第22話 「聖刻」と、沙耶の反撃

茜が駆け付けた時、椛と沙耶、二人が相対していたその場所は、既に修羅場と化していた。二人が激情をぶつけあっている間、茜に出来る事はと言えば、茂みの奥に身を隠したまま、その成り行きを見守る事しかなかった。

左腕から流れ出る血を椛が右手で掴んで押さえ、沙耶が不敵な笑みを浮かべて、血糊をつけた紅い刀身の短剣を構えて、二人が対峙している様を見た時には、事態は、茜が恐れていた通り、最悪の方向に進んでいるのを確信した。

茜は、椛と沙耶の歩んできた時間、紡いできた関係。お互いが向けあっている感情。そのどれも、椛が語ってくれた、ほんの一部しか知らない。だから、二人の話に口を挟む事は出来ないし、何を言う資格もない。

しかし、木立の中に次第に立ち込め始める夜の闇の中で、沙耶が、血晶を変形させた紅く光る短剣で、椛へと襲い掛かっていく場面を見た時、もう、これ以上黙って見ている事は出来ないと思った。

『邪印だとか、いけにえの血だとかの話は、よく分からないけど、椛を苦しませる為に、結局はそれだけの理由の為に、あんなに何人もの人を、血晶の力で操って死に追いやったなんて、許せない・・・!柊木さんにこれ以上、血晶の力で人を殺させる訳にはいかないし、それに、このままじゃ、私を理解して、受け入れてくれた。私を特別だと思ってくれた、たった一人の人、椛が・・・!』

茜は、今までの人生で出した事のない程の勇気を振り絞り、茂みから飛び出して行った。折しも、沙耶が椛に馬乗りとなって、両手で掴んだ短剣を、椛の腹に向けて突きさそうとしているところだった。椛は力で押されていて、もう少しで刀身は椛の体に突き刺さりそうだ。

自分の前で、大切な椛が傷つけられ、死ぬかもしれないのを、放ってなどおけない。

「柊木さん、もうやめて!!」

決死の覚悟でそう叫んで、半ばやけのように、茜は、短剣を振りかざす沙耶に飛びついていった。沙耶も、まさか茜が横から飛び出してくるとは思ってもいなかったようで、不意を突かれたらしく、茜に飛びつかれたその勢いのまま、二人とも紅葉の埋め尽くす地面の上へと倒れ込んだ。

沙耶の手から短剣を何とかもぎ取ろうと、必死に沙耶の体を押さえ込んで、手を伸ばすが、彼女も激しく抵抗して、拳や蹴りを茜に浴びせる。

「離せ!!離せっていってるだろう、この、泥棒猫の、クソ女が!!」

およそ、学校での、アイドル的存在を演じている時の彼女からは、聞いた事のないような口汚い言葉で、茜に罵声を浴びせながら。

沙耶の握り拳のうちの一発が、茜の頬にあたり、口の中に血の味がした。その痛みに怯んだところで、追い打ちをかけるように、彼女の靴の先がめり込んでくる程の、強烈な蹴りが茜の腹に叩き込まれた。

「がはっ・・・!!」

その痛みのあまり、うめき声と共に茜は力尽きて、地面に突き転がされた。その隙に、沙耶は素早く、茜と距離をとって、短剣を構えなおし、立ち上がった。

蹴りを入れられた痛みから、茜は激しく咳き込んで、早く起き上がろうとしても体が言う事を聞かない。

そこへ、茜を射貫くような、鋭い視線が、上から降り注ぐ。痛みに喘ぎながら、頭上を見上げると、鬼か阿修羅か、と言わんばかりの形相で睨んでくる、沙耶がいた。

彼女の、怨念が籠ったような声が降って来る。

「お前がどうやってここに辿り着いたか知らないけど、こうなっちゃったからには、椛の血を貰うのは後回しよ・・・。泥棒猫のお前の、その息の根を止めてやる!!」

脅かしなどではない、本気の殺意の込められた声だった。茜の視界に、自分に向けて、紅い短剣を振り下ろそうとする、沙耶の姿が映った。

「やめて、沙耶!!」

そんな、悲痛な声が横から聞こえてきた。椛の懇願する叫びだったが、今の沙耶の耳には、全く届いてはいないようだった。

その短剣を見ながら、尚も地面に転がったままの茜は、自分の首にかけられた、ネックレスの血晶に向けて、祈った。この祈りが通じなければ、茜は、沙耶にこのまま殺される以外の道はなかった。

『やっぱり、私じゃ駄目だ・・・、何も守れない、椛があんな目に遭ってるのに、椛どころか、自分の事さえも・・・!!お願い、血晶。私と椛の二人を、守る力を、私に与えて!!』


そう強く、血晶に念じた時だった。

茜の血晶が、その意思に応えるように、急に、強烈な熱を孕み、紅く、眩い光の線を放ち始めたのは。

しかも、その現象が起きたのは、茜だけではなかった。

「ぐっ・・・、あ、熱い・・・!!」

風は身を切る程冷たいというのに、手と足を沙耶に刺されて地面に倒れていた椛まで、胸を押さえて熱い、熱いと苦しみ出した。そして、そこにある彼女の血晶が、目が潰れそうな程の紅い閃光を放ち始めたのだ。空や、周りの木立の間や、あらゆる方角に散乱して、その紅い光は放たれていた。

「な、何なの!この・・・光は!!」

茜と椛、二人の血晶は、まるで、持ち主を守ろうとするように、その強烈な紅い閃光を沙耶にも向けて放っていた。これには、狂乱の沙耶も流石に勢いを挫かれ、眩しさのあまり目を硬く瞑って、その上、手で目元を隠して、動けなくなっていた。

茜は、シャツの襟を緩めて、血晶を引っ張り出して、手に握る。途端に、熱さのあまり、手から投げ出した。血晶に触れた掌に火傷が出来る程、熱を放出していた。

そして、熱を放出しているのは血晶だけではない。茜は、襟を緩めた事で見えるようになった、自分の胸元に刻み付けられた、紅い「刻印」に目を遣った。

すると、目を見張るような不思議な現象が、「刻印」にも起きていた。

まるで、誰かが、細い刃物で彫っているかのように、茜の「刻印」-一番オーソドックスな型である、「樹枝六花型」の結晶に酷似した、それの上に重ね合わせるように、血を流しつつ、新しい紋様が刻み込まれていく。

『これは・・・、椛の、『角板付樹枝型』の紋様⁉これって、もしかして・・・』

肌を刻まれていく痛みに唇を噛んで耐えながら、茜は、何が起きているのか、悟った。血晶の刻印が、『聖刻』へと進化を始めている。そして、それはきっと、椛も同じ筈だった。彼女もまた、胸を押さえて、痛みに耐えている。

「何よ、何なのよ・・・!!茜だけでなく、血晶まで、私の邪魔をする気なの⁉」

紅い光が弱まってきたところで、沙耶は、忌々し気に叫んで、血晶の剣を再び構える。そして、目を閉じて、彼女が念を送ると、沙耶の血晶は、刀身を伸ばして、長剣へと姿を変えた。

「茜、お前は、今ここで必ず殺してやるんだから!!椛は兎も角、お前だったら、手だろうと足だろうと切り落としてでも、息の根を止めてやる!!」

そう吠えると、沙耶は長剣を振るって、茜へと向かってくる。

『聖刻の力があれば・・・柊木さんと同じように、私も血晶の形を自在に操れる筈・・・。私にも、戦う力を!』

まだ熱い血晶を手に握りしめ、茜は必死に血晶に祈った。


沙耶の長剣が、宙を切る乾いた音が鳴り、茜に向かって振り下ろされた直後-、目を瞑った茜の耳にパキリ、という音がして、何かが砕け散っていく音がした。

目を恐る恐る開けてみると、茜の握っていた血晶は、見事な長剣の形を形成しており、それで、沙耶の剣を、茜の顔の寸前で受け止めていた。しかも、受け止めた際に、沙耶の方の剣は、刀身を簡単に、真っ二つに折られていた。折れた刀身ははじけ飛んで、近くの木の幹に突き刺さっていた。

折れた血晶の剣を見て、沙耶は、さっきまでの狂乱も忘れたかのように茫然として立ち尽くし、呻いた。

「馬鹿な・・・!私の、『邪印』が生成した血晶の剣が、こんなあっさり、折られるなんて・・・!」

ほぼ根本から、血晶の剣の刀身が折れて、吹き飛ばされた事に、沙耶は初めて、狼狽を見せていた。茜から離れると、木の幹に刺さった、折れた剣の刀身を手で掴み、手が切れるのも厭わず、引き抜いた。そして、剣を持ったまま、崩れ落ちるように膝を地面に突き、こう言った。

「はは・・・う、嘘でしょう?これが、「邪印」とは違う、二人の思いが・・・茜と椛が作った、本物の「聖刻」での血晶の力って、事・・・?私の血晶の剣がこんな、簡単に折られるなんて・・・。愛しい紅羽に、二度も血を差し出させて、強化しても、所詮、「刻印」の偽物でしかない「邪印」じゃ、本物の「聖刻」には、勝てないって事なの?」

折れた剣を繋ぎ合わせて、沙耶は、それを元の血晶の姿に戻す。

沙耶の血晶は、以前に見た時よりも、その紅の中に混じる黒味を増していた。明らかに茜、椛の持っている血晶とは異質な物へと変化しつつある。

沙耶が茫然としている隙を見逃さず、茜は、地面に倒れ込んでいる、椛の方へと駆け寄った。

剣の形を形成していた血晶は、瞬時に、元の小さな宝石へと戻っていた。茜は、『聖刻』を得た事で本当に、血晶の形を思いのままに、操る事が出来る力を手にしたらしい。

そして、誰にそうするよう教えられた訳でもないのに、自分の血晶を、椛の、血が滲み出し続ける左腕の傷にかざしていた。何故そうしたのかは分からないが、血晶に導かれるようにして。

すると、椛はビクッと体を震わせた後、自分の左腕に目を向け、そこで起きている事を見て、息を呑んだ。

「ウソ・・・、刺された傷が、どんどん治っていってる・・・。茜が血晶をかざした途端に」

仄かに紅く発光している血晶を、椛の左腕の、破れた制服の生地から覗く、痛々しい刺し傷にあてながら、茜も、自分が起こしている現象が、自分でも信じられなかった。椛の傷が、みるみると塞がっていき、傷から滲んで流れ出していた血も止まっていく・・・。やがて、最初から何もなかったかのように、そこには、椛の綺麗な肌だけが残った。糸で縫い合わせたのとも違い、一筋の傷痕さえも見当たらない。

茜は、そのまま、血晶を、次は椛の右足の刺し傷にもかざした。また、血晶は紅く発光して、椛の傷から溢れ出す血を止め、傷を治癒させていく。そこも、僅か数秒のうちに、傷痕一つ残さずに綺麗な肌へと戻っていった。

「どうして・・・血晶にこんな、傷を治す力まであるって分かったの、茜?」

そう聞かれても、気付いたら、血晶に導かれるように自分の体が動いていたとしか言いようがない。

「私にも分からない。ただ言えるのは、これも『聖刻』を手に入れた事で、使えるようになった力みたいって事だけ。椛の傷を見て、何とかしなきゃって思っていたら、何か、こうしたらいいよ、みたいな風に血晶が私を導いてくれたんだ。さっきも椛を助ける力が欲しいって願ったら、血晶が急に変化して、剣の形になってくれたし、私と血晶が気持ちを完全に共有できるようになったみたい・・・」

掌の上で、まだ、仄かな明るさを残す血晶を見つめながら、茜はそう答えた。

今、確実に言える事は、椛と二人で『聖刻』を共有した事で、血晶が、完全に茜と一心同体に等しい存在になったらしい、という事だった。この掌の上の、雪の結晶と酷似した紅い宝石は、茜の意思の一部を、具現化したものに変化したのに違いなかった。

「不思議だよね・・・、人を、死にいざなう力だって出せる血晶が、それと正反対に、目の前で傷を負って苦しんでる大切な人を救う力も同時に持ってるとか、なんて矛盾した存在・・・」

命を奪う力と救う力。相反する両方の力を、同時にその紅の中に内包しながら、血晶は茜の冷え切った掌に温かさを与えていた。

二人の会話は、激しく咳き込む音、そして、何かが、地面にピチャピチャと、水音を立てて飛び散っていく音で、遮られた。その音を聞いて、椛ははっとした表情で、そちらを振り向き、顔を青ざめさせる。

「さ、沙耶!!」

その声に、茜も同じ方向を向き、そして、絶句した。

沙耶は地面に両手を突き、その口から、激しく、血を吐き出していた。沙耶の体中から、何か黒いもやの様な物が現れては、それが、宝石の形に戻った沙耶のネックレスの、血晶へと吸収されていく。

それを見た時、茜は、沙耶の血晶が、彼女から生気を吸い取っていってるのを、直感的に確信した。これも『刻印』を発動した事で得た力なのだろうか。血晶が何を思って、どう動いているのか、それが茜には見えるようになった気がした。

「ゲホッ・・・ゲホッ・・・!!クソっ、なんで、なんで、こうなるのよっ・・・!!」

髪も乱れたまま、血を吐き続け、それでも、その吐血の最中でも、呪詛のような言葉を、血に塗れた口から絞り出す沙耶は、悪鬼か何かのようにしか最早見えなかった。

沙耶の鬼気迫る様相に、茜も、椛も戦慄して、凍り付いた。

「何・・・?あの、沙耶の体から、血晶へ集まっていってる、あの黒いもやは・・・。あれも、『邪印』による現象なの?」

椛の言葉に、茜は、自分の見立てを答えた。

「椛・・・、私ね、『聖刻』の力のおかげか、血晶が何を考えて動いているのか、その気持ちが分かるようになってきたみたい。柊木さんの血晶は、今、危ない状態だよ。多分、「邪印」は、確かに血晶の力を引き出してくれるけど、それと引き換えに、柊木さんの血晶は、柊木さんの体を壊して、命を削っていってる・・・!!」

当たってほしくはない直感だったが、今、血を吐き出して、苦しみ出している沙耶の姿を見ても、彼女の血晶は、「邪印」の力の代償として、彼女の生命力を吸い取っているとしか茜には思えなかった。

「そんな!!じゃ、じゃあ、早く、あの血晶を沙耶から引き離さないと、沙耶が、死んじゃう」

椛は悲痛な声を上げる。

‐その椛の反応を見た時、また、茜の中に黒い感情が差す。やっと、二人の気持ちが繋がって、『聖刻』を手に入れられたというのに。彼女は、沙耶に情けをかけようとしている。

沙耶は、椛が死んでもおかしくないような暴挙に出た。

血晶に椛の血を吸わせて、「邪印」とやらの、邪悪な力を最大限に引き出そうとしていた。そして、何よりも、椛を「裏切り者」と呼んで、彼女が苦しむ顔を見たいから、というたったそれだけの身勝手極まりないきっかけから、結果的には、何人もの無関係の人達を自殺へと煽った‐。いや、血晶の力で「殺した」のだ。

そんな相手である沙耶を、椛は、まだ「救いたい」と願っているというのか。

あんな人に、まだ椛が見捨てきれない気持ちを残しているなんて、嫌だ。


茜は、沙耶に駆け寄ろうと立ち上がった椛の、治癒したばかりの左腕を、固く掴んだ。

「行かないでよ・・・、あんな人のところに・・・!」

「で、でも・・・、沙耶がこのままじゃ、死んで・・・」

沙耶、沙耶。その名前をもう聞きたくなくて、茜は声を、荒げてしまう。

「椛、いい加減にしてよ!!まだ、あの人を・・・柊木さんを助けられるって思ってるの⁉柊木さんは、椛を苦しませたいからっていう、それだけの理由で、何人も、人を血晶の力で操って、自殺させたんだよ?直接は手を下してないっていうだけで、あの人はもう、殺人鬼なんだよ?どうして、そんな人を助けようとするの?幼馴染だから?理解者だから?私の目から見たら柊木さんは、椛とは全然違うよ!誰も、理不尽に傷つけたくないし、傷ついてほしくないって願ってる、厭世主義者だけど、優しい思いを持ってる椛とは。本当は、椛だって、分かってるんでしょ、自分と柊木さんが、考えの違う人間だって事に!」

茜の言葉に、ピタリと、椛が足を止めた。

その肩が震え出すのが見える。

きっと、茜の今の言葉は、図星だったのだろう。椛と沙耶は、最初から、理解者同士などではなかったという、茜の指摘に。

「ねえ・・・、椛だって辛いの、分かるよ。だって、柊木さんは、ずっと椛の大事な幼馴染だったんだもん。だけど、椛まで危険な目に遭わせようとして、殺人鬼になってしまった、柊木さんにまだ情けをかけるのは、ごめん・・・私には分からないよ。行かないでよ、あんな人のところに。やっと、血晶の『聖刻』を手に入れられた時、あんなに私は嬉しかったのに。椛も、本気で私の事を守りたいって思ってくれて、私と椛の気持ちが通じ合えたって思ったのに。もう私を置いてかないでよ!傍から離れないで」

今、こうして椛を引きとめている時、皮肉な話であるが、茜は、地面に突っ伏して、血を吐いて悶えている沙耶の気持ちがやっと分かった気がした。

やり方は間違っていた。だけど、「椛に離れていってほしくない」という、根っこにある気持ちだけは、彼女も茜と同じだったのだ。

椛は、沙耶の元へと歩き出しかけていた足を止めて、しばらく立ち尽くしていたが、やがて、地面に膝を落とす。小雪も雨も、降ってはいないというのに、椛の崩れ落ちた足元の地面の、木の葉の上にポツリ、ポツリ、雫が落ちていく。顔を、茜から逸らしたまま。その顔を、茜は両手で挟み込んで、こちらに向ける。

椛の両頬は濡れていた。

「こんな、優柔不断な僕を、許して。茜を思う気持ちも、沙耶にこれ以上、狂った殺人鬼でいてほしくないから、救いたい気持ちも、どちらも天秤になんてかけられない、本物なんだ。でも、僕が決めきれないばかりに、結局は、茜もずっと苦しめて、沙耶の事もあんなにしてしまった。分からないんだ。あんなに何度も、茜にも、僕は『誰かを傷つけるのも、自分の前で、誰かが傷つけられるのを見るのも嫌だ』って言っていたのに、現実は僕の為に、茜と沙耶両方を傷つけて、沙耶を、人の命を奪う殺人鬼に変えてしまって。どうすれば、この自己矛盾を解決できるのか、もう僕にも分からないんだよ・・・。ねぇ、こんな矛盾に、何か、答えや解決法があるのなら、教えてよ、茜・・・」

茜の前で、膝を突いてすすり泣く今の椛は、どうしたらいいか分からずに助けを求めて、茜に縋り付く幼い子のようだった。友達と喧嘩したけど、どうしたら仲直り出来るのか分からない。教えてと、泣いて母親に縋り付く、そんな子供の姿が、茜の脳裏に浮かんだ。

かつて、茜から見れば、雲の上の存在にしか見えなかった、絵になる美しい二人。

いつも、親衛隊のような取り巻きの華やかな女子達に囲まれ、同級生の美男子たちから声をかけられる事も数知れなかった、あの二人が、片や、怨霊と見間違うばかりに髪を振り乱して、口を血で染めて、呪詛を吐き、片や、自分の傍で、自分の無力さに打ちひしがれて泣いている。

ずっと続くと信じていた、教室で茜が見ていた光景も、二人の愛憎も脆さも虚飾で隠し通していただけの紛い物に過ぎなかった。

「ふ、ふふふ・・・」

聞く者を、全身まで冷え切らせていくような、冷たく、不気味な笑い声が響いた。茜も、地面に涙を零して、弱々しくすすり泣いていた椛も、思わず、身を硬くして、沙耶の方を振り向く。

口から血を垂れ流したまま、沙耶は笑っていた。学校で、皆に囲まれて、花が綻んだような笑顔と共に笑っていた、あの頃とは似ても似つかぬ声で。

「いいわよ、穂波茜・・・。私を憎みたかった、憎めばいいわ。今のお前には、『聖刻』の力の宿った、自由に操れる血晶がある。そいつを剣に変えて、ここで、私を殺せばいい。そうすれば・・・、椛は望み通り、永遠にお前の物よ。椛が、私に情けをかけようとしてるから、さぞ私が生きてるのが、憎いでしょう?だったら、私を殺してみなさい。穂波のその手で。椛を自分の物にしたければ」

沙耶の声が、その視線が茜の胸を射貫いた。胸の鼓動が乱れ打つ。

沙耶を殺せば、もう、椛が沙耶への未練を見せる度に、心に暗い影が差す事はない。

椛が茜以外の人間を見る事もなくなる。

それに、「聖刻」を手に入れた事で、もう、椛との契約も殆ど果たしたと言える。後は、二人で死ぬだけだ。どうせ自分も椛も必ず死ぬのだから、最期までのひと時くらい、沙耶には死んでもらって、椛が茜以外見られないようにしてしまっても、何が困るだろう。

「や、やめろ、沙耶!!なんて事を・・・!茜も、あんな誘いに乗ったら、駄目だ!」

茜の掌の血晶は、気付けば、さっきの沙耶の剣の斬撃を食い止め、軽々とへし折った、あの紅い長剣へと再び姿を変えていた。

人の傷を癒す力から、人を殺める力に、変化していた。茜の手に、また、紅い剣が握られたのを見て、椛が悲痛な叫びをあげる。

「駄目!!それだけは、絶対に!!茜、やめて!」

しかし、椛の声は耳に届かない。今、茜の視界の中心には、憎むべき「敵」の、沙耶しかいない。沙耶のはだけたシャツの、その首元に刻まれた黒い、血晶と同じ紋様‐「邪印」を睨む。沙耶は何がおかしいのか、まだ笑っていた。

「止めないで、椛・・・。私は、柊木さんの蛮行を止めて、椛を解放する為に、「正義」をやるだけだから・・・。柊木さんが死んだら、お互い、楽になれるでしょう?柊木さんだけじゃなく、椛だって。もう、椛を苦しませる人はいなくなるんだから。それに私も、柊木さんは、必要ない。椛と一緒に死ぬまでの時間を過ごすのに」

沙耶の胸元に刻み込まれた「邪印」を見つめていると、どんどんと心の中が、沙耶への殺意に満たされていく。あの「邪印」と、沙耶の血晶の「人の心を扇動する力」で、何人の生きる筈だった未来が奪われたのか。その悪行を考えれば、沙耶を、茜の手で、『聖刻』が与えてくれたこの血晶の剣で斬る事は、正義の「粛清」としか、茜には思われなかった。

血晶の剣を右手に持って、切っ先を地面に下げたまま沙耶の前に歩いていく。

「なんで、自分を殺せなんて、笑いながら言えるの・・・?」

沙耶の、その言動の理由だけが、茜には分からなかった。

沙耶は、ふっとその笑みを引っ込めると、茜を睨むようにして、こう言った。

「お前が私を、その血晶の剣で斬り殺せば、椛への最高の復讐になるからよ。椛は、私を失い、更に、血晶で結ばれた大事なお相手のお前に、『自分の前で、誰かを殺す』という、あいつが一番嫌って、憎んでいる事をさせられる。椛はお前にもきっと憎しみを抱くし、自分への自責の念で苦しむでしょう?それなら、最高の復讐だなって思って」

そう答える沙耶の瞳には、復讐の甘い愉悦の色に染まっていた。

「柊木さん・・・、貴女は、やっぱり狂ってるよ。そうまでして、椛に自分の事刻み付けて、自分が死んでも尚、苦しめようなんて」

茜の言葉を、沙耶は鼻で笑った。

「世界に自分の生きた証を残したいか何か知らないけど、椛と、一緒に死ぬ為の契約を血晶で交わしたお前みたいな奴に言われたくないわ、穂波。この、承認欲求拗らせの死にたがり。私が狂ってるのなら、お前だって大概狂ってる」

沙耶の挑発の狙いは分かった。確かに、ここで沙耶を茜が殺めれば、椛は沙耶が息絶えても、結果的には自分のせいで沙耶を失っただけでなく、茜に殺しをさせてしまった事で一層苦しむ結末になるだろう。

‐しかし、椛の一番憎み、嫌っている事-誰かの命を理不尽に奪う事-に手を染めてしまったとしても、茜はこの女を、柊木沙耶を許す事など出来ない。椛を苦しめ続け、身勝手な動機で、無関係の人達の命を、いくつも奪っていったこの女を。

だから、茜は地面に向けていた剣の切っ先を、ふっと宙に振り上げる。茜は剣術など全く習った事などないが、血晶自身の意思で導いてくれるように、剣は、沙耶の首を斬るのに最適な構えを、茜の体に自然にとらせた‐。


「待って、茜。それだけは、絶対に駄目!!」

そこへ、落葉を散らしながら、椛が躍り出た。沙耶を、茜の剣の先から守るように、彼女の姿を背中に隠して椛は、立ちふさがった。

「まだ・・・、まだ、椛は、私の言いたい事が分からないの?幼馴染だからっていうだけで、柊木さんを庇うの?こんな人、死んじゃえばいいじゃん。椛を苦しめ続けて喜んでいて、椛が苦しむのなら、関係ない人まで自殺に誘うような、こんな人を、なんで庇うの?椛、そこをどいて」

しかし、椛は退くどころか、茜の剣を握る腕を掴んで、茜に顔を近づけて、必死に言葉を並べる。

「君に人殺しなんて絶対にさせないから!目を覚まして、茜。君は、沙耶の「邪印」に操られてるんだ!今の茜は、本当の茜じゃない」

「邪印」に操られている・・・、自分が?

椛の言葉を聞いて、涙に濡れた彼女の瞳を見た瞬間、『刻印』がズキリと痛み出した。まるで、何かに抵抗を始めたように。その痛みが激しくなっていき、茜の中に、強制的に、ついさっきまでの記憶が再生されていく。

‐沙耶への憎しみと殺意に、自分の心の中が埋め尽くされる前、自分は、何を見た?

彼女の胸元の、黒く刻み付けられた、禍々しい邪気を放つ、「邪印」。あれが目に焼き付いてから、茜は何か、暗い情動に背中を押されていくように、沙耶に剣を向けていった。

「邪印」に記憶が至ると、更に、胸の『刻印』から、熱が広がっていくように胸全体が熱く、炙られるように痛みを増した。それで、茜の集中が途切れた為か、血晶は剣の形を失い、元の形へと戻っていく。熱さに胸を押さえ込んで、茜は地面に倒れ込みそうになった。そこを、椛が素早く抱きとめた。椛の血晶も紅く発光していて、そして、その胸の『刻印』も制服のシャツ越しに分かる程に、茜の物と同じ紋様に光って、浮き上がっていた。二人の『聖刻』が触れ合うと、茜は胸を焼かれる苦しさから大きく叫んだ。しかし、次第に胸の『聖刻』の熱は引いていき、それと同時に、茜の中を埋め尽くしていた、あの暗い殺意の衝動も、治まってきた。

「やっぱり・・・、茜から、普段と全然違う邪気を感じたんだ。今、それを、二人の『聖刻』を繋ぎ合わせて、僕の力で吸い取った。君の血晶を見てごらん?」

「あっ・・・!」

普段の「樹枝六花型」の姿に戻った血晶の紅の中で、沙耶を取り巻いていたものと同じ、黒いもやのような物が蠢いていた。しかし、その蠢く黒いもやは、やがて薄くなっていき、茜の血晶から完全に消えた。

「沙耶は「邪印」を使って、君が「邪印」を見た時に、その邪気を君の血晶まで送り込んで、心を操作しようとしてたんだよ・・・。あの子は、君の中にある、僕と沙耶の関係への嫉妬心に付け入って、操って、自分を殺させようってしてたんだよ。血晶の中で、君の心の一部と、沙耶の邪気がせめぎ合ってるのが分かった。でも、もう大丈夫。茜の血晶から、沙耶の邪気が消えていくのが分かったよ」

椛も、茜と同様に、『聖刻』の力で、血晶の秘めている意思の動きが分かるようになったらしい。

椛の後ろから、舌打ちの音が聞こえた。椛が素早く後ろを振り向くと、激しく吐血した後の為か、顔が蒼白となり、ぐったりした表情の沙耶が、近くの木の幹まで移動して寄りかかっていた。忌々し気にこちらを睨みながら。

椛は、沙耶に向かって詰問した。

「沙耶・・・、茜に自分を殺させようとしたよね?君のその「邪印」から、邪気が茜に入り込むのが分かったよ」

「ええ・・・、流石、本物の『聖刻』の力、それも二人分は違うわね。途中まではうまくいったのに、結局、「邪印」の力じゃ足りなくて、押し戻されちゃった。剣もお折られて、穂波の心に付け込もうとしても追い出され・・・負けばかりじゃない、私。あの作戦が上手くいけば、椛の心をもっと痛めつけてやれたのに」

「沙耶・・・、もう、これ以上やっても、君に逃げ場はない。さっきも言ったみたいに、今からでも遅くないよ、僕達と一緒に帰って、もうこんな事終わりにしよう」

「また、その話、椛?今の、私の状態を見て分からない?もう、「邪印」を手に入れてしまった私は、後には引き返せないの。この・・・「邪印」の力が、私の生命と引き換えに発動してるのは、今の貴女達なら気付いてるでしょう。これがある限り、土の道、私はもう長くはもたない。「邪印」は持ち主の体を蝕み続けていくから」

沙耶は、額を掌で覆って、木の葉の切れ目から覗く空を見上げた。ネックレスの血晶を手に取って、彼女の表情には、まだ何か余裕があった。彼女は、何かに耳をそばだてているようにも見えた。

沙耶は木に背を預けたまま、茜と椛に言った。

「それに、逃げ場はない、みたいな事言ったけど・・・、このまま、私が、椛に血を差し出させるっていう目標さえ、もう諦めて、どうやって逃げるかを考えてるとでも思ってるの?もう、私が万策尽きたって本気で思ってる?」

その意味ありげで、挑戦的な物言いは、まだ何か隠した策があるかのようだが、茜には見当がつかない。この上、何を次は仕掛けようというのだろうか。

突如として、沙耶は、血晶のネックレスを宙に放り投げた。

「-受け取りなさい。紅羽。もう、私はこれ以上連続で力を使えないから・・・、後は貴女に託したわ」

そう言った沙耶の言葉に従うように、血晶は、そのまま森の何処かへと消えていった。


何が次に起こるのか、茜も椛も皆目分からない。沙耶の血晶は何処に行ったのか、周囲に目を凝らす。茜は、目を閉じて、血晶や、他に「刻印」に類する力を持っている人間が周囲にいないか、その気配を探った。

すると‐、森の奥に、沙耶の物とは、明らかに空気が異質の‐、しかし、「刻印」とも『聖刻』とも違い、暗く、陰鬱で強烈な血晶の力の反応を感じた。誰かが、茜と椛、沙耶の3人の他に、この森の中にいる。そして、そこから、強い血晶の力が‐、鋭い形状に変わって、投げつけられるのが波動のように伝わってきた。

その投げられた血晶の先にいるのは‐。

「も、椛、危ない!!伏せて‐」

しかし、茜が警告を発するのよりも遥かに早く、鋭く槍の先のように変化した血晶が‐、椛の腹を貫いていた。

月夜の下に、血飛沫が上がった。茜の悲鳴と共に。

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