第21話 その息の根を止めてやる

風花の小雪は既にやんでいたが、森林の中の空気は、季節外れの冷気に、濡れた落葉に埋め尽くされた地面から立ち昇って来るような、僅かな湿り気が加わっていた。

その中を、椛は濡れた落葉を踏みしめながら、スマホのライトを頼りに歩いていた。

茂みの向こうから、今にも沙耶が突然現れるのではないかという、極度の緊張で、椛は、この寒さにも関わらず、背中を冷汗が伝っていくのを感じた

まだ夕陽は落ち切ってはいないが、紅葉の生い茂る林の中は、既に夜の闇の帳が落ち始めていた。

一人、歩きながら、中学時代の沙耶と自分の、あの日のやり取りを思い出す。

あの日から沙耶はずっと、告白に対する椛の答に囚われ続けてきた。

そして、その末に彼女は壊れたー。いや、「壊れた」のではなく、元を辿れば、椛が「壊した」に等しかった。自分が沙耶に刻みつけてしまった言葉-「恋は、この世界への未練の感情だから、僕は恋はしない」という言葉の力で。

「この街の周辺で起きている連続自殺も、沙耶の、僕への復讐を込めたメッセージに違いない・・・。あの子は、僕が最も嫌っている事を、敢えて行い続ける事で、僕を苦しめるのが目的なんだ」

椛は厭世主義者だ。しかし、不条理に自分の意に反して、傷つけられ、命を奪われたり、死ぬ事を強要されたりする事は大嫌いだ。

それを、唯一の、自分の幼馴染であり、ずっと傍にいてくれた沙耶が、血晶の何らかの力で人を操り、行っているという事実は、今この瞬間も、椛を苦しめ続けている。全ては沙耶の狙った通りに。

椛は、この先で待っている沙耶と会った時、最悪の成り行きになった時は、沙耶に自分の命を奪われる事さえも覚悟していた。勿論、自分の信条に反した考えではあるが、それが、沙耶への究極の償いとなって、これ以上、無関係な人々が沙耶の暴走で死に追いやられるのを止めるのに、繋がるならば・・・。

そこまで思いが至った時、学校で、半ば喧嘩別れのようになってしまった、茜の声が蘇る。

『椛の、分からず屋・・・!!勝手に、自分一人で罪を全部背負った気になって、柊木さんに殺されでも、何でもしたらいいじゃん!!もう、知らない!!』

‐あのような言葉を彼女に吐かせてしまった、その事にも罪悪感が胸を駆け巡る。茜は、本心ではそんな結末は望んでいないであろう事は、椛もよく分かっている。沙耶にもし命を取られたら、自分は茜との約束を‐、二人で死ぬ約束を、椛が裏切る事になるのだから。

一緒に、血晶の奇跡である「聖刻」も見届ける事なく。

沙耶との、「僕は恋はしない」という約束も、裏切ってしまったのみならず、沙耶に殺されるような事になれば、茜までも裏切ってしまう結末となる。

『沙耶を裏切ってしまっただけでなく、次は茜との約束まで、中途半端に破って・・・、僕は、茜までも裏切るんだね・・・。今日、沙耶に会って、もし、死ぬような事になれば・・・』

結局は、沙耶と茜、どちらにも気持ちを残して、中途半端に繋がりを持ったままの椛が悪人なのだ。

でも、もうこれ以上、裏切りを重ねたくはない。あの時、階段の踊り場の床に、夕陽を受けて光っていた、茜の涙を忘れない。沙耶が何をしてきても、生きて帰って、茜との、「二人で死ぬ約束」を果たしたい。

『絶対に殺されたりしないから、もう少しだけ待っていて、茜・・・。生きて帰って、茜には必ず謝るから』

制服の下に隠していた、ネックレスを取り出して、血晶を握りしめる。先程から、急にまた、熱を発している。しかし、その熱は、いつもの、茜に対して強い感情を抱いた時の血晶の反応とは異なり、何か、警告のようなものに感じられた。持ち主である椛の身に、危険が迫っているのを、知らせるような・・・。

急に、小枝が揺れて、木の葉がバサバサと触れ合って立てる、乾いた音が大きく響いた。誰か、人が、枝を手でかき分けて、こちらに近づいてきている気配がした。全神経を耳に集中させる。軽やかな足取りで、湿った落葉を踏みしめつつ、誰かが間違いなくこちらに歩いてきていた。

決定的なのは、風に乗って、甲高い、鼻歌を歌う声まで微かに聞こえてきた事だった。聞き間違える筈もなく、沙耶の声だ。聞こえてくるのは、少し前に、彼女が好んで口ずさんていた、流行りの曲のメロディだ。

椛は意を決して立ち止まる。風が、中学時代のあの日と同じように、木立の合間も吹き抜けて、赤や黄色の、色とりどりの紅葉を降らし続けていた。


「椛・・・、久しぶり。という程でもないかな」

やがて、言葉だけを聞けば、そんな何気ない台詞と共に、沙耶は、椛の前に現れた。

家出している身とは思えない程に小綺麗な身なりをして、上質そうなコートを着ている。横を通り過ぎる者は皆、一度は立ち止まって振り返っていた、その美貌も、何もかも、椛の知っている沙耶のままだ。

‐その右手に、見た事もない紅い刀身の短剣か、ナイフのような刃物を握りしめている点を除いては。

『あれは・・・何?ナイフ?でも、あんな真っ赤な刃物見た事ない・・・。あれは一体・・・』

少なくとも、その凶器を見た時点で、沙耶が椛を無傷で帰す気はさらさらないという事は確信出来た。最悪の結末として、覚悟していた場面が・・・、沙耶の目の前で、胸から血を流して倒れ、息絶えている自分の姿が思い浮かぶ。

浮かんできたその光景を、必死に打ち消して、謎の刃物に動揺しているのを悟られぬよう、椛は努めて、冷静に声を発する。

「二人で、中学時代の思い出の場所で昔をしのぶ・・・って雰囲気じゃないみたいだね。君がその右手に持ってる、物騒な物をみると」

「ええ。今日は、椛には償ってもらう為に、ここに来てもらったんだからね。中学生の頃のあの日、私を拒んだ事。そして、もう一つは、私を拒んでおきながら、あんな、ぬるい目をした女と親しくなって、二人で死ぬ約束まで結んで、私を裏切った事・・・。この二つを、償う義務が貴女にはある」

ゆっくり、彼女は右手に握りしめたそれの紅い刃先を持ち上げ、真っ直ぐ、椛へと突き付ける。

次の瞬間、椛は、我が目を疑った。

ヒュッという、風を切り裂く音と共に、沙耶の構える正体不明の紅い刃物は、その刀身を伸ばして、一瞬のうちに、椛の喉笛に迫った。冷たい刃先が喉の肌に微かに触れた。

その感触に、思わず椛は足元の落葉を散らして、素早く後ろへ後ずさる。

「な、何、これ・・・⁉」

本気で、椛の喉を貫くつもりではなく、あくまで脅しのつもりだったらしく、沙耶は、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、また、紅い刀身を、ナイフ程度のサイズにまで縮めた。幻でも自分は見ているのだろうか。あんな、伸縮自在の刃物が存在するなど・・・。

「これの正体が何か、教えてあげるよ」

不敵に笑う沙耶は、そう言うと短剣を胸の前にかざして、目を閉じ、何か、念を込めるような仕草をした。すると、紅い刀身の短剣は、みるみるうちに小さくなっていき・・・、それはやがて、見覚えのある形の、紅い宝石へと姿を戻した。

「これが何か、分からない筈ないわよね?椛」

ネックレスの先につけられたそれを、宙にかざして、沙耶は聞いてくる。

「ま、まさか、沙耶の血晶が・・・、変形したっていうの?あの短剣に」

血晶に秘められた力の中に、持ち主の思うままの形に血晶を変形させる事が出来るようになる、という都市伝説は確かにあった。

世間を今、騒然とさせている「血晶関連自殺」のそもそもの発端となった、女優の連続自殺事件も、喉を突くのに使われた筈の刃物がいくら探しても見つからなかった事から、血晶が刃物の姿に変形して、持ち主である二人の命を奪ったのだ、と広く語られ、ネット上では信じられている。

しかし、こうして現実に、目の前で血晶が、美しい雪の結晶に酷似した形の宝石から、人の命を瞬時にして奪う刃物に、変幻自在に変わる様を見せられて、椛は混乱していた。

心の何処かでは、まだ血晶の都市伝説を完全には信じていない自分がいたが、この光景を目の当たりにしては、最早信じずにはいられなかった。

「で、でも、血晶をそうやって、自由に形を操るには、『聖刻』の力が必要だった筈だよ・・・!沙耶、君は、一体どうやって、そんな恐ろしい力を・・・」

「これのおかげよ。『聖刻』ではないけれど、ある人の献身のおかげで、ほぼ『聖刻』に等しい血晶の力を引き出せるものを、私は手に入れたの」

そう言うと、沙耶はコートの首元を緩め、更に、その下に着ていたシャツの上のボタンも緩めた。

彼女の、首から胸元にかけて広がる白い肌の上に刻まれた、黒い紋様を見た時、椛は息を呑む。それは、確かに血晶の「刻印」とよく似た現象ではあったが、その紋様を目にしただけで、背筋に寒気が走る程の、おぞましい物、邪悪な気配を感じたから。

あれが何か、椛には全く分からないが、決して血晶の聖なる力によるもの‐「刻印」や、「聖刻」などではない事は、直感が知らせていた。

「私も手に入れたのよ、血晶の力を引き出せる『刻印』を・・・。まぁ、厳密にはこれは、『邪印』というんだけどね。いけにえの血を血晶に捧げて、それで手に入れたのよ。血晶を操る力を・・・、いいえ、血晶だけじゃない。人間の心さえも操ってしまえる力をね」

沙耶の持つ血晶の型-「角板付樹枝型」をそのまま焼き付けたような、しかし、『刻印』とは似ても似つかない邪悪な気配を放つ、黒い紋様。

その紋様を見た瞬間から、蛇に見入られた蛙のように、椛は身動きが取れない。

「人間の心も操る・・・?」

「そうよ。ここ数日、何人もの人が、『この世界にサヨナラを』したでしょ?あれは、私が、この『邪印』の力を使って、私を信奉してくれてる、世界に生きる価値なんてないって信じてる人の背中を優しく押してあげたのよ。心を操ってね・・・」

沙耶の言葉を聞いた瞬間、彼女が椛のスマホに送ってきていたメッセージが頭の中に蘇った。あのメッセージ中でも、沙耶は「邪印」の力で、苦しみながら生きている人達を解放してあげたと、確か語っていた。あの時は、「邪印」という言葉の意味が分からなかったが、今、ようやくその正体が分かった。沙耶は、あの黒い刻印で血晶の邪悪な力を引き出し、自身の、ネット上の信奉者達を、相次ぐ自殺へと扇動したのだ。

「あの、何件もの自殺は、沙耶が、その『邪印』を使って、唆したのか・・・!」

得体の知れない力への恐怖に飲まれてたまるか、と必死に椛は自分を鼓舞し、声を張り上げる。

「唆したなんて、人聞き悪い言い方やめてよ。皆、この世界に嫌気が差して、生きる意味なんかないって思ってた。だけど死ぬ勇気が出せなくて、迷っていた。私は『邪印』の画像をネットにばら撒いて、見た人が迷わず死んで行けるように、手伝いをしただけよ。元々死を望んでた人に、無理やり強制なんかせず、どうしても踏み出せずにいる最後の一歩へ、一押しをしてあげたの。それの何が悪いの?貴女だって、ずうっと死にたがっていたでしょ?厭世主義の哲学者さん?」

椛が声を張り上げても、沙耶に、悪びれるような様子は微塵もない。答える事は、何処か挑発的な物言いだ。それどころか、椛の苦し気な様子を見て、楽しんでいるようにさえ見える。拳を握りしめ、更に声を張る。

「沙耶のやってる事は・・・、直接、手を下さないだけの殺人だ・・・!今の沙耶は、血晶の力で人を死に追いやってる殺人鬼だよ!!」

殺人鬼・・・。こんな言葉を、言いたくはなかった。しかし、自分を、生きる事に苦しんでいる人々の救世主のように語る彼女には、これくらいの言葉でなければ、何も堪えないだろう。

「私が殺人鬼?そんな風に椛が思うのは勝手だけど、私の信奉者たちはそんな風には誰も思ってないわ。皆、私の導きで、笑って、喜んで、死んでいった・・・」

もう嫌だ。これ以上、沙耶の口から、自身の行為を正当化して、恥じないような言葉は聞きたくない。人の生きるか死ぬかは、その人自身が決める事。沙耶は、場合によっては、「生きる」選択肢を、未来を選んでいたかもしれない人まで、感情を操って死に扇動し、その選択肢も未来も全て奪ってしまった。

それが、椛の最も嫌う、理不尽に自分の外からやってくる、或いは強いられる死でなければ何だろう?


冷たい秋風の吹きすさぶ紅葉の中、一発の乾いた音が鳴り響いた。

「ふざけないで!!」

という、椛の叫ぶ声と共に。


椛は、気付いた時には、沙耶の左頬を、力いっぱい張り倒していた。咄嗟の事に、沙耶は手に掲げていた血晶のネックレスを手放してしまい、それは、落葉の上へと転がった。沙耶は姿勢を崩して、左手で頬を押さえたまま、地面に右手を突いて倒れ込んでいた。

「沙耶の導きで、皆、喜んで死んでいった・・・⁉沙耶は、まだ、自分が何をやったのか分からないの⁉生きるべきか、死ぬべきかは、人間が、自分の意思で決める事。沙耶が唆してなければ、苦しくたって、生きる道を選んだ人もいたかもしれないのに、その可能性も、あったかもしれない未来も、沙耶は、自分ならば苦しんでる人を救えるっていうおごりで身勝手に奪ったんだ!」

沙耶の表情から、いつの間にか不敵な笑みが消えていた。頬を張られて、倒れた彼女は、射殺すような鋭い目線で椛を見上げ、睨みつけてきた。

その圧を跳ね除けるように、椛は言葉を続ける。

「僕は確かに厭世主義者だよ・・・、君がずっと昔から知ってる通り。家や、学校で顔色ばかり窺って、自分がよく見られるように取り繕って、そうやって結局は自分の為だけに生きていく事は出来ないって、ずっと思ってきたし、今も変わらない。でも、理不尽に傷つけられるのも殺されるのも、反対に誰かを傷つけるのも殺すのも、それだけは絶対許さないから!そんな権利は誰にもないし、それは相手が死を願っていてもいなくても、関係ない」

椛は沙耶の両肩を掴んで、無言でこちらを睨み続けている彼女に語りかける。

「ねえ、もう、こんな真似、やめようよ、沙耶!!大勢の人に自殺を唆した事、警察に自首して、ちゃんと罪を償って、血晶の力を使うのも、もう終わりにしようよ。僕は、これ以上、大事な幼馴染の沙耶が、誰かを死に追いやる『殺人鬼』でいるのを黙って見ているのには、もう耐えられない・・・」

必死に語りかける声の末尾は、半分、泣く声になっていた。椛は、熱い液体が頬を伝っていくのを感じた。

椛の本当の思いは、結局、この言葉に詰まっていた。「邪印」か何か知らないが、血晶の力で沙耶が、人を次々に死へと扇動する『殺人鬼』でいる事。その事実が、椛には耐え難かった。

「何とか言ってよ、沙耶・・・!!」

自分の思いが欠片でもいいから、伝わっている事を信じて、沙耶にそう問いかける。


固く閉ざされていた、沙耶の口元がふっと緩んだ気がした。それを見て、椛も少しだけ、安堵したその時-、沙耶は地面に突いていた右手を宙にかざして、何か呟くのが、一瞬、椛には見えた。


次の瞬間、椛の左腕に、何か酷く熱いものを押し当てられたような感覚が走った・・・。いや、熱いのではなく、それは、何かが突き刺さった事による、激痛だった。

あまりの痛みに悲鳴を上げ、腕を見ると・・・なんと、沙耶の手からはじけ飛んでいた筈の血晶が、それも再び短剣の形を成して、椛の左腕をブレザーの生地の上から貫いていた。沙耶はその短剣を引き抜くと、それを素早く構えなおして、椛に向かって振り下ろしてきた。

「ぐっ・・・!!」

短剣を抜かれた左腕から血が迸り、ブレザーを血晶と同じ色に染めていくのが見えた。次の一撃を加えようとしているのが見えた椛は左腕を右手で押さえたまま、必死に、沙耶の体を蹴飛ばした。

間一髪、沙耶の、血晶の成した短剣は、かろうじて椛の体には届かなかったが、振り下ろされた勢いのまま、制服の正面のブレザーの生地を、無惨に切り裂いた。

「血晶が私の手から離れてれば、操れないとでも思った?『邪印』があれば、血晶と私は一心同体なの。私の手元まで引き寄せるなんて簡単な事」

そう言いつつ、尚も沙耶は紅い短剣を振り下ろしてくる。椛は、制服が土だらけになるのも構わず、地面を転がって、何とか二度目の沙耶の刺突をやり過ごした。

近くの木の幹に、無事な右手の方をついて、何とか立ち上がる。沙耶は、地面に刺さった短剣を引き抜くと、こちらににじり寄ってくる。あまりの恐怖に、椛も身が竦む。短剣の刃先を椛から逸らさず、沙耶は、吹き付ける秋風よりも冷たい声で、こう椛に言った。

「さっき、私が笑った理由、教えてあげる。それはね、あまりにも私の願った通りに、椛がもがき苦しんでくれてるからよ!」

左腕の、焼かれるような痛みに耐えて、荒い呼吸をしている椛に、勝ち誇ったように沙耶は言う。

「椛がさっき言った事。椛が、何を一番嫌っているのか、全部、私知ってたよ。私と椛はお互い、たった一人の大事な幼馴染なんだから当たり前でしょ?椛は、理不尽に人が死んだり、傷つけられたりするのは大嫌いで、大切な人がそんな事をするのも、されるのも凄く嫌ってる。だから、私はやったの。私の導きで、世間の人が死んでいけばいくほど、貴女は絶対に私の為に苦しんで、私から逃れられないから!!」

狂ってる・・・。椛は、木の幹に寄りかかったまま、彼女の凄絶な表情と、その言葉に、心底、そう思った。

それだけの理由の為に、何人ものネットで知り合っただけの人を、平然と自殺へ扇動し、死なせていったというのか。それで椛が苦しむのを喜んでいたというのか。今の沙耶が、正気であるとは到底思えなかった。

『今の状態の柊木さんに会ったら、何をされるか分からないんだよ⁉』

必死に自分を引き留めた、茜の声が蘇る。茜の予想は的中していた。

彼女が、血晶の狂気に精神を乗っ取られていると思いたかった。これが・・・沙耶の本心の言葉だなど、信じたくなかった。

「あの女と・・・、穂波茜と、私を裏切って特別な関係とやらになったみたいだけど、でも椛は私から離れられない・・・。あの女と出会った後もずっと、椛は私に罪の意識を抱いて苦しんでた。だから今日も来てくれたんだよね?逃げる事だって出来た筈なのに。結局、内面も、行動も、全部、椛は、私の思うままに動いてくれた!」

ゆっくりと、沙耶はこちらに歩いて来る。椛は思わず逃げようとして、木の根に足をとられ、刺された左腕を右手でずっと庇っていた為に手もつけず、無様に顔から地面に倒れ込んだ。顔を打った際に唇を切ったようで、血の味が広がった。

「貴女にきゃあきゃあ言ってた、学校でいつも私達の周りにたかっていた、あのうるさいハエ女達が、今の貴女の地面に這いつくばってる姿を見たら、なんていうかなぁ?」

そんな言葉を吐きながら、沙耶が近づいて来る足音が聞こえる。左腕から流れる血は止まらない。もう、制服のブレザーの左腕の袖は真っ赤で、右手の指の隙間から流れる血が、紅葉の上にじわじわと広がっていく。

「沙耶は・・・、僕を殺すつもりなの?その為に、僕が、君の告白を拒んだ、この場所に呼んだの?」

「理不尽な死」が迫って来る。その恐怖に、椛は声を震わせる。

しかし、椛のこの問いは全くの的外れだったようで、沙耶は笑い声をあげた。学校で皆と談笑していた時の、造花のような美しい笑い声とは似ても似つかぬ、骨の髄まで沁み込む冷気のような・・・そんな笑い声だった。

「椛を殺す?貴女を殺したら、もっと貴女が私の為に苦しむ顔が見られないじゃん。ねえ?裏切り者で、死にたがりの、全てが作り物の王子様系女子さん?もっと、私を裏切った代償として、貴女には苦しんでもらわないとね。だから、椛を殺しはしない。それは安心していいよ」

「じゃあ・・・僕を殺さないっていうのなら、一体、どうして、その短剣を近づけてくるの?」

どんどん、こちらに近づいて来る、沙耶の紅い短剣の放つ紅い光に、椛は全身に震えが走る。沙耶は答える。

「いけにえの血で、私のこの『邪印』は手に入れたって言ったでしょ?『邪印』をもっと強くするには、誰かの血をたっぷり頂いて、血晶に捧げてあげなきゃいけないの。それも、誰でもいい訳じゃない。私に、強い思いを抱いてくれている人の血を捧げないと、血晶は応えてくれない。つまりは・・・、椛の血を今から、血晶に捧げるいけにえの血として抜かせてもらうって事。その為に、椛には今日、ここに来てもらった。かつての私の告白を拒絶して、そしてあの女と一緒になって、私を裏切った。その償いに、椛には今日、血を捧げてもらう。」

沙耶が、この『償いの日』に何を椛にさせようとしていたのか、その全てを悟った。

あの短剣で、彼女は、椛の肉を抉り、その血を血晶へと吸わせようとしている。「邪印」という邪悪な血晶の力を引き出す為の刻印に、更なる力を与える為に。

既に、沙耶の「邪印」に操られて、何人もの人が自殺へと扇動され、命を散らしていった。これ以上、その力が強まるような事になれば、沙耶の力の為に、どれだけの人が命を落とす事になるか、想像もつかない恐ろしい事態だった。

「ふ、ふざけ、ない、で!!そ、そんな事、沙耶には絶対させない・・・」

ガタガタと震えが体に走り、椛が絞り出した声も、情けない程に震えていた。

「そんなに震えなくても大丈夫よ、死なない程度に、椛の血を差し出してもらうだけだから。でも・・・もし下手に抵抗したら、私の手が滑って、椛の心臓だって突き刺してしまうかもしれないわよ?」

そういって、沙耶は、椛の傍にまで近づいてきて、椛を見下ろしていた。

彼女の目には、復讐の愉悦の色しかなかった。復讐の対象は、この世界と、そして・・・、今、沙耶の足元に無様に這いつくばっている、椛だ。


初めて、死を願う気持ちを、沙耶と分かち合ったあの日から、沙耶の目の中には「復讐」への暗い渇望が常にあった。椛は抱いた事のない、冷たい炎が彼女の中ではきっと幼少の時から小さくくすぶり続けていて、それが今、血晶の邪悪な力を得た事で、天まで届いて、焼き焦がす程の業火へと、燃え上がったのだ。

お互い、「この世界で生き続ける価値なんてない」と上辺だけは、同じ気持ちを持っているように見えながら、「世界に復讐をしたい」と願う沙耶と、そんな願いを持たない椛は、やはり、最初からお互い、理解者などではなかった。

今の沙耶の目を見た時、椛は、そう確信した。

‐椛の右足にまたしても、熱した鉄を当てられたような感覚が走った。そして、生温かい液体が肌を伝い落ち始めて、椛は悲鳴を上げた。

沙耶に今度は右足を刺されたのだ。

「ごめんね、椛・・・。でも、これも、安全に貴女に血を差し出してもらう為なの・・・。こうやって手も足も動かせなくしておかないと、椛が下手に動くと、私の手元が、椛の心臓の上で、狂う事になるかもしれないし、無駄に椛を苦しませてしまうかもしれないから。これが、幼馴染としての、せめてもの優しさよ」

猫撫で声でそう椛に語りかけながら、沙耶は、足を動かせずにいる椛の上に、馬乗りになった。

椛は目を見開く。木の葉の切れ目に見える、夕映えの空には、既に夜空の、藍色が混じり始めていた。そして、暮れ始めた空を背景に、頬を紅潮させて、極度の興奮の為か、呼吸を荒くした沙耶の顔が見えた。かつて、学校の誰もが振り返った、「学校のアイドル」の面影は、最早欠片もそこにはなく、彼女は髪も振り乱して、血に飢えた獣の顔をしていた。

その両手で、椛の血に濡れている紅い短剣を握りしめ、椛の胴体へと近づけていく。

かろうじて動く右手で、必死に沙耶の腕を掴んで、叫ぶ。

「お願い、こんな事、もうやめて・・・!!僕と一緒に、帰ろうよ・・・!沙耶に刺された事だって、絶対に言わないから、罪を償って、やり直そう・・・」

「この期に及んで、まだそんな事言ってるの・・・⁉私はもう、今まで暮らしてきたあの下らない、薄汚れた世界に戻りたいなんて別に思っていない。だって、ずっとずっと、私のような、女が好きな女を踏みつけてきた、下らない家も学校も社会も、その皆に復讐出来る力を血晶がくれたんだから!椛は、今でも、私の事、大事な幼馴染だと思ってくれてるよね?だったら、私に大人しくいけにえの血を差し出してよ!今日は、償いの日なんだから、何でも、椛は私に差し出してくれるでしょ!」

復讐心に取りつかれた、狂乱の殺人鬼と化した沙耶には、もう、何を言っても自分の言葉は届かない。その絶望と無力感が、椛の抵抗する力を鈍らせていく。

華奢な腕だというのに、復讐心がそうさせるのか、沙耶の力は驚くほど強く、椛の右腕だけではもう、抑えきれそうになかった。沙耶の短剣は、椛の腹に向けて、その刃先をじりじり、近づけてきていた。刃先が、椛の肌を切り裂くのも、もう時間の問題だった。

椛は、間もなく訪れるであろう、刃先が自分の腹へと突き刺さる瞬間を覚悟して、目を閉じた。

『もう、駄目だ・・・!!』


そう、椛が諦めかけた時だった。

「柊木さん、もうやめて!!」

茂みの小枝がパキパキと折れて、木の葉達が激しく揺れる音と共に、小柄な人影が飛び出してきた。半ば、やけのような大声を上げながら、その人影は、椛に馬乗りになっていた、沙耶へと飛びかかった。

「えっ・・・!!」

次の瞬間、椛はふっと、体が軽くなるのを感じた。そして、次に、耳に飛び込んできたのは、ドサッという、落葉の上に人が倒れ込む湿った重たい音と、そして、地面の落葉をまき散らしながら、必死に誰かが沙耶と取っ組み合っている、その音だった。

沙耶から、何とかして、血晶の短剣を奪い取ろうとしている、小柄な少女の姿を見た時、椛は絶句した。

「あ、茜・・・!!どうして、ここに・・・!」

あれ程、ここに来てはいけないといったのに。

沙耶も、茜が現れる事は全くの想定外だったようで、驚愕の表情を浮かべている。

「あんたは・・・、穂波茜!なんで、あんたがここに・・・⁉」

茜と取っ組み合っていた沙耶は、力いっぱい、蹴りを茜の腹に叩き込んで、茜を蹴り飛ばした。茜は悲鳴と共に、落葉の上に蹴倒された。

沙耶は髪や服に着いた落葉を払いながら立ち上がった。

いきなり乱入してきた相手が、茜だと分かった瞬間、沙耶の表情は、みるみる、鬼の形相に変わっていった。

地面に倒れ込んでいる茜を睨みつけながら、沙耶はブツブツと呟いていた。それは、完全に、茜への呪詛の言葉だった。

「お前が・・・、お前さえ、元はといえば・・・、椛の前に現れなければ、椛は私を裏切らなかった。血晶の導きだとかなんとか言って、お前が椛をたぶらかしたから、私と椛の繋がりは、壊されたんだ・・・!!」

違う。茜はそんな事を思って、椛に近づいてきてなどいない。血晶が、そして自分が、茜を選んだんだ・・・そう、声をかける事すら、はばかられる程の邪気が、沙耶を覆い始めた。

その声のトーンは次第に上がっていき、沙耶が、血晶の成した紅い短剣をぎゅっと手に握り込んで、刃を茜へと向けるのが、椛にも見えた。

沙耶は、倒れ込んだままの茜に向かって、言い放った。

「お前がどうやってここに辿り着いたか知らないけど、こうなっちゃったからには、椛の血を貰うのは後回しよ・・・。泥棒猫のお前の、その息の根を止めてやる!!」

宵闇の帳が立ち込め始めた林の中、梢の鳥たちも驚いて一斉に飛び立つ程の、沙耶の怒声が響き渡った。血に濡れている紅い短剣が闇の帳の中で、茜に向かって大きく振り上げられた。


‐沙耶は、本気で茜を、椛の目の前で殺すつもりだ。絶対に、そんな事はさせない

「やめて、沙耶!!」

椛が声を振り絞り、そう叫んだ時だった。

椛と茜の、二人の血晶が、紅く、眩い光を放った。

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