第25話 世界に守る価値はあるか

夜が明けて、事件の報を受けた学校では、戦慄が広がっていた。

失踪していた柊木沙耶が、昨夜、霧島椛と穂波茜の二人を襲い、負傷させた。

その上、彼女は死を考えており、最近、社会を揺るがしている「自殺ブーム」も扇動していて、何人かのフォロワーを既に自殺させていると話していた・・・。

そうした話が、寒い朝、体育館での緊急全校集会で行われた途端に、学校内は騒然となり、教室でも一日中、ざわめきが治まる事はなかった。

「うちの生徒が・・・、それもよりによって、あの品行方正だった筈の柊木がなんでこんな真似を・・・。しかし大変な事になった。私達の首が飛ぶくらいじゃすまないぞ、これは・・・」

全校集会後、そんな話をしつつ、校長や教頭らは、すっかり血の気が引いて、青ざめた顔色で体育館を後にしていった。

放課後になっても、中々教室から離れず、身を寄せ合うようにして、生徒らは、沙耶の凶行の話題でもちきりだった。

それと並行するように、スマホを手にしていた生徒らは、凍り付いた表情で皆、SNSのトレンド入りしている画像を眺めていた。男子生徒らが、スマホの画面に釘付けになって、何かを見ている。

「お、おい・・・、ヤバいだろ、これ」

「自殺ブームも、とうとうここまで来たか・・・、こんな立て続けに起こるなんて」

皆が見ているニュースは、椛のスマホの画面上にも当然表示されていた。ニュースだけでなく、個人のアカウントでもその動画は拡散されていた。

『○○市内市電の電車内で、焼身自殺発生。『この世界にサヨナラを』と叫び、ガソリンを浴びて、ライターで自分の体に火を・・・。止めようとした民間人も炎に巻き込まれ、熱傷で死亡』

『○○市駅構内で『この世界にサヨナラを』と叫んだ男、次々と数人を刺した末に自分の首を切り、自殺。制止しようとした警察官まで刺され、一名殉職。民間人の死者2名、重軽傷者3人の惨劇』

そんな見出しのニュースが次々と飛び込んでくるのだ。しかも皆、一様に『この世界にサヨナラを』、というあの言葉を残して。電車の中で自分の体に火をつける瞬間。無関係の人々に次々と刃物を振り上げた末に、首を掻き切る男の断末魔。そうした目を覆わんばかりの惨劇が、個人のスマホで撮影された動画で、拡散されてくる。

「ごめん、気持ち悪くなったから、それ流すの、もう止めて・・・!」

あまりの凄惨さに、席を立って、口を押さえ、トイレに駆けだして行く女子生徒までいた。

日本中が、「生きようとする者」と「死んでいこうとする者」の、「戦争」に陥っていた。

「これが・・・、沙耶の隣にいた、紅羽って女の言っていた、「生」と「死」の戦争なのか・・・!」

紅い霧の向こうに消えていった二人。あの時、紅羽の残した言葉を、ネットで次々と舞い込んでくる惨劇に直面しながら、椛は反芻していた。

偶々、焼身自殺や、通り魔ののちに首を切った男の事件の現場に居合わせた人々の、悲痛な声もSNSでまとめられていた。

『とても正気とは思えない目をしていた。もう、何かに取りつかれたような雰囲気で、どうしようもなかった』

『必死に『やめて!考え直して!』って、火を自分の体につけようとした人に叫んだけど、全く聞こえていなかった。あの人は、火をつける瞬間、寧ろ、恍惚としたような表情さえしていた』

前代未聞の自殺ブームの過激化で、遂に、無関係の市民や、警察官まで死亡させるような「巻き添え」を厭わない、危険な段階に入った事で、警察もいよいよ、本格的に動き出していた。

『警察では、現在、日本社会を震撼させている、過激化する『自殺ブーム』の背景に、SNSなどを巧みに利用した、いわゆる扇動者がいるものと考え、自殺教唆の罪状で捜査を進めています。SNS上で自殺を唆すような怪しい文面を乗せているアカウントなどを発見した際には、SNSの運営会社だけでなく、警察への通報を直ちに行うよう、異例の声明を出す事態となっております』

「これくらいの対策では、沙耶の「邪印」の力が僕の血で覚醒したのなら、そして、その画像がばら撒かれているのなら、何の効果もない・・・。今の沙耶の「邪印」は、見ただけで、あっという間に人の心の闇に付け入って、死へと動かしてしまえるんだから・・・。通報なんかしてる余裕がある訳ない」

椛は、そう呟く。そんな中、椛の耳にこんな言葉が飛び込んできた。

「柊木さんが言ってた話が、本当なら、この自殺ブームにあの人も乗っかって、自殺を煽ってるっていう事・・・?」

椛、そして、茜も、その言葉を発した女子生徒にさっと、目を向けた。かつて、椛と沙耶の周りをいつも取り巻いていた女子の一人だった。忽ちに、かつてはいつも沙耶にくっついて行動していた女子生徒らが口を開いた。

「こんな、恐ろしい事する人だったなんて信じられないよ、あの柊木さんが。だて、自分の手は汚してないかもしれないけど、やってる事、人殺しじゃん・・・。自分のフォロワーの人に、一緒に自殺しようとか誘っていたんでしょ?霧島さん、穂波さんを襲った時に、そう自分で言っていたって」

「柊木さんがデマを言ってるんじゃなくって、本当なら、そんなの、ただの殺人鬼だよ!ネットで沢山の人を煽って、これだけ大騒ぎ起こして、何人も人を死なせたんだから」

「本当、柊木さんがなんで死にたがってたのか知らないけど、死にたいのなら、勝手に一人で死ねよって話だよね。こんな、何人も関係ない人を巻き込んでさ・・・。しかも、あれでしょ?霧島さんに切り付けてきたの、恋愛感情を抱いてて、それが思い通りにいかなかったから、キレて手が出たんでしょ?どんだけ自分勝手なの・・・」

『人殺し』『殺人鬼』『勝手に一人で死ね』‐、沙耶への、容赦のない糾弾が飛び交う。あれだけ、ほんの少し前までは、沙耶と仲良しこよしをしていた筈の、彼女らのその口から。

沙耶のしてしまった事、今も行い続けている事は許されない。それは当然だ。

しかし、沙耶をあそこまで追い詰め、壊してしまった「社会」の側に、今、沙耶を糾弾する彼女らは立っていた。

彼女らは、自分達の会話もまた、沙耶の首を、緩やかに、しかしじりじりと締め上げていた事など考えもせず、きっと、それに気付きはしないだろう。

例えば、何度となく沙耶にも言っていた、「柊木さんって、そんなに美人なのに彼氏作らないの勿体ないよ!柊木さんレベルなら、男なんか選び放題だって!」というような言葉。そうしたやり取りがあのグループであった後、椛と二人きりになると、いつも顔に貼り付けた笑顔を剥ぎ取って、忌々し気な表情で、沙耶は吐き捨てたものだった。

「馬鹿みたい。いつもいつも男漁りとか、あのグループの誰と、何君が付き合い出したとかの話で騒いでさ・・・。当たり前のように、私に彼氏はいるのかとか聞いて来られるの、迷惑だし苦痛でしかないよ」

彼女らが繰り返しはしゃいでいた、あの話題の時間はきっと、沙耶には首を絞められる心地だっただろう。彼女らは、自分達も沙耶を追い詰める側だった事など、夢にも思わないだろうが。

「事件もヤバいけど、今日一の驚きはそれ。霧島さんを襲った理由が、霧島さんに実は恋してたっていうのがまた、ビックリ・・・。それで、思い通りにならないから、襲ったり、やけになって自殺しようとか、ガチのサイコパスでレズじゃん。あの人、レズな上に、そんな本性隠してうちらと、平気な顔して一緒に過ごしてたって事?」

「考えたらぞわってしてきた・・・。そんな危ない人がうちらの中に紛れ込んでいたなんてさ。どんな事思って、うちらの会話を聞いてたんだろう。うちらにも、勝手に恨み募らせてそうで、なんかされないか怖いんだけど」

そう話す、彼女らの声に、スマホを机の上に置いて、膝の上で拳を握りしめる。もう、それ以上、沙耶の話をしないでくれ、と願いながら。

沙耶が何故、椛、茜の二人に襲い掛かったのか。その動機も、今やクラス中に知れ渡っていた。今の沙耶の扱いは、最早、「学校のアイドル」から、人を死に誘う「殺人鬼」、そして椛への執着を募らせた「異常者」へと変わり果てていた。

「霧島さん」

今まで蚊帳の外だった自分に、彼女らから急に話をふられ、椛は思わず、びくりと肩を揺らす。

「霧島さんも、昨日は大変な目に遭ったし、ほんと、大迷惑だったよね。勝手にメンヘラのレズに執着されて、挙句に切り付けられて・・・。今は大丈夫?気持ちとか、動揺してない?」

「柊木さんの事は、もう警察にまかしてさ、あんな人の事、きっぱり忘れようよ。霧島さん、切り付けられるくらいにまで、柊木さんに執着されて怖かったと思うし、もっと、早く相談してほしかったけど・・・、今からでも出来る事あったら教えて。私達は絶対、霧島さんに味方するからさ」

歯を食いしばり過ぎて、ギリッと、奥歯のこすれ合う音が鳴った。

ふざけるな。沙耶をそんな風にいう奴らに、椛から話したい事など何もない。沙耶がこの世界を破壊してしまいたいとまで憎んだ理由が、今ならば理解出来る。

沙耶の事は異常者としてあっさり排除して、更には「もう忘れよう」とさえ平気で言う。そして、今まで通り椛とは仲良くしようなどという、彼女らの虫の良い戯言に付き合う気はなかった。

椛は、彼女らの言葉には一言も返す事なく、椅子から立ち上がり、彼女らのたむろしている教室の一角には目もくれずに、歩き出す。

「え?」と、無視された彼女らは困惑の表情を浮かべていたが、あいつらの事なんて知ったことかと思った。迷う事なく、椛の足は、彼女の席へと向かっていた。

この教室の中で唯一の、椛が信頼できる人の元へ。その席の傍に立つと、椛は声をかける。

「茜、今からちょっと、外に出られる?」


茜と共に、教室から出たら、暖房の暖気は一気に遠のき、廊下には、冬の到来を知らせる冷気が降りていた。気候は今日も不安定で、晴れてはいるが、気の早い寒波と、悪天候による強風の為に、窓の外に見える校庭の紅葉達は、次々と葉を落としていた。

「さっきの椛、すごく怒ってたよね・・・。あの、柊木さんと一緒によくいたグループの子達に。肩が震えてるのが分かったから」

階段下の自販機で買った二つの缶のココアを分けながら、廊下の窓際に立って、校庭を見ていた時、茜がそう呟いた。

「うん。あのまま、あの子達に声かけられてたら教室で、怒りが爆発してしまいそうだったから、避難した」

そう答えて、椛は缶に口をつけ、甘く、温かいココアを一口飲む。

「柊木さんを追い詰めてきたのは、自分達も同じなんだって、絶対気付かないんだろうね、あの子達は。きっと、あの子達は皆、柊木さんが、勝手に恨みを抱いた末に発狂したくらいにしか思ってなさそう」

「本当に狂ってるのは、沙耶と、世界。どっちなんだろうねって思ったよ。僕だって沙耶と本当の意味で同じ気持ちになんて結局はなっていなかったのを、今更になって気付いたし、沙耶の両親はあんな感じで聞く耳持たずだし、学校の皆もあんな態度。結局は、沙耶の、憎しみを抱えた心と通じ合えている人なんて、誰もいなかったんだ。あんな・・・紅羽とかいう、共犯の女しか」

見ようによっては、今の自分と茜の関係と、沙耶、紅羽の関係は似ている。あの二人もまた、血晶の力で強く結びついて、同じ目的に向かって進んでいる。

ただ、沙耶と紅羽は、復讐の為に社会を混乱させ、破壊する事を望んでいるのに対し、自分と茜は、命を賭してでもそれを止めようとしている。

この「生きたいと願う人達」の世界を、死を望んでいる自分と茜が結果的には守る、という構図は一見矛盾しているが、それこそが、自分と茜の「死」を最も劇的に飾る舞台になる事は間違いなかった。昨夜、茜が聞かせてくれた、そのアイデアを思い出す。

「ねえ、椛・・・、血晶で自殺してしまった人の現場で、風花(かざはな)みたいな光景が沢山目撃されてるって知ってる?」

唐突に、茜はそう切り出してきた。昨日の夕べ、学校を去る間際に、夕映えの空に舞って、儚く消えていった小さな、雪にもなりきれない粒たちを思い出す。

茜はスマホの画面を、椛に見せてくる。「血晶関連自殺との因果関係は・・・?自殺現場で目撃された現象、『紅い風花(かざはな)』の正体は」という見出しのネットのニュースの記事だった。

血晶によると思われる自殺者の遺体が発見される直前・・・、現場で、空へと舞い上がっていく、キラキラと輝く、紅い小雪のような謎の物体が目撃されていた。それは、目撃者の話では、まるで亡くなった人の命が紅い結晶となって、空へと吸い寄せられて、還っていくように見えたという。その様は、自然現象の一つである、風花の姿に酷似していたと。

「『紅い風花』・・・。自殺の現場で、こんな現象が起きていたんだ」

「そう。この、人の命が、結晶になって還っていく、っていう解釈は、私は嫌いじゃない。風花の儚さが、人の命みたいだって思ったし、私も、死ぬ定めなら、最期はこんな散り方がいいなって思ったから。風花って、雪みたいに最初は美しいけど、段々べちゃべちゃになって汚れたりしないし、綺麗なままで、空に消えていくでしょう?一瞬だけど、忘れられない景色を皆に見せた後に」

凄惨な悲劇の連鎖の中で、そのような哀しくも美しい現象が起きていたとは思わなかった。

そして、何より驚いたのは、茜の風花への解釈が、自分と全く同じだった事だ。

「茜も、そんな風に思ってたんだ・・・。僕も、昨日、沙耶の元に行く前に、夕陽に光って、消えていく風花を見た時、さっき茜が言ったのと同じ事を考えてた」

「そうなの・・・?」

「うん。一瞬の煌めきだけを残して、空へ消えていく風花を見てね。勿論、雪だって降っている間は美しいけれど、積もって、雨風に晒されていけば、どんどんと純白から、濁った色に汚されていく。そうなったら、もう純粋な美ではなくなる。だったら、汚される間もなく、美しい景色だけを皆の記憶に刻んで散っていく、風花のように、僕の命もありたいって思うよ」

昨日、茜と別れた後に、彼女の名前と同じ色の、夕方の日差しに染められ、空に溶けるように消えていく風花たちを見て、椛はそう感じていた。茜は、椛の言葉を聞き終えると、少し微笑んだ。

「椛・・・、昨日、私が風花を見た時に思ってたのと、まんま、同じ感想だね、それ。あの時は、この風花を見たら、文学者さんでもある椛はなんていうだろうなんて思っていたけれど、同じ事考えてたんだ」

茜も、一人校舎から、あの風花を見た時に、椛と全く同じ事を思っていたらしい。

その一致に、椛は、ココアの缶から口を離して、フッと笑みをこぼす。

「やっぱり、君は僕に似てるね、同じ物を見て、全く同じ事を考えていたなんて」

「それは、椛が見つけ出して、選んでくれたんだからね・・・、私の事を『共に死ぬのに相応しい相手』だって。似た物同士じゃなきゃ、引かれ合わないよ」

似た者同士・・・。かつて、椛にとって、その相手は沙耶一人だけである筈だった。

しかし、それは自分の大きな思い違いであったという事を、椛は今回の沙耶との一連の騒動で思い知らされた。沙耶は、自分一人だけで黙って死んでいく事をよしとせず、世界に復讐の一撃を与えてから死ぬ事を望んでいた。その為なら、無関係の人達まで巻き込む事も厭わない、暗く残酷な欲望を。

沙耶が、共犯者に選んだあの女-紅羽もまた、この世界に憎しみを抱いている者なのだろう。似た者同士が引かれ合うというのなら。

紅羽の素性など椛は知らないが、彼女もまた、沙耶と同じ目をしていた。復讐という目的を叶える為ならば、人の命を奪う事も意に介さない、冷たい目を。

「似た者同士か・・・、それなら、沙耶があそこまで信頼してる、あの紅羽という女も、沙耶と同じ憎しみを抱いてるからこそ、沙耶と結びついたのかな。あいつにも、あいつなりの、苦しい経験があったのかな・・・」

さっきの教室で、沙耶が同性愛者である事を、椛にずっと思いを寄せていた事を知った途端に、掌を返して、『異常者』として扱い出した、かつての取り巻き達を思い出す。

沙耶がもっとも憎んでいた、この世界の姿の一面が垣間見えた。『同性愛者である自分を踏みつけて平然としている、そんな世界』の姿を。

勿論、沙耶と紅羽の二人が行った事は紛れもない自殺教唆で、二人は無関係な人達も大勢、死に駆り立てた。どんな理由も、その免罪符にはならない。しかし、あのクラスメイトらの、沙耶の素顔を知るや否や、早々に切り捨てようとしたあまりに非情な態度に、怒りを覚えた椛も存在しているのは確かなのだ。

その怒りが、「当事者」として苦しんで、憎しみを抱いて生きてきた沙耶のそれに、万分の一にすら満たないとしても、この世界の一面に怒りを抱いた事で、今更ながら椛は、沙耶と、気持ちを通じ合わせたとも言えるかもしれなかった。

「柊木さんだけでなく、紅羽っていうあの女にも、同情湧いちゃった・・・?」

茜の問いかけに、椛は答える。

「あの二人がやってしまった事。そして、これからやろうとしている事に、許す余地なんか全くないっていう気持ちは、勿論、変わる訳がないよ。でも、茜も教室で聞いたよね。さっき、あいつらが、沙耶の素顔を知った途端に、なんて言っていたか。『あんな世界』をずっと許せないっていう思いを沙耶は抱いて生きてきたんだ。その沙耶と、心を通わせてるって事は、紅羽も、見方を変えれば『あんな世界』の被害者で恨みを抱いて生きてきたやつなのかもしれないって思ってね」

「・・・さっき、私のところに来る前、椛、一瞬、本当に怖い顔してた。あの子達に話しかけられた時。本気で怒ってるんだって分かった。柊木さんの事をあんな風に言われて。椛は気付かなかったかもしれないけど、あの子達、表情凍っていたよ。椛の空気が変わったから」

「もう、あんな子達に、どう思われようがどうだっていいよ・・・。皮肉だね、ここまでの大事件になって、あの子達の本性も垣間見えて、この世界のどういう側面を沙耶は見て、憎んでいたのか、僕も今頃になってやっと分かった。あれだけの時間を沙耶と一緒にいても何にも僕に、沙耶が見ている物は見えてなかったんだ。そして、多分沙耶と同じ物が、認めたくないけど、あの紅羽って女にも見えていたから、沙耶と心を通わせられたんだと思う・・・」

そこまで話したところで、椛は頭に浮かんだ問いかけを口にする。茜に尋ねている、というよりも自分の中に湧いてきた言葉を外に出さずにはいられなかった。

「今になって、迷ってる場合じゃないのは分かってる、でも、こんな世界を‐、あんな子達も含んだこの世界を守る事が正しいのかって、微かにだけど思ってしまったよ」

茜の前で、自分は迷って、心が揺らいで、優柔不断で恰好悪いところを見せてばかりだ。沙耶との対立が決定的になってからというもの。昨日とて、茜を介して知った母の本心に心が揺らいだ。最期は茜と共に、と決めていた筈なのに、あんなに取り乱して、茜を置いて自分一人で、沙耶、紅羽との決戦に挑もうとしていた。そして今度は、沙耶が苦しんでいた物の一端を目の当たりにして、この世界は、守るべき価値ある世界かを、自分は迷っている。

「ごめんね、茜の前じゃ、全然、恰好つけられないや・・・。ずっと迷って、考え込んでばっかりで。昨日だって、茜に手を引いてもらったばかりなのに。これなら、昔の僕の方が何も迷いなんかなかった。死ぬべき時が来たのを悟ったら、自然に僕は命を絶って、この世界から消えていくんだと、まだ達観してた。茜と会って、沙耶と衝突して・・・、今の僕は、沢山の知らなかった感情や、真実を知ったら、どんどん迷いが増えて、自分がぶれていく感覚しかなくって、僕は自分が情けないよ・・・」

冷え切った銀色の窓枠を、右手でぎゅっと握りしめて、椛は絞り出すようにそう言った。

その手の上に、柔らかく温かい物が重なる。茜が、椛の白くなった手の甲に掌を重ねてくれていた。

「椛は、情けなくなんかない。新しい感情にぶつかって、知らない事を知って、そしたら、自分の気持ちがぶれるのなんて、当たり前だよ。私だって、いっぱい、椛に出会ってから、自分の感情を掻き乱されてきたんだから。柊木さんと椛の関係を知れば知る程、気持ちはぐちゃぐちゃにされて・・・、本当、きつかったんだからね。私自身、自分がどうなってしまってるのか分からなくって」

「茜の事は沢山困らせてしまったね、沙耶の事で、僕が煮え切らなかったばっかりに」

茜はぶんぶんと、首を横に振る。いつの間にか飲み終えたらしいココアの缶を

「自分の事を、そんな風に言うのはやめてよ・・・。煮え切らないだとか情けないとか、そういう事じゃない。椛はね、結局・・・凄く優しいんだよ」

「優しい?こんな僕が?」

「そうだよ。私なんかよりもずっと。クールぶってて、厭世主義者を装ってても。優しいからこそ、色んな人の気持ちを考えてしまって、迷ってるんでしょう?お母さんの事、本当は愛してるから自分のせいで傷を負わせてしまったって悔やんでるし、柊木さんが、あんな事になってしまった今でも、あのクラスの子達に悪く言われたら怒るし。優しいからこそ、迷うんだよ。椛の大切な幼馴染の柊木さんを苦しめてきた世界に怒りが湧いて、あんな子達がいるこの世界は、本当に守る価値なんてあるのか、迷ってるんだよね?」

優しい人、と面と向かって、ここまで気持ちを込めて言われた事は人生において、殆ど覚えがない。茜の言葉に戸惑う。

優しいだとか情け深いとか、そういったものは甘い感情であり、人に付け入らせる隙を与える物にしかならないから、「強くある為には冷淡であれ」、としか、霧島家では教わってこなかった。

椛はその教えを疑った事などなく、言われた通りにそうあろうと努めてきたし、優しい人間だなど、自分の事を思った事もなかった。

それを茜は、あっさりと覆してくる。昨日もそうだった。

「茜・・・、君は、僕に、自分では気付けなかった、目を背けていた感情にも、いくつも気付かせてくれるね」

「いつも周りの人を観察して、こんな空っぽな私よりも、優れてるところを見つけてはひがんでばっかりだった、私の癖が良い方向に働いてるのかもね。椛の知らない、椛の良いところを見つけられるのは」

茜はそんな風に、半分自嘲交じりな言い回しで、そう言った。

「良いところを見つけるのが得意な、観察眼を持ってる茜は、この世界を守る価値があるのかっていう、僕の迷いを聞いて、どう思った・・・?沙耶の両親も、クラスメイトのあの子達も平然と生きてるみたいなこんな世界に、価値があるように見える?」

茜は、今も「空っぽの私」という言葉を使う。自分には何の秀でたところもない、無色透明な人間であると。

しかし、もう椛は彼女をそんな風には全く思っていない。彼女の目は、人や物事の本質を見抜く、驚くほどの鋭さを発揮する。それは、時として少し茜の観察眼を怖くさえ感じる程に。彼女の目に世界はどう映るのか、それを知りたい。

「・・・私は、それでもこの世界を守りたいって思うかな。ごめんね、椛の気持ちや、柊木さんの苦しみを、無視する訳じゃない。それは絶対に違う」

「じゃあ、どうしてこの世界に、茜は価値があるって思う?」

「この世界から、消えても別にいいかなっていう気持ちをずっと抱いてた私がこんな事をいうの、矛盾だらけに感じるかもしれないね。だけど、自分の道連れに世界も滅んでしまってもいいなんて、それは、私は許せないよ。その世界の中に、柊木さんを苦しめてきた、酷い人達も含まれてるのは分かってても。だって、それは、椛がずっと許せないって言ってきた、『理不尽な死』へと、無関係な沢山の人達を追いやろうとしてるんだから。生きたいと思ってた、何かを掴もうとしていた人達の気持ちまでも、「邪印」の力で操ってね。柊木さんだって、あの紅羽って女も苦しかったんだと思うけど、あの二人に、というか、世界の誰にもそんな権利はないから」

茜は、椛が常々、口癖のように言っていた言葉も、ちゃんと胸に刻んで、話してくれた。沙耶も紅羽も、勿論、この世界の犠牲者であるのは事実だ。しかし、それが、何かを掴む為に生きている人達まで洗脳して、死に追いやる理由にはならないし、椛が一番忌み嫌う『理不尽にもたらされる死』そのものではないかと。茜はそう言っている。

「矛盾しかない答なのは分かってるよ・・・。酷い人達だっている世界を結果的には守る事になってしまうんだから。でも、私なんかの命と引き換えに、もっと生きるべき意味のある人達の世界と、未来を守れるなら、私は柊木さん達を止めるよ。椛と一緒に」

茜は決してぶれない。沙耶との訣別からというもの、ぶれてばかりだった自分とは違って。彼女は空っぽでも透明人間のような存在でもない、一本筋の通った人間なのだ。

「優しくない回答でごめんね。でも私には、もう迷いはないよ。結果的には、さっきのクラスの子達みたいな人まで、守る事になっても私は、この血晶で、柊木さんと紅羽の二人を止める。そして、最期の終焉の舞台を飾るんだ、椛と」

茜は、制服の胸元のあたりを手で押さえる。その下に、血晶と、椛が持っているのと同じ『聖刻』がある。「邪印」に互角に立ち向かえる力を持っているのは、椛と茜しかいない。


じっと背中に視線を感じて、椛は振り返る。

さっき、沙耶の事を「レズ」「サイコ」「メンヘラ」だのと呼んで、椛には、理解者のような面をして近づこうとしてきた、昔の取り巻きの女子達だ。茜に掌を包まれて、話し込んでいるところをしっかりと見られたが、今更、自分がどう思われても知った事かと思った。

椛は「話しかけないで」という無言の圧を視線で送った。彼女らは怪訝な表情のまま、そっぽを向いて、鞄を下げて階段の方へと降りて行った。

もう、彼女らと顔を会わせるのも、椛の人生でこれが最後だろう。下校していく彼女らは、椛にもう振り向く事はなかった。

「あんな人達もいるのも分かってても、この世界は終わらせてはいけない・・・。そうだね」

納得しきれなくてもいい。矛盾を抱えたままでもいい。茜の言う通り、自分の信条を貫こう。『理不尽な死』をこれ以上、沙耶に拡散させない為に。


SNS上にばら撒かれた、黒い、血晶と同じ紋様をした黒い刻印の写真。

それは、次々と拡散されていき、見た人の意思を乗っ取り、死へと誘っていった。

凶行は連鎖していき、人々は、ただ死ぬのみではなく、「自分を虐げた社会に復讐してから死にたい」と願い始め、無関係の市民や、止めようとした警察官にまで牙を剥いた。

そして、その写真の下に、こんな一文がとあるアカウントで乗せられていた。

「皆で、集団自殺をしましょう。この汚れた世界への怒りや憎しみを、のうのうと生きている人々に思い知らせるには、今のやり方でもまだ生ぬるい。二度と社会が忘れられないような景色を、私達の手で作り上げるのです」

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