第24話 茜と椛の「最期」の舞台

あの紅葉の森での出来事の後、茜と椛は、倒れていたところを警察に保護されて、森で何があったのか、警察署で事情聴取を受けた。

どうやら、公園の森で奇妙な紅い光が見えたり、音が鳴っているという事で、不審に思った近所の住民から通報があったらしい。そのおかげで、茜と椛の元に警察が駆け付けたようだった。

宝石である血晶が、「聖刻」や「邪印」の力で剣やら槍やら、矢に変形した・・・などという与太話を警察も流石にまともに取り合わないだろうからと考えたのか、聴取の時、椛は、「沙耶はナイフで、僕と茜の二人に襲いかかってきた」という風に、警察官には答えた。

そして、更に踏み込んだ話を茜が行った時、警察官たちの顔から血の気が引いた。

「柊木さんは、ネットを使って、生きる事に苦しんでる人達に自殺を唆してる。それによってフォロワーさん達ももう何人も、その扇動の為に命を絶っている」

と、沙耶が、今世間を騒がせている、連続自殺事件の発端である事を、茜が告げたからだ。

そこからが大騒ぎとなった。日頃、殆ど会話のない茜の父も残業を切り上げて、母と共に警察署に青ざめた様子でやってきた。いくら関係の希薄な仮面家族でも、娘が何やら大変な騒ぎに巻き込まれつつあることは分かったらしい。

更にそこに、霧島家、そして、柊木家の面々もやってきた。一応、表向きは単に巻き込まれただけ、という立ち位置の茜の家族とは違い、お互いに名家で娘同士が傷害の被害者と加害者、という関係になってしまった故に、霧島・柊木両家の動揺ぶりは凄まじかった。

「椛ちゃん・・・、ねえ、嘘でしょう?お願い、嘘だって言ってよ!本当に沙耶がそんな事したの?自分が・・・同性愛者だっていうのが受け入れられなかったからって、腹いせに椛ちゃんを殺そうとして、挙句にネットでは、苦しんでる人に自殺を扇動してるなんて、そんな話、信じたくない・・・」

母親の取り乱しぶりは、椛の両肩を掴んで揺さぶらんばかりだった。

「何故だ・・・、沙耶!!どうして、お前はこんな、自ら破滅に向かうような事を・・・。あいつは何を考えてるのか、私には全く理解出来ない」

沙耶の父親も深く溜息をついて、深夜の警察署の受付のソファーに座り込み、頭を抱えていた。沙耶の両親は二人共、憔悴しきっていた。

「本当に、霧島さんには何と言ってお詫びしたらよいのか、言葉も見つかりません。うちの娘がバカな一時の気の迷いから、お宅の椛ちゃんに異常に執着して、挙句の果てに盗聴なんて犯罪行為をしでかした時点で、沙耶はスマホも全部没収して、頭が正常になるまで病院に叩き込んでおくべきでした。勿論そうするつもりで話も進めていたんですが、それを言った直後にあいつは・・・、沙耶は飛び出していってしまった。そして、自分の勘違いの恋が上手くいかない腹いせにお宅の椛ちゃんは襲う。世間を逆恨みして、同性愛差別への復讐だなんていって、自殺の扇動までしていたなんて」

沙耶の父の言葉を、苦々しい表情で椛の父親も聞いていた。椛の凛々しい眼差しは、父親譲りなのだろうと、茜は一目見て分かった。

その眉間に皺を寄せて、しばらく、彼はじっと考え込んでいた。

この空間にいるだけでも息が詰まりそうだ。茜はそう思った。

茜は、自分は決して賢い方ではないと自覚しているし、難しい話は分からない。

しかし、さっきから横で大人達のやり取りを聞いていて、ただ一つ感じた事。それは、ここにいる大人達に、自分、椛、沙耶の当事者の気持ちを理解出来る人はきっと誰もいないのだろう・・・という確信に近い物だった。

沙耶の父には茜は一回しか会った事はなかったが、前から考え方は何一つ変わってはいなかった。沙耶は異常者。一時の気の迷いを拗らせた末に狂ったと。

横で座っている椛の肩も震えていた。それが寒さなどではなく、目の前で交わされるやり取りに、自分の感情を抑えている事は茜にもすぐに分かった。茜は、椛の背中をさすってやる。

「柊木さんの娘さんと、うちの椛は昔からべったりと言ってもいいくらいの、親密な関係でしたからね。気の迷いが、女の子同士であっても、起きておかしくはない。しかも、うちの家風で椛には、男系が基本の我が家に生まれたからには。家を継ぐ為に、男子並みに強くなれと言い聞かせて、硬派な教育をしてきた。ずっと椛は男の子だという心積もりで育てていたので、余計に沙耶ちゃんにはそういう勘違いをさせてしまったのかもしれないですね」

『勘違い。気の迷い。こんな言葉を柊木さんは何度、身近で聞かされてきたのだろう。しかも最後は頭の病気扱いまでされるなんて』

茜自身は、今までの人生で性的指向など考えた事はない。そもそも、人とは希薄な関係しか築けなかったのに、恋愛感情の対象についてなど、考える機会が皆無だった。そんな茜にも、今も飛び交っている言葉達が、沙耶をどれ程、長きにわたって苦しめ、追い込んできたかくらいは想像できる。

彼女があそこまで、暗い情動に乗っ取られ、壊れていく下地は、今まで彼女がいた家庭の中にも十分にあった。それを、柊木家だけでなく、縁のある霧島家の、椛の父親も肯定している。椛に対する気の迷いの末に狂ったという、沙耶の両親の考えを。

『柊木さんがしてしまった事。そして、この上、更にやろうとしている事は、どんな理由があっても許されない。だけど・・・どんなにやってしまった事は罪でも、柊木さんの椛への思いだけは気の迷いでも勘違いでもない、本物の愛だった事くらいは、私にだった分かる。間違ってるのは、柊木さんちと、椛のお父さんだ・・・』

沙耶の母親も、青ざめるのを通り越して、殆ど血の気の失せたような蒼白な顔色で、父親に話しかける。

「何と言う事でしょう・・・、同性愛だけならばまだしも、社会に逆恨みをまき散らして、沙耶が・・・狂った殺人鬼になってしまうなど。もう長年地域で積み上げてきた、我が柊木家の信頼と立場はもうなくなってしまうでしょう」

「ああ、分かってるさ・・・。これが明るみになったら、あっと言う間に特定されて、明日から柊木家は嵐のような非難を浴びるだろう。自殺教唆の、人殺しの娘の家だって言われてな」

この期に及んでも、沙耶の両親は失踪した娘の安否よりも、家名や自分達の保身の方が大事なのだという事に、茜は衝撃を覚えた。

椛も、グッと拳を膝の上で握りしめる。そして、待合室のソファーからやや強めの音を立てて、立ち上がった。

「・・・すみません。父さん、母さん。それに、沙耶のご両親も、こんな時間に来てもらって、お騒がせして。ちょっと、席を外してもよろしいですか」

そうして、そそくさと一階の待合室のソファーから離れていく椛の背に、彼女の母親が声をかけた。

「待って、椛。急に何処へ行くの⁉」

「ごめんなさい、お母さん・・・。ちょっと、僕も頭を冷やして、少し考えたい事があるので、出来れば静かなところに行きたいんです。すぐに戻りますから」

椛が急に席を外したのを、椛の母親が心配気に見つめていた。その彼女と、茜が瞬間的に目が合った。この空間で、椛の母親だけは、ちゃんと自分の娘の事を心配している様子で、椛の隣に座っていた茜にも、声をかけてくれた。

「貴女は、確か以前うちにも来てくれた事があったわね・・・、穂波さん」

「はい、穂波茜です」

茜はそう言って、ペコリと頭を下げる。以前、霧島家に初めて行った時は、美しいながらも厳格さを感じさせる彼女の空気に圧されて、あまり多くは話せなかった。しかし、今日の彼女は、一見冷静沈着であり、表立って取り乱す素振りなどはないものの、その目からは椛を深く心配する様子が見てとれる。

「携帯であんなやり取りを、椛と沙耶ちゃんがずっとしていたなんて、何も気付いていなかった。私は、あの子の母親だというのに。ここ最近は話をすることもあまりに少なかったから」

彼女の言葉の節々からは、自分を責める響きが感じられる。

彼女は、茜に尋ねてきた。

「一つ、聞いてもいい?穂波さんは、沙耶ちゃんが、今日、椛を呼び出すって事も知っていたの?」

「え・・・、それは・・・」

「あ、ごめんなさいね。決して、穂波さんに『知っていたならどうして先に大人に相談しなかったの!』なんて怒ってる訳ではないの。ただ、椛が貴女の事は、強く信じていたなら、もしかして、貴女にだけは、沙耶ちゃんとのやり取りの事も話していたのかなって」

どうにも声の圧が強くて、怒ってるように聞こえたらごめんなさい、と謝る椛の母親に、前に抱いていた彼女への苦手意識はいくらか和らいでいて、茜は素直に話す事が出来た。

「はい・・・。今日は、昔僕が椛の告白を断った日だから、その償いも込めて、僕一人で話に行くって聞かなくって・・・。でも、椛はこれは自分の責任だからと自分だけで背負い込もうとしていて。隠していてごめんなさい」

茜は素直に、そう述べる事が出来た。茜の言葉を聞いた椛の母親は、「そう・・・」と言って、深い憂いの表情を浮かべた。

「こちらこそごめんね、本当はあの子の重荷を分け合って、軽くしてあげるべきなのは、親の私の務めというのに、穂波さんにも大変な思いをさせてしまって。私が、もっとあの子の、相談しやすいような親であったなら・・・」

それは、椛に対する自分の振る舞いを後悔しているような口振りだった。

「ごめんなさい」が、いつのまにか、「ごめん」に変わっている事に気付く。彼女が、茜の緊張をほぐそうと配慮してなのか、少し言葉遣いを崩してくれているのが分かった。

「・・・わ、私なんかが、口出しを出来るような事じゃないのは分かってます。だけど、言わせてもらえるんだったら・・・。椛はずっと、気にしているんです、お母さんを傷つけてしまった事を。だから、あの子はそれを許せずに、自分はお母さんに弱さを見せてはいけないって思ってるのかも」

「傷つけてしまった事?椛が、私を・・・?」

ここから先は、他の大人達のいるところで、すべき話ではないと考えて、茜は、彼女を連れて、待合室から少し離れた場所の、警察のマスコットキャラクターの像が立っている傍の廊下まで移動した。

そこで、茜は声を潜めて、こう言った。

「椛が、どうして、お母さんとあんな感じなのか気になって、聞いた時に、あの子は言ってました。その・・・、椛の出産の時に、沢山、お母さんが出血してしまって、それで緊急手術した結果、助かったけど、もう子供が出来ない体に、なってしまったって。男の子が欲しかった筈のお母さんは、きっと自分を恨んでいる筈だって。そう言ったんです。こんな重たい話を、私なんかが聞いてよかったのかと思いますが・・・、椛はその事で、今も自分が生まれてきた事自体を許せないでいるんです」

ごめんと、心の中で茜は、椛に言った。勝手に、椛の隠した気持ちを代わりに伝えてしまった事を。

‐その為に椛が、慢性的に「死」を望んでいる事。ましてや、自分と椛が結びついたきっかけも、血晶の「刻印」による導きで、二人で死ぬ契約を交わしたからですなどとという事などは、勿論、絶対に椛の母親には話さなかったが。

本来は、自分が聞いていいような話ではなかったと今も思う。まして、椛の母親に、彼女から見れば娘の知り合いという程度の存在でしかない、茜が聞かせるような話でもない。しかし、きっと椛は、自分でこの話を母親に打ち明ける事はないだろう。「自分の存在や、自分が生きている事が許せない」と彼女が思う、その根底にある理由を。

警察署の中に、窓から差し込む月光を背にして、椛の母親は、目を大きく開いたまま、立っていた。

茜はじっと、その返事を待つ。

独断専行が過ぎたかもしれない。

それでも、話さずにおけなかったのは、椛と、椛の母親がこのまま、すれ違ったままで別れるのは嫌だ、という余計なおせっかいの気持ちが働いたのだろう。

「・・・あの子がそんな事を言っていたのね」

「はい・・・、どうしても、お母さんには知っておいてほしいかなって思って。椛の背負ってきた気持ちを」

「椛を追い込むようなことを言ってしまった、あの時の私と夫の二人の責任ね・・・。今更、あの子に謝っても、きっとどうにか出来る問題ではないし、あの子は仮に私が「もう気にしなくていい」なんて言ったところで、あの性格なら今後も背負い続けるでしょう。それに、あの子の推測は全くの間違いではないの。あの手術で、何とか椛と私は助かったけど、もうあの子の兄弟も姉妹も望めない体になってしまった時・・・、私の中に、『こんな体になったのは椛のせいだ』って、囁く悪魔が生まれたのは、事実だから」

「悪魔」という言葉を口にした時、椛の母親の声に震えが走った。

「あの時から、しばらくの間・・・椛の幼い頃まで、もう二番目の子供は出来ない現実を受け入れられない状態が私と夫の間に続いてね・・・。自分の子供の事を恨むなんて、ただの一瞬だろうと、あってはならない事なのに。我が家はどうしても、男の子が欲しいと親族も皆願っていたから、そのプレッシャーも夫婦にのしかかって、あの時はどうかしていたんだわ。だけど、そんな事はあの子には、何の言い訳にもなりはしない。あの子を、自分が生まれた事自体を許せないと思う程、追い込んでしまったんだから。椛が私達両親に憎しみを燃やしてても、それは、当然の報いね」

窓から差し込む月光を背にして、灯りの消えた薄暗い廊下で話している為、椛の母親の表情は伺えない。ただ、彼女の瞳が月光を受けて、微かに揺らぎ、目が潤んでいるようにも見えた。

「私がずっと目を逸らしてきた過去の事について、向き合う機会をくれてありがとう。穂波さん。」

「本当は、椛が、お母さんに自分で話すべき事だったのに、出過ぎた真似をしているのは分かってます。でも・・・、きっと椛は、自分から言う事は絶対にないって思ったし、椛のお母さんが何も知らないままでいるのは、どうしても嫌だったから」

そして、椛が、以前話していた、ある話を思い出す。茜は、自分の首に掛けられていた、ネックレスを手にかけ、その血晶を椛の母親に見せる。

「これは・・・、高校に入ってから、ずっと、あの子が持ってるアクセサリーによく似てる・・・」

「そう。『血晶』です。昔、お母さんが椛にも買ってくれたものと同じ。さっき、椛はお母さんに憎しみを燃やしてるかもしれないって言ったけれど、それは違うと思います」

「どうして・・・?」

「だって、前に、お母さんの事で、一度だけ『母が僕の事を、女として褒めてくれた事がある』って、話してくれたんです、私に。『血晶』をお母さんに買ってもらって、それをお母さんの前で身に着けた時、褒めてもらったんだって。その時の事、お母さんは何気なく零した言葉だったかもしれないけど、今も椛は大切に、思い出にしているんです」

だから・・・、どうか、椛が憎しみを燃やしているなんて思わないでほしい。そう、茜は話を締めくくった。

あの、強面な印象しかなかった椛の母親の瞳が、揺らぐのが見えた。そして、小さく「ごめんなさい」とだけ言うと、彼女はハンカチを取り出して、そっと顔を背け、目元を押さえた。

茜は、そっと、その様子を見守っていた。隠されていた椛の気持ち。それを彼女に伝えた。

その時であった。

静謐の中、遠くでも、すすり泣くような声が聞こえたのは。そして、パタパタと階段を駆け上る音がそれに続いて響いた。間違いない、あの声は・・・。

「お母さん、すみません!椛とちょっと話をさせてください!」

そう言って、椛の母親に背中を向けると、茜は、音の聞こえた方に向かい、走った。


階段を、夕方、学校で半ば喧嘩のようになって別れた時とは反対に、今度は椛を探して駆け上っていく。静まり返った署内に、学校指定の革靴が段を蹴って鳴らす音が鳴り響く。

警察官募集などのポスターがあちこちに貼られた、暗い踊り場の真ん中で、思った通り、彼女は佇んでいた。茜に背を向けて立っており、表情は見えない。

署内で傷の応急手当を受けた際に、家から持ってきてもらった小綺麗な私服に椛は着替えていた。

「椛!!見つけた・・・。さっきの、私と椛のお母さんの話、聞いてたでしょ」

茜の問いかけにも、硬直したように直立のまま、椛は振り向く気配もない。振り返らずに、そのまま、椛は答えた。

「茜・・・、話したんだね。僕が、命を絶つ時まで、知らせないままでいようって思ってた、母への罪の意識の事を」

彼女の声から、怒気のようなものは今のところ感じられない。椛はただ、淡々と尋ねてくる。その感情の読み取れなさが、怒りを見せられるのよりも寧ろ怖い。

茜はそれでも、懸命に、さっきの椛の母親と話した内容を、椛に伝える為に話す。

「うん。か、勝手な事を、しちゃってごめんね・・・」

「どうして、僕が、母さんの事で自分を責めてるのを、話そうって思ったの?」

「う、うん。椛のお母さんにさっき話しかけられたの。自分は椛の置かれてる状況の事なんて、何も知らなかったし、話も聞いてなかった。母親なのに・・・って椛のお母さんも凄く自分を責めていた。だから、その・・・、椛には、お母さんに弱さを見せられない事情があるんだって事を知ってほしくって。そ、それに、お互いの気持ちを何も知らないままで、椛とお母さんがこのまま別れてしまうの、やっぱり嫌だって、そう思ったから・・・。お母さん、謝っていたよ、椛に」

沙耶を救い出せずに、ただでさえ心が揺れているであろう椛に、今、聞かせるような話ではない。そんな事は茜にも分かっていた。

だけど、椛の母親が、素直に母親として、椛の身を案じてくれていた事、自分の言動を深く悔やんでいた事を、茜は知ってしまった。それを、このまま、椛に「最期の時まで」伝えないでおく事など、茜には出来なかった。

「母さんが、謝った・・・?何を」

「知ってるくせに。さっき、椛が泣いてた声、聞こえてたよ。私とお母さんのやり取り、何処から聞いたのかは分かんないけど。お母さんが後悔して、謝りたいって思ってるのは、きっと聞いたでしょう?自分の昔の言葉や、椛に抱いてしまった思いを本当に悔やんでるのを」

椛の肩は、小刻みに震えていた。

「それを今更知ったところで何になるの?僕が、あの人を・・・、ひいては霧島家のした事を許せるとでも?それに何より、僕が許せないのは僕自身だよ?あの人を、僕が生まれた事そのものによって傷つけてしまったんだから。それは母さんが今更何を言おうと、変わらない事実だよね?」

椛は続ける。

「生まれながらに親を傷つけて、男の子が生まれてさえいれば幸せになれた父さんと母さんを、親戚一同からのプレッシャーで追い込んでしまって・・・僕がしてきた事は、下らない「男の子ごっこ」だった。「僕」なんて自分の呼び方も、髪型も全部。そして、沙耶もあそこまで追い詰めて、壊した・・・。茜は、僕にあんな話聞かせて、何が目的なの?僕に両親と和解して仲良しになって、「君と一緒に死ぬのはやっぱりやめる」とでも、言ってほしいの?茜と僕の、「一緒に死ぬ事」が前提だった筈の契約はじゃあ、どうなるの?ごめん、茜のしたい事が全然、僕には分からない・・・」

契約・・・。まだ、その言葉を持ち出すのか。茜は唇を噛み締める。

茜は、自分と椛はとっくに、単なる契約の関係の付き合いなどではないと、思っているのに。

「そんなんじゃ、ない・・・!私はただ、椛が何も知らないままで、死んでいくのが嫌だっただけ。お母さんの気持ちを知ってほしかっただけ」

椛の声が珍しく荒ぶり、そして、投げ槍な響きを含む。

「要らないよ!そんな、余計な気遣いなんか!僕は、母さんの本当の気持ちなんて知る必要はない。両親を苦しめて、沙耶を壊して、結局、今日だって、沙耶の事を、救えなかった。その上、本当なら沙耶と僕の問題には関係なかった茜まで巻き込んで、危険に晒した・・・。僕は皆に災いをもたらして、沙耶も救えない、無力で無価値な人間なんだ。血晶も『聖刻』なんかも、もう、どうだっていい・・・。僕なんて、あの森で、沙耶の血晶の槍に刺し貫かれた時に、あのまま死んでしまってたらよかったのかも」

沙耶という名前を聞く度に、茜の胸に、痛みは今でも走る。

それでも、今日、沙耶を取り戻せなかった自分への無力感と自責感で、自暴自棄に陥っている椛をこれ以上見たくなかった。

茜は、言葉の代わりに、一回り程自分より高い椛の背中に、後ろから手を回し、腕の中に包み込んだ。冬が目前である事を知らせるように、冷え切った晩秋の夜気が立ち込める階段の踊り場で、椛の体の温もりが茜の肌に沁み込んでくる。

椛は、茜の手を払い除けようとするように、腕を動かそうとしたが、茜はより強く抱きしめて、そうさせなかった。

椛は、やり場のない気持ちをぶちまけるように叫ぶ。

「離してよ・・・、離してってば!!こんな、周りを苦しめるばかりの僕に、もう優しくしなくっていいから!茜も、僕なんかにここまで関わってしまったせいで、沙耶や、あの紅羽とかいう女にもあんな危険な目に遭って、『聖刻』に目覚めてなかったら、もう少しで殺されてたかもしれないんだよ?茜を大切に思ってるからこそ言うよ。僕に、君はこれ以上、関わってはいけない!沙耶は茜にはっきり殺意を向けてる。もう一人の、あの紅羽っていう大人の女も。僕のせいで、茜をこれ以上、殺されるかもしれないような目に遭わせたくない。だから・・・」

「椛から離れてっていうの・・・⁉そんなの、嫌だ!」

椛の言葉の先を予想して、それを言わせたくなくて、茜も、被せるようにそう言葉を発する。

「一緒に戦おうよ、椛。柊木さんとあの紅羽って人がやろうとしてる、「邪印」を使った、もっと恐ろしい計画を止める為に。二人の血晶と『聖刻』の力で・・・」

それを最後までは聞かずに、椛は首を横に振る。彼女の目尻から撥ねた、小さな水滴が、茜の頬に微かに触れた。

「でも、今日だって、沙耶を救うどころか、『聖刻』が傷を癒してくれなかったら、茜を守り切る事さえ、僕の力では・・・!『聖刻』があっても厳しいかもしれないよ。そうなる前に、茜は・・・、僕の前で、沙耶が茜を殺すところなんて絶対に見たくないから、僕と別れた方がいい。沙耶との戦いなら・・・僕一人で決着をつけるから。例え、僕がそれで、沙耶に殺されたとしても」

そして、茜の腕を振りほどくと、椛は下に降りる階段へと走り出そうとした。夕方、喧嘩別れになった時の茜と同じように。

しかし、茜はその腕を強く掴んで離さなかった。今、手を離せば、椛は自分のところに帰ってこない気がしたから。階段の下に立ち込める宵闇の中へと、消えていってしまうように思えたからだ。

今度は、椛の顔がよく見えるように、彼女の体を真正面から抱きしめる。少しつま先立ちになって、椛の首元に腕を回す。

「なんで、分かってくれないの、椛・・・、なんで、ここまで来て、やっと『聖刻』まで手に入れたのに、今になって、私を置いて自分だけいこうってするの。死ぬ時は一緒だって、約束したじゃん・・・!私、絶対に、柊木さんに殺されたりなんかしない。椛と、大きな事を成し遂げて、その上で最期は一緒にって、血晶に誓ったんだから。私は、椛が思ってるほど弱くはないから」

「茜・・・」

「お母さんの本当の気持ちだって、椛は、自分を許せないなら、それでいい。お母さんも、あの子はきっと何を言われても、自分を許しはしないだろうって言っていたから。ただ、自分が皆に災いをもたらしてるなんて事だけは、思ってほしくないよ。お母さんとの話、さっき、聞いていたのなら、分かったでしょ?椛が『血晶』を初めて着けた日、お母さんに褒めてもらえたのを今でも大事に思ってるって聞いて、お母さんも泣いてた。大事に思ってるんだよ、本当はお母さんだって。椛の事をね」

椛の、強張っていた体から、次第に力が抜けていく。目線を上に向けると、椛の頬が、窓から零れる月明かりを受けて、濡れているのが分かった。

「椛の涙の理由を聞かせて」

「本当は・・・私だって、父さん、母さんの事・・・、特に母さんとは、お互いに憎み合ったままで死にたくなんてなかった・・・!どんな親でも、親は親なんだから・・・。だから、あの話を茜がしてくれて、本音が言えない口下手な母さんが、思いを打ち明けてくれたのも、素直になれない僕に変わって茜が気持ちを伝えてくれたのも、嬉しかった・・・。僕は、母さんの体を傷つけた業は消えない。でも、茜のおかげで、死んでいく前の、心残りが消えたから。これで、沙耶達を止める、命をかけた戦いに行けるよ」

椛の気持ちは、既に、沙耶と紅羽が仕掛けようとしている、生きる人間の世界への「戦争」に向けられている。命を賭しても、彼女は沙耶の、恐るべき計画を止める気だ。そこに向かう前に、心残りが消えた事に椛は、礼を述べていた。気付けば、茜の背中にも、椛の両手が回されていた。

ずっと、母親の前で、素直な気持ちで嬉しいと言う事も、泣く事も出来なかった椛は、茜の小さな体を抱きしめる。溢れ出した母性への渇望を満たしたいように感じ、いつかも、こんな場面があったなと思い出す。あれが、遠い昔の事のように思われた。

「柊木さん達を止めに、椛一人では行かせないよ。さっきも言ったけど。私は、絶対に柊木さんに殺されたりしない。柊木さんと紅羽の計画を止めて、この世界を守って・・・そして二人で死んでいくの。それが、椛の信条にも沿った死に方だと思わない?」

茜は、『自分の為だけに生きて、自分の為だけに死んでいける程、人は強くない。何の為に生きて、そして死ぬのか、テーマを見つけ出さないといけない』でしょ?と、椛に言った。

「覚えてくれてたんだ・・・、僕の好きな、その言葉」

「勿論だよ、だって・・・椛が、私を初めて見つけてくれたあの日に、教えてくれた言葉なんだから。元ネタは、三島由紀夫先生の言葉、なんだよね。難しい文学は、バカな私には分からないけど、でも、この言葉は、ずっと頭に残ってた。私達は、今、そのテーマっていうものに巡り合ったんだよ。この、生きてる人間の世界を守る為に、私達は柊木さん達と戦って、全てが終わったら、二人で死ぬの。「邪印」に操られた人達を救って、この世界の誰も、私と椛の事を忘れられなくなる。これ以上、私達が命賭けるのに、最期の場所として相応しい舞台はないって、思わない?」

茜は、ポンポンと、椛の背中をあやすようにたたいてやりながら、凄絶な事を口にした。

「茜・・・、君はそこまで覚悟してたんだね・・・」

「これくらいの覚悟がなかったら一見クールぶってるけど、本当は死にたがりで、母性に飢えていて、一緒に死ぬなんて約束でしか、愛を見つけられないようなあれこれ拗らせまくったような、作り物の王子様と、私はくっついたりしないよ。今更の事じゃん」

二人の気持ちに共鳴したように、また、お互いの血晶と、肌に刻み付けられた「聖刻」が紅い輝きを放つ。寒々しい夜更けの階段の踊り場で、血晶と「聖刻」の紅い輝きは、温かに色が映えた。

「ふっ・・・。言いたい放題言ってくれるようになったね、茜も。本当、情けのない作り物の王子様だね・・・。分かった。茜にそれだけの気持ちがあるのなら、もう僕は茜を止めたりしない。一緒についてきてくれるね、最期まで」

茜は、言葉では答えず、その代わり、まだ紅い輝きを放つ、椛の胸にそっと頭を預ける。その熱さを感じながら、ゆっくりと、しかし、力強く頷いた。

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