に、重い空気が教室内に立ち込めて、沈黙が広がる。

この学校でも既に、その呪いの写真とやらを見てしまった人がいるかもしれないのだ。


その集団のやり取りを、茜と椛もすぐ近くの席で聞いていた。

茜は、呟く。

「今日だけで、各警察署、救命処置に当たった病院の発表で判明しただけでも、自殺の完遂による死亡者600人以上、自殺未遂による重軽傷者は1000人以上・・・。これも・・・柊木さんと、紅羽が共謀して、あの子達が言ってる通り、「邪印」の画像をばら撒いて、人々を操った結果なの・・・?」

スマホの画面に映される、短い動画。必死にビルの屋上に向かって「やめて!」「早まるな!」と叫ぶ人々と、次の瞬間にフェンスを乗り越え、落ちていく人らしき姿。ドラマの撮影用のマネキンが投げ落とされたように、現実の物と思えない光景だった。しかし、これはドラマや映画の撮影現場ではない。

自作の火炎瓶を足元で叩き割り、「この世界にサヨナラを!」と絶叫しながら火に包まれる人に、周囲が悲鳴を上げて、騒動になっている場面を撮影した動画もあった。

警察が、暴動鎮圧に使う放水車まで駆り出して、ホースで彼に水をかけている。画面越しに、肉や髪の焼き焦がされる匂いが伝わってきそうで、それ以上、上がって来る動画は見ないようにした。

茜の隣で同じ動画を見ていたらしい椛も、それ以上は見るに耐えなかったようで、スマホの画面を机の上に伏せるように置き、額に手を当てて、深い溜息をつく。

「沙耶が、小さい時からずっと、世界の理不尽を憎んでいた事は分かる・・・、でも、こんなやり方、絶対に間違ってる。関係ない人達を操って、死に追い立てるなんて」

今、沙耶の邪悪な力の為にこれだけの人が、自分の思考を乗っ取られ、死への一方通行の道を歩かされている。それが、椛の信条的にはどれ程の苦痛であるか、計り知れなかった。椛は前髪に指を搔き入れ、俯いたまま、じっと思いつめた様子だった。


そんな、沈痛な空気と、気まずい沈黙は、とある一声によって破られた。

「何これ・・・DM?・・・ひぃっ!!嫌ぁっ!!」

化け物を見たような悲鳴が上がり、一人の女子生徒がスマホを教室の床に投げ出した。名前を茜は知らないが、確か、沙耶と椛の取り巻きの一人だった筈だ。

画面にヒビが入ったまま、そのスマホの画面は何処か怪しく光っていた。茜の目に、遠くからではあるが、その画面に何かの写真が映っているのが見えた。

白い肌の上、一目見ただけなら、

ーそれが何か分かった瞬間、茜も、悲鳴に気付いて顔を上げ、同じ物を見た椛も、息を呑む。遠くからでも、見間違える筈がなかった。そこに映っていたものは・・・。

「ああ、びっくりした。怖い空気の時に悪ノリして驚かせないでよ、心臓止まるかと思った。何やってんの」

そんな事を言いつつ、沙耶の取り巻きだった、また別の女子生徒が、投げられたスマホを拾い上げようとした。だ、だめ...と弱々しく、スマホの持ち主の生徒が言うも、その女子生徒は彼女が悪ふざけをしているとしか思わなかったようで、何もためらう事なくスマホを拾ってしまった。

「何よ、ただのDMじゃん・・・」

そう言って、彼女がスマホを見つめた時、表情が強ばった。

「送信は・・・SAAYA ・・・?え、柊木沙耶より?ってか何この写真。黒いタトゥーみたいなやつ...」

茜の隣の席に座っていた椛が、椅子から立ち上がって、その女子生徒へと叫んだ

「それを見たら駄目!そのスマホを捨てて、今すぐ!!」

彼女がスマホに映っていたものを見つめてしまったのと、椛が、彼女に叫んだのはほぼ同時だった。

しかし、沙耶が送りつけたらしい、「邪印」の写真の魔力が、瞬時にして、彼女を飲み込むのが分かった。

茜の目に、彼女の瞳からみるみるうちに光が失われ、それは深海の底知れぬ、あらゆる物を飲み込む闇と、同じ色に染まっていくのがはっきりと見えた。

危険な事態が起きている事を知らせる、警告のように、茜の制服の下の「聖刻」が強く熱を発した。椛も胸を押さえていた。二人の「聖刻」が、「邪印」の空気を感じ、警告している。

「あ、ああああ!!頭が・・・痛い!誰かが、頭の中に入ってくる!」

スマホを拾った少女は、頭を抱えて叫んだ。そこにいた同級生ら全員が凍りついた表情で、豹変した彼女を見つめていた。

しばらく叫んだ後彼女は、その光を無くした瞳から涙をこぼしながら、うわ言のように繰り返した。

「あああ・・・、柊木さん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・!!死んで謝るから、どうか許して、許して、許して・・・!」

突如飛び出してきた沙耶の名前に、凍り付いた同級生らをよそに、彼女は・・・、窓際に向かって走り出した。

茜は、彼女が何をするつもりなのか、瞬時に悟った。

彼女の胴体に飛び付く。彼女が窓枠に片足を乗せたところで、どうにか、そのまま窓の下へと彼女が落ちていくのを防ぐ事が出来た。

「放して!!あんたに、クラスの空気みたいな人間の穂波なんかに何が分かるの!!私は死んで謝らないといけないのっ、柊木さんに!!いいから放してよ・・・、放せ!!」

人格が変わったように怒鳴る彼女の勢いに気圧されながらも、茜も必死に叫ぶ。

「駄目っ!!私と椛の前で、柊木さんの為に誰も死なせる訳にはいかない...、思いとどまって!」

クラスの透明人間。いてもいなくても、たいして気にも止められない、空っぽな存在。そんな茜の突然のヒロイックな行動に、かつてない程の視線が集まっているのを感じる。決して生きていく事を至上の価値と考えていなかったばかりか、今も方向自体は、椛と共に「死」へと向かって歩んでいる自分が、他人の自殺は必死に止めようとしている。

矛盾しかない行動なのは分かっている。しかし、椛にこれ以上、沙耶の力によって、誰かが死ぬのは見せたくない。ましてや、椛の目の前である、この教室で。その気持ちだけで茜は、彼女の胴に無我夢中でしがみついていた。

彼女の抵抗は激しく、茜の腕に爪を突き立てて、肉を抉り取るように力をこめて引っ掻いてくる。彼女の爪痕から血が流れ出し、その痛みに茜は唇を噛んで耐える。

彼女の叫び声と物音に、異変を察したらしく、バタバタと廊下に慌ただしい靴音を響かせながら、教師達が教室に駆け込んできた。彼ら彼女らも、窓際の光景‐窓枠を乗り越えようとしている女子生徒と、それにしがみつき、必死に止める茜‐に、戦慄した。

「な、何をやってるんだ!!バカな真似はよせ!!」

それでも、一人の、体育教員の男性教師が、声を張り上げ、窓際に駆け寄った。

その筋肉逞しい腕によって、既に上半身を殆ど全て窓の外にさらす程、身を乗り出していた彼女と茜は、窓枠から引き剥がされた。

その表紙に、教師らは、沙耶からダイレクトメールで送られた、あの「邪印」の写真が映っていたスマホが床に転がったのに気付いた。

駆け付けた教師のうち、「邪印」の事など何も知らない一人が、そのスマホに手を伸ばそうとしていた。

その時、目にも止まらぬ勢いで椛が、床に転がるスマホを掴んだ。椛は教室にいた皆を見回して叫ぶ。

「駄目です!!先生も、皆もこのスマホに触っちゃいけない!!」

「な、何を言っているんだ、霧島?いいから早くそのスマホを返しなさい・・・」

椛はそれに耳を貸さず、制服のシャツのボタンを緩めると、ネックレスの血晶を引っ張り出して、画面の上にかざした。

その瞬間・・・、どす黒いもやのような物がスマホの画面から溢れ出していき、椛のかざした血晶の内部へと吸い込まれていった。椛は血晶の聖なる力で、スマホに送り込まれた、沙耶の「邪印」の力を吸い出し、「浄化」していた。

教師も、クラスの皆も、今や、この場に存在する目という目が、茜と椛の二人に、驚愕の視線を送っていた。

「何だよあれ・・・、黒いもやみたいなのが、スマホから噴き出して、霧島さんの血晶に吸い込まれてる・・・?」

「何が起きてるの・・・?頭が追い付かないんだけど。柊木さんが急に友達にDM送ってきたかと思えば、今度はそれを見た子がおかしくなって、それで、あんな、魔法みたいな事を霧島さんがやり出して・・・」

ガヤガヤと喧騒が聞こえる。血晶の力をみだりに、何も知らない生徒らの前で使う気は、茜にも、椛にもなかったが、今はそんな事を言っている場合ではなかった。

「よ、良かった・・・。これ以上、誰かがあの「邪印」を見る前に、スマホからは柊木さんの邪気を浄化出来た。これで、あの人も元に・・・」

しかし、その考えは甘かったようだった。茜が、飛び降りようとした彼女に目を向けると、まだ不吉な熱が「聖刻」に走った。

「邪印」の力をスマホからは除去出来ても、心を乗っ取られた女子の中に注がれた、沙耶の怨念の気配は消えてはいなかったのだ。覚醒したらしい彼女の「邪印」の、底知れない力に、茜は戦慄を覚えた。

「何があったの、落ち着いて、先生に話してごらん?」

養護教諭の女性の先生が、一旦落ち着いたように見えて、床に座り込んでいる彼女に近づいた、その時だった。

「あああ・・・!!うるさい、うるさい!邪魔を、するなぁぁ!!」

一瞬の出来事だった。彼女は両手で、すぐ傍にあった椅子の足を掴むと、それを振り上げ・・・目線を合わせるようにしゃがみ込んでいた養護教諭の頭を‐、横から椅子で殴り飛ばした。

「き、きゃあああ!!」

倒れていく養護教諭の姿に、生徒の悲鳴が響き渡る。

「せ、先生!!しっかりして!!」

落ち着いたように見えた生徒を見て、教師らが油断を見せたのが運の尽きだった。彼女は両手で椅子の足を掴んだまま、再び叫んで、激しく振り回しながら、窓際の方へと再び走り出した。彼女が去った後には、頭を殴打され、その勢いで近くの机の角に頭を更に激しくぶつけて、倒れ込んだ養護教諭の姿があった。殴打された側頭部の皮膚がぱっくりと裂けて、血が溢れ出している。

救急車を呼べ!それから、校内で傷害事件が発生したと、警察にも連絡だ!と慌ただしい声がして、腕力のある教師達が、倒れている彼女を運び出す。教室内はもう、完全に収拾のつかぬ大混乱に陥った。

「ウソ・・・、○○先生、どうなったの・・・⁉」

「何なんだよ、柊木のやつ、一体、どんなDM送ってきたんだよ、あれを見てから、あいつ、あんな突然暴れ出して・・・もう、何がどうなってんのか理解出来ねえよ!!」

男子、女子を問わず、皆、正気を無くしたようにしか見えずに暴れる例の女子生徒らに、怖気付き、遠まわしに見る事しか出来なかった。教師らも、力づくで彼女を抑え込む事も出来ず、しかも教員一人が頭部を殴打されて重傷を負ったばかりの為、完全に腰が引けている。兎に角、他の生徒らに危害が及ばないように、避難させろ、と、生徒らを教室外に退避させる事しか出来なかった。

その場にいる誰もが「邪印」の力の前には無力だった。

^血晶による、「聖刻」を有する、茜と椛を除いては。

彼女は、窓ガラスを椅子で力いっぱい殴りつけた。粉々に砕け散ったガラス片が、床にぶちまけられ、その中の大きな、刃物のように鋭い一片を彼女は手に取った。

「やっぱり、あの写真の中の沙耶の怨念を浄化しただけでは駄目か・・・⁉」

片手には椅子、片手には、ナイフのようにガラスの破片を握りしめ、仁王立ちしている彼女を見て、椛が言う。

茜の目に、この教室で今起きている出来事と、今日、幾度もネット上で拡散されていた連続する人々の「自殺の瞬間」や、それを何とか止めようとしている人々の映像が蘇った。今、それと同じ事がこの教室で、二人の目の前で起きている。

「きっと・・・、今日亡くなっていった人達も皆、あんな感じで操られて、死に走ってしまったんだろうね、柊木さんの「邪印」の力で」

「沙耶は・・・!自分の憎しみに、身勝手に巻き添えにして、あと何人死なせれば気が住むんだ!」

何をやってる!霧島も穂波も、早く廊下に避難しろ!という教師らの声が響いたが、今ここで、彼女に込められた沙耶の邪気を「浄化」して、止められるのは茜と椛の二人しかいない。教師らも、警察が駆け付けるまで、激高して暴れる彼女に恐れをなしてしまい、向かっていく人はいない。

「これ以上邪魔したら、一緒に死んでもらうわよ・・・、それが嫌なら、あんたたちもさっさとここから消えて・・・!」

そう言って、茜と椛の二人を、彼女は睨み、ガラスの破片を、掌が切れて血がしたたり落ちるのも構わず振りかざしている。

彼女も、本来のダイレクトメールの送付先だった女子生徒も、沙耶と椛をいつも囲っていた生徒らだ。そして、沙耶がネットで自殺教唆をしている、椛に過剰な執着を抱いていて、殺そうとした、という話を知るや否や、掌を返して、沙耶は異常者だと罵倒していた。

沙耶の心をじわじわと追い詰め続けていた人の中に、自分達も含まれているなどとは、取り巻きだった彼女らの誰も、微塵も考えてはいないだろう。

『それでも・・・、こんなやり方、間違ってるよ、柊木さん!!例え、この世界が柊木さんにとっては、どれだけ間違った世界だったとしても』

茜は、そう心の中で、沙耶に向けて叫ぶ。

「先生・・・、彼女は、僕と茜の二人で何とかします・・・。だから、先生たちは、教室の外に出ていてください」

「無茶な事を言うな、霧島!!そんなことが出来る訳・・・」

教師らの声に、振り返らずに椛は答える。その時、あの女子生徒が椅子を片手で持ち上げ、何か喚いて、こちらの方に投げつけようとしたのを、茜も椛も見逃さなかった。

教師らが身をかがめる中、茜は血晶を「聖刻」に重ね、その小さな石に精神を集中させる。

そして、あたかも吸血鬼に十字架をかざすようなイメージで、ネックレスの血晶を「彼女」にかざして、突き付ける。

「ぐっ・・・!み、見せるな、それを・・・!!」

血晶の聖なる力の波動を感じた為か、彼女は苦悶の表情に変わり、片手で持ち上げようとしていた椅子を、大きな音を鳴らして取り落とした。血晶を経て、沙耶の邪気が僅かにだが緩んだのを感じる。

「お、お前ら・・・、何者なんだ。手の付けられなかったあいつが、怯んだ・・・?」

教師らが茫然として後ろから見ていたが、それに構っている余裕は今はない。茜は血晶をかざして、今度は、彼女の中に渦巻く、沙耶の邪気を吸い上げるイメージを頭の中で作る。彼女の口から、更には体のあちこちからどす黒いもやが噴き出で、茜の血晶に吸い込まれ始めた。

「ぐはっ・・・や、やめろ・・・!!やめないと・・・、穂波。お前を刺してやる!!」

だみ声でそう叫んで、彼女は苦しがった。そして、その苦痛を紛らわすようにガラスの破片を滅茶苦茶に振り回しながら、茜の方へと襲い掛かってきた。

咄嗟に目を閉じた茜の耳に、カキンという、硬質な音が鳴り響く。

血晶が形成した紅い剣が、ガラスの破片を受け止め、次の瞬間には、破片が更に細かく砕かれていた。椛が茜の前に立って、血晶の剣で防御してくれたのだ。

「ありがとう、椛・・・!!あの人の中の邪気、とてつもない量だから、私一人の血晶じゃ浄化しきれない」

「分かってる!次は二人で、一気に決めるよ!!彼女を止める為に、失敗は許されないから!」

そして・・・茜と椛の二人が並んでかざした血晶に、女子生徒の中に注がれた沙耶の邪気が、急速に吸い込まれていった。彼女は床に倒れ込み、獣の咆哮のような絶叫を上げていたが・・・、全ての黒いもやが血晶の中に吸い込まれた時、憑き物が落ちたように動かなくなる。狂乱の声が止んだ教室に、静寂が不意に訪れた。

沙耶の「邪印」に意思を汚染された人間を、二人の血晶が浄化して、「死への誘い」から救った瞬間だった。


廊下側の窓から、覗き込むようにして見ていた生徒らも、空いた口が塞がらない様子だった。二人の血晶による結びつきを隠すという約束は、破るしかなかったが、この際、それはもう茜にはどうでも良かった。きっと椛も同じだろう。

沙耶が企んでいた事・・・、椛の目の前で、同級生を操って自殺させ、更に精神的に追い込むという目論見は防いだのだから。

「完全には、先生やクラスの子達を守り切れなかった・・・。聖刻の力があれば・・・、覚醒した沙耶の「邪印」相手でも打ち勝てる。君の思い通りには、絶対にさせないから、沙耶・・・!」

意識を無くしたまま、救急車に乗せられていく、操られた後の女子生徒。そして彼女に殴打され、重傷を負ってしまった養護教諭の二人を見送りながら、無念さと、決意を込めた声で、そう椛が呟いたのが、茜には聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る