第17話 茜の動揺と、『彼女』の目的

意識が闇に飲まれる間際、最後に覚えていたのは、夕方の駅の雑踏の中、突如として現れた、鮮血の噴水と、噴き上がった血が、重力に引かれ、血の雨となってポタポタと降りかかってくる景色だった。

「・・・かね!!茜!!しっかりして!」

すっかり耳に馴染んだ少女の声が、自分の名を呼んでいるのは微かに聞き取れた。そして、周囲が、半狂乱に近い騒ぎで、あらゆる声が入り乱れているのも。


茜はハッと目を覚ました。いつの間にか、茜は駅の固い床の上から、何処か柔らかい場所に横たえられていた。めまいでもあるのだろうか。体が揺れているように感じる。

まだ、脳が衝撃から抜け出せておらず、先程まで自分が何をしていたのかも、すぐには思い出せない。

真っ先に浮かんだのは、駅の雑踏の風景。そこの一角の柱の前で佇んでいた、一人の少女が、突然、何かを叫んで、銀色の刃を振り上げた。あの少女の最期の言葉は、確か

『この世界にサヨナラを!!』

そこまで思い出したところで、そこから先の光景を想起するのを強制的に止めるように、茜のこめかみにズキリという痛みが走る。心臓が、早鐘を打ち始め、茜は胸を押さえる。

『そうだ・・・、柊木さんが私達をあの駅に呼び出して、美しい光景を見せてあげるとか言って・・・、それで、言ったら、突然、一人の女の子が叫んで、包丁を首に・・・』

鮮血の色が、脳内に蘇りそうになった、その時・・・優しく、茜の髪を、温かい手が撫でていった。

「良かった・・・目が覚めた?茜」

その声に茜は、救い出される心地がした。何故か、自分の頭の真上から降ってきたその声に、茜は答える。

「も・・・みじ・・・?ここは何処?」

「茜が、歩けそうな状態じゃなかったから、うちの車を呼んだ。今から、茜の家まで送ってあげる」

揺れているような感じがしたのはその為か、と茜は気付いた。今、自分と椛は、霧島家のお抱え運転手の車に乗せられて、茜の家の方へ向かっているらしい。

「そんな・・・うちまで送ってもらうなんて悪いよ・・・」

「こんな状態の茜を、一人で駅から家まで歩いて帰らせられる訳ないでしょ?確か茜の家、結構駅から距離もあったし・・・。気なんて遣わなくっていいから」

茜はそこで、頭の後ろに違和感を感じた。今、自分は車の後部座席に横たわっているようであるが、頭だけは、何か、温かくて、少し滑らかな感触もするものの上に乗せられているようなのだ。座席のシートとは明らかに違う、頭のこの感触と、それに、顔を向けると、何故か真上に見える椛の端正な顔立ち・・・。先程見た時は、そこに紅い飛沫が付いていた筈であるが、それも綺麗に拭き取られている。

「も、椛、今、膝枕してる・・・⁉」

「だって、揺れる車の中で、固いシートの上に茜を寝かせておけないでしょう?せめて、頭だけでも何かに乗せてあげたかったけれど、他に、枕代わりになるような丁度いい物がなかったから・・・」

だからといって、目が覚めたら椛に膝枕されて、横になっていたというのでは驚くなという方が無理な相談だ。茜は、状況を把握するや否や、椛の顔を見るのが恥ずかしくなって、真横を向く。

「こんなの・・・膝枕とか、お母さんにもされた事ないよ、私・・・。恥ずかしいし、足、痺れない・・・?私、重くない?」

茜の気遣いに、椛は答える。

「大丈夫、茜、頭小さいし、全然重たくなんかないよ。それにしても・・・」

椛は、さっき、茜が咄嗟に発した一言を、聞き逃さなかったようだ。

「その言い方だと、茜もされた事ないんだ。お母さんに、膝枕・・・」

その、含みのある言い方に、茜は、椛が言わんとしている事は分かった。彼女は、自分の家である霧島家では、溌溂として凛々しく、男性的に振る舞うように、と教育されてきた人間だ。母親とも、生まれた時から、消せない因縁がある。きっと、彼女も、母親に密着する行為の一つである、膝枕という行為に馴染みはないのだろう。

「そうだよ・・・、椛も同じなんだね。私は、物心ついてから、こんなに、お母さんにも、お父さんにも甘えられた事なんてない。うちは・・・『家族ごっこ』をしているだけの、人工家族みたいなもんだから・・・」

先程の、駅での、心の底からの恐怖体験。一つの命が血の噴水の中、崩れ落ちて、消えていくその瞬間。その直前の、鬼気迫るものさえ感じた、あの、首を切った少女の『この世界にサヨナラを』と叫ぶ声。少しでも思い出してしまえば、体中が凍り付いてしまいそうな、あの冷たく暗く、凄惨な光景から逃れたくて、茜は、いつの間にか、恥ずかしさも忘れ、制服のスカート越しにも伝わる、椛の膝の温かさに縋るようにしていた。ここから、椛の顔を間近に見る度胸はないが、今はまだ、この温かさに甘えていたい。

せめて、あの無機質で乾いた空気の、「家族ごっこ」をしているだけの家に帰り着くまでは、この膝の温かさから離れたくないと、強く願った。もう、起き上がれそうなくらいに意識ははっきりしてきていても。

椛が、ポツリと呟いた。

「さっきの、駅での事件の後ね・・・、沙耶からスマホにメッセージがまた来てたんだ」

沙耶。その名前を聞いた瞬間に、茜は、温まりかけていた全身からさっと血の気が引いていき、総毛だつ。あの惨劇の直後に、一体彼女は、何を椛に知らせてきたというのか。

「な、何を、知らせてきたの、柊木さんは・・・?」

「・・・認めたくないよ、あんなメッセージを沙耶が本気で送ってきたなんて。でもからかう為の悪ふざけとしては、あまりに、タイミングもピッタリすぎる。あの、惨劇のすぐあとに、沙耶が僕達を何処かから見ていたかのように、送られてきたんだから」

そう言って、椛は、スマホを取りだす。暗い車内で光るその画面を見せられ、茜はまた寒気が走る。


『どう、椛?もう見届けたかしら?血の噴水のショーを。そして、あの子が、この世界にサヨナラをする美しい瞬間を。今の私は、椛の知りもしないような力で、もう人を死に誘う事だって出来る。血晶からもらった力でね。でも、これは、まだほんの始まりに過ぎないから。世界が、崩れていくのを、あの女-、穂波茜と一緒に見ているといいわ。

そして、もうすぐ来る『償いの日』を、楽しみにしている事ね』


「こんなメッセージを、本当に柊木さんが書いたの?血晶の力で、人を死に誘う事が出来るって、どういう事・・・。まさか、さっきのあの子は、柊木さんが、血晶の特別な力を使って、自殺へと唆したって事?」

「・・・血晶の力は、人の意思と連動するし、人の意思とお互いに影響を及ぼし合うのは確実だけれど、僕も、そんな邪悪な力があるなんて知らなかった。本当なら・・・、沙耶は、殺人鬼にだってなってしまえる力を手に入れた事になる。一切、自分の手は汚さずに、ね」

スマホを、ブレザーのポケットに戻しながら、椛は言った。彼女の声もまた、沈んでいた。彼女の顔が血色が悪く見えるのは、決して車内の暗さからだけではないだろう。椛は

「沙耶が・・・、まさか、あんな事を仕組むなんて・・・!」

と呟き、唇を噛み締める。

そうして、茜の家に着くまでの間、椛は、茜の髪をそっと撫でて、時折その毛先を指に巻いたりなどしながら、視線は車窓の外を眺めていた。茜は何も言わずに、膝の上に頭を乗せて、椛にされるがまま、髪を撫でさせていた。少しでも、彼女の気持ちが和らげばと思って。

時折、車内に差し込む街灯や、店先の光にチラチラと照らしだされるその横顔は、これまでに見た事がない程、憂いを帯びていた。

無理もない話だと茜は思った。椛は、今、さぞかし自分を責めているのに違いない。

椛にとって、たった一人の幼馴染であり、彼女の死生観の理解者でもあった沙耶が‐どんな手段を使ったのかは、想像も出来ないが‐、先程の、名も知らない少女の、人々の目の前での「公開自殺」を唆したというのだから。

椛が、あれ程に拘っていた「自分の大切な人が傷つくのも、誰かを傷つけるのも見たくはない」という信条を、沙耶は平然と破った。間違いなく、茜と椛の二人が近づいたのを「裏切り」ととって、敢えて椛を最も傷つけるような事をしたのだ。

『でも、私に柊木さんを残酷だとか、責める資格はない・・・。私が現れなければ、柊木さんはいつまでも、椛の隣にいつもいる、美人で学校の人気者のアイドル扱いされていただろうし、人を操って、自殺させるような事までする人には絶対にならなかった』

椛がどれ程、茜を庇ってくれようとも、沙耶と椛の関係について、茜の自分を責める気持ちに変わりはなかった。椛が、大切な人に傷ついてほしくないと思うのと同じで、茜も彼女が苦しむ顔を見るのは嫌だが、その、そもそもの発端になった‐沙耶を凶行に走らせたきっかけは、茜自身なのだ。椛に、かける言葉が出てこない。


「ここ、だったよね。茜の家があるマンション」

運転手が車を止めてくれた。椛にそう言われて、茜も、流石に彼女の膝から、頭を上げざるを得なかった。

マンションといえば多少いい部屋を連想しがちであるが、穂波家が住んでいるのは築30年以上の古い安マンションの一室だ。

この一部屋に、茜が生まれてからの16年余り、無味乾燥な両親がいる。茜が両親を喜ばせようと頑張る事も飽きたし、両親も、茜を笑顔にする為に何かを与える事、関わってくれる事はとうの昔に無くなっていた。

椛の傍から離れて、あの部屋に戻るのが嫌だった。特に今日は、あんな恐ろしい光景を目の当たりにしたばかりなのだ。一人で、自分の部屋に籠って過ごす気にどうしてもなれない。でも、遅くまで帰らない父と、リビングで只管、ドラマやら映画鑑賞に興じるばかりで最近はろくに話もしていない母に、そんな事を言える訳がない。

椛の膝枕から起き上がっても、茜はしばらく、座席から腰を上げなかった。

茜は、椛の制服の裾を掴んで、引っ張った。

「お願い、椛・・・。せめて今晩だけでもいいから、一緒にいて。私は怖い・・・、あの光景を見てしまって、一人で眠れる気がしない・・・」


『帰りが遅くなってごめんなさい。家に友達が急に泊まる事になって、簡単に荷物をコンビニで買ってくるから、もう少し遅くなります』

そうメッセージを母親に送ると、やがて、気のない内容のメッセージが帰ってきた。

『今日は、遅くなるとも何とも聞いてなかったから、ご飯用意してないから、自分で買ってくるかなんかして。お友達が泊まるのは、別にいいけど、くれぐれも騒がないでね』

遅くなる事を事前に電話かメッセージで伝えておかないと、母は食事も取り置きしてくれないから、必然的にコンビニ食になる。

マンションのすぐ近くに幸いコンビニがあるので、そこに茜と椛は立ち寄ってから、穂波家の部屋に上がる。

「急にこんな事お願いしてごめんね、椛・・・」

「別にいいよ、幸い、明日から週末で学校も休みだし、家に教材を取りに帰ったりする必要もないから」

そんな言葉を交わしながら、古びて、薄汚れた扉が開いたエレベーターに乗り込んでいく。それに乗り込み、穂波家の部屋がある階まで上がっていく。

そして、玄関に上がる。

「おじゃまします」

という、聞き慣れない椛の声には流石に、茜の母親も反応したらしく、テレビの前を離れて、リビングから出てきた。

「あら・・・貴女は」

「穂波茜さんの同級生で、友人の霧島椛です。こんばんは。今日は、急なお願いですみませんが、おうちに泊まらせて頂きます」

椛も、そんな口調で、やけに堅苦しい挨拶を返した。殆ど、自由な交友関係を今まで持てていなかった彼女は、友人宅に泊まった事も‐きっと、柊木家を除いては‐ないのだろう。

極端に物が少ない、茜の部屋に案内する。とりわけ、血晶以外のアクセサリーやら、その他のファッションにも興味はないし、特別熱中している物もない茜の部屋に、華やいだ印象は全くない。地味なベージュ色のカーペットが敷かれて、腰掛け様のクッションが丸テーブルを挟んで二つと、ベッドと、上にノートパソコンが一台置きっ放しのろくに使ってもいない学習机と本棚があるだけ。多少の色彩のある、独房とでもいった方が似合いそうだ。本棚にも、学校の教科書以外は、流行っているからという理由で買っただけで、途中で読むのもやめた漫画本の他には何もない。何処を切り取っても面白味のない部屋で、茜の内面世界そのものを現しているように思われた。

「何もない地味な部屋でごめんね、一応、来客用のお布団はあるから」

クッションに腰を落としながら、茜は言う。座り込むと、今日一日の心の疲れからか、立ち上がる気力もこのまま、ふかふかのクッションへと吸い取られていきそうだ。

「いや、僕の部屋だって、本が多いだけで似たような物だし、気にしなくっていいよ」

椛もクッションに腰掛け、この、面白味も何もない筈の茜の部屋をキョロキョロと見回している。一周見回せば、目に入る物はなくなりそうな部屋なのだが、茜の部屋というだけで、彼女は興味深そうに色々と見回していた。

部屋が静かになるのが嫌で、茜は机の上のノートパソコンを開くと、いつも使っている無料の動画投稿サイトを開いて、適当に動画でもつけようかと思った。すると・・・表情が凍った。

「み、見て、椛。さっきの、駅での事件、もう全国ニュースで速報になってる・・・」

サムネイルを見ると「速報:○○市、血晶関連自殺か・・・。駅構内で女子学生、急に『この世界にサヨナラを』と叫び、包丁を首に」というテロップと共に、つい先程行ったばかりのあの駅が、上空からの報道ヘリの中継で映されていた。

動画を再生すると、「KEEP OUT」と書かれた黄色い規制線と、青のビニールシートが既に、女子学生が血みどろになって倒れた、あの柱の周りに張り巡らされて、警察官が出入りしているのが見えた。その前で記者が喋っている。

「駅には現在、大勢の警察官が出入りして、現場検証に当たっています、夕方の下校、仕事終わりの時間で混む駅の中で突如起きた惨劇に、駅の利用者である学生や、会社員の方々などにも衝撃と動揺が広がっています。死亡した女子学生は、○○市内の高校に通う高校2年生とみられています。目撃者の証言では、女子学生は、駅構内で突然、『この世界にサヨナラを』と大声で叫んだ後、隠し持っていた包丁を取り出して、首を切り、救急車で市内の病院に搬送されましたが、失血死が確認されたという事です」

次に「注:大変ショッキングな映像が流れます。モザイク加工をしてありますが、十分に視聴にはお気をつけください」という字幕が流れて、誰かが撮っていたらしいあの一場面が流された。

「この世界にサヨナラを!!」

間違いなく、ついさっき、茜も駅の構内で聞いた、あの叫び声だった。それを聞いた瞬間に、茜はまた、血の気が引いていき、机の前でよろけそうになった。

顔に、今はもう拭われた、生温かい紅い飛沫が、再び降りかかるような幻覚に襲われた。

すかさず、異変を察した椛が、ふらつく茜の背を手で支え、目を覆い隠してくれた。

「無理して見なくていいから。止めよう、この動画。茜、また青ざめてきてる」

椛は、動画の再生を止めて、パソコンを閉じた。椛は、茜をクッションにまた座らせると先程のコンビニで買った、まだ温かいはちみつレモンのペットボトルを開けて、渡してくれた。

茜は、急いで口をつける。喉を通っていく液体の、温かさと、ほんのり漂う柑橘系の甘い香りで、茜のささくれ立った心も少しだけ安らぐ。

生々しい「死」の姿を見せつけられた。血が、世界を赤に染めていき、この世界に消えない、「自分」という形の傷痕を刻み付ける瞬間を。

それを見て、茜の中で、今まで疑った事もなかった、自分の「死への恋心」が、揺らされそうになっている事に、茜自身が驚いていた。

だから、茜は思わず、椛に問いかけていた。

「・・・椛は、これから、どんな形であれ、私達が、「聖刻」を手にして、「死ぬ事」自体に、怖くなったりはしなかったの?さっきの、あんな場面を見ても、全然?」

椛は、その問いかけに、口に運びかけていたカフェオレの缶を止めて、テーブルの上に置く。真剣な眼差しで考え込む。

この質問は、して良いものだったのか、口に出してから茜は後悔した。「一緒に死ぬ」-極端に言ってしまえば、それを最終目標とする者として、血晶に選ばれた二人は、契約を結んだ。

お互いに、そこに行き着いた経緯は違っても、同じ『死に恋する者』として。

その心境が揺らいでしまえば‐、茜の中で、恐怖が『死への恋心』を上回ってしまえば、椛との、あの契約から始まった今の関係は続けられなくなるし、茜はもう椛とは一緒にいる資格が無くなる。椛もいなくなって、彼女の大切な幼馴染の、一人の少女の心を破壊し、狂乱に追い込んだという、最低な行いが茜には残るだけだ。

「私は・・・、今、二つの意味で怖いって思ってしまってる。あの、凄惨な場面を見て、『死に恋する』心が揺れるくらいに怖くなったのは勿論だけど、それだけじゃなくって、私が、『死への恋心』を失ってしまったら・・・、椛との今の関係だって消えてしまうんじゃないかって。もう、椛は何処かに行ってしまうんじゃないかって、それが怖い・・・」

テーブルの上で、両掌を合わせて握りしめて、震わせながら、茜は言った。

椛がどう反応するかが怖い。彼女と、血晶の導きで巡り合えたから、空っぽの自分の人生で初めての、特別な日々が始まったと、そう思えたのに、椛がいなくなれば、今の茜にはもう何もない。

「そんな事は絶対にないよ、茜」

だから、椛のその言葉を聞いた時、茜は心が焦がれる思いがした。それは茜が今、一番欲っしていた言葉だったから。

「あの光景を見ても、死ぬのが怖くならなかったのかって、茜は聞いたね。それで茜は、あの光景にショックを受けて、初めて『死』が怖いと思ってしまったから、もう僕と、今の関係を続けられなくなるんじゃないかって不安なんだよね」

「うん・・・だって、私と椛がこういう仲になれたのは、『血晶』の『聖刻』を二人で作り上げて、二人で死ぬ為なのに、私だけが、死ぬのが怖くなってしまったら、もう、今の関係は成り立たないんじゃないかって思って・・・」

「・・・実はね、SNSでも厭世系のアカウントやってて、今までも色々と茜に理屈を言ってきたくせにって、自分でも思うけど、『死ぬのは怖くない』なんて、僕は一度も思った事ないよ。」

俯き気味になっていた茜は、その言葉に驚いて、顔を上げる。

「椛も、私と一緒なの?死ぬのが怖い気持ちは・・・」

「そうだよ。僕だって、茜と同じ。例えば、理不尽に殺されたり、治らない病気になったりして、理不尽に死ぬのは絶対嫌だ。それに、『聖刻』の出来た先に、僕たちが一緒に死ぬ事だって、その日が、その瞬間が来た時は、きっと僕だって、体が竦んで、震えるくらいに怖くなるよ。僕は、茜が思ってるような、何か悟りでも開いたみたいな特別な人なんかじゃ全くない」

「それでも、椛は、『死に恋する』気持ちは変わらないの?」

茜の問いかけに、椛はゆっくり頷く。

「恋する相手が、常に優しさや温もりばかりを都合よく与えてくれる存在とは限らない。人が人に恋する時だって、きっと同じでしょう?死ぬ事と向き合う瞬間は、僕だって、怖いに決まってる。だけど、それでも、僕はその先にある、何か自分が生きた意味と、生きた証を見つけたい。自分の為だけに自分を生かしていくような生き方では辿り着けないような、大きなテーマをね。その気持ちは揺れないよ」

椛も、理不尽な死に方で人生を終えるのは嫌な、普通の人間なのだ。何も、死そのものへの恐怖を克服したような、特別な人間などではない。

「あの子の、駅での惨劇を見た時は、僕だって凄く怖かった。もう少しで、僕も気を失いそうなくらいにね。だから、茜は、何も、不安に思う事なんてない。死ぬのが怖い気持ちは、あって当たり前の事なんだから、それで、僕が茜を見限って離れていく事なんてないよ」

茜は、まだ椛の事を、達観した特別な存在なんだと思い込んでいたが、そうではないと、彼女は自分からそれを否定してくれた。

それでも、まだ、茜は椛に問いかける。もっと、自分を安心させてくれるような言質が取りたくて。自分が、こんなに面倒くさい一面があった事に、自分でも驚きながら。

「じゃあ・・・、私の傍から離れないで、今のままでいてくれる・・・、『聖刻』が出来る日、私達の最期の日が来るまで、二人でいてくれる?」

そして、口から、まるで椛の足に縋り付くような、情けない声色で、椛に向けて、そんな言葉が漏れ出た。ここまで、誰かに、自分から離れていってほしくないという思いを込めて、言葉を発した事はなかった。

茜の言葉を聞いた椛は‐、返事の代わりか、茜の頭にポンと手を置いて、ゆっくりと髪を撫でてくれた。先程、車の中で膝枕の時にもそうしてくれたように。

「ひゃっ・・・⁉」

「あっ・・・、驚かせてごめんね。あまりに、茜が苦しそうな表情をしていたものだから、つい。さっき、車で僕の膝の上に茜を寝かせていた時、髪を撫でてあげたら、少し安らいだ表情になっていたからね。言葉より、こうした方が、茜を安心させられるのかなって思って」

さっきは薄暗い車の中だったから、茜の顔を椛にはっきり見られずに済んでいたが、今度は、はっきりと頬が紅く染まっていくのを、彼女に見られただろう。

それでも、羞恥より今は、椛のこの手がくれる安心が上回った。どんな言葉より雄弁に、茜の問いに答えてくれている気がしたから。

茜は、すっと立ち上がると、テーブルの向こう側の、椛の傍へと移動した。そして、

「もう一回・・・膝枕してほしい。今夜は・・・私を、少しでも安心させてほしい。出来るだけ、離れないでいてほしい。こ、こんなの我儘、かな・・・」

そう、椛に懇願した。自分から言い出しておいて、茜は自分の頭を、椛のスカートに包まれた膝の上に乗せる勇気が出せない。

すると椛は軽く微笑んで、茜の体を肩ごと引き寄せると、そっと、茜の頭を再び、自分の膝の上へと乗せてくれた。

「全然、我儘なんかじゃない。これで、茜を安心させられるなら、ずっとしてあげたっていいよ。さっき、駅で倒れた茜の体を抱えた時も思ったけど、茜、本当に華奢だよね・・・。ちゃんと食べてるのかなって心配になるくらい軽かった」

「食べる事自体に、そんな興味ないというか、楽しいと思った事、ないからかな・・・。うちでも、お父さんもお母さんもあんまり話さないから、ご飯の時間とか苦痛でしかないし、学校でも、前のグループでお昼囲む時も、適当に話に相槌うつのに丁度いいペースで食べられるように、いつもパン1、2個くらいだったから・・・」

そんな日常の細部に至るまで、何にも楽しさや、充実した物を感じていなかった事に、今更ながら茜は思いが至る。そして、親にさえ、そうした思いはろくに話した事はなかった。椛の膝の上に頭を乗せると、気恥ずかしさもありつつ、そうした思いがつらつらと出てくるのが不思議だ。

「椛に今日は泊まるようにしてもらえて良かった・・・。この部屋に一人帰ってきてたら、今夜は眠れなかったかもしれない」

そして瞼を閉じる。椛が、拗れた母性的な物、包み込んでくれる物への憧れを抱いている事は知っていたが、それは茜も同じ事だったようだ。

瞼の裏では、あの駅で見た、血の噴水と、その後の紅い雨が今もちらつきそうになるが、椛の体の温もりがそれらから、茜を守ってくれていた。


「ねえ見て、沙耶ちゃん。動画サイトも、SNSもあの駅での『公開自殺映像』で持ち切りになってるわよ。あの子の名前もあっという間に特定されて、今ではネットで知らない人はいないような存在になっていってるわ」

『彼女』は、軽い口どりで、スマホで様々なサイトを見せながら、沙耶に語っていた。

二人は、食卓を挟んでいた。駅で、無事に少女が首を切ったのを見届けた後、彼女は「私達の計画が上手く始まったのを祝して」と、輸入食品系を取りそろえたスーパーに立ち寄って高級食材を買い漁り、豪勢な料理を振る舞ってくれていた。おまけに、赤ワインのボトルまで自分は開けている。

「沙耶ちゃんは未成年だから、こっちで我慢ね」

といって、沙耶にはシャンパングラスに、シャンメリーを注いでくれた。

照明を受けて眩しいばかりに磨かれた、銀色のナイフとフォークが置かれているが、それに沙耶は手を付けない。

『いくらなんでも、話が都合よく進み過ぎてる。この女は、何か目的が他にあるの?いくら、私の裏垢で、ずっと私の考えに熱心に賛同していたとは言っても、流石にこの奉仕の仕方は度が過ぎてる』

沙耶の頭脳は、徐々に、目の前で、パジャマに着替えて、悠々とワインを楽しんでいるこの茶髪の女に、猜疑心を抱き始めていた。

そもそも、あの凄惨な、血みどろの現場を目の当たりにしても動じない神経もおかしい。まるで、既にこうした光景を何処かで見た事があるかのように、『彼女』には慣れさえ感じられた。

『ここまで、SNSでしか付き合いのなかった筈の私に急にすり寄って、家にも泊めて、移動手段に車にまで乗せてくれて・・・こんな事は、何か彼女にも相当な利益がなければしない行動。何か裏があるわね・・・』

『彼女』の魂胆を、目的を聞き出さねばならない。

そう思った沙耶は、ナイフを手に取ると席を立ち・・・、彼女の背後に立つ。

「お楽しみのところ、悪いけど、ちょっと話、いいかな?」

『彼女』の喉笛にナイフを突きつける。『彼女』は少しも動揺する事なく、手にしていたワイングラスを空けると、優雅な仕草でテーブルに置く。こちらを向く事なく、『彼女』は話す。

「ナイフなんか突きつけて、穏やかな話じゃなさそうね」

「私に奉仕してくれるんでしょう。じゃあ、私からの命令よ。貴女の本当の目的は何か、言いなさい。貴女の行動は、あまりに私に都合がよすぎる。何か、貴女にも実現したい目的か何かがないと、理解出来ないからね」

「無償の愛・・・という回答では駄目?」

「ふざけてるの?命令って言ってるでしょ?真面目に答えて。さもないと、このナイフがどう動くか分からないわよ」

沙耶は、本気だというのを知らしめる為に、ナイフを『彼女』の喉元にほぼ密着させる。それでも動じる気配は一切なかった。

『彼女』は、特に悪びれるでもなく、こう口にした。

「沙耶ちゃんが、私と一緒に死んでくれるのなら、このナイフでそのまま喉を切ってくれても構わないのだけど、まだ沙耶ちゃんにはしないといけない事があるからね。やっぱり察しがいいな。沙耶ちゃんは・・・。いいわよ。話してあげる。私の目的をね」

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