第23話 「生」と「死」の戦争

紅い槍のような物体に腹を射抜かれたまま、椛はバタリと、地面に敷き詰められている紅葉の絨毯の上に、倒れ伏した。椛の着ているブレザーの生地に、背中の傷口を中心にして、みるみると、紅葉と同じ色の液体が滲んでいく。

衝撃のあまり、茜は、息を吸おうとしても吸い込めない。声を出そうとしても、声帯が潰れたかのように、絞り出す事さえ出来ない。

血晶の形成した、紅い槍状の物体は、既に夕陽に代わって月明かりが照り始めている、暗い森の中で、椛の右の下腹部を貫いて、妖しい紅の光を放ち始めていた。椛の傷から流れ出す血に濡れた、血晶の槍は、椛の血を次々と自らの中へ、吸収しているようだった。そして、椛の血を吸えば吸う程、何か力が宿っていくように、血晶の槍は禍々しい、紅と黒が入り混じったような色へと変貌している。

「も、椛・・・?椛、しっかりして!!」

やっと、茜の声帯が声を取り戻した。

目の前のあまりの凄惨な光景に、茜の全身は、完全に凍結したように動けなくなっていたが、ようやく、体も自由を取り戻した。頭の方も、停止していた思考回路が回り出す。

ぼんやりと立って眺めている場合ではない。助けなければ。血晶の槍で椛が重傷を負っている。早く、茜の「聖刻」の力で、血晶の治癒力で椛の傷を治して、血を止めなければ・・・椛の命が危ない。

椛が一番嫌っていて、望んでいなかった最期‐、それは「誰かに、理不尽に命を奪われる事」。それが、このままでは現実の物になってしまう。やっと、「聖刻」を茜と椛の二人で、手にしたというのに。

そう思って、地面にうつ伏せに倒れている椛へ、茜は駆け寄ろうとした。


その時、茜の目と鼻の先を、ヒュッという、空気を切り裂く音と共に、何かが霞めていった。

目の前を通り過ぎたそれは、茜の右手に見える木の幹に、そのまま突き刺さった。

「な、何、あれ・・・⁉あれは、矢?」

茜の動きを牽制するように放たれたそれは、紅い矢だった。木の幹に深く刺さっているそれに目が留まった時、茜は息を呑む。その矢もまた、椛の腹を貫いたものと同様に、血晶で形成されている矢である事は間違いなかった。相手は‐、茜を殺す事も厭わずに、これを放ったのだ。

しかし、沙耶はまだ、口から血を流したまま、苦し気に、木の幹に寄りかかって、荒く息を吐いている。沙耶があの矢を打った訳ではない。誰か・・・沙耶に協力して、茜と椛を敵視する人間が、この近くにいる。

茜は、血晶に念を送り、長剣の形に変形させた。それを右手に握りしめて、周囲を警戒するように見回していると・・・二本目の紅い矢が、こちらへ飛んできた。

茜を守ろうとするように、血晶の剣が自然に動き、その矢を空中で弾き飛ばした。鉱石同士のぶつかり合う固い音と共に、二本目の血晶の矢は、地面へと逸れて突き刺さる。

二本目の矢が放たれた瞬間、茜の左に見える茂みの中に、血晶に強い念が送られる動きを感じた。茂みに向かって、茜は、勇気を振り絞り、叫んだ。

「だ、誰なの⁉そこにいるんでしょ?隠れてないで、出てきて!」

半ば震え交じりの情けのない声だったが、それに応えるように、知らない女の声が、茜の方に響いてきた。

「沙耶ちゃんの邪魔をしないで・・・、今、儀式の邪魔をしようとしたら、貴女を殺すわよ」

そう言いながら、茂みの木の葉達を揺らして、茜の前に、一人のコートを羽織った、茶髪の女が姿を現した。弱い月明かりの下でも色褪せず、はっと息を呑むような、美しい顔立ちをしていた。しかし、茜を睨むように見つめているその目は、背筋に寒気が走ってくる程に冷たかった。

右の掌の上に、微かに紅く光る何かを乗せて、その手をこちらへと向けている。

それが血晶である事は、茜に「聖刻」を通じて伝わってくる空気からもすぐに分かった。さっきの二本の紅い矢は、あの血晶から分離して放たれた物に違いなかった。

「貴女が、穂波茜・・・、私の愛しい沙耶ちゃんから聞いたわ。沙耶ちゃんを苦しませた泥棒猫の女だってね。まさか、貴女もこのタイミングで、血晶の『聖刻』の力に目覚めるとは予想外だったけど、貴女みたいなぬるそうな人が、血晶の神聖な力を手に入れてるとか、何だか癪に障るわ。しかも、沙耶ちゃんから奪った、霧島椛との血晶の契約で、手に入れたなんて・・・」

コートの女は、そう語りながら、木の幹と、地面に刺さっている紅い矢を、自分の掌の上の血晶に戻していく。二本の矢は、吸い込まれたように、彼女の手の血晶へと戻って同化していき、彼女の手には紅い宝石だけが残された。

彼女の右耳にも、キラリと、闇の中で紅く光る物が揺れているのが見えた。

どうやら、彼女は血晶をピアスとして両耳につけているらしかった。右手の上に乗せているのも、耳から取り外した片方の、血晶のピアスのようだ。

本当なら、僅か2、3メートル先の地面に倒れている椛に今すぐにでも駆け寄りたい。あの、椛の下腹部を貫いて、そこから血を吸い上げている、血晶の細い槍を引き抜いて、傷を、茜の血晶で治癒したい。しかし、目の前に現れたコートの女は、茜が動けないように、右手の上に血晶のピアスを乗せたまま、その手をピタリと、茜に向けたまま離さない。迂闊に動けば、また血晶の矢を飛ばしてくるのは間違いなかった。

どうやら、椛を刺した細い槍や、茜が危うくかわした矢のような、細く鋭利な形態に変化させて、血晶を飛ばしてくるのが、彼女の得意な能力のようだった。

‐彼女は、一体何者なのだ。沙耶とは、どういう関係で知り合ったのだ。

凍てつくような彼女の視線に怯みそうになりながら

「あ、貴女は誰なの?どうして、柊木さんに協力してるの?柊木さんと、貴女は、一体、どんな関係?」

「・・・本当は貴女に教える義務なんかないけど、そんなに知りたいなら、ちょっとだけ話してあげる。私は、沙耶ちゃんの第一の信奉者であり、そして・・・今は、沙耶ちゃんと共に死ぬ約束を交わして、お互いに切っても切れない関係を結んでるわ。今、そこに転がってる身勝手な女、霧島椛が、昔手酷く断った、沙耶ちゃんの思いを、私がそいつの代わりに成就させてあげるって決めたのよ。この命を捨てても」

コートの女は、茜にそう言い放った。

対峙している二人の傍で、ケホケホと、弱々しい咳の声がした。ハッとして、そちらを向くと、茜の目には、ふらつく足取りで、木に手を突きながら、沙耶がこちらへ‐、正確には、コートの女の方へ歩いて来ようとしているのが見えた。その表情は、茜、椛を見ていた時の鬼のような形相とは異なり、血を流している口元には、微笑みまで浮かんでいる。

「く・・・れは・・・。呼んだ通り、来てくれたわね。ありが、とう・・・。まさか、そいつが、穂波茜が血晶の『聖刻』の力を覚醒させるなんて思わなかったから、紅羽が、来なかったら、危なかった・・・」

血を吐いた後で、森の中を照らす光が弱くなったせいもあってか、今の沙耶の顔は死人のように蒼白に見えた。

「血晶と血晶の激しい力のぶつかり合いの気配を感じて、沙耶ちゃんが相当、不完全な「邪印」の力で無茶してるのも分かったからね。駄目よ、そんなに力を酷使したら。不完全な状態のままの「邪印」で血晶を動かしたら、あっという間に、沙耶ちゃんの命を削り取って、最悪なら、そのまま命を磨り潰してしまう」

紅羽、と呼ばれたコートの女は、茜が動けないように、血晶を乗せた掌をこちらに向けたまま、顔だけを沙耶の方に向けて、いさめるように言った。

「う・・・、ごめん、紅羽・・・。私、そいつと、穂波茜とやり合ってたら、熱くなってしまって、後先考えずに、一気に力を出し切っちゃった・・・」

「沙耶ちゃんと私は、死ぬ時は必ず二人でって約束したでしょう。それに、私達には二人で成し遂げたい、もっと大きな目標だってあるんだからね。無茶は禁物よ。でも、もう、大丈夫よ、沙耶ちゃん。血晶の儀式は終わるんだから」

そう言うと、紅羽という女は、地面に倒れている椛の方に、掌をさっと向けた。

その瞬間、椛の下腹部に刺さったままになっていた、血晶の細く長い槍が、空中へと見えない手で引き抜かれたように宙へと舞い上がり、紅羽のかざした掌の上へと戻って来る。それは、彼女の手に達する前に、元の、血晶の姿に戻って、紅羽の手の上に落ちた。それは見覚えのある、沙耶の首にかけられ、光っていたネックレスの血晶だった。

「さあ、準備は出来たよ、沙耶ちゃん。霧島椛の血を、いけにえの血としてたっぷり吸った血晶を、その「邪印」にかざしなさい」

ふらふらと歩みよってきた沙耶は、近くに立っている茜にも一目もくれずに、紅羽の掌から、ネックレスの血晶を掴むと、それを月の下で持ち上げ、眺めた。

「ああ・・・、この中に、椛の血が・・・。やっと、これで私の「邪印」が完全な力を手に入れるわ」

恍惚とした表情をその顔に浮かべながら、次の瞬間、沙耶はためらう事なく、自分の胸元の、黒い紋様‐「邪印」の上に、椛の血を吸い込んだ血晶を押し当てた。

次の瞬間、まるで獣の咆哮のような悲鳴が上がった。その声が、苦痛に悶える沙耶の発した声だと、しばらく茜には分からなかった。それ程、沙耶がその時上げた絶叫は、この世の人間の発する声とは思えないような悍ましい声だったから。

「ひ、柊木さん・・・!!」

茜には、直視するに耐え難い光景だった。

地面に倒れ込み、痙攣でもしているかのように、白目まで向いて、体を震わせながら、それでも沙耶は血晶を胸元の「邪印」に押し当て続けた。どす黒いもやのような物が沙耶の体を取り巻いていき、血晶の紅い発光が幾度も、そのもやの中で稲妻のように光っては消えを繰り返していた。

しかし、紅羽はその様を見て、歓喜の表情を浮かべていた。

「血晶の力をその手に入れなさい、沙耶ちゃん!皆を死にいざなう、死神になるの!」

悶える沙耶と、それを、崇高な物のように喜びの表情で見ている紅羽。

その光景を前にして、茜の血晶の剣が、急速に熱を帯び始めるのが分かった。

まるで、血晶が怒っているかのように。そして、その意思が伝播するかのように、茜の心にも、怒りの火がついた。

‐『柊木さんは、確かに取り返しのつかない罪を犯した。直接、手を下していないだけで、沢山の人を自殺へ、血晶の力で扇動し、未来を奪った。その罪については、私は、どんな理由があったって、柊木さんを赦す事は出来ない。

しかし、さっき、私が椛と言い争った時、椛が見せた涙もまた、頭をよぎった。血晶

の為に、「殺人鬼」にまで身を落とした沙耶の事も、椛はそれでも見限ってはおらず、自分を責めて、沙耶を連れて帰ろうとしていた。沙耶は今でも、椛の無二の、大切な幼馴染だから。

それは、認めたくはないけど、今の私にもとって変わる事は決して出来ない、椛の中での、沙耶の特別な立ち位置なのだろう。

だから、私の大切な椛の、今でも大切な人である柊木さんをこれ以上苦しませるな。お前の何かよくわからない願望の為に、椛の大切な柊木さんを、これ以上「殺人鬼」へと堕とすな。身勝手なのは、椛じゃなくて、お前だ』


そう思った次の瞬間には、茜は血晶の剣に導かれるように、その刀身で紅羽に切りかかっていた。しかし、そこは血晶の扱いに紅羽も手慣れているらしく、素早く、手に持っていた自分のピアスの血晶を瞬時に、細い槍状の刃物に変形させ、難なく受け止めた。さっき、沙耶が振り下ろした剣は、茜の「聖刻」の力の宿った剣で簡単にへし折れたのに、紅羽の血晶の刃物には、傷一つつかず、刃を止められた。

「いきなり切りかかってくるなんて、ぬるい目つきのわりに意外と好戦的な子ね、穂波茜・・・」

流し目で、視線だけを茜に向けて、紅羽はそう言った。沙耶に語りかけていた時の、慈愛に満ちた声とは、別人格のような、凍てつくような冷たい声音で。

「椛の、今でも大切な幼馴染で大切な人である、柊木さんを苦しませないで!!柊木さんを、このまま死神でいさせないで!」

茜が、心から怒った事は、人生の中で片手で数えても指が余る程の回数しかなかったと思う。家族とはお互い、殆ど感情を曝け出さないから、怒った事などないし、薄い友達付き合いで本音をぶつけ合う場面もなかったから。

しかし、このコートの、茶髪の美女だけは、許せないと心から思った。

さっき、沙耶の邪印の力に操られそうになり、沙耶を斬ろうとしてしまった時に、茜を乗っ取っていた憎しみさえも、この熱量には及ばなかった。

「貴女にそんな事を言う資格があるの?穂波茜。そもそも、貴女さえ、霧島椛の血晶に選ばれて、勝手に、沙耶ちゃんを裏切るような契約なんか交わさなければ、沙耶ちゃんは壊れなかった。なのに、貴女と椛は共に契約を交わして、結果的には沙耶ちゃんを裏切った。だから、沙耶ちゃんは世界を呪って、死を願うようになったの。私は、そんな可哀想な沙耶ちゃんの事を、貴女や椛に代わって、救おうとしてるのよ。それが分からない?貴女達二人が加害者で、沙耶ちゃんは可哀想な存在なの。だから、貴女達を含んだ世界に復讐する権利がある」

紅羽はそう言って、血晶の槍を片手で振り上げ、茜の剣を跳ね除けると、茜の腹のど真ん中を狙って、何ら躊躇なく突いてきた。本気の殺意だった。茜の血晶も、主人を守るように反応して、剣が勝手に茜の体を動かし、紅羽の槍の先を受け止める。

‐茜の血晶の剣が、紅羽の槍の刺突を防いだ時、ピシリという音と共に、僅かに亀裂が走った。茜の頬を、冷や汗が一滴、伝い落ちる。

紅羽が、「聖刻」に相当する強い力を持っているのは、剣を交える度に、茜の血晶へと伝わってくる重たい波動で明らかだった。その力は、茜の「聖刻」を軽く凌ぎそうで、茜は緊張に生唾を飲み込む。

「貴女の血晶の力で、いつまで持ちこたえられるかな?その不慣れな動きじゃ、血晶を使いこなせてるとは言えないわね」

楽しむような、余裕のある口調で紅羽は言った。

「柊木さんを、椛と一緒に、もう帰らせてあげて・・・!!柊木さんの帰る場所は、貴女のところなんかじゃない!貴女の願望が何か知らないけど、柊木さんにもうこれ以上、罪を重ねさせて、椛の事を苦しめないでよ!!」

「まるで私が沙耶ちゃんを唆したとでも思ってるようね。本気でそう思ってるなら、今一度訂正しなきゃね。沙耶ちゃんは、私が何か吹き込んだからじゃない。自分の意思で、この世界に復讐を決めたし、苦しんでる、生きるのに迷った人たちを救済して、この汚い世界からサヨナラさせてあげたの。私はただ、沙耶ちゃんの救済を支持する下僕に過ぎない。色々と支援はしてあげてるけれど、沙耶ちゃんに指図なんか一度もしてない。私を恨むのは筋違いよ?私は、沙耶ちゃんが無事に世界への復讐を果たすのを助けて、最期は沙耶ちゃんの恋人として、散っていきたい、それだけ」

沙耶ちゃんを苦しめてるのも、ここまで追い込んだのも貴女と椛の二人でしょう?と、そう締めくくって、槍の先で茜の首やら胸やらの急所を狙って、容赦ない刺突が嵐のように降り注がせた。茜の血晶の剣は、必死に主人である茜を守ろうと、その槍先を食い止めて、幾度も鉱石同士がぶつかり合う音を響かせた。

血晶の剣の迅速な動きに体が付いていけずに、茜は、木の葉で足を滑らせ、地面にしりもちをついて転んで、腰を打った。その頭の上すれすれのところを、紅い槍の刃先がかすめていった。茜を見下すようにしながら、血晶の紅い槍を月光に光らせて、紅羽は近づいて来る。槍を、茜へと、真っ直ぐに上から刺し貫くように構えながら。

茜は、自分の血晶の剣を見て、息を呑む。

何度か、紅羽の攻撃を受け止めてきた血晶の剣は、あちらこちらひび割れだらけで、これ以上の、槍による刺突は受け止めきれないのは確実だった。

次の刺突で、紅羽の槍は、茜の剣を確実に粉砕して、そのまま茜の体を刺し貫くだろう。

紅羽は美しい顔立ちを歪ませつつ、吐き捨てるような口調で、茜に向かって言った。

「本当、生きてる人間の世界って嫌になる。どいつもこいつも身勝手で、自分の価値感が絶対だ、みたいな顔をして生きてる人ばっかりでさ・・・。貴女も同じよ、穂波茜。沙耶ちゃんの気持ちなんて想像しないで、椛に近づいて、そのせいで沙耶ちゃんを壊してしまったくせに、次は椛が哀しむから、これ以上沙耶ちゃんに罪を重ねさせるな、って?何処までも、自分と椛の事だけが大事で、沙耶ちゃんの気持ちは考えないんだね、貴女って。沙耶ちゃんが、どんなに椛の事を思っていたかを。」

紅羽は、槍の先端を、茜の顔へと向けてきた。その際に、横に視線をチラリと送って、地面に倒れている椛の方を見て、また視線を茜へと戻す。

「・・・あれだけの重傷を負っていたら、何もしなくても椛はもうすぐ死ぬでしょう。あとは、貴女だけ。私がここで殺してあげるわよ。貴女がそんなに椛と一緒に死にたいのなら、望み通りでしょ?ここで殺してしまえば、私と沙耶ちゃんの計画を貴女に、二度と邪魔はされないしね」

その、見下ろしてくる冷たい瞳に、殺す事へのためらいが全くないのを見て、茜は戦慄する。剣を構える手にも、震えが走る。

「どうせ椛ももうすぐ死ぬんだし、願いの通り、椛と一緒に冥界に逝けるのだから、潔くここで死を受け入れなさい。穂波茜」

「自死」という最期を前提として、椛と、血晶に導かれて契約を交わした時から、茜の、死への気持ちは揺らいだ事はない筈だった。それなのに、今の茜は、紅羽に命を奪われそうになっているこの状況に、はっきりと恐怖を覚えていた。「死んでもいい」と思っていたのに、自分の命を終わらせる機会が訪れているというのに、何故自分はこんなに怖がっているのだろう。

その答は簡単だった。

『私も、椛と同じだからだ・・・。死ぬのなら、その手段や過程は何でも良い訳じゃない。私だって、誰かに無理やり命を奪われる、殺される事なんて望んでない。こんな終わり方は、『理不尽な死』であって、私と椛の願ったような『死に方』ではないから』

紅い、鋭利な槍の姿をした「理不尽な死」が、空気を切り裂きながら、茜の頭上へと迫って来る。剣を必死に、頭を守るように構えるも、紅羽の槍による攻撃を受けたら、次はもたない。

茜は、「もう、駄目か‐」と思い、目を閉じた。


茜が諦めかけた、その時だった。

目を閉じていた茜は、ふっと、自分の体が抱えあげられる感覚を覚えた。何か、人の腕のようなものに。

そのまま、自分を抱えあげた何者かと共に、茜はゴロゴロと落葉の絨毯の上を転がっていった。

間一髪のところで、空振りした槍の一撃が地面の土に刺さる、ドスッっという湿った音が聞こえた。

紅羽の、冷たく沁み込んでくるような声とは違う、誰かの声が茜の耳に入ってきた。

「茜・・・!」

声の主が誰か、聞き間違う筈もなかった。地面の上に、体中に落葉をつけたまま、仰向けになっていた茜は、その声を聞いて、驚きに目を開けた。

「椛・・・!!」

そこには、いつも綺麗にセットしているショートヘアの前髪も崩れ、土やら落葉やらを顔にも、髪にも着けたままで、安堵の表情を浮かべている椛がいた。「良かった、間に合って・・・」という言葉も聞かれた。

「椛、どうして・・・、あれだけの酷い傷を負ったのに」

下腹部が完全に刺し貫かれる程の傷を負って、殆ど動けず、瀕死の状態のように見えた椛が、何故・・・。

茜が聞くと、椛はブレザーをまくり、自分の右下腹部を見せた。制服のシャツにはぽっかりと大きな、貫かれた後の穴がまだ開いて、血も大量に滲んでいたが、その下の皮膚の傷は、完全に癒えて、消失していた。

「茜が窮地に陥ってるのが分かって、何とかしなきゃっていう僕の感情が伝わったのか、『聖刻』の力が傷を治癒してくれたんだ・・・。あれだけの傷だったのに」

そして、椛は胸の「聖刻」を、少し顔をしかめつつ、痛そうに抑える。シャツのボタンが外れて、はだけたその胸元には、真新しい血を垂らしながら、闇の中で薄く、紅く光る「聖刻」-、茜と椛の血晶の紋様が重なり合って出来た、紅い紋様が見えた。

椛は自身の血晶を手にして、それに念を送るように、額にかざした。すると、それは長剣の形を成した。椛の復活を茫然と見ていた紅羽に、右手で剣を向けながら、椛は茜を自分の腕の中に包み込むようにして、二人共立ち上がった。

「今まで、あいつと・・・紅羽っていうやつと茜一人で戦ってくれていたんだね。それに、さっき、茜が言ってた、沙耶についての思いも、ちゃんと聞こえてた・・・。沙耶の為に、怒ってくれてありがとう、茜」

椛は紅羽を牽制するように、剣を構えながら、茜に言った。

「僕が優柔不断で、中途半端に沙耶とも茜とも関わったからこうなった・・・。本当、自分でも情けのない人間だって思う。だから、僕自身の償いとして、沙耶は必ず止めるし、あんな、紅羽なんて人間の元には行かせない。必ず連れて帰って、沙耶には、沢山の人を死に導いた罪を償わせる。それが僕の責任だから」

紅羽は、槍を構えて、忌々しそうに言った。

「これが、『聖刻』の力・・・。二人の愛の力の起こした、奇跡っていう訳ね。反吐が出そう。どうしてよ・・・。どうして神は、貴女達二人ばかりに味方をして、私と沙耶ちゃんの、この世界への復讐の邪魔ばっかりするの?本当に腹が立つ」

「紅羽。僕達の元に沙耶を返してもらうよ。沙耶を、お前の復讐の道具にはさせない」

「私の復讐の道具?違うわね、沙耶ちゃんは私の事も全て知った上で、自ら望んで、私と手を組んだの。私に従えなんて命令した事なんか一度もない。全部は、沙耶ちゃんの望んだ事。私は、復讐すべき、同じ相手を持つ者として協力しているだけ。貴女は、沙耶ちゃんは本当は優しい子で、悪い大人の私に唆されておかしくなったという都合の良い話を期待していたのかもしれないけど、生憎、そうじゃないわ」

紅羽の後ろ、遠くの木の根元に倒れている沙耶の姿が見えた。さっき、椛の血を吸収した血晶を自分の刻印にかざして、激しく痙攣した後から、ピクリとも動く気配がなかった。果たして、生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。


その時、近くでパトカーのサイレンの音が鳴るのが聞こえ、それは木立の間をこだましていった。サイレンの音は、次第にこちらに近づいて来るように思われた。

紅羽は小さく舌打ちをして、言い放った。

「無粋な邪魔が入りそうだから、決着はひとまずお預けね。穂波茜、霧島椛。貴女達が見ているのは、私達の、社会への復讐のほんの始まりに過ぎないっていうのだけは告げておくわ。これから、沙耶ちゃんと私は、更にこの世界を壊してやる。その過程を精々、見ているといいわ」

それを捨て台詞のようにして、紅羽は後ろに振り返ると、倒れたままの沙耶に向けて、何か指先を動かした。

すると、まるで操り人形のように沙耶は、目を閉じたまま、むくりと立ち上がり、ふらふらと紅羽の方に近づいて、歩いて来る。これも血晶の、人を操る力に違いなかった。

「今日は一旦、帰るわよ。沙耶ちゃん」

そして紅羽は、沙耶を自分の後ろに従えるようにして、こちらに背を向けて悠然と歩き出した。

「ま、待て!!」

茜と椛が追いかけようとするも、紅羽は慌てる様子もなく、槍をピアスの形の血晶に戻すと、それを握りしめたまま、さっと宙にかざした。

すると、茜と椛の行く手を遮るように、濃密な紅い霧が立ち込め始めた。

その霧を顔に浴び、口から吸い込んだ瞬間、目と喉に強い刺激を覚え、堪らずに茜は目を閉じて、咳き込む。椛も同じだった。それでも、彼女は、激しく咳き込みながらも

「ま、待て・・・、紅羽!!沙耶を返せ・・・!」

と、紅い霧の向こうに消えていく二人の背中に向けて叫んだ。

霧の向こうからは、紅羽の声で、こう返ってきただけだった。

「沙耶ちゃんも私も、こんな現実を良しとして、のうのうと生きてる人間達の世界には二度と戻らない。これから始まるのは、「死」で苦しむ人達を解放する私達と、世界の理不尽にも気付かずに「生」に執着する人間達の、「戦争」よ・・・」

「戦争」・・・。紅羽のその言葉が、茜の耳に残った。

紅い霧の中に飲まれるようにして、茜は次第に気が遠くなっていく。そして、椛と共に、乾いて冷たくなった落葉の上に、倒れ伏した。


「おーい、こっちに二人、倒れてるぞ!」

「何だ、これは・・・。一体、この子達にここで何があったんだ・・・」

「君たち、しっかりしろ!」

次に、薄らと意識を取り戻した時、そんな声と共に、何人かの大人達がガサガサと落葉を踏み散らしながら、自分と椛の周りに駆け寄って来る音が聞こえた。

『ああ。警察が来たんだ・・・』

と、朧気に茜には分かった。

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