第18話 邪印の代償と、裏切りへの『償い』

「語ってもいいのだけど、このナイフを喉から離してもらえない?どうしても?」

「ええ、貴女が、洗いざらい真意を話したって、私が信じられるまではね」

ナイフを離すどころか、更に強く、『彼女』の喉笛にぐいぐいと押し当てるようにして、沙耶は威圧した。

しかし、『彼女』に相変わらず、全く動じる気配はなかった。その余裕は大人故のものというよるは、『彼女』の、「死んでもどうでもいい」という元々の厭世観から来ているのは間違いなかった。

ふう、と『彼女』は観念したように、溜息を一つついた。それに伴うように、彼女の耳たぶを彩っている、血晶の紅いピアスが小さく揺れた。そのピアスに、愛おしそうに『彼女』は指先でそっと触れた。

そして、そのまま今度は、着ていたパジャマの上のボタンを二つ外して、胸元を緩めた。その彼女の、胸元の白い肌の上に現れている物を見た時、沙耶は、驚きに声が漏れた。

「な・・・!そ、それは・・・」

「そう・・・今はもう、こうして色褪せてしまっているけれどね、気付いてるみたいだけど、これは、血晶の『聖刻』よ。厳密には、かつて、『聖刻』だった物というのが正しいわね。今は、これはただの黒ずんだ痣。何の力もありはしないわ。私と、ある人との『悲恋』の最期の結末を、華やかに彩る筈だった、『聖刻』」

ある人との『悲恋』・・・。いくら、ナイフを首に突き付けられてもピクリとも動じなかった『彼女』が、その話に至った途端、声が僅かに震えたのが沙耶には分かった。

「私の魂はもう、あの場所で、あの人と共に死んでいた。今、生きて、沙耶ちゃんの前にいるのは、魂を亡くした、心臓が脈を打って、単に生物として生きているだけの空っぽの私よ」

「それはどういう意味・・・?」

彼女は、次に、パジャマの長袖に隠れていた、左の手首をすっと、袖を上げて、テーブルを照らす照明の下に、差し出した。

「沙耶ちゃんなら、これが何の痕かはすぐ分かるでしょう?」

それは、痛ましい、幾筋ものためらい傷が刻まれた、リストカットの痕だった。

その傷の一筋、一筋に、それを刻み付けた時の彼女の思いまでも諸共に刻み込まれているように、沙耶には感じられた。ある傷は、震えながら恐る恐る刻み付けたように線も何処か浅くて、弱々しい。またある傷は、自暴自棄か何かで、精一杯切り付けたように、直線に、鋭く刻み込まれている。

「これ・・・どうしたの?」

「私と、恋をしていたある女性。その人と美しく、華々しく迎える筈だった、二人の『悲恋』の結末が、無様で滑稽な喜劇に変わってしまった、その時の古傷よ。死に損なって、恋人を置いて逃げた卑怯で、勇気のなかった私を、この傷は今でも思い出させてくれる」

そうして『彼女』は語り出した。

この街にやってくる前に、『彼女』が、とある女性と起こした、血晶の力を使っての「心中事件」・・・。正確には『彼女』だけが生き残り、相手の女性だけが海の泡と散って行った、「心中未遂事件」の事を。


当時、海沿いのとある市に住んでいた『彼女』は、親のコネで、沙耶も聞いた事くらいはあるような、それなりの有名企業の支社に勤めていたのだという。親は地元の保守的な有力者で、品行方正に生きるように、小さい頃から親の敷いた線路の上を走るような生活だったと。

そんな、周りに流されていく生き方に、何か満ち足りない物を感じて、特に魅力も感じられない会社で仕事をこなしていた『彼女』に、ある出会いが訪れた。

相手も同じ女性であったが、何処か、生きる事に意味を見出せない、疲れたような、哀しい目をした人だった。その目に惹かれて、いつしか『彼女』は恋に落ちた。

その女性と『彼女』は忽ちに気が合い、付き合い始めた。実質、半同棲に近いような生活になってからしばらくした頃、二人でアクセサリーを買いに店を訪れた時-、血晶のアクセサリーに出会った。

それが、二人の運命の歯車が動き出した時であった。

「あの、ワイドショーを連日騒がせた、二人の、女性同性愛者の女優さんね。あの二人の連続自殺事件で、世間が血晶に何か不思議な力が宿っているんじゃないかって騒ぎ始めるより前に、もう私達二人は、血晶が起こす現象に出会って、その力に気付いていたの」

血晶のピアスを二人は、お互いにプレゼントとして贈り合い、職場にも着けていくようになった。それから程なくして、異変が起きた。相手への気持ちが、愛情が高まる程、胸元の肌に何か熱い物を押し付けられたような、不可解な痛みが走り、そして、それはやがて、血晶の紋様にそっくりな、火傷の痕のようになったのだと。それも、二人、ほぼ時を同じくして、その現象は始まった。

「それが、貴女と、その恋人の女の人の・・・、血晶が刻んだ「刻印」だったわけね」

沙耶の言葉に、『彼女』は頷く。

「あの時は、血晶がどうやらこの不思議な事に関わってるらしいという事しか分からなかった。でも、私も、あの子も、よく分からない不思議に巻き込まれてるのに、不安はなかった。何か、常識を超えた特別な力で、血晶が私達の結びつきを強めようとしてくれているのが分かったから。私達二人は、この不思議な現象で出来た紋様を、『刻印』と呼ぶようになったわ」

ところが、そんな二人の幸せも、そう長く続く事はなかったのだった。

『彼女』と、その女性の‐同性での交際は、とある者の「密告」によって、『彼女』の父親に告げ口をされる事になり、一夜にして、大騒動となった。

「私が、ずっと職場で、あの子との関係を隠して、誰も付き合ってる人はいないなんてずるい建前でいたのも悪かったのだけど・・・、私、ある男の人を、それも、結構な地元の名士の御曹司みたいな人との縁談を断ったのね。その人と私は以前から、家の付き合いで顔見知りで、向こうはもう、確実に縁談は決まるものだって思い込んでたみたいだから面子を潰されたと物凄く怒って・・・、それで、何とか私に思い知らせてやれないかって、探偵まで使って探らせていたらしい。そしたら、あっという間に、私とあの子の関係は家に知れ渡る事になった」

「最低・・・!!」

沙耶は嫌悪感に思わず、そう言った。吐き気がするような、陰湿なやり方だ。面子を潰されたと逆恨みした挙句に、『彼女』が、本当に好きな相手との関係を暴いて、実家に密告するなどとは。

保守的で昔気質の『彼女』の両親は、『彼女』の本当の性的指向を知るや否や、大激怒した。何とか『彼女』と、相手の女性を引き剥がそうと、会社に圧力をかけて、相手の女性をでっち上げでも何でもして、へき地に追放までしようとしたところで、『彼女』はもう限界になった。会社も実家も全部放り出して、恋人の女性と街を逃げ出した。

‐何処か、自分や、椛の生まれ育った家庭と、環境を見ているようだと、話を聞きながら、沙耶は思った。この、何もかもが未知の存在だった女が初めて、自分に近しい存在なのだと気付けた。

『彼女』の話は続く。

「引き裂かれるくらいならば一緒に死のう」と、誓い合って、二人の気持ちが重なった時、「刻印」に、今までにない程の激しい痛みが走り・・・そして、血晶から発せられる眩い光の中で、二人の血晶の「刻印」が重なり合って・・・今のネット上の血晶に関する都市伝説でいうところの、『聖刻』が誕生したのだと。そう、奇跡を見た瞬間を語った。眉唾物ではなく、『聖刻』という現象が本物であるという事を知っている人間がこんな近くにいたとは。

『彼女』と、恋人の女性は、血晶に起きた、更なる信じがたい現象を続けて目にした。

血晶は、二人の意思に反応するかのように、今、彼女らが最も欲している物-、お互いを死に誘ってくれる、紅く鋭い刀身の、短剣の形へと姿を変えた。

そして、二人は海辺に行った。入水するつもりだった。しかし、ただ、海に入っていくだけでは潮の流れなどに邪魔されて、上手く沈めないかもしれないし、死にきれない可能性がある。だから、二人は、血晶を短剣の形に変形させた。

より「確実に死ぬ」為に、手首を切って、血を流しておくようにしたのだ。

「『聖刻』を手にした時、血晶の形を自由に操れるって、本当の話だったのね・・・。あの女優さんの自殺のニュースの時は、私もまだ、本気では信じ切れてなかった」

「そう・・・。だけど、美しい悲恋として話せるのはここまで。それからは・・・私の無様な悪あがきの話にしかならない。筋書き通りの悲恋の結末とは、ならなかったわ・・・。あそこまで及んでおきながら、私は、土壇場で「死」を恐れたから」

血晶が形成した、短剣を手首に当てた時、体に震えが走った。「死」だけが二人を救済して、純潔で、この世界よりも至上な場所へと連れていく優しい案内人であると、二人一緒に「死」に恋していた筈なのに、恐怖が初めて生まれた。

何度も、何度も手首を切ろうとしたが、その度に力が抜けて血管を切れなかったり、自暴自棄に任せて切ろうとしても、刀身は、血の多い動脈を逸れて、斜めに手首の上を走ったりした。‐いや、逸れたのではなく、自分の中の恐怖が無意識に刀身をずらしていたのだ。

何度もそんな事を続けて、足元を流れていく海水の上に、血が垂れてはあっという間に小波に流され、消えていった。遂に、痛みに耐えかねて座り込みそうになった『彼女』に、恋人の女性はこう言ったのだと。

「手首を切るのが辛いなら、血晶を、二人を結ぶ輪に変えて、手を結んでしまいましょう。そしたら、どんな波が来ても、引き離されはしないから」

そうして、相手の女性はピアスの片方の血晶を手にして、それを二人の手をバンドのように固定する、輪に変化させた。これで、沈んで行ける筈だった・・・。

「でも・・・結果は、こうして今ものうのうと生きている私がここにいるのを見れば分かるように」

「失敗、したのね・・・」

沙耶が言葉を継いだ。

「血晶を硬い輪に変えて、二人の手を固定して、海に沈んでいく時・・・、覚悟が決まっていたのは、あの子の方だけだった・・・!私は、初めて「死」の素顔を見て、怖くなって・・・。二人で暗い水の底に沈んでいく時、海面に手を伸ばして、もがいてしまったの!そうしたら、多分、その思いが彼女にも伝わったのでしょうね・・・。血晶の輪が急に緩んで、私だけが解放され、海面に浮いていった。彼女だけが、そのまま、水底に沈んでいったわ」

その後、彼女は半狂乱になりながら、何度も海の中にまた潜って、相手の女性の姿を探そうとしていたところを、海上保安庁の船に見つかって救助され、陸地に連れ戻されてしまったのだという。

「海保の船の上からも何度も、あの子の名前を呼びながら、海にまた飛び込もうとしたけど、結局抑え込まれてしまって・・・それ以上、あがく体力はもう私にはなかった。そこから待っていたのは、『死』よりも辛いかもしれないくらいの、地獄だったわ・・・」

実家に残していった遺書から、『彼女』が恋人の女性と二人、海で入水か、投身自殺を図る気でいる事を知った両親は大騒ぎをして、警察と海保に捜索願いを出していた為、あっという間に『彼女』の身元はバレて、実家に連れ戻された。そして、間もなくして、沿岸部の岩場に打ち上げられた、恋人の女性と思われる相手の水死体を、海保が発見したという知らせが入った事で、『彼女』の両親の怒りは頂点に達した。

嵐のように彼女の家に、近所から、「心中を図った挙句に、恋人だけ死なせて、自分は生き残った」『彼女』への非難の電話や、家の壁への嫌がらせの張り紙が相次ぎ、世間体の点からも、最早『彼女』をこれ以上、家に置いておく事は出来ないと判断した『彼女』に言い渡したのだという。

「勘当・・・ですか?」

21世紀の時代に聞くとは思えない言葉だったが、確かに彼女はそう言った。

「そう。うちが世間から袋叩きに遭ってるのは全部、お前が無理心中なんか図った上に、おめおめと自分だけ死に損なって帰ってきたからだ。もう、二度と実家の敷居は跨がせないし、我が家に関わるなってね。でも、最後の情なのか分からないけど、『生活費や他の金は送るから、見知らぬ土地で一切何もせずに、世間にも出ずに生活してろ』って言われて、それでこの部屋をあてがわれて、今もこうして、死にぞこないの私は、こんな隠居みたいな生活をしてるって事。結局、あの子の遺体にも会わせてなんかもらえる筈もなく、うちに怒鳴り込んできた向こうの父親に私は、足蹴にされた挙句に何発も殴られた。あのまま、私は殴り殺されるんじゃないかって程の剣幕だったわよ」

沙耶は、何度も何度も、拳が肌を打つ、重く鈍い音を聞いた心地がした。

彼女は、そこで、「心中未遂」事件についての話は口を閉ざした。

やはり、彼女は前にも、血晶にまつわる死の瞬間を見ていたのだ。だから、駅でのあの、一般人から見れば、常軌を逸したような現象を見ても、彼女は何も驚きはしなかった。

「血晶について詳しかったのはその為なのね・・・」

「そう。『死にぞこない』になった私は、生活に必要なだけのお金を渡されて、有り余る時間をこの部屋で過ごすようになった。あの時、直前まで恐れてなんかいなかった筈の死を、恐れて、日の照らす海面を何故自分は掴もうとしたのかの答も出ずに、あの子の手を振り払って、自分だけ土壇場で生に縋った事を恥じながら・・・。

唯一の、あの子の忘れ形見の血晶の、この『聖刻』と一緒に。まぁ、これは厳密には、かつて『聖刻』だったものと一緒、というのが正しいけどね」

そうして、『彼女』は、胸元に残る紋様を、指で指し示した。残されたそれは、『聖刻』というよりは、禍々しさを感じさせる、黒の線で織りなされた複雑な紋様を呈している。この、『聖刻』の鳴れの果てのような紋の中にだけ、亡き恋人の女性の魂は生きているのだろう。

これもかつて、恋人の女性が生きていた頃は鮮やかな紅き紋様だったのだろうか。

しかし、今のその紋様に聖性のような物は一切感じられず、沙耶は、そこから、哀しみ、憎しみといった黒い感情しか読み取る事が出来なかった。

「それって、まるで、私の・・・」

「そう。これは、闇に堕ちた『聖刻』・・・。いや、「邪印」と同質の物よ。運命の相手を亡くした時、遺された人の『聖刻』は、清い力は失っていき、こうして闇へと染まっていくの。最期には「邪印」に成り果てる」

そう言って『彼女』は、ピアスの片方を取って、紅い血晶を、胸元の黒い紋様に押し当てた。その邪悪な意思に反応したように、血晶はみるみると伸びていき、紅い刀身の短剣の形を形成した。

沙耶は、話半分にしか聞いた事のない、「血晶の形は人間の意思によって操る事が出来る」というその瞬間を目の当たりにして、唖然とする。

「私の血晶は、こんなに反応しない・・・。今、どうやったの、貴女」

「『邪印』を手にすれば、すぐに血晶の形を操れるようになれる訳じゃないの。単なる「刻印」では、血晶が持っている意思と同化して、形を操れないのと同じように、沙耶ちゃんの『邪印』は、まだ、初期の段階だから、血晶を操るにはまだ十分な力を得てない・・・。沙耶ちゃん。邪印の発動条件は何だったか覚えてる?」

「自分を大切に思っている人の血を、血晶に吸わせる事・・・」

「私の血でも、勿論、沙耶ちゃんの邪印の力をある程度なら強くする事は出来るけど・・・。でも、貴女には、もっと、思っている人がいるんでしょう?お互いに大切に思っていた相手の子が」

沙耶の脳裏の暗闇に、自分に背を向けて、歩き去って行く、ショートボブの髪型に、肌の白さが眩しい、椛のうなじを襟足から見え隠れさせながら歩く、椛の姿が浮かんだ。子供っぽい二つ結びのおさげを揺らしている、あの女-、穂波茜と並んで、自分から歩き去っていく彼女の背中を思うだけでも、胸元の、出来たばかりの沙耶の邪印が疼く。

「あの子の・・・霧島椛の血を、私の血晶に与えないと、私の邪印と血晶の力を最大限に引き出せないっていう事ね・・・」

「その通りよ」

そこまで話した時だった。急に『彼女』は、胸を手で押さえて激しく、咳き込み始めた。血晶の短剣を、苦し気にテーブルの上に放り出すと、短剣は忽ちに縮んでいき、元の血晶の形に戻ってしまった。『彼女』はもう片方の手で口を押さえていたが・・・やがて、そこから、紅い雫が指の合間を伝って、一滴、もう一滴とテーブルの上に垂れ始めた。

「ぐっ・・・」

予想だにしなかった光景に、沙耶は咄嗟の事で、声も出ない。しばらく背中を曲げ、苦しそうに肩で息をしていた『彼女』が、やっと口から手を離すと、その掌は、血晶と同じ鮮紅色の液体で染め上げられていた。吐血だった。

「え・・・?な、何よ、急にどうしたの、貴女」

沙耶の声に、しかし、『彼女』は真っ赤に染まった掌を眺め、まだ、口元から一筋の血を垂らしながらも、驚く程、落ち着いた声でこう語った。

「・・・前に、SNSだけでしかやり取りしてなかった時に、私が言った事、沙耶ちゃんはもう忘れた?邪印は、『刻印』や『聖刻』とは違って、強制的に血晶の邪悪な意思や、力を人間が引き出す物。だから、その代償は見ての通り、大きいのよ。血晶を今こうして無理に変化させたから・・・私の体と命を、血晶が削っていったわ」

「邪印」の代償・・・。そういえば、『彼女』と、まだSNS上だけでの付き合いだった時に、そんな話を聞かされた。

「私に、『春まで生きられないかも』って言ったわね、貴女。邪印の力を使うなら。これが、その邪印の代償という訳ね・・・。よく貴女、そんな物を抱えながら、今まで何とか生きられたわね」

「こうなる事を体験で知っていたから・・・、邪印で血晶の力を無謀に使うのは止めていたの。それでも、邪印はどんなに使うのを控えても、高率に体を蝕んでいくわ・・・。まして、沙耶ちゃんは、貴女の大切な人を取り返す為に血晶を使おうとしていた。そんな激しい使い方をすれば、邪印は、私のよりもずっと早く、沙耶ちゃんの体を破壊して、命を削っていくわ。春まで生きられないっていうのは、そういう意味よ。私だって、ここ最近は、血晶の為に血の減り方が酷くて、ずっと病院で貧血の治療を受けながら、何とか延命してるような感じだった」

何とも奇妙な話だと、話の最後の部分を聞いて、沙耶は思った。あれだけ、沙耶の主張にSNS上では共感してくれて、こんな世界に生きる価値などないと思ってくれていた筈の『彼女』が、「邪印」の代償で死なないように、延命治療を受けていたとは。ましてや、以前、同性の恋人との心中にも失敗した故に、自分の事を「死にぞこない」とまで揶揄するような人間である『彼女』が、だ。

沙耶は手にしていたナイフを引っ込めると、テーブルの反対側の、自分の椅子に戻って、彼女の行動の奇妙さをこう指摘してやった。

「変なの・・・。あれだけ、私と一緒に『この世界にサヨナラを』って叫んでたような貴女が、しかも、一緒に死ねなかった恋人の女性にもずっと負い目を感じてるような貴女が、治療なんて受けるとか・・・、言ってる事とやってる事、矛盾してない?貴女は結局、生きたいの?それとも死にたいの?」

沙耶の問いに、彼女は片手も、唇も鮮血に染めたまま、迷いなく答えた。

「一人黙って、この部屋で、血が減り続けた末に野垂れ死ぬような、そんな最期はごめんだっていうだけよ。死ねるのならば、私は何でもいいわけじゃない。血晶の病で一人死んでいくのも嫌だし、勿論事件や事故で理不尽に命を取られるのだって嫌。この世界、社会に、せめてもの復讐の一撃を食らわせて・・・二度と私や、あの子のような人間がいた事を忘れられないくらいの一撃を与えてから、死んでやるの。そして、それだけの復讐を成し遂げるには、私一人の力ではどうにもならない。だから・・・私は、血晶の都市伝説を、自分の経験した事をインターネット上にばら撒いてやったの。誰か、私とあの子と同じような苦しみを抱えている子が、血晶に魅入られて、事件を起こさないかって。そしたら、こんなにうまくいくとは思ってなかったわ。あんな、女優さんの事件が起こって、世間が注目せざるを得なくなったのだからね」

「えっ・・・!!じゃあ、この、血晶の都市伝説を、最初に流したのって・・・、貴女だったの?」

驚きのあまり、沙耶は立ち上がる。いつの間にか、SNS上でも多くの人が知るようになった、血晶の都市伝説。その発祥は、『彼女』の実体験だったのだ。まさか、自分の唯の熱心な1フォロワーに過ぎないと思っていた『彼女』が、世間を震撼させている血晶の、都市伝説の最初の発信者だったとは。

「そう。自殺願望のあるような人が集まるネットの掲示板に最初は、血晶が如何にロマンチックに心中を盛り立てるかを書き綴って、餌を撒いた。そしたら、予想以上の大きな反響になってね。いつの間にか、自殺志願者以外の人の見るサイトやSNS上にも、血晶の噂は出回るようになっていった。でも、決定的だったのは、あの女優さん二人が相次いで自殺した件ね。あのお二人には悪いけど、思いがけずも、血晶は自殺を、死を盛り立てる『小道具』『舞台装置』として使える事を、世間に知らしめてくれた。そして、そんな中、私は、貴女を‐沙耶ちゃんを見つけたっていう訳」

「貴女の、同性愛を抑圧した社会への復讐の為の死。その小道具に、あの女優さん二人も、私までも、最初から利用する気でしかなかったっていう訳ね・・・」

沙耶の直感は当たっていた。『彼女』は、大人のくせに、高校生の厭世主義者とSNS上で仲良くなって、熱烈な信奉者となったような、ただの変人ではなかった。

「私の身の上とかを知って、利用価値があると思って近づいたんだ」

「そう。同性の子との『悲恋』に悩んで、世を儚み、憎んだ末に、死を考えるようになった女の子。これほど、ネットを彷徨ってる人々の、安い情を集めるのにぴったりな存在、いなかったからね。同性愛者は可哀想な人達で、悲恋にしか終わらないとしか、考えてないようなあの連中も、同情せざるを得ない対象でしょう?現に、貴女のフォロワー達は皆、貴女に惹かれて、「死」への甘い憧れに酔いしれてるわ。可哀想な、純潔の貴女と共に、醜いこの世界にサヨナラするんだって」

『彼女』は、沙耶が当初思っていたのよりも、ずっと狡猾な人間だった。恐らくは、「彼女』には『彼女』なりの、「華々しい最期」、「自分の訴えを世界に刻み付けられるような最期」という青写真がきっと、もうあるのに違いない。

そして、その為に、自殺志願者向けの掲示板や、SNS上で用意周到に血晶の都市伝説を流して、布石を仕組んでいた。そして、例の女優連続自殺事件を皮切りに、多くの人が『彼女』の仕組んだその石に足をとられ、血晶の、死に誘う魔力に魅入られていった。結果的には、沙耶も、全く気付かないうちに、『彼女』のシナリオに飲まれていた訳だ。

「私と同じように、貴女にも理想像の死に方があるという訳ね・・・。そして、その実現の為に私も、このまま利用していくつもりだった。はぁ・・・恐れ入るわ、貴女、そんな狡猾な人だったのね」

「まぁ、こんな話になってる時点で、貴女を上手く利用するっていう私の目論見は崩されたけどね。やっぱり、沙耶ちゃんの目は誤魔化せなかったか」

沙耶は考える。『彼女』が沙耶を上手く利用して、自分の理想の形での死を遂げたい事は分かった。

『彼女』も沙耶も、出会い、歩んできた人生はどうあれ、同じ、女性を愛する女性であり、この社会に憎しみを抱いたまま、生き続けているのも共通している。『彼女』と沙耶が反目する理由は、何もない。沙耶の方こそ、上手く『彼女』の境遇や、大人としての『彼女』の力を利用すれば、一人でいるよりずっと安全に行動が出来る。『彼女』の庇護下にいる限りは、身を隠すところにも困る事はない。

「いいわよ・・・。貴女の目論見に、乗ってあげる。私と貴女で、利害も一致してるし、憎むべき『敵』も同じみたいだから」

「敵・・・?」

「そう。私や、貴女のような、同性をしか愛さない人間は『いない者』としてしか扱って、少しでも存在を主張すれば、消し去ろうとしてくる。反吐が出るようなこの世界。それが私と貴女の共通の、憎むべき敵よ。だから、改めて手を組みましょう・・・えっと、貴女の名前は・・・」

まだ、『彼女』の名前を沙耶は聞かされていない。『彼女』は、まだ血糊がついたままの唇で囁いた。

「紅羽(くれは)よ。紅に、鳥の羽で、紅羽」

紅羽・・・。それが『彼女』の名前。

「分かったわ。じゃあ、紅羽。そしたら、早速なのだけど、私の為に、力を貸してほしい事があるの」

「ええ、勿論、何でも協力するわ」

沙耶は、血晶の噂を最初に広めた張本人であり、誰よりも血晶の事を知り尽くしている紅羽が語った、ある話を思い出していた。

血晶の「邪印」の力を、最大限に引き出す為には、本当に自分の事を大切に思ってくれている人の、血液をいけにえとして、血晶に捧げねばならないと。

それには、紅羽の血だけでは足りない。どうしても彼女の‐、椛の血が必要だった。

スマホで日付を確かめる。もう、椛との約束の日である、『償いの日』は目前であった。

椛は、沙耶の思いに応えてくれなかっただけでなく、新たな裏切りを重ねた。恋はしないと言っておきながら、茜などという女に近づき、行動を共にしている。

椛の、沙耶に対する裏切りへの償いは、椛の血によって支払わせてやる。

今年の『償いの日』に、椛に差し出させるものーは決まった。

沙耶は、紅羽に言った。

「とある女の子を襲って、その血を奪いたいの。血晶に捧げて、私の『邪印』の力をもっと引き出す為に。私の唯一の幼馴染で、心を通わせてきた子の、血をね・・・。だから紅羽には、その子を襲うのを手伝ってほしい」

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