第20話 「恋」は世界への未練ではない

最悪の気分のままで、椛は校舎を背に歩き続けていた。先程の階段の踊り場での、茜の声が、耳に焼き付いて離れない。

『私が椛と出会ってしまった事も・・・血晶の刻印の契約だけじゃなくて、それ以上の特別になりたいって、願った事も、罪なの?私が、椛と出会わなければ、椛は・・・、柊木さんへの罪を、犯さずに済んでいたの?』

頬を、短い襟足の下のうなじを撫でていく、まだ晩秋とは思えない程の冷たい風に晒されながら、先程の茜の言葉を頭の中で反芻する。あの時、茜に何と答えれば良かったのだろう。

「違う・・・、茜が僕を愛してくれている事は、僕自身は素直に嬉しいんだ。それ自体は罪なんかじゃない。でも、僕には、沙耶と交わした約束が・・・『僕は恋はしない』って約束があるから・・・、それを破ってしまった僕が悪いだけで、茜には罪はない。どうして、それを分かってくれないの・・・」

このように考える事自体が、茜にとっては、「現在」の茜との関係よりも、「過去」の沙耶との約束に囚われ、その約束を優先しているように見えるから、茜を傷つけてしまう事になる、というくらいの事は椛も理解している。しかし、沙耶との約束をもう昔の話だからと、簡単に反故にしてしまえる程、椛は沙耶への気持ちを整理はつけられていない。結局は、自分のこの、うじうじとした優柔不断さのせいで、沙耶を壊してしまい、茜も傷つける結果になってしまった。

「何が『王子様系女子』だよ・・・、こんな、割り切れなくて優柔不断で、周りを苦しめてばっかりの、僕みたいな人間が・・・」

そんな自嘲の囁きもまた、吹き付ける冷たい風にさらわれていく。

校門に向かう道すがら、ぽつり、ぽつりと校庭の地面にシミが出来始めた。雨・・・ではないようだ。見上げても、夕陽の映える空に雨雲の気配はない。

そこから降ってきていたのは、未だ大きな牡丹雪にはなり切れない、小さな、本当に小さな粒の雪たちだった。それは、晴れた空の下で、吹き荒れる乾いた風に乗って、自由に、可憐に舞い踊っていた。

「寒いなと思ったら、風花(かざはな)だ・・・。まだ秋なのに」

椛はその景色を見て、呟く。夕晴れの空から降って来るそれは、光を受けて白く輝き、季節外れの桜の花びらが風に吹かれて、降ってきたように錯覚させる。一瞬の雪の花を咲かせて、美しいままに、地面に落ちては、瞬時に消えていく。咲くのが一瞬なら、散るのもまた一瞬の、雪の造花だ。

風花は、大粒の雪たちのように地面に積もって、空気や雨に晒されて汚されていく事もない。ただ、一瞬の忘れられない、花の姿だけを鮮烈に目に焼き付けて、散っていく。

「僕がずっとなりたかったのは、こんな最期の迎え方なのかもしれないな。それはきっと、茜も同じ・・・。何の為に生きていくのか分からないまま、汚れながら生きて、誰にも知られずに死んでいくのよりも、世界に、一瞬でも鮮やかで、忘れられない程の記憶を刻み込んで、散っていくんだ・・・」

‐沙耶も、その気持ちに似たものを抱いている筈だった。昔、紅葉の舞う庭で沙耶と椛が、生きる事への本当の気持ちを通じ合えたあの日から。

それがいつしか、椛と沙耶は、違う物を見るようになっていた。沙耶の恋心の対象に自分がなっている事を知った時が、二人の最初の分岐点だった。「死んでも構わない」と思える人間が、誰かに恋心を抱くなどおかしいではないかと。この世界への未練にしかならない感情だから、自分は恋はしないと告げた、中学時代の今日から、沙耶の心に、既に小さなヒビが入り始めていたのだ。そして、椛が、沙耶が自分に深い未練を残している事に気付けぬままに、茜と、血晶の導きで契約を交わしたのを、沙耶の心のヒビは、大きな割れ目となり、そして愛憎入り混じった感情の波によって決壊した。

『いや・・・、そもそもは、僕と沙耶は、本当は・・・最初から、本当に同じ気持ちなど抱いてはいなかったのかもしれない。沙耶の『世界に生きた証を刻んでから、死ぬ』という気持ちには、昔からずっと、復讐心があった。自分の性的指向を認めない家も社会も憎んだ末の・・・。僕は、どんなに家で、『女性である自分』を望まれていなくっても、生きたいように生きられなくても、復讐したいとは、思った事はなかった・・・』

椛は、制服の下に隠れた血晶をそっと撫でる、唯一の幸せな、両親との思い出。あの母親が、たった一度だけ、この血晶を着けた時の自分を「似合っている」と褒めてくれた。『女性としての自分』を褒めてくれた思い出がある。

沙耶からは、そんな話は一度たりとも聞いた事はない。彼女の口から語られるのは、いつも、学校、社会や家族への憎しみしかなかった。彼女には死を願う事さえも、この社会への復讐の手段であった。

自分と沙耶は最初から、お互いに、理解者などではなかったのかもしれない・・・。

そんな考えが頭に浮かび始めたその時だった。椛のスマホが電話の着信音を立てているのが聞こえた。急いで、ポケットからスマホを取りだして、発信者を見る。


その着信画面には『柊木沙耶』と表示されていた。

体が震え出す。この震えはきっと、季節外れの寒風のせいだけではないだろう。さっきの茜の「今の状態の柊木さんに会ったら、何をされるか分からないんだよ⁉」という、引き留める声が蘇る。茜を心配させまいと振る舞っていたが、本当は、今の精神状態の沙耶に会って、無傷で帰れる自信は、椛にはなかった。震える指で着信のアイコンを押す。

「もしもし・・・沙耶?貴女なの?」

恐怖を感じた事を悟られぬように、空元気ででも声を張る。すると、画面の向こうから、クスクスと笑う声が聞こえてきた。耳に馴染んでいる筈なのに、彼女の声は何者かに憑かれたような‐、悪魔が、沙耶の声を借りて笑っているような、そんな声にすら聞こえた。寧ろ、悪魔が沙耶を乗っ取って操っているのならば、どんなに良かった事だろう。

「中学時代の今日、貴女が、私の思いを断った、あの公園で待っているわ・・・。あいつは、穂波茜は絶対、連れて来ないように。これは私と貴女の、二人の話だから」

勿論だ。だから、茜を泣かせてしまってでも、彼女は置いてきた‐「私が、椛を愛した事も、柊木さんへの罪なの?」という言葉まで吐かせてでも。

「分かってるよ、僕一人で、あの公園の紅葉の森に行けばいいんだね」

「ええ、そこで、貴女には償ってもらうわ。私の愛を拒んだ事と、そして、私を裏切った事をね。着いたら、私にメッセージを頂戴」

そうして、早々に沙耶の電話は切れた。

母親に「今夜は用事で遅くなります」とメッセージを送り、校門を出て歩き出す。

椛と沙耶の因縁の場所まで。


「わぁ・・・風花ね・・・。綺麗・・・」

暖房の効いた温かな車内から、沙耶は夕晴れの空を背に、白く、舞い踊る小雪の花達に歓声を上げた。

「風花なんて風流な言葉、よく知ってるね、沙耶ちゃん」

隣の運転席に座る紅羽がそう言うと、沙耶はこう返す。

「あの子が・・・椛が、本の虫で、難しい本ばっかり親に渡されて読んでて、色んな言葉知ってたから、私も影響で覚えちゃった。いいわね。一瞬、目を離したらもう溶けてなくなってしまうか、風に乗って何処かに消えてしまう、でも、忘れられない雪の花。何だか、風花が空へ吹き上げられていくのを見ると、人の命が、向こうの世界に還っていく様にも見えない?」

そして沙耶はスマホを取りだすと、欠かさずにSNSのチェックをこんな時でも‐、これから椛と対峙するという時になっても行う。

自分の裏垢で、沙耶は、紅羽の提案に乗って、自分の肌に血晶が刻み込んだ,

黒い紋様、「邪印」を写真に収め、そのアカウント上にアップしていた。紅羽曰く、この間、駅で女子学生に公衆の面前で「公開自殺」として首を掻き切らせたようなやり方では、本人にいちいち接触を取らねばならず、皆を「死」によって「解放して」あげるには時間的に効率が悪い。椛の「邪印」に直接触れなくても、ただ、その写真をネット越しに見つめただけで、ある程度、沙耶の血晶は、「邪印」に魅入られた人の「死」へと急ぐ気持ちを増大させる事が可能なのだという。

写真越しに沙耶の「邪印」の力をばら撒いたおかげで、一気に自分の信奉者たちの中の、「死」を考えつつも、「この世界」と「向こうの世界」の境目を越えられずにいるフォロワー達を、もう何人も「この世界にサヨナラを」させてあげる事が出来た。

「『この世界にサヨナラを』したいと思ってるけど、『死』の決心がつかない人、そこの貴方や貴女に朗報。この私の『邪印』の持つ血晶の力を写真で分けてあげるから、写真を見て勇気を出して、こんな腐った、偽善や綺麗事だらけの社会にも世界にも、迷わずサヨナラをしましょう。死んでやる瞬間には、周りに人がいたら、生涯、その耳に焼き付いて離れないくらい大声で叫びましょう。『この世界にサヨナラを』って!」

その、沙耶の書き込みに続々と返信と高評価が付き始めた。

「SAAYA様の『邪印』の写真を拝めたおかげで、『死』を恐れる気持ちが消えました!これで私も迷うことなく散っていけます。『この世界にサヨナラを』!」

そう言った数分後には、紅羽が見ているネットのニュース速報で、「○○市で、突如、駅のホームから身を投げ、10代とみられる男性が自殺を図りました。車掌は急ブレーキをかけましたが間に合わず、男性は電車に轢かれ、即死の状態だったという事です。人身事故が発生した○○線では現在、一時運航を見合わせています」という記事がアップされて、忽ちに多くの人々がコメント欄で反応していた。

徐々にニュース速報にあげられ始めた情報では、これまでに認められている事例と同様に、死んだのは若者であり、ホームには遺品と思われる血晶を用いたアクセサリーが投げ捨てられていた事。スマホは電車に飛び込む時まで手に握りしめてあり、衝撃で粉々に砕かれて、直前まで、ネットで何を閲覧していたかの履歴などは一切確認出来なかったという事だった。

そして、何よりも、次々と更新される情報の中で、強調されていた部分は、名も知らぬ彼が、電車へと身を投じる寸前、「この世界にサヨナラを!!」と、彼が叫ぶ瞬間を、居合わせた多くの人が耳にした、という事だった。

忠実に、沙耶の言いつけを守り、彼の肉体は電車の鋼鉄に肉も骨も引き裂かれ、血の霧と消えたのだった。彼の魂は「この世界にサヨナラを」果たした。

「紅羽、こうも計画が上手く進んでるのは、貴女のおかげよ。紅羽がまた、私の血晶に血を与えてくれたから、血晶も、この「邪印」も、うちに秘めてる力が前よりもずっと強くなってるのを感じる」

沙耶は血晶を掌に握りしめる。かつて、鮮紅色だったそれは、更に黒ずんだ色へと変色を果たしている。胸元に刻み込まれた「邪印」の紋様も、より鮮明な形となり、その紋様を織りなす線の黒色も深みを増していた。先日、駅で女子学生を扇動して、首を切らせた時よりも、更に、人の心に付け込んで操る、陰鬱とした力が増しているのを感じる。

‐もっとも、その血晶と「邪印」の力の急激な強化は、紅羽の大量の血を犠牲として沙耶の血晶に捧げる事で行われたものだったが。

二度目の、血のいけにえの儀式が成功し、沙耶の血晶がその黒味を増した後、紅羽は洗面所に駆け込み、激しく吐血した。純白に、綺麗に磨かれていた洗面ボウルに、紅羽の口から零れ落ちる血が次々と落ち、真っ赤に染めていった様が、沙耶の脳裏から離れない。

「邪印」に誰かの血を介して生命力を捧げる事で、力をより強烈な物にする儀式は、血を捧げるいけにえの人間の体を何処までも蝕んでいくし、その行き着く先は「死」しかない・・・。その事実を沙耶は見せつけられていた。

そんな事があった後だというのに、紅羽は今、平然として、沙耶と会話をしている。自分の血を、そして生命力を沙耶の血晶、「邪印」に捧げた事で、間違いなく彼女の体の崩壊は加速している筈だというのに。

その事を恐れている様子など欠片もなく、今の紅羽の表情は、寧ろ活き活きとして、悪戯の計画を話し合う子供のように声も弾んでいるようにさえ聞こえた。

「それにしても、沙耶ちゃんがそうしろって言った訳でもないのに、皆、どんどん死に方が過激になってきてるわね、多くの人が見てる前で電車に飛び込んだり、学校の屋上から、先生達の必死の説得も無視して身を投げたり・・・」

スマホを眺めながら、そんな感想を零した紅羽に、沙耶は答えた。

「皆、自分の前に死んでいった人が、どんな死に方をしたかを知ってるから、自分はそれよりももっと派手な、或いは悲劇的な方法でなければ、皆に自分ていう人間が存在していた事も、自分の最期の瞬間も、記憶として焼き付けられないって事に気付き出してるのよ。マスコミだって、死の瞬間の景色が派手であればある程、数字取りたいから騒ぎ立てるでしょ?私が、自殺には派手な方法を選べなんて命じなくったって、こうなっていくのは分かってたわ」

「流石は私達のSAAYA様ね、死に向かっていく者、それを騒ぎたてて報道する人々、皆の考えをお見通しって訳ね」

沙耶は、椛の到着を知らせるメッセージが来ていないのを確認しつつ、ついでにスマホのSNSの画面をスクロールしていく。「連続自殺」「自殺ブーム」など、様々な言葉が飛び交っては、各々がコメントを書き込んでいた。

「・・・まぁ、たったこの数日の間だけでSNSに幾つも、血晶と無関係に自殺を煽る、私のパクリみたいな模倣犯のアカウントが出来たのは気に食わないけどね・・・。あとは、死ぬ気じゃないくせに散々、周りの気を引きたいだけの目的で偽の遺書みたいなのばら撒いて、注目集めたら「全部嘘でした」とかネタ晴らしして消えていく、騒ぎに便乗する捨てアカウントも」

騒ぎに便乗したいだけのようなああいった模倣犯、愉快犯の類には沙耶は反吐が出る思いだった。

実際、血晶と全く無関係の人々の自殺も何件か立て続けて発生していて、警察も「血晶関連自殺」に便乗した模倣犯による、ネット上での自殺教唆として、捜査しているようだった。また「〇時〇分、○○県○○市〇〇駅のホームから、身を投げます。もう、生きる意味が分からなくなりました。この世界にサヨナラを」という書き込みをSNSで拡散して、身投げを止める為に警察官が何人も駅に配置されたところ、後から「バカなお巡りさんたち、盛大に釣られてくれて、どうもお疲れ様でした。全部嘘でーす。死ぬ気なんかありません」などという書き込みを残してアカウントを消したものもいた、というニュースも出回っていた。

こうした悪質な愉快犯による「自殺の予告」の書き込みや悪戯電話が、警察にかけられる事件が、既に全国で200件以上発生していた。それでも本気か嘘か事前に予想は出来ない為に、やむなく警察官が「自殺の予告」で指定された場所に張り込んでは、徒労に終わる事件が多発し、警察も完全に対応に手を焼いていた。

また別の記事では、相次ぐ若者の連続自殺を受けて、「うちの子も心配です」と、息子、娘の自殺を恐れた親達からの相談が、全国のいのちの電話に殺到しており、電話を受ける窓口は最早パンク寸前である、という記事もあった。

この公園に来る途中、あの女子学生の首切り自殺があった駅の前にも、紅羽の車で少し立ち寄ってもらった。沙耶が見た時は、駅前の車寄せにはパトカーが張り込んでいて、駅舎の内外を見回る警察官の数も平時の3倍、4倍には増えていそうだった。

うわべだけの平穏を享受していた世界は、最早、たったの数日で崩れ去り、テレビのワイドショーや新聞から、夕飯を囲む家庭の会話まで、この「血晶関連自殺」の重苦しい話題に占領されてしまった。

血晶と、「邪印」の力さえあれば、一介の女子学生に過ぎない自分でも、こうも簡単にこの世界を壊してしまえるんだと、沙耶は拍子抜けしてしまえる程に。

かつては、「同性愛など認めない」という保守的な両親が‐柊木家が、この世界の代表者のような面をして、沙耶を抑圧していたし、実際、柊木家の付き合いのある人間達も両親と同類のような思想の人間ばかりだった。‐ただ一人、椛を除いては。

絶対的で、逆らえない力を持っているように、幼い頃の沙耶には思われた社会が、沙耶の反撃で、かくも脆く崩れ去り始めているのが、痛快であるだけでなく、物足りなくさえあった。

「どう、沙耶ちゃん。貴女を虐げて、平然としていた世界が崩れていく様子は。見ていて痛快?楽しい?」

助手席の沙耶に、紅羽がそう尋ねてくる。その問いに、今は素直に頷けぬ自分がいる。紅羽の問いは、沙耶が何処か、物足りなさを感じている事にも既に気付いた上で、聞いているように思われた。

沙耶は答える。

「痛快じゃない訳、ないでしょう?勿論、色んな人の事を抑圧して、知らんぷりして動いていたこの世界が、崩れていくのを見るのは楽しいわよ。世界に踏みつけられていた人達、或いは生きる意味も分からないでいた人達も、沢山解放して、その名前を世間に刻み付けてやった。でも、まだ、正直物足りないのが事実なの。私の、復讐心は、このくらいではまだ足りない。世界に対してもだし・・・裏切り者のあいつに対しても、ね」

「それが、今から会う霧島椛っていう子ね・・・」

「その通り。顔も知らないような、この世界の何処かの人間を幾ら悲しませても、私の心は満たされない。今、一番私が報いを受けさせて、苦しませたい相手は、霧島椛なんだから。あいつを苦しめることが、今の私の行動の、目的の全てよ。私がこうして、血晶の力で、間接的にでも人を死に追いやればやる程、椛は傷つき、もっと苦しんでくれる。何処に行こうが、あいつはそれから逃れられない」

「それで、今日は、霧島椛には、どんな報いを受けさせるの?貴女の思いを、断った日なんでしょう?今日は。まさか・・・その手で殺すの?霧島椛を」

紅羽の言葉に、沙耶は笑い声をあげた。

「あいつを殺したとしても、得られる復讐の快感なんて一瞬でしょう?あいつには、少なくともまだ死んでもらう気はないわ。あの子は、理不尽に命を奪われるのも、大切な人が、誰かの命を奪うのもどちらも嫌がる子だから、そこは私も、唯一の幼馴染として守ってあげるわ。ただし、椛から「血」を、償いとして差し出させるわ。無理やりにでもね」

そう紅羽に告げた時、彼女は一瞬、眉をひそめた。恋敵の話を聞かされたように。

「それは・・・三度目の「邪印」の強化の儀式の為の、いけにえの血って事?」

「そう。だけど、これは、貴女の血の生命力では不十分だとか力不足だからとか、そういう事じゃないの。紅羽の血は、私の、この間までは何の力もない石ころみたいなものだった血晶に凄い力を与えてくれたわ。貴女自身も邪印の力を既に持ってるから。おかげで、邪印も手に入れる事が出来たし。だけど、これ以上、貴女の血に頼る事は出来ない。貴女が私に力を与えれば与える程、貴女の命も体も蝕まれていく。この前の二回目の儀式の時、沢山吐血したでしょう?洗面台も真っ赤になるくらい。今日、椛から血を奪って、私の血晶に与えれば、恐らく「邪印」は完全体の力を手に入れられる。でも、紅羽には、3回目の血を差し出す生命力はもう、残ってない・・・」

そして、沙耶は不意を突くように、秋物のコートと、その下のタートルネックのセーターの袖を一気に捲り上げ、紅羽の左腕を剥き出しにさせた。

「あっ・・・!」

紅羽は、気まずそうに眼を沙耶から逸らす。

「長袖着てるからって、私が気付かないとでも思ったの?貴女の体、もう、「崩壊」が始まってるじゃない。こんなスピードで・・・」

長袖の下に現れた紅羽の左腕は・・・あちらこちらの肌に、何かで強打したような青黒い内出血痕が出現していた。一部が破れて血を噴き出したらしく、包帯を前腕に巻いていた。

「これ以上、紅羽に血を差し出させる事は出来ない、と思ったからでもあるの。椛から血を貰ってくるのは。紅羽は、ただでさえ、邪印が体にあるのだから、体の「崩壊」の速度が早い。私に邪印を刻んだだけでも、相当に崩壊は始まっていた筈よ。貴女は顔に出さないし、平気そうにしてるけど。私の「邪印」を完全体にする為に三回目の血を差し出して、貴女の「邪印」の力を私に送り込んだら・・・貴女は死ぬわ」

「私が・・・、今更、まだ生きる事に執着してるとでも?私、沙耶ちゃんの為なら、三回目の血でも喜んで差し出すよ?それで、沙耶ちゃんの「邪印」が完全な力を発揮できるようになるなら、それでこの体が「崩壊」して、死んでしまったって悔いなんか」

「馬鹿なことを言わないで」

椛は、それ以上の紅羽の言葉を封じるように、ピシャリとそう言うと、助手席から右側へ身を乗り出して、紅羽の体を優しく抱き包んだ。

「椛が言ってるのと同じような事をいうのは、何かむかつくけど・・・、それでも、私だって、椛と同じなの。自分の為に、大切な人が無茶をして死んでしまうのは見たくない。そんな死に方するのは、紅羽が、本当に私の信奉者なら、私が許さない。

紅羽が死ぬ時は、私が死ぬのと同じ時よ、それより先に逝くなんて認めないから。だから、これ以上貴女の体に負担はかけられない。だから、分かって。紅羽と一緒に死ぬと決めてるから、私は、貴女から三度目の血は貰えない。代わりに、裏切り者の、でも幼馴染の椛の血で、「邪印」の完全体の力を手に入れる」

「本当・・・?信じていいの・・・?死ぬ時は、必ず私と一緒に、死んでくれる?」

「ええ・・・。椛の事を、忘れたのかって言われたら嘘になる。だけど、あいつが・・・私の隣に横たわって死んでくれる事は、もうない。今のあいつは他の女と一緒に、私を裏切ったから。でも、紅羽は裏切らないって信じられる。私を、理想の死へといざなってくれる人だって貴女が信じてくれてるから。私が死ぬ時は、紅羽に、私の死体の隣で、一緒に死んでいてほしいって、今の私は願ってる。これでも、まだ私の事を、信じてくれない?」

紅羽の苦痛の記憶が詰まった、短剣の傷痕を‐左手首の幾筋ものためらい傷を、その一筋ずつを、優しく指先で撫でながら、沙耶はそう語りかけた。紅羽に、もう二度と、「死にきれなかった者」「一人遺された者」としての苦しみを味わせたりはしない。必ず、紅羽を連れていく。

「分かった、信じる・・・」

そんな、まるで沙耶よりももっと幼く感じられるような口調になって、紅羽は言った。晩秋の日の落ちるのは早く、先程、秋晴れの夕空に舞う風花に見惚れていた時間から、大した時間は経っていないにも関わらず、もう車内は、灯がなければお互いの表情も見えづらくなっていた。その中で沙耶と紅羽はお互いのコートに包まれた背中に手を回して、抱き合っていた。きっと、もっと明るくて顔が見えたなら、紅羽の美しい顔が、不安に歪んでいる様が見えた事だろう。

紅羽は間違いなく、単なる、沙耶と同じ、「死に恋する者」として、沙耶の主張を熱心に信奉するばかりではなく、沙耶に対しても恋していた。最初に沙耶に近づいた時は、沙耶の行動力を利用して、自分の理想の死を体現したかっただけだったかもしれないが、今の紅羽は、沙耶の為なら、命も投げ出さんばかりに、沙耶に恋していた。

死ぬ時は二人一緒だと誓い合っているというのに。


「恋は、この世界に未練を残してしまう感情だよ。だから、僕は恋はしない」

かつて、椛が沙耶の告白に答えたその、呪いに等しい言葉が頭をよぎる。

しかし、結局は椛も、その言葉を裏切って茜と繋がり、沙耶もまた、紅羽に思いを寄せられ、新たな心の結びつきを得た。

『恋をする事は出来るよ、椛。例え一緒に死ぬ誓いを交わしても。足枷や、この世界への未練になんか決してならない。寧ろ、恋心こそが、一緒に死ぬっていう誓いを、これ以上ないくらい確かなものにしてくれるんだから。貴女だって、あの女・・・茜と出会った今ならもう、気付いてるんでしょう?』


あの日、言えなかった、椛の言葉への答が頭に浮かんだ。その時だった。

スマホの着信音が鳴った。他ならぬ、椛からメッセージだった。

「約束通り公園に来たよ、沙耶。待ってるからね」

ただ、一言。酷く緊張している事が画面から伝わってくるようだ。

沙耶は、紅羽の体からそっと体を離すと、「じゃあ、椛が公園に着いたみたいだから、行ってくるね。紅羽。紅羽は車で待っててくれていいからね」と言って、助手席のドアを開けた。気の早い寒波が来ているというだけあって、冷たい空気が頬を刺すようだった。車から降りる背中に、紅羽の声がかけられた。

「もし・・・沙耶ちゃんが戻って来るのが遅いようだったら、私、助けにいくから。今、私の一番大切な人は沙耶ちゃんだから、何かあったら、相手が幼馴染の子だろうと許さないから」

「気遣ってくれてありがとう。でも、大丈夫だから。これは椛と私の問題だから、二人で向き合いたいんだ」

そう答えて、沙耶は夕暮れの帳が薄っすら降り始めた公園の、紅葉が見事な森林の方へと歩き出した。


茜は、公園の入り口から、奥へと続く並木道に辿り着いた。そこで、イチョウの木が並ぶ並木道の向こうへと歩いていく、椛の背中を見つめた。幸い気付かれる事はなかった。昔、茜も小学校の遠足で来た事のある、広い市営の緑地公園だ。晩秋の今の季節なら、紅葉見物に訪れる客も多いが、平日の夕方5時過ぎに、公園を訪れている人は少なく、園内は閑散としていた。枯れた落葉も多かったが、夕方の小雪の為に水分を含んで濡れており、踏んでも音があまり鳴らないのが、尾行には幸いした。

椛は、沙耶に誘導されているのか、時折スマホの画面をつけては、場所を確認しているようだった

「この先に、柊木さんが・・・」

沙耶の謎の力で、自殺へと扇動された人の数は数十人にも及んだ。彼女を止めなければ、椛も何処までも傷ついていくし、何より、このまま幾多の人の命が失われるか分からない。

沙耶の操る得体のしれない力への恐怖に、足が竦みそうになるが、今、椛を助けにいけるのは自分しかいない。どれ程、茜が非力であったとしても。

「お願い・・・、貴方に不思議な力があるのなら、椛と私の二人を守って・・・」

首につけていたネックレスを外して、自分の血晶を握りしめる。血晶は、危機の到来を知らせるように、茜の掌の上で熱くなっていた。

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